混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 6

 ガイアシュの報告を聞き終わり、これからどうやって女たちを探し出そうかと話し合っている最中に、その伝言はもたらされた。
「あいつからの伝言があるって? いったい何を言ってよこしたんですか?」
 ジャムシードは使用人の代わりに来訪者の用件を告げに来た館の主人を訝しげに見つめる。渋い表情の相手から芳しいことではないのだろうと見当をつけたが、タケトーが苦り切っていたのは別の意味があった。
「いえ、伝言は聞いていないのですが……。携えてきた相手が問題なのです」
「と、いうと? 曰くありげな人物なのですか?」
「あまり才能のない商人だと聞いています。そのような人物に彼が一任するかどうか疑問に思ったもので。それに、その商人自身はチャザン人ですが、妻がシギナ国出身だと報告を受けております。女性たちをさらっていった東方人はもしかしたらシギナ人関連の者かもしれないと考えるとどうも……」
 タケトーは裏で繋がりがあり、罠を仕掛けてきたのではないかと疑っているのだ。もっともな言い分に思える。しかし、伝言を聞かずに追い返すわけにもいかないだろう。何せ知り合いの伝言だというのだから。
「とにかく逢ってみましょう。こちらに呼んでもらえますか?」
「ですが、彼なら商人に伝言を頼んだりせず自分自身で行動するのでは?」
「のっぴきならない理由があったのかもしれません。話を聞いてから判断しましょう。あなたにも同席していただけると助かるんですが」
「もちろんです。初めからそのつもりでしたから喜んでお手伝いしますよ」
 気乗りしない口調ではあったが、館主が招き入れる意志を見せたことで、周囲から会話に横槍を入れてくるイコン族の騒ぎが少し落ち着いた。が、決して大人しく引き下がる者たちではない。
 サッサと伝言を聞いて、部族長と女たちを探し出す方法を見つけなければ。そういつまでも男たちを館に閉じこめておくことはできない。
 こちらのやることにブチブチと不満を漏らす一部の男たちをジロリと睨み、ジャムシードはタケトーが案内してきた商人と対峙した。
「間違っていたら失礼。ロ・ドンイルさん、ですよね? どうも俺は東方人の顔を見分けるのが下手で」
「はい、ロ・ドンイルですぅ。覚えていていただけたようで嬉しゅうございます。ハヤヒトさんから頼まれた伝言をお伝えしようと、教わった通りに道を辿ってきたんですよぉ。こちらの館を見つけるのに苦労しましたぁ」
 もしかしたら道に迷いでもしたのかもしれない。ドンイルは額の汗を拭き拭き、人なつっこそうな笑みを浮かべて見せた。
「急いでお知らせするよう言われて飛んできたのねぇ。それにしてもジャムシードさん、いいところにお住まいで。もしや奥様とのご新居ですか?」
「いいえ、俺はただの居候です。こちらの館の主人はあなたを出迎えた後ろの方です。えぇっと、確か……ギド商国のハウラ=ジロー・タケトーさんです」
 以前にタケトーから自己紹介を受けた内容を記憶の底から引っぱり出し、なんとか紹介の体裁を整えた。他にも何か言っていた気がするが、細かいことは忘れてしまった。補足することがあればタケトー自身が言うだろう。
「ギド商国の方ですかぁ。それはそれは。かの運河を下って遙々とこの王国までおいでになったのですねぇ。随分と勇気ある行動力ですよ」
「大したことではありません。我がハウラ一族の船をもってすれば、哀の海も断崖海域も、凪の日の大河の流れのようなものです」
 にこやかに微笑みながらドンイルに椅子を勧めるタケトーであるが、ジャムシードは妙な違和感に襲われて館の主人の動向を見守った。
 珍客に僅かな興味を示したイコン族も主人のタケトーによって紹介されると、場の和やかな雰囲気が一変した。
「早速ですが、どのような伝言を携えていらっしゃったのでしょう? 今こちらは取り込み中でして、長時間のお話だと困るのですが」
 言外に邪魔だから用件を言ったらサッサと帰れ、という雰囲気を匂わせるタケトーの態度で、ジャムシードは先ほど感じた違和感の正体に気づいた。
 眼が笑っていない。全体的には友好的な笑顔を作っているが、眼許だけが妙に鋭かった。なんの面識もない相手に対してタケトーがこれほどあからさまに拒絶を表すとは珍しい。玄関でのやり取りで何かあったのだろうか。
「あぃやぁ、それはでも。先ほども申し上げた通り、ジャムシードさんだけに伝えるようにとのことでしてぇ。おいそれと他人にお聞かせするわけにはいきませんで。どうぞご容赦くださいませんか、ギド商国の方」
 ドンイルも笑顔を振りまいているように見えるが、妙に頬が強張っている。やはり二人は館の玄関で何かやり合ったのだ。お互いの第一印象は最悪のようである。困ったことにならなければいいが……。
「ドンイルさん、俺が聞いた内容は結局最後には彼らも知ることになりますよ」
 ジャムシードは二人の間に入り、チラリとタケトーに目配せした。
「えぇ、判ってますよぅ。でも、それはそちら様の都合でしょ。こちらにはこちらの都合ってものがあるのです。ハヤヒトさんに頼まれたように伝言しなければ、私は仕事を果たしたことにならないねぇ」
 タケトーの眉間に細い皺が寄る。それを視界の隅で確認したジャムシードは一歩踏み出して館主の視界から小太りの商人を遮った。
「判りました。それじゃ俺とだけ話をしましょう。ですが、後であなたが持ってきた伝言を他の者に話しても文句は言わないように。それでいいですね?」
「承知したねぇ! あなたが話が判る人で良かったよぉ」
 ドンイルの視線が一瞬だけジャムシードの背後に走り、すぐに戻される。きっと背後ではタケトーが苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。だが伝言を聞かなければ話は始まらないのだ。彼には我慢してもらおう。
 ジャムシードは商人を促し、窓際へと移動した。二脚の椅子を用意し、片方をドンイルに勧めた後、自分は残りの椅子に腰を落ち着けた。
「ソージンはいったい何をあなたに託したんですか? 彼が自分で伝えにこないのも腑に落ちない。彼は今どこで何をしているんですか?」
「あぁ、一度に幾つも質問しないで欲しいねぇ。私はこの国の言葉にまだ慣れてないから、聞き漏らしてしまうかもしれないよぉ」
 確かにドンイルのしゃべり方はおぼつかない。それでも母国語以外の言語を操るところは、やはり貿易商の端くれだ。貿易商は多言語を操る者が多い。が、やはり得手不得手はあり、彼にはポラスニア語は不得手な言語なのだろう。
「では伝言を先にお願いします。残りの質問は話を聞いた後で」
「えぇ、いいですよぉ。……あ、でもその前にお願いがあるねぇ」
 ドンイルは眉尻を押し下げ、困った表情を作った。
「ハヤヒトさんは急いでいたみたいでねぇ、この仕事を請け負ったときの報酬を払ってくれてないのよぉ。私はこの仕事が終わったらすぐに次の雇い主のところに出向いて船に乗らないとならないのね。ジャムシードさん、彼に代わって報酬を立て替えてくれないかねぇ?」
 肩を落とし、ため息混じりに頭を下げる姿を見ていると、気の毒な気持ちが湧き上がってくる。強引なソージンのことだ。仕事に向かう途中のドンイルに無理難題を押しつけ、自分の都合で振り回しているのではなかろうか。
「ソージンはそんなに急いでいたんですか?」
「急いでいたもなにも、有無を言わせず仕事を押しつけ……ひゃぁ!?」
 視界に急に茶器が現れ、ドンイルだけでなくジャムシードも驚いた。茶器を支える腕を辿れば、タケトーが作り物の笑みを浮かべて佇んでいた。
「香茶をどうぞ、チャザンの方。あなたの口に合うといいのですがね」
「ど、どうもありがとうございます、ギド商国の方。でも気を使わないでください。話が終わったらすぐにお暇する身ですから」
「そうですか? でもハヤヒトの伝言を携えてきた割には、いっこうに本題に入ろうとなさっていないようなので」
 同じ室内にいるのだ。声くらいは聞こえるだろう。が、会話の内容が判るほどの大声で話してはいない。なのに、なぜタケトーは伝言とは無関係な話をしていると判ったのだろう。ジャムシードは首を傾げた。
「唇の動きで何を言っているのかくらいは判りますよ」
「は、話を聞いていたのねぇっ! 伝言はジャムシードさんだけに……」
「聞いてはいません。見ていただけです」
 それは屁理屈というものだ。ジャムシードは呆れ、タケトーの姑息な言い訳に顔をしかめた。これではドンイルの機嫌を損ねてしまうだけである。
 ところが、悪びれた様子もなく、タケトーは商人の顔を覗き込んだ。
「ハヤヒトの仕事の報酬の立て替えなら、このタケトーが請け負いましょう。何もわざわざジャムシードさんに頼むこともない。あなたにとっては、誰が出した金だろうが、金額さえ折り合えばよろしいのでしょう?」
「そ、それはそうだけど……。あなた、ハヤヒトさんと親しいのかね? ジャムシードさんは友人だと聞いているけど、あなたのことは何も聞いてないよぉ」
 タケトーが眼を細め、小さく鼻を鳴らす。表情が読みづらい東方人とはいえ、この態度の意味するところはジャムシードにもよく判った。
「あなたよりは彼と親しくしておりますよ。なにせハヤヒトがギド商国に居た頃は我が家に逗留していたのですから。商王陛下も彼とは昵懇ですよ。もちろん、我が一族で彼を知らぬ者はおりません」
「本当ですかぁ? いくらなんでも都合が良すぎる気がしますけど」
「おや? お疑いですか。でしたら、我が名誉を賭けましょう。商王陛下より賜った貴船主の主人が偽りを申したと言われるのは心外ですからね」
 ポカンと口を開けてタケトーを見上げていたドンイルの眼が徐々に見開かれていく。それは驚きを表しているだけでなく、なんとも言いようのない不気味な恐怖に凍りついてしまったかのような顔であった。
「き、きせん、しゅ……?」
 もとからおぼつかない商人のしゃべり方がいよいよ怪しいものになる。子どものほうがよほどマシな発音をするのではなかろうか。
「えぇ。ギド商王陛下直々に任を受けた貴船が主、ハウラ一族のジロー・タケトーの言葉です。名誉を賭けて偽りは申しません。それでもまだ足りなければ、何番目の貴船主かもお教えしたほうがよろしいか?」
 ガタガタと椅子が悲鳴を上げ、ドンイルは床に放り出された。いや驚きが強すぎて平衡感覚を失ったのだろう。彼は自ら椅子から転げ落ちたのだ。
「どっ……、こ、ここに……きせ、んしゅ、がっ!? ふ、船、は……」
 ドンイルの口から吐き出される言葉はまともな文章になっていない。その混乱ぶりにジャムシードは首を捻った。いくらなんでも驚きすぎだろう。この小太りの商人はいったい何をそんなに動揺しているのだ。
「どうしてポラスニアくんだりまで貴船主が来ているか。この国まで乗ってきた貴船はいったいどこにあるのか。……というところですか?」
 しかし、タケトーは相手の態度は想定内だったようである。平然とドンイルの言葉を補足し、いよいよ凄みのある笑みを口許に浮かべていた。相変わらず笑っていない彼の眼は青ざめたドンイルの顔を射抜き続け、一瞬でも反らしたら相手に逃げられるとばかりに爛々と輝いている。
「タケトーさん? いったいどうしたって言うんですか。俺には何がなんだかサッパリ判らない。ドンイルさんは何をそんなに驚いているんです?」
 ジャムシードが割って入ったことでドンイルの意識が僅かに反れた。が、彼は別の意味で驚きを新たにしただけで、床に尻餅をついたままである。
「ジャムシードさん! この人の正体を知らないのかねっ!?」
「貴船主というのはこの国でもそれほど驚くような存在なのですか? 俺はどういう意味があるのか知りませんので、驚くこともできませんよ」
 大気の中に飛び出した魚のようにドンイルが口を開閉させるが、声が言葉になって出てこないようだ。自身の言葉の何が商人を驚かせているか判らないジャムシードにとっては困惑するしかない。
 ブルブルと身を震わせたドンイルが痙攣する指でタケトーを指さした。
「貴船などと言うけど、ようは海賊なのねっ。商王が許可を出した、ギド商国公認の海賊! どれだけの貿易商が苦渋を舐めたことかっ」
 今度はジャムシードが唖然とする番である。傍らに立つタケトーを見上げ、次いで腰を抜かしたままのドンイルを振り返った。
「海賊……? でも、海軍の仕事を請け負っていると……」
 血の気が引いたドンイルの表情からその言葉が冗談ではないことが知れる。今の今まで貴船主という存在が何なのか想像すらしていなかった。タケトーは故国で海軍に関わる仕事をしていると聞かされていたのだし。
「そうですね。敢えて海賊という誹りを受けましょうか。ですが、私たちを賊と罵る者に限って、ろくでもない商人であることが多い。あなたもまた、私たち貴船主と事をかまえる側にいる者だと判断してよろしいか?」
 タケトーが凄みのある笑みを浮かべたまま、ゆったりとした一歩を踏み出した。進む先にはへたりこんだドンイルがおり、近づく相手から逃げようと藻掻いている。ジャムシードには二人のやり取りの真意が見えずにいた。
「海賊は海賊ね! 何をどう言い訳しようと、ギド商国が貴船の働きで潤っているのは事実。他人から搾取した財産で懐を暖める盗賊国家の番犬め!」
 裏返った声で叫び、腕を振り回してタケトーが近づいてくるのを防ごうとするドンイルの姿は哀れなほど滑稽に映る。
 最初の衝撃から立ち直ったジャムシードはこのやり取りを同じ室内で見守っているであろうイコン族を振り返った。彼らはまだ驚きから抜けきっていないようで、眼を見開き、半開きになった唇を震わせている。
「それで? ロ・ドンイル、あなたは我が貴船に何を奪われたのですか?」
 泥棒、悪党、と罵り喚くドンイルにタケトーが密やかに囁きかけた。小さな声であるのに、その声音は異様な響きをもって室内に広がる。
 傍らにいたジャムシードはもちろん、離れているイコン族すら聞き取れなかった言葉の音律にすくみ上がった。
「な、何って……。そんなもの今は関係ないでしょう! あなたを信用できないねっ。ハヤヒトさんの伝言を盗み見しようと……」
「ジャムシードさんの懐から財を掠め盗ろうとした者に言われる筋合いはない」
 鞭打たれたようにドンイルが身体を硬直させ、顔を激しく引きつらせた。
「ナバのハヤヒトは報酬を支払わなければならない仕事を他人に押しつけはしない。彼の普段の行動から考えれば、あなたに仕事を負わせたと等分かそれ以上の仕事をあなたから引き受けたはずです」
 タケトーの顔に仮面の如く張りついた笑みが徐々に薄れていく。笑顔から無表情になっていくにも関わらず、表情をなくした今のほうが人間らしく見えた。
「また、どうしても報酬を支払う必要があるならば、彼はどんなことをしても仕事の価値に見合う報酬を自分の手で支払うでしょう。たとえ友人であっても立て替えさせなどしない。……そうではありませんか、ジャムシードさん?」
 急に話を振られ、ジャムシードは一瞬だけ戸惑った。が、よくよく考えてみれば、確かにソージンが他人に仕事を頼む場合は自分も同じだけの仕事を受けていた気がする。それは相手が大人でも子どもでも変わらない。
 強引さが目立ち、いきなり仕事を押しつけられはするが、すべてが片付いてみると互いが負った荷は釣り合うようになっていた。もちろん物理的にはどちらかだけが得をしていることもある。だが、心情的には等分だった。
「俺が知り合ってから今までのソージンを見ただけですが、確かにタケトーさんの言う人物像のほうが俺の知る彼に近いですね。……ドンイルさん、ソージンはあなたに報酬を約束しながら、本当に支払っていないのですか?」
「い、急いでいたからねっ。報酬を支払う暇なんてなかったよ。だから、ハヤヒトさんも報酬は後払いのつもりでいると思うのねぇ」
「手付けも支払わなければ、いつ支払うとも明言しなかった、と? 俺が知る限り、ソージンは自分が誰かに負い目を感じるような立場に立たないよう気をつけていました。報酬を約束したのであれば、それを口にしたはずです」
 視線が泳いでいるドンイルの態度を見れば、ソージンが報酬を支払うなどという約束をしなかったことが予測できる。報酬の代わりになるものを、ドンイルはすでに受け取っているはずだ。危うく騙されるところだった。
 いや、もしかしたらソージンから受けた仕事だという内容も怪しいものだ。
「ドンイルさん。あなたが本当にソージンから仕事を受けたと確信が持てなくなりました。残念ですが、お引き取りください」
 ジャムシードは椅子から立ち上がり、傍らで成り行きを見守っていたタケトーに目配せする。ここから先は館の主人であるタケトーの出番だ。招かれざる客を追い立てるのは客人のジャムシードではなく主人が行わなくては。
「ま、待って欲しいねっ。伝言は確かにハヤヒトさんから請け負ったのよぉ。ここで追い出されたら、ハヤヒトさんに何をされるか!」
 タケトーを罵っている間に抜けた腰が戻ったのだろう。ジャムシードの上着に飛びつくように縋り付いたドンイルが半泣き顔で叫んだ。
「それにっ。伝言を聞かないと後悔するよぉ!」
「俺を謀ろうとした者の言葉を信用するほどおめでたくはないよ。あんたが運んできた伝言がソージンのものだと確信できない以上、聞く必要はない」
「駄目だってぇ。絶対に伝えるようハヤヒトさんにも言われてるのよぉ。失せ物を見つける気なら手を貸せって。貴人街の中通りで請け負ったのねっ」
 ドンイルを振り払おうとしていたジャムシードの手が止まる。失せ物という単語に引っかかりを覚え、情けない顔になっている商人の眼を覗き込んだ。
「どうしてソージンが俺に失せ物があると知っている? 俺に失せ物があると知る者は、俺から奪っていった者だけだろう?」
 睨みつけた形相におののき、ドンイルが仰け反る。その胸ぐらを掴み、ジャムシードは激しく揺らした。大声を出してこそいないが、怒りに震える声音が小柄な商人の顔から血の気を引かせる。
「あんたはジョーガとか言う輩の手先か? そういえば、タシュタン地藩の官庁にも出入りしていたな。あれはジュペの様子を探りに来ていたんだろう!」
「ち、違うっ。ジョーガの手下というわけじゃ……」
「手下ではない。しかし、駒ではある。そういうわけですね?」
 ドンイルを揺さぶるジャムシードの手の上にタケトーの手が重なった。
 それなりの身分であろう彼の掌が荒れている。この手は手仕事をする者の手だ。師匠や兄弟子たちと同じ、働く者の手だと理解した途端、ジャムシードは我に返った。抑えろ、と荒れた手が囁く。ここでドンイルを脅しつけても意味はないのだ、と。必要な情報を引き出すためには冷静でいなければ。
「ロ・ドンイル。信用されたければ真実を話しなさい。ナバのハヤヒトはあなたに何を約束したのです? 伝言を携えてきた以上、あなたには我々にその言葉が信用に足るものだということを証明する義務がありますよ」
 ジャムシードがドンイルを解放すると、タケトーの手は労るように二度軽く腕を叩き、離れていった。よく我慢した、とでも言いたいのかもしれない。
「か、解放を。人質になっている妻と子どもを、助けてくれると……」
「家族を人質にされ、ジョーガの命令に従っていたわけですね。あなたの妻はシギナ出身だ。シギナ語を流暢に喋り、そこそこ商売に慣れているが、貿易商としての知名度はあまり高くない。脅せば容易く組み敷くことができる、とジョーガに判断されたのでしょう。運のない人だ」
 ため息混じりにタケトーが首を振った。ジャムシードはまだドンイルの言葉を信用する気になれず、相手の状況を推察する館の主人の出方に注目した。
「もっと早くに助けを求めていれば、これほどややこしいことにはならなかったでしょうに。……いえ、今となっては詮無き繰り言ですね。たぶん、あなたは監視されていたでしょうし。玄関で見た限り、今のあなたには監視の眼がない。ということは、それすらすでにハヤヒトが排除したのでしょう」
 タケトーの視線がチラリと窓の外に投げられ、すぐに目の前に座り込むドンイルへと戻された。細められた瞳に浮かんでいるのは同情か、それとも軽蔑か。ジャムシードにはその内心は判らなかった。
「それなのに、あなたは行きがけの駄賃でジャムシードさんの懐から金品を失敬する気だった、と。余計な色気を出しすぎましたね」
 蝋のように青ざめたドンイルの眼が張り裂けんばかりに大きく見開かれる。己に監視の眼がついてきたと聞けば恐ろしくもなろう。
 タケトーの推察を聞いていたジャムシードはと言えば、ソージンが気づかぬ間に見張りを排除したと聞き、いかにも彼らしいと思った程度だったが。
「さて、どうしますか? ドンイルがジョーガの駒であることは判りましたし、彼がハヤヒトに助けを求めて伝言を引き受けたのも間違いないでしょう」
 タケトーがようやくジャムシードを振り返り、今後の方針を尋ねた。まだドンイルを信じる気にはならないが、ジュペたち三人を助け出すための情報は決定的に不足している。危険でも今は話に乗るしかなさそうだった。
「貴人街の中通りで逢ったと言っていたな。ソージンの伝言ではどこに行くことになっている? いや、どうして貴人街で逢うことになった?」
「ジョーガの命令で船を用意してたのね。その準備が出来たから屋敷に出向いたところでハヤヒトさんに行き会ったのよ」
 船と聞いては落ち着いていられない。王国の外に逃げられては追うことは難しい。これは一刻を争う事態だと判断できよう。ジャムシードは意を固めると、イコン族を集め、ソージンの伝言を正確に伝えるよう商人を促した。