混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 4

「まったく! なんて手間のかかる連中だ! ほら、ぐずぐずせずについて来ないか。これ以上手間をかけさせるなら、こっちにも考えがあるぞ!」
「いやぁんっ。ジジイが虐めるぅっ!」
「暴力反対! 時代を担う若年者は大切に!」
 甘ったれた声とお題目の如き言葉の叫びに彼は心底うんざりし、彼らを繋いでいる見えざる鎖を容赦なく引っ張り寄せた。
「お前たちが繭から逃げ出すからこういう目に遭うんだ! 大人しく眠りに戻ればいいものを、勝手に飛び出してあっちにフラフラこっちにフラフラと……。ろくでもない悪戯しかせん癖に口だけ一人前に振る舞うんじゃない!」
「チクショーゥ! 放浪者ファーンさえ邪魔しなかったら、もっと遊んでいられたってのにぃ!」
「断固拒否ーっ! 弱者は守るべきであーる!」
 彼は苛立ちを隠そうともせず鎖を乱暴に引っ張る。引きずられていく者たちが口々に不満を訴えたが、それらをすべて無視し、彼らが在るべき場所へと引っ立てていった。少しでも会話を交わせば相手を調子づかせるだけである。
「ばかばかばかばかぁっ! ジジイなんて引退しちゃえー!」
「待遇改善を要求するーっ! 痛い、痛いっ! 腕がもげるー!」
 この者らで最後なのだ。ようやく一仕事終わるのに、今さら逃すものか。
 ファーンによって一時的に意識を奪われていた者たちを次々に回収していったのはいいが、用心に縛鎖を使っていたせいで時間がかかりすぎた。最後の者たちを回収する頃には意識が戻り始めていた。
「ジジイ横暴ぉ! 嫌い、嫌い、大っ嫌ぁい!」
「権利侵害っ! 我らに自由をぉっ!」
 どれほど叫ばれようとも彼は振り返らない。あと少しで繭に辿り着くのだ。それまでの辛抱である。あそこに到着すれば彼らも大人しくなるはずだ。
 抵抗がいっそう増した鎖を力一杯引きずり、彼は遅々として進まない歩みを確実に進める。その断固とした足取りに捕らえられた者の抵抗は小さくなった。
「うぅぅっ。やだよぅ。帰りたくないよぅ。もう眠るのいやぁ!」
「我らの権利選択の自由はどこにいったんだーっ!」
 嘆き悲しみ、同情を引こうとする者らに辟易し、彼は立ち止まる。振り向いて文句のひとつも言おうとした。が、周囲の空気に歪みを感じて動きを止める。
 なんだ? 何が起ころうとしているのだ。妙に空気が熱く感じられるのはどういうことだろう。厭な予感がした。
 背後にいる者たちも異常に気づいたらしい。罵り喚き、嘆いていた声がピタリと止まっていた。困惑がこちらにも伝わってくる。
「な、なんですかぁ? 何かいるのぅ?」
「異常事態? 逃げるが一番」
 その逃げ込める場所が繭ではないか。あそこの結界は適度な弾力があり、外からの攻撃に柔軟に対処できるのだ。
 そう思い至った彼は今まで以上に鎖を強く引き、足早に歩き始めた。
「痛ぁい! そんなに引っ張るな、ジジイィ!」
「擦り傷多数。治療を要求するー!」
 再び文句が復活したが、そんなことにはかまっていられない。少しでも早く繭に辿り着き、彼らを放り込んでしまわなければ。
 だが繭に辿り着く前に異変は生じた。
 行く手を遮るようにして空間が歪んでいる。明らかに何かが潜んでいる気配がヒシヒシと伝わってきた。よほど鈍い者ならともかく、異空間の歪みに敏感になっている現在、それを見逃すはずがない。
「ジジイ、どうしたのぅ? 急に立ち止まらないでよーぅ」
「い、異変発見! 退避、退避ぃー!」
 一本の鎖が勢いよく引っ張られた。つられて残りの鎖もガチャガチャと鳴り響く。それを強引に抑えつけ、彼は異空間の裂け目を睨み据えた。
「そこにいるのは誰だ! 我らの繭に触れようというのなら諦めることだ。外部から悪さをしようにも、今まで手出しできた者はいないぞ!」
 グネグネと歪みが蠢く。それは彼の言葉を嘲笑っているようでもあり、また何事かを訴えようと身悶えているようでもあった。
「この子らへの手出しも許さん。私がいる限り、一族の者に危害を加えるような真似はさせない。悪事を働くのなら相応の覚悟をするがいい!」
「えー? ちょっと違うでしょぅ? その役目って狩人ファレスがやるんじゃないのぅ?」
「職権侵害。越権行為。我らは長老タルクの暴挙に激しく強ぉく異議を唱えるぞっ!」
 人の言動にいちいち茶々を入れなければ気が済まないのか、この者らは。
 頭が痛くなり、彼は鎖を掴んでいない手でこめかみを押さえて呻いた。
「少しの間だけでも黙っていなさい。お前たちの相手をしている暇はない」
「い、や、よっ!」
「強制拒否。我は自由なりー!」
 やはりどうやっても黙っている気はなさそうである。こうなったら彼らの野次は無視して異質な存在と対峙するしかなさそうだ。
 ジリジリと歪みから距離を開け、彼は手許の鎖をたぐり寄せる。背後で文句を並べ立てている者らを少しでも守りやすい位置につかなければ。今のままでは互いの距離が開きすぎていて間に入り込まれたら終わりだ。
「お前たち、私の近くに来なさい」
 低い囁きを背後に飛ばせば、ブツブツ言いながらも歩み寄る気配がする。彼らにしても正体不明の異質な存在は不安であろう。なんと言っても、今まで守られる立場ではあっても守る立場に立ったことなどない子たちだ。
 口ではどれほど喚いてみても、所詮は経験値の足りない未熟者なのである。それもまた繭に入り続けていた弊害だと不平不満をぶつけてくるだろうが、外の空気は彼らには重すぎ、長期間の行動など無理なのだ。
 繭を作り上げた理由はそれだけではないが、今は消え去った故郷の空気と同じ空気で一族を守るために必要な措置として全員に承認されたことは事実である。一時的な緊急避難の意味で承認した者も多かろうが、空気の濃度は未だに一族を蝕むほどのものだ。まだまだ繭から解放される日はこないだろう。
 腰にひしと抱きつく感覚を確認し、彼は鎖を最小限の長さまで絞り込んだ。
「手を放すのではないぞ。振り落とされでもしたら格好の餌食になるかもしれん。それから、跳躍中は口を開くな。舌を噛むかもしれんからな」
 両脇でコクコクと頷く気配を感じる。こういう仕草はいたって子どもっぽい。普段もこれほど素直なら手間がかからず楽なのに。詮無いことを考えながら、彼はここにはいない“手間のかからなかった子”のことを思い出していた。
 人の器を仮宿に寄生せねばならないほど何度も力を失い、こちらから差し伸べる救いの手を頑なに拒絶しているあの子は無事でいるだろうか。ここしばらくの間、繭のほうにかかりきりであの子の様子を見ていないが。
「長老ぅ、他のこと考えちゃ駄目ぇ! ちゃんと前を見てっ」
「上の空? 現実逃避?」
 鎖を引っ張られて我に帰った彼は、誰に見せるともなく苦笑いを浮かべた。
「しっかり掴まっていなさい。あの歪みを跳躍して向こう側に渡るから」
 いっそう身体にしがみついた気配を抱え、彼は歪みの向こうに透けて見える風景を凝視する。どこを着地点にすれば安全なのか考えてみるが、異質な存在がどれほどの力を秘めているか判らない以上、安全圏など判断できなかった。
「状況ごとに対処するしかないか……」
 行き当たりばったりというのは好きではない。が、哀しいかな、仕えている主人の気まぐれさ加減に慣れてしまっている彼にとっては、日々刻々と移り変わる主人の機嫌に振り回されるのが当たり前だった。
 そんな暮らしぶりが役に立つ日がこようとは思わなかったが、今の相手を読み切れない現状を考えるに、あの我が侭な主人もたまには役に立つものだ、と呆れ半分感謝半分で思い返したのである。
「お前たち、目を閉じていなさい」
 両脇の気配が頷くのを感じながら半歩ほど下がり、それだけを助走に、彼は素早く歪みの上方に跳躍した。人であればあり得ない動きである。がしかし、彼が人ならざる者である以上、それは当然の動きだった。
 空間の歪みが遙か下方の点に見えるほど高々と舞い上がった彼は、視線の遠く先にほの白く光る点を確認した。
 繭だ。ようやく視認できる距離まできたか。
 帰巣本能ともいうべき機能を体内に備えた彼ら一族にとって繭は世界を動くときの基点となる。その存在がある限り、この惑星ほしで迷子になることは決してなかった。
 他にも繭の代わりとなる基点が幾つか存在するが、それは種族違いの者らの基点である。体内に緻密な方位の網を作り上げるときには役に立つが、あちこちを彷徨い歩くくらいならば不要な存在だった。
 充分な距離を開けたと判断し、彼は緩やかに下降していく。歪みの気配は後方にあり、こちらに攻撃を加えてくる感じではなかった。
「あれはなんだったのだろう。やはりバチンの気配に触発されて蠢く者どもなのだろうか? すぐにでもあの方に連絡を入れておくか……」
「バチンー? あのオバサン、まだ悪さするのぅ?」
「処刑希望。安全第一。なぜ生かしておく?」
 ひとり呟く彼に合いの手を入れるように、両脇からの声が復活した。
 処刑とは穏やかでない。が、一族の中には処刑してしまえという過激な意見も多いことは知っていた。また逆に、バチンを擁護する派閥があることも。
 なんと言っても、あの女は付き巫女バチンなのだ。かつて絶対的な支配力で一族を睥睨したあの御方の。バチンが就いた氷巫女と対を成す花巫女であったかの人が裏切らなければ、今もなお付き巫女で在り続けたろう。
 いいや。彼女は今でも己を付き巫女だと自認しているし、周囲も形骸化したバチンの称号で呼び続けていた。それ以外に彼女を認識する呼び方を思いつかないのである。真実の名を知るごく一部だけが、彼女を別の呼び方で呼ぶこともあろうが、大多数の者にとって彼女はバチンのままだ。
「バチンは今まで処刑されなかった。が、これから先も処刑されないとは限らないだろう。現に今、我が主人はバチンに徹底的な制裁を加える気で動いている。それが処刑にあたらないとどうして言える?」
「でも、生きてるしぃー?」
「不納得。異分子は処理すべし!」
 長い歳月の重みをまだ知らぬ子らは是か否か、生か死かなど割り切れる目印を求めやすい。あの御方を仰ぎ見たこともない世代であればなおさらに、世界の均衡が如何に危うい天秤の上にかかっているか知るまい。
 それは教えなかったこちらの罪でもあろう。銀の娘アジェンティアは教えるには及ばないと命じたが、バチンがこうまで暴れる事態になると判っていたら、一族の眼で見る世界の広がりを教えておくべきだったのだ。
 今さら悔やんでも遅い。今は一刻も早く元の均衡を取り戻し、この世界の大気に馴染むことが大切なのである。遙か果てにあった故郷は失われ、我々はこれからずっとこの世界で生きていかねばならないのだから。
「いずれ……お前たちにも世界の色がひとつではないことが判る。そのとき、バチンや守人がどういう眼で下天を見、一族を見てきたか知るだろう」
「どういう眼で見てきたのぅ? 長老は知ってるのね?」
「説明希望! 年長者は若年者を指導する義務があるっ」
 子らを引き連れて降下していた彼は間近に迫った着地地点を凝視した。障害物は見当たらない。この調子なら着地後すぐに繭に到着するはずだ。胸を撫で下ろし、背後を振り返った彼は先ほどの歪みが消えていることに気づいた。
「諦めたのか? それとも別の手段に訴える気か?」
 不安がせり上がってきたが、それを両脇の者らに悟られるわけにはいかない。平静を装い、彼は縛鎖をしっかりと握りしめて着地に備えた。
「着地の仕方は知っているか? 判らなければ私の真似をしなさい」
 衝撃を和らげるには個別に着地の力を吸収、分散するのが一番である。老練な同族の者なら説明するまでもないが、跳躍の経験が少ない者の中にはやり方を知らぬ者すらいるのが現状だった。それもまた繭の弊害のひとつである。
 軽い衝撃が全身を包み、彼らは目的の着地点に到着した。とは言っても、時空の狭間にあるこの空間では、景色はほとんど同じようなものだが。
 再び繭に戻そうとする彼と抵抗する子らの押し問答が復活した。が、確実に彼の力に引きずられ、縛鎖で繋がれた者たちは繭へと近づいていく。
「さぁ、ぐずぐずしているとまた先ほどの歪みが生じるかもしれない。急いで繭に避難してしまわなければ──」
 ギクリと背筋が強張り、彼は進む方角から感じた違和感に振り返った。彼らが見ている目の前で、再び先ほどと同じ歪みが空間の狭間に浮き上がってくる。こちらを嘲るように、あるいは何かを訴えかけるように。
「どうしてこんな短時間で再度の術を……。異空間の移動を行なえるのは相当な技量の術者だけのはずなのに」
 今度こそ襲ってくるのではないか。これほど短時間で同じ術の気を練り上げ、相手の進路を予測して術を放たねばならないのだ。次の手を打てる魔力が残っているうちに新たな術が来るはずである。
 彼は息を飲んで立ちすくんでいる子らに駆け寄り、乱暴とも言える荒々しい手つきで彼らを両脇に抱えると、助走もなく高々と虚空へ舞い上がった。
 今度はそれほど高くは飛翔せず、歪みを飛び越えると子らを抱えたまま走り出す。子らがいる以上、逃げるのが一番安全だ。繭に送り届けさえすれば戦い方もある。だが、今はまだ後ろを振り返っている余裕はなかった。
 ところが。疾走する彼の前方に再び歪みがユラユラと浮き上がってくるではないか。愕然として立ち止まり、彼は手招きするように揺れる歪みを凝視した。
「まさか……。まさか、歪曲空間の術を使っているのか……?」
 歪曲空間と呼ばれる術は、限定してではあるが空間を閉ざし、その中での移動は出発点に戻ってしまう作用が働くもののことである。もし今、その術中にあるならば、どれだけ歪みを飛び越えようとも永遠に繭には辿り着けない。
 一族の中でこれほどの魔力を使える者はそういなかった。彼が仕えている主人とバチンは別格だが、繭の中にいる者の中でも数名にすぎないだろう。他地域にきる別種のほうでもそう多くはないはずだ。
「誰だ? いったい何の目的で魔術を使っている!?」
 彼の怒鳴り声に呼応するように歪みの揺れが大きくなり、裂けるように左右にぶれると乳色をした滑らかな腕が吐き出された。すぐに白い頭部が現れ、肩、胸、腹、腰、そして足までが確認できるまでになる。
 厭というほど記憶に刻み込まれたその姿に、彼は呻くように囁いた。
「バチン……。お前、どうしてここに? アジェンティアのところにいるとばかり思っていたのに──」
「バチンなのぅ!? いや、いやっ! 長老、早く逃げてっ」
「退避っ! 即刻逃げるべしっ!」
 鎖が今までになく強く引っ張られる。さしもの彼も身体が仰け反りそうになった。が、踏ん張り留まると、彼は歪みから姿を現した知己と対峙する。
「何をしにきた、バチン。私に何か用か?」
 長い前髪は眼許を覆い、相手の表情を掴ませなかった。すらりとした鼻梁の下に収まる赤い口唇が笑みの形に歪むのを見ながら、彼は内心で焦りを覚える。この歪曲空間から脱出する方法を見つけねば。
「用がないのなら私たちは先を急ぐ。そこをどけ! 今のお前には、繭で眠る一族の者と逢う資格はないはずだからな!」
 背中に隠れて震えている者たちの怯えを敏感に感じ取り、彼は眉をつり上げてバチンを怒鳴りつけた。しかし、相も変わらず笑みを浮かべるばかりで、バチンはいっこうに返事を返さない。
 もしやこちらの眼を欺くための幻影ではないか? そう閃いたのは、バチンが“白闇の魔女”という異名をとっていたことを思い出したからだった。
 相手を幻惑させることは彼女の得意である。その術中にはまってしまえば、自滅が待っているだけだ。そう考えれば、目の前の存在が幻だと考えたほうが判りやすい。バチンは異空間を移動したのではなく幻影を放っただけだと。
 どこかに歪曲空間を破る基点があるはずだ。そこさえ突破できれば、この空間から脱し、彼女の忌まわしい術からも逃れられる。
 彼はなんとか苛立ちをなだめ、周囲の空気に漂う風の流れを読んだ。
 先ほどは気づかなかったが緩やかに渦を巻いている箇所が幾つかある。魔力の力場が形成されている証拠だ。この流れのどれかに脱出に使える基点があるはずなのだが……。それを見つける時間が稼げるだろうか。
 彼の目の前でバチンが流れるように一歩を踏み出した。腕は踊るように上がり、散歩にでも誘われているようだ。いや、遙か昔は共に、鮮烈な緑の匂い漂う朝靄の中を、あるいは沈まぬ夕日を眺めながら森の縁を歩いたものだ。
 その頃に意識を引き戻すバチンの動きにゾッとする。彼女は今もなお時間を戻そうとしているのだ。時間が戻らぬなら時代を戻そうと……。
 穏やかな時代だった。還ることが出来ぬ一族の故郷を頭上に眺める哀切はあったが、惑星ほし同士が共鳴し合い、あの御方の打ち鳴らす鈴音に震える大気は今よりも軽々と我らの身体を天空へと舞い上げたものだ。
 他族との諍いがなかったとは言わぬ。平穏な暮らしの中にも数々の問題はあった。それでもあの時代を懐かしむ者は一族の中に多い。過去を知らぬ子らの中にも憧憬が生じるほど、年寄りたちは繰り返し語って聞かせるのだから。
「下がれ、バチン。私はお前の手を取る気はない!」
 未だ基点は見つからない。今ここで幻影とはいえバチンに掴まったら、どうなってしまうか判らなかった。氷巫女は封殺の巫女である。花巫女が生誕の巫女であるのと対を成すのには意味があるのだ。
 往年の魔力はあの御方の消失と同時に消えているとはいえ、魔術を忘れてしまったわけではない。力が弱まったとはいえバチンが抱える潜在的な魔力は未知数だ。封殺の力は残っていない、などとは言えないのである。
 背後の者たちを守りながら彼はジリジリと後退していった。移動してもまたここに戻されてしまうのである。脱出するためには基点を見つけ、そこを破って抜け出す以外に方法がなかった。
 こういう作業が得意なのは一族を守り、法を司る代理人ファレスである。あの子なら基点を瞬時に見破り切り裂いたろう。
 その本能が対立を続ける獣人たちの能力に由来することが一族の者らに顔をしかめさせる結果になろうとも、狩人ファレスの力を振るうことに躊躇いはしなかったはずだ。今の彼のように言葉によってバチンを説得しようなどと悠長なことはしまい。
 それでもバチンにかつての同胞意識を求める己は、やはり甘いのだろうか。
 幾つ目かの渦の動きを探っていた彼は、ひとつだけ渦の回転が逆方向のものがあることに気づいた。しかも回転速度が他のものより僅かに早い。
 これだ! この渦が基点になって他の渦を形成し、術を展開しているのだ。
 ゆるゆると近づいてくるバチンの腕を振り払い、彼女がよろめいた隙を突いて彼は子らを脇に抱えて跳躍する。今までよりも遙かに高く、早く、背後の女には一瞥もくれずに。目的の渦まで一直線に跳んだ。
 後少しで渦に到達するというそのとき。
 猛獣が遠吠えているような振動音が空気に広がった。あらゆるものが共鳴し、不協和音を鳴り響かせる。耳を聾する轟音に彼の跳躍の力が弱まった。
 元々、彼ら竜王人ドルク・リードは自身の筋力だけで虚空を飛ぶわけではない。呪文という共鳴音を利用して魔力を増幅させ、周囲の風を動かし、身体に浮力をつけるのだ。その動作の課程で起こる音波は推進力となって跳躍の方向性を決める。
 不協和音は跳躍の妨げだ。少々の音であれば魔力が打ち勝つのだが。
 しかし、この音を発しているのはバチンである。一族を絶対的に支配していたあの御方の傍らに侍っていた巫女の力が“少々”であるはずもない。
 擬態によって幻体に変じている彼の見えぬ本体を直撃する音の錯綜に、身体を動かしていた魔力は激しく波打っていた。安定しない力に脂汗が噴き出す。
「くそっ。あと少しで届くというのに……!」
 彼は両脇の子らを肩に乗せ、目的の渦を目指して腕を一直線に伸ばした。
「跳べ! お前たちだけでも脱出するんだ!」
 混乱して首にしがみつく者たちを叱責混じりに励ます。そして、彼らが肩を蹴って飛び立つまで、消えていく魔力を掻き集めて浮力を保ち続けた。
 渦の中に吸い込まれていく子らが「長老」と叫びながら振り返る。半泣きの顔に向かって彼は出来る限り穏やかに微笑み返した。
「案ずるな。脱出したら真っ直ぐ繭に向かえ。繭の外殻にさえ触れれば自動的に内側へ吸収される。いいか、決して後ろを振り返るでないぞ!」
 小さき者らの姿が完全に渦へと飲み込まれたのを確認し、彼は浮力を維持することを止めた。当然の如く落下していく身体を守るものは魔力の残滓だけ。
 落下地点近くでこちらを見上げるバチンの赤い唇が大きく笑みの形に歪むのを見つめながら、彼は奥歯を噛み締めて激突する痛みを覚悟したのだった。