混沌と黎明の横顔

第15章:朱く冷たい月の声 1

 縛られた腕だけでなく後頭部も痛かった。たぶん相手は手加減したのだろうが、連れ立って……いや、連行されている最中にいきなり背後から殴られたのである、悪態のひとつやふたつ吐き出しても文句を言われる筋合いはない。
 だが、ウラッツェは相手への罵倒を飲み込み、悪鬼の如き形相でこちらを睨み下ろす女と対峙した。以前にも増して凄まじい顔つきだな、と当事者であるにも関わらず、他人事のような冷めた目で相手を見つめる自分がいた。
「ふてぶてしい輩だこと。女をどこへ隠したの? 見事に盗み出してくれたものだわ。さすが泥棒猫の息子、血は争えないと言うわけね」
 目の前の女に唾を吐きかけてやれたら少しは胸がすくだろうか。母は恨み言ひとつ言わずに亡くなったので、この女にどんな想いを抱いていたのか今となっては判らない。息子としては母を庇う言葉のひとつも返すべきか?
 たぶん母のあの性格では恨みどころか恋敵だという認識すらなかったろう。この女のほうばかりが怒り、嫉み、復讐に駆られているのだ。
「黙ってないでなんとかお言い! あの女をどこへ隠したの!」
 愚かだと一蹴するには、自分は多くを見過ぎたのかもしれない。むしろ哀れに感じ、女の目尻に薄く刻まれた皺にすら同情してしまう。
 父クラウダ・ヌーンの正妻として大公家での地位を固めたと思った矢先、愛人の息子だと名乗る子どもが現れたのだ。しかも自分が生んだ息子とほんの数ヶ月しか歳の差がないと聞けば、腹立ちは並大抵のものではなかろう。
 だが哀れだとは思うが、それで女の言いなりになってやる義理はないのだ。ヨルッカを匿った場所を親切に教えてやる必要などない。むしろ断固として口をつぐんでおくべきだ。彼が口を割らないことくらい判ろうに。
 イライラと部屋の中を歩き回り、ウラッツェを罵る女の横顔がひどく悪い。先ほどは怒りにどす黒く染まっているのかと思ったが、それだけはないようだ。
 気遣うのもバカらしいので言葉などかけてやらないが、ウラッツェは女の様子をつぶさに観察し、この状況から抜け出す機会がないかと探る。
 後ろ手に縛られているだけではなく、部屋の外には見張りの兵がいるだろう。ここがまだ大公屋敷内であるならば、元公妃の住まう一画か普段はあまり使われていない離れ棟の一室だろうと見当をつけてはいるのだが……。
「忌々しいドラ猫め。お前のせいでこんな苦労をするなんてっ!」
 手にした扇でウラッツェの頬を強かに打ち、女は狂ったように怒鳴った。
 扇の端が頬を引っ掻き、痛みが走る。顔をしかめるほどではないが気分のいいものではなかった。うっすらと傷が残っているであろう頬が気になる。無頓着なように見えて、彼は意外と小さなことにこだわる質なのだ。
 そうでなければ母が死んだときに父親に逢おうとは思わなかっただろうし、父との微妙な距離や異母兄との確執をこうまでズルズルとは引きずらなかった。
 小さなことにこだわっている自分の器の小ささが厭で、同じようにこだわりにがんじがらめになっている者を見ると、やたらとけしかけてやりたくなるのも、己の矮小さから目を背けたいからだ。
 ウラッツェ自身が一番それを判っていても、この性格だけは治らなかった。
「母上、そのような訊き方では義兄上の口も重くなる一方ですよ。あまり無茶なことはなさらないでください。見苦しいばかりです」
「お黙り、ケル・エルス! あの女を盗まれたのはお前の落ち度ではありませんか。サッサと見つけて取り戻せと言ったのに、どこに連れ去られたか皆目見当もつかないなどと生意気な口を利いて! お前が役に立たないのなら知っている者の口を割らせるしかないでしょう!」
 ウラッツェが意識を取り戻した途端に目に入った女とは反対に、異母弟に気づくまでには少し時間がかかった。部屋の薄暗い一画にぽつねんと立ち尽くしている若者の表情は暗く、母親の狂態にうんざりしている気配が窺える。
「ナスラ・ギュワメ! お前の仲間はどこにいるの。サッサと白状おし」
「知らねぇよ。オレが出掛けた先にあいつらが現れるだけなんでな」
 何カ所かはアジトを知っている。が、それを素直に教えるほどバカではない。女も判っているはずだ。手にした扇をギリギリと絞り、眉をつり上げる。赤い唇がヒクヒクと引きつる様子に、ウラッツェは僅かばかり溜飲を下げた。
「ケル・エルス。薬はまだなのですか。お前の屋敷に用意してあるのでしょう」
「自白剤なら間もなく届きます。シュマに持ってくるよう伝言を頼みました」
 怒りに頬を震わせていた女が嫌悪も露わに奥歯を噛み締める。ウラッツェはげんなりした気分でその表情を眺めた。息子の戯童フェデールが大公屋敷に足を踏み入れると聞いて、この女が心穏やかでいられるはずがない。男色を心底軽蔑している女だ。
 だが息子を怒鳴り散らすかと思った女の反応が、今日は少し違っていた。
「エルス。お前もそろそろ目を醒まして良い頃合いですよ?」
 今までの対応とは違う。それが妙に不気味だった。ウラッツェは女の関心が一時的にせよ自分から反らされたのをいいことに、完全な傍観者の気分で母と息子の様子を観察することにした。どうせ他にやることもない。
「母上に指図を受けるような真似はしておりませんが?」
「愚かな真似をしてないと? あの貧相な子どもを手許に置いておくだけでも主人としてのお前の品格が問われるというのに。縁続きの姫を紹介しても逢おうともしないで、何が大公家の公子ですか」
「私は女性には興味がないのですから当然です。黒耀樹家の跡継ぎには甥のクラウダ・ソロスがいますし、私が無理に婚姻を結ばずともよろしいでしょう」
「バカも休み休みにおっしゃい! 大公家の地位を盤石なものにするためにも、上級貴族や周辺国との絆を強めておくに越したことはありません」
 母親の息がかかった姫を息子の結婚相手にしようという腹づもりか。女嫌いで知られているケル・エルスに対して無謀な真似をするものだ。この女にとっては息子もただの駒のひとつに過ぎないらしい。
「我が家は父上と母上の婚姻でパラキストと、ダイス兄上と義姉上との婚姻でイントゥリアとの縁を深めております。それ以上の縁をどこに求めるのですか。手当たり次第に縁続きの貴族を増やしても利益が増えるとは限りませんよ」
「だからと言って、いつまで戯童にかまけているのです。男相手に穢らわしい。見目良い者でよければ縁者の姫で充分。サッサと手放して忘れなさい」
「お断りします。シュマは私が子どもの頃から手塩にかけて育てた戯童です。今さら他人に譲り渡す気はありません。口出しは無用に願います」
 ウラッツェはため息をつきながら天井を仰いだ。異母弟が両親を失った幼子たちを僧院に集め、里親を探す手伝いをしていることは知っている。多くの貴族は僧院に寄付だけして孤児に関心を示すことはないのに、大公家に属しながらケル・エルスは自ら里親を探す労を惜しまない。
 だからこそ、特別に音楽や絵画などの芸術の才がある子どもを手許に引き取り、あれこれと世話を焼くことにも積極的であった。その課程で自らの戯童として、より慈しむ相手がいたところで問題はあるまい。
 ウラッツェでも理解できることが、公子の母親には理解できないのだ。
「お前の眼を晴らしてあげます。どうせ戯童の甘言に乗せられたのでしょう。あの者が側にいなければ、お前の考えも変わりましょう」
 何をする気だ、この女は。良からぬことを考えているに違いない。不審げに眉をひそめた異母弟と女とを、ウラッツェは気遣わしげに見比べた。
 ケル・エルスが母親の発言の意味を問おうと口を開きかかったとき、重苦しく扉を叩く音が室内にこだました。朝の爽やかさとはまったく無縁の陰気な音に、ウラッツェは盛大に顔をしかめる。
 問いかけを中断し、公子が扉を開けて廊下に佇む者に対応する様子を探った。こうしている間にも縛られている腕の縄を少しずつ緩めてはいるのだが、手首だけではなく小指まで動かぬよう固定されているので縄抜けにも骨が折れる。
「なぜシュマが来ない? 薬は彼に届けるよう伝えたはずだ」
「こちらの薬を届けたのはお屋敷の下男で、シュマと名乗る者ではありませんでした。身分低き者をお母上様の御前に連れてくるわけには参りません」
「だから、どうしてシュマに届けるよう伝えたのに下男が来たのかと訊いているのだ。その伝言は何も聞いていないのか!」
「何も。薬を届けるくらい下男でも出来ましょう。何を怒っておいでですか?」
 女に仕える家令パレが慇懃にケル・エルスと会話を交わす声が聞こえた。
「ケル・エルス。サッサと薬を受け取りなさい。押し問答をする意味などありませんよ。お前の飼っている愛玩動物がここに来なかったのは事実です」
 渋々といった感じで届け物を受け取った公子が暗い表情でこちらに向き直る。ウラッツェが厭な予感を感じたように、異母弟も何かを感じ取ったのだろう。目の前の女が何か仕組んだのではないか、と。
「さ、それを寄越しなさい。サッサと口を割らせて証人を取り戻さなければ」
「……母上。シュマに何をしたのです?」
 薬を手にしたまま、ケル・エルスは母親を睨んだ。そんな顔をしてもこの女には効き目はないぞ、とウラッツェは内心で叫んだが、異母弟は猜疑心に満ちた眼を女に向け続ける。負の感情が浮き上がった顔は仮面のようだった。
「何を、と? お前の眼を醒まさせるのに必要なことをしましたよ。あの者に己がどの程度の者であるか思い知らせただけです」
 ウラッツェとケル・エルスが息を飲んだのは同時だったか。二人とも愕然とした表情を浮かべ、女の平然とした態度に背筋を震わせた。
 己の意に染まぬ者は徹底的に断罪し、排除しなければ気が済まない。歪な性格の女を身内に持つ者同士、異母兄弟二人はこの瞬間、同じ感情を共有した。
 狂っている、と叫べたら少しは楽になれたろう。だが、怒りに顔を引きつらせている異母弟ほどの激情をウラッツェは感じなかった。今はただ嫌悪が募るばかりである。実の母とはいえ、ケル・エルスも同じ感情を抱いたろう。
 他者を踏みにじる行為になんら躊躇いがない性格をまっとうな人間と呼べるのか。吐き気すら伴うこの感情をどう御したらいいものか。
「気に入らないってだけで始末するのかよ。てめぇの心は腐ってやがるな」
「お黙り、ナスラ・ギュワメ。お前ごときに貴族の何が判るのです。我らは大公家の者として相応しい行動をとらねばなりません。下品な輩に心を傾け、貴族としての道を誤るようなことがあってはならないのですよ」
 だから私生児は目障りだというか。戯童は邪魔だというか。己の描いた道筋以外の者は排除するやり方で他の者がついてくるはずがないのに。
 なんという哀れな女だろう。貴族という身分に固執するあまり、人としての情を忘れ果ててしまったとは。こんな女を母と呼ばねばならなかった異母兄弟たちが不憫でならない。自分ならお断りだ。
「薬が届いたことですし、早く終わらせてしまいましょう。さ、ナスラ・ギュワメ。この薬を飲みなさい。今さら抵抗しても無駄なことくらい判るでしょう」
「断る。オレがその薬を飲む義理はねぇよ」
「いいえ。お前は飲みます。飲まねば、人が死ぬのですから」
 ウラッツェは口をつぐみ、女の次の言葉を待つしかなかった。下手に口を開けば、そこからつけ込まれそうな予感がする。
「飲まぬというのなら、まずはエフルシュネを殺しましょう。跡継ぎを生んだ以上、もう嫁としての役目は終わりです。どこの馬の骨ともしれぬ男の種を孕む前に始末しておくのが肝要でしょうしね」
 そんな真似をすれば、目の前の女自身が疑いの眼を一身に浴びることになるではないか。姑の立場で嫁と反目し合っていることは使用人も外部の者も知る、大公家の公然の秘密だ。口先だけの脅しなど怖くはない。
 そう思ったのが読まれたのか、女は口角をつり上げ嗤った。
「エフルシュネを殺すことくらい造作もないのですよ。毒見もつけずに食事をしているのですから、一服盛れば終わりです。忍ばせた間諜が誰かも判らぬのでしょう? そんな有様では毒殺を防ぐことは不可能ですよ」
 ウラッツェは奥歯を噛み締め、残してきた兄嫁と子どもたちのことを思った。
「エフルシュネを殺したら毎朝のパンにありつけなくなるぜ」
 忌々しげに舌打ちした女の顔には大公家の隠れたパン職人への悪意がありありと浮かんでいる。嫁との折り合いをつける気は欠片もないようだ。
「貴族の振る舞いに欠ける嫁など不要です。パンなど他の者に焼かせればよろしい。職人の代わりなどいくらでもいますよ」
 こちらの言葉に律儀に返事をするのはけっこうだが、その内容は情けも容赦もない代物である。女にとってエフルシュネは単なる道具でしかないらしい。
「オレがその薬を飲んでエフルシュネが無事でいられる保証なんぞないだろうが。命じられるままにオレが従うと思うなよ」
「従わぬとあらば見せしめにエフルシュネを殺しましょう。お前には罪悪感などなさそうですから、彼女が死んでも泣きもしないでしょうが」
 元大公妃にとって人質の価値がないからといってウラッツェも同じ考えであるとは言えない。現に今、元妃はエフルシュネの命を楯に服従を迫ったのだ。
 だがウラッツェは女が本気で自白剤を飲ませようとしたわけではない、と判断した。戯童を排除したと息子に教えるため、薬を届けるよう命じたのだろう。
 そういえば異母弟はどうしただろう。今まで女と対峙して忘れていた。
 視線を動かして女の背後を透かし見たウラッツェは、そこに人影がないことを確認して顔を歪めた。母親に断りもなく部屋を出たということは、ケル・エルスは戯童を探しにいったのだ。母親の魔の手から救い出すために。
 なんと無謀な真似を。どこに連れ去られたのか、生きているのかすら判らない状態で飛び出していって何になる。今はこの女から情報を得るのが先だろうに。と言っても、女が毛嫌いする戯童の居場所を教えるとは思えないが。
 思ったような反応がウラッツェから返らないのが悔しいのか、女は眉間の皺を深くし、苛立ちを隠そうともせずに乱暴な足取りで小卓に歩み寄った。
「不要な存在を生かしておくほど寛大ではありませんよ。邪魔者は早めに始末するに限りますね。お前を生かしておいたが故にこの騒動です。殿の気まぐれには呆れたものですが、お前の認知がもっとも愚かな行為でした」
 場に不似合いな酒壺の蓋を開け、女は自白剤を中に流し込む。自分が飲むつもりで置いてあったのではないのか。そう訝しんだウラッツェの目の前に、女は酒壺を抱き、悠然とした顔つきで歩み寄った。
「飲みたくないのであれば飲ませてあげます。酒に混ぜた薬は効果絶大ですよ」
 どうする気だ、と問うまでもなく酒壺がひっくり返される。頭から酒を浴び、ウラッツェはむせ返る酒臭に咳き込んだ。並の酒ではない。恐ろしく強い酒だ。東方で作られた酒だろう。国内にこれほど強い酒はないはずだ。
「どうです? こんな強い酒はお前も知らないでしょう。一口飲むだけで大の男でも喉を焼くことがあるほどのものです。東方の貿易商が売りつけに来たのですよ。……拷問にも使える酒だとね」
 咳き込んだ先から酒臭が鼻と喉に入り込む。さらにひどい咳き込みに襲われ、ウラッツェはのたうち回った。酒の匂いだけで酔ったのか頭がクラクラする。
「この酒は蒸発するのも早い。混ぜた薬も酒と一緒に蒸発していくのですから、お前の鼻や喉から体内に入り込んでいく。どうです? 頭がボゥッとして、考えるのが億劫になってきたでしょう?」
 確かに女の言う通りだった。ウラッツェは咳き込みながら女を睨んだが、先ほどまでのふてぶてしい表情ではなくなっていた。むしろ、悩ましげに相手を見遣る女ったらしといった顔つきである。
「て、めぇ……。こんな、真似したって、オレは、喋らねぇ、ぞ」
「やはり薬への耐性がありますか。殿がお前を僧院に放り込んで何をやらせているのか探らせたときの報告書にもありましたね。護身術の他に薬草の知識、それに毒への耐性をつけるための服毒術。王族男子の知識を仕込んでいると知らされて、どれほど腹立たしかったことか」
 転がって酒から逃げようにも髪や衣服に染み込んだ匂いが鼻や喉にまとわりつく。女の怨念に満ちた声が聞こえていても、まともに反応など返せない。後ろ手に縛られた腕が痛むのもかまわず、ウラッツェは転げ回った。
「この薬はね、服用すれば自白剤として使えますが、こうやって匂いを嗅がせるだけだと別のことに使えるのですよ」
 咳き込みは収まらない。息が出来ない苦しさに跳ねるウラッツェの身体は陸に上がった魚のように痙攣していた。
「お前が盗み出した女の居場所はきっと点々と移動しているでしょう。聞きだしたとて見つけ出せる保証はない。となれば、お前の身柄を確実に確保し、今後の役に立てるようにすることのほうが重要です」
 女の手が酒壺から離れた。足許に落ちた陶製の壺が耳障りな音を立てて割れる。それを見届けることもなく女はきびすを返した。
「あの子は勝手に探しに行ったようね。愚かな子だこと。父親の血がそうさせるのか。……我が一族の血を受け継いでいながら、なんと繊弱な」
 咳き込み続けながらもウラッツェの耳は女の呟きを聞き取っていた。苦々しげに、しかし疲れたように囁かれた言葉に引っかかりを覚える。が、それもすぐに息苦しさに紛れ、掻き消えてしまった。
「ナスラ・ギュワメ。もう一度だけ問います。盗み出した証人はどこに?」
「し、らねぇ、って……言って、ンだろ……がよっ!」
「では、見せしめにエフルシュネを殺すしかないわね」
「やめっ、ろっ! 赤ん、坊から……母親を、取り上げ、るなっ」
「だったら、証人の居場所をお言い」
「知ら、ん! 第一、何を……証言、させる、気だ!」
 女が小さく鼻を鳴らす。小馬鹿にした態度に腹が立ったが、今のウラッツェに嫌味を返す余裕はまったくなかった。僅かに呼吸はできるが、喉に見えない塊が詰まったかのように息苦しさが続く。
 咳き込みと息苦しさで眩暈がした。このままでは気を失う。そんなことになれば、この女の思うつぼだというのに。
「お前が巡検使として砂漠で働いたとき、あの女はお前の手足となって働いたそうね。でも、その陰でお前の正体を砂漠の若長に売ったそうよ。配下の管理もまともにできない者に大公の資格はないわね」
 そんな程度のことで、と一笑に付すことはできなかった。
 砂漠は自治区ではあるがタシュタン地藩の領地内である。炎姫家との関係に密接に繋がる地域だ。その場所に巡検使が潜り込んだと聞けばイコン族としては面白くないだろう。早々に追い払われたのは正体を知られたからか。
 砂漠を出たときの慌ただしさとこちらを警戒する次期族長の視線を思い出し、ウラッツェは歯がみしたい気分だった。そうと知っていれば、もう少し上手く立ち回ったものを。ヨルッカの気まぐれで足を引っ張られようとは。
「炎姫大公はさぞ腹を立てるでしょうね。お前を大公位に推したことを後悔するのではなくて? もちろん、水姫公とて疑心暗鬼になるでしょう。お前の配下の者が他でも巡検使の足を引っ張りはしないか、とね」
 だからヨルッカを執拗に探すのか。彼女の証言は二大公と彼の信頼関係を崩すきっかけになると踏んでいるのだ。それはあながち間違いではない。
 しかし、証言を得られたとしても黒耀樹公に就いてしまったウラッツェを追い落とすには弱い。もっと決定的なものが必要なはずだ。
「こちらにとって大公同士の結束を崩す必要はないわ。小さな疑心暗鬼を産みさえすればね。お前のことは大きな騒動の先触れにすぎないのよ。お前と、お前が仕える王太子を抹殺するための、ね」
 一際大きく咳き込み、ザラザラと鳴る喉で詰問しようと試みたが、残念ながらまともに言葉を紡ぐことはできなかった。
「すでにこちらには王妃の乳母の身柄を確保してあるわ。とても興味深い証言を得られたし、これだけでも充分に醜聞として成り立つものよ。お前が起こした事件などこれに比べたら些細なこと。だけど、お前には大公位から退いてもらいますからね。その地位に相応しいのは我が息子とその子孫だけよ」
 笛のように喉が鳴る。いよいよウラッツェの呼吸は細くなった。
「気が変わったかしら? いいえ、問うまでもないわね。お前は言わないわ。エフルシュネの命を楯にしても。忌々しい流民の子め」
 咳き込みこそ弱くなったが、喉から漏れる息は細く、息苦しさは変わらない。ウラッツェは苦痛に身体を丸め、痙攣する身体を抑え込もうとした。
「……まぁいいわ。お前には幻都ダレムに行ってもらいます。宮廷には黒耀樹公は病に倒れ、地藩都で療養中と伝えましょう。大公代理は我が息子が務めます。近い将来、お前の死を発表し、新しい黒耀樹公が誕生するのです」
 女が動く衣擦れの音がし、すぐに扉を開ける軋みが続く。外に待機していたらしい者たちに指示する女の声が響くと、数人の男が入室する足音が響いた。
 困難な呼吸のために意識が朦朧としていても、ウラッツェは周囲の物音や話し声には注意をしていた。だが浅い息が今にも止まりそうだ。
「麻袋に入れて幻都に運びなさい。今の時間なら朝市後の喧噪に紛れて王都を抜け出せよう。向こうの屋敷では穢れ子に相応しい場所に案内してやりなさい」
 凍りついた女の声に従い、男たちは現大公を大きな麻袋に押し込み、二人がかりで肩に担ぎ上げた。女の他に声を発する者はいない。
「わらわの勝ちですわ、殿。……もう、好き勝手にはさせませんよ」
 麻布越しに聞こえた女の声音は細い。ウラッツェは遠のく意識の中で、その女の声に言いようのない失意と怨念を感じ取った。