混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 5

 抱きしめている姉の身体が小さく震えていた。こうして触れていると、双子とはいえ歳とともに男女の差が現れてくるものだと、しみじみと思う。僅かではあるが身長差ができ、いつの間にか姉は円やかな体つきになっていた。
「アルティーエ、息を詰めないで。この術は苦痛は何もないんだから。最後まで僕が一緒についてるんだよ。何も怖いことはない」
 彼女の震えは恐怖だけからくるものではないのでは……。怯えとはまた違うように思えて、サルシャ・ヤウンは両腕にいっそう力を込めた。
 二人の周囲を取り囲む僧侶たちが聞き取りづらい低い声で呪文らしき言葉を延々と連ねている。それが姉を守る結界を張るための行為とはいえ、年頃の娘を怯えさせないとは限らない。
 そう思ったからこそ一緒に円陣に入り、術法を受ける決意をしたのだ。が、いつもなら判るはずの姉の気持ちが、今こうして触れあっていてもよく判らない。まるで別人を抱きしめているようだった。
「アルティ? 大丈夫なの? 意識はある?」
 姉に対してだと妙に子どもっぽいしゃべり方になる。成年を迎えた男子が口にする言葉ではないな、と思っても、長年の習慣が咄嗟に出てしまうのだ。身内という以上に、双子という摩訶不思議な絆への甘えであろうか。
「アルティ、お願いだから。意識があるなら僕に返事して」
 身じろぎひとつせずに腕の中に収まっている姉からは何も反応が返らなかった。それがいっそう彼女を他人のように思わせる。
 周囲の僧侶を見回し、この状況を説明してくれそうな者を探すが、術法への集中力を高めるためか、半眼になっている僧らから芳しい言葉が発せられることはなかった。もっとも高位の老僧ですら、手一杯といった感じである。
 始まる前にもっと詳しく訊いておけばよかった。あのときは姉を助けるのだという気負いが先走り、後のことなど考えてもいなかったのである。王となろうとする者にとっては、あるまじき失態であった。
 だが今さら後悔しても遅い。ともかく姉の意識を確認し、彼女が無事である確証を得るほうが先だ。そうでなければ落ち着かない。
 ヤウンは腕を緩め、姉の顔色を見ようとアルティーエの白い顎に手をかけた。俯いたまま動かない彼女の表情を覗き込むには顎を上げさせるしかない。ところが、強張ったように固まった姉の身体がそれを拒否した。
「アルティ? いったいどうしたって言うの。具合でも悪いのかい?」
 困惑の度合いが増し、王太子は途方に暮れて姉の頭頂を見おろした。
 誰にこの状況を訊ねたらいいのだろう。姉の状況を納得がいくように説明してもらいたい。そうでなければ不安で押し潰されてしまう。
 ──落ち着け、サルシャ・ヤウン。お前の双子の片割れは大丈夫だ。
 突然の呼びかけに息を飲み、ヤウンは素早く首を巡らせた。すっかり忘れ去っていたが、この部屋に呼び入れた存在がもうひとつあったのだ。
 人ならざる異形。我々が精霊ディンと呼ぶ者。毛獣バウを宿主にする、ターナ・ファレスがいたのだった。
 ──周囲を警戒しているが、この術法を邪魔する者はいない。
 では、姉のこの頑なな様子はどういう訳なのだ。何かよくないことが起こっているのではないのか。弟の呼びかけに応えないなどあり得ないのに。
 ──その娘もまた戦っているのだ。己の中に巣喰う悪しき力と。
 前日に襲われたことを思いだし、王子は身震いした。邪悪で異質な存在にさらわれた姉が忌まわしい術をかけられたことまでは判っている。その術が特定の人物と二人だけになったときに発動するよう細工されていることも。
 姉の口を借りて悪意を吐き出す存在は不気味だった。断片的に正気に戻る姉の瞳に過ぎる苦痛の激しさはこちらの心臓をも剣で刺し貫きそうなほど辛そうだったことまで思いだし、ヤウンは大きく顔を歪める。
 ──落ち着けと言うに。お前が動揺していては姉まで不安になろうが。
 そうは言われても簡単に落ち着けるものではない。姉に万が一のことがあったら、自分が正気でいられる保証はどこにもないのだ。
 ──しょうのない奴だな。判った。なんとかしてやるから落ち着け。
 ため息混じりの思念の声に王太子は情けない表情で頷く。きっと今の自分は独りぼっちで迷子になったような眼をしていることだろう。
 毛獣がゆっくりと立ち上がった。まるでこれから散策にでも出掛けようかといった悠然たる態度で、円陣を組む僧侶の間を抜けて双子に近づいていく。
 突然の行動に僧侶の一部に動揺が走った。呪文の調子が乱れ、他の僧侶と視線を交わして猛獣の出方を探る様子が伝わってくる。だが高位の僧侶がまったく気にする様子もなく呪文の詠唱を続けているのを認め、途切れていた呪文は次々に復活した。術法への影響なし、と判断したらしい。
 ドロドロととぐろを巻くようにして言葉が身体にまとわりついてきた。肌の上を滑っていく音の響きが骨の髄までをも小さく、激しく振動させている感覚が全身に感じられる。頭の中が単調な音に支配され、一瞬真っ白になった。
 すぐに我に返り、ヤウンは腕の中に感じる姉の息遣いに耳を傾ける。時折、身体を痙攣させる彼女の呼吸は乱れ、うっすらと汗をかいていた。
 大丈夫なのだろうか。このままで問題ないのだろうか。これほど苦しげにしているのは、何かよくないことが起こっているからなのでは……?
 拭い切れぬ不安に押し潰されそうになり、王太子は間近で身体を揺すっている毛獣を見上げた。伸び上がったら成人男性の二倍の身長はありそうな巨体が音の波に乗って気持ちよさげに揺れているさまは、滑稽な印象を植え付ける。
 ──大丈夫だと言っているではないか。我の言葉を信じよ。
 悠々とした思念の声は先ほど以上に余裕を感じた。人には感じられないものを感じ取っている精霊の言葉を信じるのが一番なのだろう。だがしかし、今この瞬間に痙攣している姉の身体から伝わってくるのは苦痛なのだ。
 ──その苦しみの根源はお前の姉のものではない。無理に注ぎ込まれている別の力が追い出されまいと、しがみついて暴れているからだ。
 だから姉自身には問題はない、と言いたいのだろう。それは正しいことなのかもしれない。いや、正しいと信じるしかない。だからといって、この姉の様子を目の当たりにして平静ではいられないのも、身内なら当然のことだ。
 ──しょうのない奴だな。そんなに心配なら我が直接その力に干渉するしかないではないか。それでもいいのなら短時間で終わらせてやるが?
 苦痛を長引かせることなく終えることができるなら、姉にとってはそれがいい。だが、そうなると周囲で結界を張ろうと頑張っている僧侶たちはなんだったのだ、ということになる。彼らの努力は精霊の前では無力だというのか。
 ──絶対的な力の差がある者の前では、こやつらは塵よりか弱い。また、我は人の身体の強さにどれほどの差があるのか読み切れない。我が手を出して、お前の双子の片割れが無事でいる保証はしてやれんな。
 あっさりと言い切るが、ターナ・ファレスの言っていることにヤウンは心底震え上がった。苦痛が短くなる代わりに姉の身体になんらかの支障が出るかもしれない、などと聞いては安易に頷けはしない。
 王太子の動揺が周囲の僧侶にも伝わったのか、呪文の詠唱が乱れた。
 ──怯えるな、サルシャ・ヤウン! お前の動揺はすべて片割れに伝わっているんだぞ! そしてこの娘が感じ取った波動は周囲の者にも影響を及ぼす!
 先ほどから聞こえる呪文の強弱は自分たちの感情が反映されているという。その事実を知らされても、すぐには納得しかねた。
 ──平常心でいることだ。呪文の波がぶれなければ、我が結界の補強をしてやれるからな。だが波の揺れが激しくては我にも手が出せん。
 そう言われても、姉のことが心配で平常心でいることは難しい。身体の震えは先ほどよりも大きくなり、呼吸も徐々に乱れが目立っていた。本当に姉をこのままにしておいていいのだろうか。
「殿下、気を確かに。あなたは姉上の混乱に引きずられておられる。今は我々を信じてください。必ず術法は成功させます」
 それまで淡々と呪文を紡いでいた老僧が初めて口を開いた。ゆったりとした法衣に身を包み、深い皺の隙間から炯々と輝く眼光に強い自信が読み取れる。
「大丈夫です。ここに揃っている者たちは術を操るに足る経験を備えた者ばかりです。魔力は微量であっても、それを補う方法を知っております。経験のない殿下に責任を押しつけるようなことはいたしません。魔術に関することにおいては、我々にすべてをお任せください」
 高僧はターナ・ファレスと同じことを言う。それは内心の動揺を読み取られていることを示していた。老僧侶が思わず口を挟むほど、今の自分は我を失っていたということか。ヤウンは情けなさに唇を振るわせた。
 ──ヤウン、嘆くな。その僧が言う通り、お前には魔導に関する経験などないではないか。経験し、知恵としていないものを理解しようがない。
 判っている。己が知っている知識は書物によるものだけだ。書かれていることが間違いであるとは言わないが、百の書物より一の経験が物を言うことが如何に多いかということは、これまでにも嫌と言うほど見てきた。
「僕は、無力だ……」
 こんなに間近にいるのに姉を救うこともできない。更に姉を救う手助けすらできないどころか、足を引っ張っている有様だ。
 ──無力なのは、お前だけではない。
 猛獣が首を伸ばし、ヤウンの頬に鼻先をこすりつける。さらに厚い舌を出して頬を舐め上げ、夜明け寸前の空の色をした瞳をじっと覗き込んだ。
 ──我がここにいる。お前は独りで双子の片割れを守っているのではない。何か起これば、我が必ず手助けをする。忘れるな、我はここにいる。
 胸の奥で渦巻く不安をなだめすかされた。それは大人が子どもに言い聞かせているときの態度に似ている気がするが、根本的に言葉に込められている感情が違うのだろう。ターナの言葉は素直に胸の奥に入り込んできた。
「アルティを助けて。僕の分身を、救って」
 獣の瞳は深い金色。この色合いはターナが人の姿を取っているときに見られる瞳の色よりも落ち着いたものだ。だからだろうか、時に子どもっぽい態度や仕草をするこの精霊が、今はどこか大人びて感じられた。
 ──判っている。お前の姉のことは、我に任せよ。長い時間を拘束されるのが苦痛であるなら、我が直接結界を張ると言っているではないか。どういう精神状態になるか保証できんとは言ったが、狂い死にするようなことはない。
「僕はどうしていたらいいの?」
 ──まずは円陣を組む者らの詠唱を止めろ。人が多すぎる。
「判った。まずは人を減らす」
 ──次は、触媒にする青水晶を使うから出しておけ。
「青水晶をすぐ使えるように出す」
 ──後は、ここで起こったことは他言無用だ。
「うん。ここで見聞きしたことは黙っていると誓う」
 周囲の僧侶には王太子が独り言を呟いていると聞こえよう。だが彼の言葉に僧たちの詠唱は途切れ、動揺する者らを制して高僧が王子の横顔を注視した。ヤウンが精霊と会話していると老師は理解しているのだ。
「精霊が力をお貸しくださるのですかな、殿下?」
「そう言っているよ。結界は“彼”が張ったほうが早いらしい」
 老僧の確認に王子が答えると、僧侶の間から驚きと不満の声が上がる。彼らにしてみれば結界を張る準備を万端整えてきたというのに邪魔された格好になり、不愉快を感じているに違いなかった。
「僕が指示する人以外からは円陣から離れ、青水晶をすぐ使えるように用意しておくように、と。それから、ここで見聞きしたことは他に漏らさぬよう」
「相判り申した。精霊のご指示に従いましょう」
 若い僧侶の間から不満の声が漏れる。それをもっともなことと思いながらも、今のヤウンには彼らの不平をなだめる気力はなかった。
 腕の中の姉はまだ震えている。彼女の中の何かが苦痛を引き起こしているというのなら、それを吐き出してしまえるように最善を尽くさねば。
 姉の動揺に引きずられ、すっかり気持ちの余裕を無くしている王太子の様子に老僧は淡い笑みを浮かべた。術法を横取りする精霊の傲慢さに腹を立てている部下の僧侶を視線ひとつでなだめすかし、彼は指示された通りに動いた。
「青水晶はこちらに。この場に残るのは拙僧とこちらのオルドクとヴィドクの二人だけでよろしいのですな? であれば、他の者は帰しましょう」
 なおも不満げにしている若僧に声をかけ、老僧はゆったりと立ち上がった。
「さて、それでは次に何をしたらよろしいでしょうか? 我ら三人では術法を完成させるのは難しゅうございます。残された意味はなんぞや?」
 サルシャ・ヤウンが猛獣を振り返る。身の内に精霊を飼うという獣が双子の姉弟の周囲を巡り、気に入ったらしい場所に寝そべった。そこはアルティーエの背後、姉の肩越しに王太子と視線を交わせる位置だった。
 ──彼らに円陣を組ませ、結界を作る術法の呪文詠唱は続けろ。足りない魔力は我が補えるが、結界を作る道筋は彼らのほうが慣れているだろう。
 僧院に戻した僧侶たちは魔力が少ない者ばかりだった。それでも常人よりは多くの魔力を内在させている者ばかりであるが、ターナ・ファレスから見れば吹けば飛ぶような量でしかないのだろう。
 ヤウンが精霊の指示を伝えると、老師と双子の僧兵は等間隔に並んで円陣を組み、先ほどの呪文を再び唱え始めた。高く低く続く詠唱の声は場の雰囲気を支配する重みを含んでいる。たった三人による詠唱とは思えなかった。
 ──ここから先のことは他言無用。その誓いを忘れるな。
 言い終わった途端、猛獣は床に身を伏せて眠り出す。くぅくぅと寝息を立てる様子はあまりにも暢気で、場違いな安穏さに王子は呆気に取られた。
 なんという態度だろうか。これで本当にやる気はあるのか!? 大事な術法の最中に何を眠り込んでいるのか!
 唖然とした次の瞬間にヤウンは膨れ上がった怒りで肩を震わせた。
『こちらだ、サルシャ・ヤウン』
 急に背後から声をかけられ、王太子は小さく飛び上がる。沸き上がった怒りも朦朧としている姉のことすらも忘れるほど驚いた。目の前で眠っている獣とは別の気配を背中に感じ、ヤウンはようやく相手の真意を理解した。
 振り向くと、そこには朧な炎が揺らめいていた。いや、炎のように見えたのは朱い髪色のせいであろう。白目も虹彩も存在しない鮮やかな黄金のまなこにジッと見おろされ、ヤウンは恥じ入るように目を反らした。
 その視線の先では、周囲にいる僧侶のうち高僧以外の双子の僧侶が息を飲み、怯えた様子でターナ・ファレスを見つめる。
 双子のうちの一人が見ているものを彼らは二人で共有しているはずだ。突如、姿を現した存在を彼ら双子はどう思ったろうか。驚かぬはずはないのだ。平然としている老師のほうが図太い神経をしていると言っていい。
「ター……いや、ファレス。君、人前で姿を見せたりしたら……」
『見せぬほうが得策だと思ったから今までは姿を出さなかっただけだ。我の姿は人には異質であろう? 異形を歓迎する人間など、まずおらぬであろうよ』
 意味ありげに双子の僧侶を交互に見比べ、ターナが嘲るように口許を歪める。魔人ガダグィーンと呼ばれて暗黙の内に差別される彼らですらターナの出現に怯えた。この姿を人が見つければ、確かに大騒ぎになる。
「朱き精霊よ。我々は何をすればよいのですかな? 殿下はこれから王議会に出席せねばならぬはず。あまり悠長なこともしてはおれませんぞ」
 呪文の詠唱を止めた高僧が静かな声でヤウンたちの会話に割って入った。その平然とした口調に我に返ったか、オルドクとヴィドクの二人が慌てて居住まいを正し、己が受け持つ呪文の詠唱を始める。
『老いたる僧よ。我は我の主人の願いによって結界を張る。お前が提供するという青水晶は人よりも我らのほうに相性が良い。魔力の伝導の早さや量、波長の強弱を御す能力も我が青水晶を使ったほうが効率が良かろう。
 だが我は人の身体がどこまで我の力に耐えうるか判断できん。お前たちは我の主人の姉が我の魔力にさらされる間、彼女の心身が壊れぬよう補助をしてもらいたい。よって、お前たちは我の魔力から彼女を守るための結界を張れ。我はその器にそって結界を築くことにする』
「我々の作り上げる守護結界では不完全だと仰るか?」
 老師の精霊への問いかけにヤウンはヒヤリと背筋を凍らせた。下手にターナ・ファレスを刺激して機嫌を損ねては結界を作り上げることに支障が出るかもしれない。そうなっては姉の今後はどうなってしまうのか。
 ターナを呼び出してしまう羽目になったのは自分の精神的な弱さのせいだが、それで姉を窮地に追い込むのはまっぴらご免だった。
 不安げに見上げた気配に気づいたのだろう。ターナが再びヤウンへと視線を戻し、なんとも言えない微妙な笑みを浮かべた。が、それもすぐに消え、“彼”は老僧に向き直って平然と言い放った。
『そう、不完全だ。お前たちが相手にしようとしている邪悪な力を侮るな。この力を人の力だけで打ち破るには強固な意志や長い歳月がかかる。
 お前が軸となって行なう結界の構築は、お前が死んでしまえば効力を失う恐れがある。それでは彼女を完全に守りきることはできまい。
 だが、我が作り出す結界であれば我の寿命が尽きるまで維持することが可能だ。我は人ならざる者。お前たち魔人よりも遙かな長い年月を生きる。どちらを軸にして結界を張れば効果的か、ここまで言えば判ろうが』
 相変わらず傲慢な口調だ。だが、どうしてだろう。その口調の裏側にひどく淋しげなものを感じ取ってしまった。姉を抱きしめているヤウンからターナの顔は見えない。声の調子だけで、そう感じ取ったのはなぜだろう。
「結界の柱となると仰るか?」
『そうだ。お前たちの結界では心許ない。我の主人に不安を与えるような脆弱なものを作らせるわけにはいかん』
「青水晶を使っても不安だということですな」
『宝の持ち腐れだな。お前たち人にあの石を御すことなど不可能だ。あれは人が手にしていい石ではない。あれを持つことができるのは……』
 不意に口をつぐんだターナが振り向き、ヤウンを見おろした。しかし、何か言いたげに唇を震わせるのだが、それが言葉となって溢れ出すことはない。言いたいことがあるのなら言えばいい。躊躇う何かがあるのだろうか。
 もどかしさにヤウンが腕を伸ばすと、ターナは我に返ったように眼を見開き、小さく首を振って周囲の僧侶に視線を走らせた。僧たちは精霊の突然の沈黙に何かを感じ取ったらしいが、それを追求する言葉を持たなかった。
『詠唱を続けよ。構築する魔力には我のものを使え。完成させる結界は傷一つない完全なものを作り上げる』
 何かを振り払うかのように断固とした口調で宣したターナが高僧の前に据えられていた青水晶を取り上げる。壊れ物を扱うかの如き柔らかな手つきに、ヤウンは“彼”の中にある葛藤を見た気がした。
「ファレス。僕は、何をしたらいい?」
 自分の中に姉から伝わったという動揺がまだ残っていることは自覚できる。いつもはこんな簡単に他人の言動に揺れたりはしないのだ。だからだろうか。ひどく頼りない気分が間近にいる者に寄りかからせたくさせる。
『何も。いや、我を信じよ。我は契約に則り、主人を助ける』
「君を信じていれば、アルティーエは助かるんだね?」
『サルシャ・ヤウン、我は嘘は言わない。お前なら知っているはずだ』
 そうだ。それが契約だった。お互いに嘘はつかない。もしもヤウンがターナを欺けば、ターナは報復としてヤウンを殺すことになっている。
「判ったよ。君に僕たちの命を預けよう」
 承知、と呟いたターナが高僧に向き直り、掌に乗せた青水晶を指し示した。
『老いたる僧よ。この青水晶はどこで手に入れた?』
「それが今回の結界を作る上で重要なことですかな?」
『これにはお前の気の他にも色々と混じり、雑念も多く含まれている。正確に御するための知識が必要だ。お前と似た気質の念が多いのはなぜだ?』
「それは拙僧が師匠から受け継いだものだからでしょう。その師匠も師匠か兄弟子から受け継いでいると思います。代々が僧院に仕える者を主人としてきた青水晶です。似た気質の念がこもっていてもおかしくはありません」
 なるほど、と頷き、ターナが高々と頭上に青水晶を掲げた。懐かしむような表情に、ヤウンは“彼”がその石を知っているのではないかと推測する。それは間違いではなかったようだ。
 ──デラ。ようやく、あなたの欠片を見つけた。
 過去に聞いた名が頭の中に流れ込んでくる。それはターナの養い親だという存在の名だったはず。そして、その存在が所有していたらしき青水晶が僧院の師弟たちに受け継がれていたという事実が、ヤウンの胸に深く刺さった。
 ターナが結界を構築するのに手を貸す理由はヤウンやその姉のためだけではないだろう。養い親に縁のある青水晶を手に入れるためでもあるはずだ。それを咎める気にはならない。実際、老僧侶は結界を張るために青水晶を手放すつもりだったのだ。それをターナが拾い上げただけのことである。
 では始めようか、と精霊の手が青水晶を双子の王子と王女に翳された。淡い蒼光を放ち始めた水晶が見えざる波動を室内に満たす。それを肌に感じながら、王太子は半ば意識を失っている姉の身体をきつく抱きしめたのだった。