混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 2

 飛ぶような勢いで路地を走り抜けながらソージンは周囲に注意を払った。
「これだけ迂回しても気配がないということは追っ手はかかっていないか」
 尾行の用心をしてみたが誰もつけてはこない。そこまでしてようやく、妹が完全には敵に回っていないことが判明して胸を撫で下ろした。
「ジョーガがハナサギたちを人質にしているのなら、一族の者の多くは反感を募らせているだろう。そうまでして人質をとるほど、ジョーガの手札は少なくなってきていると読んでいい、か。アイフサ姉者も長年かかって奴らの牙城を切り崩していったに違いない。……だが、姉者。いくらなんでも死ぬには早すぎる。おれが戻るまでどうして待たなかったんだ」
 走る速度を落とし、ソージンは呟きを漏らしながら項垂れた。戻らぬ弟の思惑なぞにかまってはおれぬほど姉は厳しい立場に追い込まれていたのだろう。伝え聞く噂だけでは一族の詳しい内情など判らぬものだ。
 今となってはどうしようもないことだが、十年前の己の短慮が悔やまれた。
「ルウの兄者では仮長は務まらん。あれは気が優しすぎる。となれば、仮長に収まったのはナギヒトか。黒帆船を動かしているのもあいつだろう。ハナサギの側にヤタカもいるとなれば、サラシナも同行しているはず……」
 喉に厭なものが詰まったように声が途切れる。思わず足が止まり、ソージンは吐き気もないのに口許を押さえた。彼らしくもない。元より血の気の薄い顔色であったが、今の彼の顔はひどく青ざめて見えた。
 何度も深呼吸を繰り返すが、蝋よりも鈍い色に変わった顔色はなかなか元に戻らない。知り合った者たちがこれほど動揺している彼を見たら驚いたろう。それほどに、見る影もない狼狽えぶりであった。
「判っていたはずだ。こうなると、十年前に島を出た日から覚悟していたはずだ。……大婆にもそう言われたじゃないか。なのに──」
 空気を貪り吸うソージンの喉が鳴る。
「情けない。この程度で逃げ出すとは。おれに逃げる資格はないというのに」
 よろめくように足を踏み出し、彼は目的地を目指して歩き出した。今は走れない。急がねばならないのに前へと踏み出す足が重かった。それでも先に進もうとする気力を振り絞り、彼は路地から大通りへと転がり出る。
 大きく周回しながら目的地を迂回したので、飛び出した館からそれほど離れていない場所で大通りへ出ることになった。
 尾行の有無を確かめるのに時間を喰っている。急いで目的地に向かわなければならなかった。女たちが別の場所に移されてしまえば手がかりを失う。何よりあの場所には今、炎姫公女がいるのだ。
 沈み込みそうになる気力を奮い起こし、ソージンは萎えそうになる足に力を入れる。奥歯を噛み締め、顎を上げてフードに隠れた面を露わにした。
「迷うな。迷いは偽善だ。虚栄に巣喰う限り、視野が広がることはない」
 密やかな囁きは自身の耳にのみ届き、時折擦れ違う人々に認められることはない。繰り返し、迷うな、と呟きながら、彼は歩調を早めた。
 ふと視界の奥に見知った顔が過ぎ、ソージンは大通りの反対側をこちらに向かって歩いてくる人影を振り返る。
「ロ・ドンイル? 中流商人のあいつがなぜこんな場所を歩いている?」
 人目を気にするように俯き、忙しない歩調で歩く丸く小柄な体格のチャザン商人は、ソージンが同じ通りを歩いていることにも気づいていないようだった。
 貿易商とはいえ大物ではないロ・ドンイルの取引先といえば、貿易商相手に商売をしている商館であろう。目利きの腕がいまいちの彼にとって、紛い物を選別してある商館の品物は安全パイなのだ。
 利益は薄くなるが失敗がないとなれば、これから腕を磨いていきたい小物の貿易商にはうってつけの取引先である。もちろん、ドンイル自身も目利きの腕を磨くべく色んな商品を見て回っているようだが、少々人の良いところがある彼には目利きの才能があまりないのか、紛い物ばかりを掴まされていた。
「庶民向きの商品ばかりを扱っているあいつに、高級品を売り込むために貴人街に出入り出来るほどの才覚があるとは思えない。となれば、貴族のほうからあいつに話を振ったということになるか」
 何か癇に障るものがあり、ソージンは顔見知りの商人のほうへと足を向ける。ここで知らぬ顔をして通り過ぎてはいけない、と本能が囁きかけていた。こういうときの警告を彼は無視しないことにしている。
「これから仕事か、ロ・ドンイル。同じ都にいてもなかなか顔を合わせないってのに、久しぶりに顔を見たのが貴人街とは意外だな」
 ギクリと全身が強張った商人が素早く顔を上げ、そこにソージンの姿を認めて息を飲んだ。内心の動揺が表情に一瞬現れ、すぐに奥へと引っ込む。
「ひ、久しぶりねぇ! ハヤヒトさんこそ、こんな早い時間にどこへ行く?」
 母国語以外の言葉に不自由しがちなドンイルが舌っ足らずな訛りの強い口調で問いかけてきた。が、妙に視線が定まらず、周囲を探っているような仕草に、ソージンは強い引っかかりを覚えた。この男は何か隠している。
『俺ならこれから大捕物だ。瀞蛾じょうががこの国に来ていることが判ったからな。あいつを捕まえて報復してやれる日がようやく巡ってきた』
 ソージンが故郷の言葉に最も近いシギナ語を使って話しかけると、鶏が首を絞められたような素っ頓狂な声を上げ、ドンイルが飛び上がった。
 何か返事をするかと思い、相手の出方を探るが、小柄な商人は追い詰められた仔兎のようにブルブルと震えるばかりでいっこうに言葉を発しない。
『お前の女房はシギナ人だったな。シギナ語が判ることは知っているが、どうやら瀞蛾のことにも詳しそうだ。お前が知っていることを洗いざらい喋ったほうがいいんじゃないのか? このまま沈黙していてもいいことはないぞ』
 胡散臭さを感じ、さりげなくカマをかけてみると、商人はヘナヘナと腰砕けになり、両手の指を組んでソージンを拝み出した。
『た、助けてくれ、颯仁はやひとさん。このままじゃ殺されてしまう! まだ死にたくない。死にたくないんだよ!』
 妻の母国語ともなるとポラスニア語より流暢である。ドンイルの滑らかになった舌の動きは上々で、腹の中に溜め込んでいるものをすべて吐き出す勢いだ。この分ならかなりの収穫が期待できそうである。
『一つ確認しておきたいんだがな。俺をシギナの港でお前の船に乗せ、この王国まで連れてきたのは瀞蛾の指示だな?』
 首が折れそうな勢いでドンイルが頷いた。
『脅されたって、再会したときに言いましたよね。先物買いで失敗して、その支払いを待ってもらう代わりに、あなたを人買いに売るよう指示されました。瀞蛾は私だけではなく妻や子どもにまで……』
『人質にされたか。あいつがやりそうな汚い手だな』
 ドンイルが縋り付いてくる。上着の裾を引っ張られ、ソージンはうんざりしたが、表情はまったく動かすことなく相手から必要な情報を引き出した。
『お前はこの通りの先にある屋敷に行くつもりだろう? そこに行って、誰と逢い、何をするよう指示されたんだ?』
 冷ややかなソージンの態度に呑まれ、商人は立て板に水の勢いで喋り続けた。
『船の準備が整ったとの報告がてら、積み荷を運ぶ手伝いをするために。行き先は聞いていないけど、指示された食料や飲み水、備品の量から見てもシギナのどこかに寄港する可能性が高いと思うね。それを確認することは許されてないし、今、あの屋敷には瀞蛾自身もいるはず。下手な質問をしようものなら本当に首が飛びます。あの、颯仁さん、あなたのお身内も屋敷に……』
『知っている。あいつらが一族のために人質にされてることもな』
 怨敵が屋敷にいるはず、と聞かされては平静を保つのは難しい。とって返して積年の恨みを返す絶好の機会である。しかし、それでも顔色ひとつ変えることなく、ソージンはドンイルのおもねるような言葉に返事をした。
 どうやら女たちを移送する手筈は整いつつあるらしい。となれば、一刻も早く阻止するべく手を打たねばならなかった。
『ドンイル。お前、本当に助かりたいか?』
『あ、当たり前です! 脅されて従っているだけなんですよ。縛られている身でなければ、とうに逃げ出してます。それくらい判るでしょう!』
 ソージンの冷えた視線にも怯まず、商人が大声を上げる。よほどネチネチといびられてきたに違いない。強くつり上がった眉や目尻が小さく痙攣している。ジョーガから受けた屈辱に怒りが沸き上がったらしかった。
『これから俺が言う通りに動けるか?』
『助けてくれるんですよね? 私は故郷で人質にされている妻子を無事に取り戻したいだけなんです! それ以外は何も……』
『判っている。瀞蛾に気取られることなくチャザンの故郷に渡り、お前の妻子を取り戻せるよう手配してやる。それでいいんだな?』
 コクコクと激しく肯くドンイルを差し招き、ソージンは彼に何事かを囁く。元より人の気配が少ない時間帯であったが、密談が囁き交わされる間、運良く往来には人通りが途絶え、彼らの行状を認める者はいなかった。
『急いで向かえ。今は一刻の猶予もならん。これからのことはお前の行ない次第だということを心に刻んでおけよ』
 身体を起こしたソージンが屋敷とは反対の方向を指さす。立ち上がったドンイルが操られるように示された方角へと足を踏み出した。ぎこちない歩みで来た道を戻っていく商人の背を見送り、ソージンは周囲をゆっくりと見回す。
『さて、張られた網目を切らねばならんな。まずはこれが初めの一手だ』
 ほんの一瞬、彼の口許に自嘲が浮かび、すぐに引き締められた唇から鋭い呼気が吐き出された。次の瞬間には肩の力を抜いた小柄な体躯が弾けるように駆け出す。路地を走り抜けていく姿は獲物に襲いかかる狼だった。
「ドンイルを追っていったか。どうやらあいつ、監視をつけられていることに気づいていなかったようだな。ジョーガには裏切りも予測の範囲か」
 一定の距離を走りきると、ソージンは素早く方向を転換して別方向へと走り出す。人の眼がない一画に走り込むと、飛び上がって軒先にぶら下がり、易々と屋根の上に躍り上がった。そして休む間もなく再び走り出す。
「どんなに迷路のような造りをした都市でも屋根を乗り越えられたら終わりだ」
 彼は足音もなく屋根の上を駆け、通りを時折見おろしては人通りを確認した。しばらく無言で走った後、目的の人物を見つけたのか口角をつり上げた。
「上手く隠れている。……が、定石通りの尾行すぎてつまらん」
 通りの端をドンイルが足早に歩く姿が見える。その後ろを一定の距離を保ちながらつけている男がいた。人通りに紛れているつもりだろうが、王国人の中に混じる東方人は明らかに目立つ。
 この地が東方であれば誤魔化しようがあったが、残念ながら誤魔化しきれていないところに、追尾者の落ち度があった。
 ソージンは人目を避けて屋根から飛び降りると、尾行する男の後ろに回り込んで追尾者を尾行し始めた。といっても、彼の場合はフードを被ったまま堂々と道を歩いているだけであるが。
 前方を歩くドンイルが建物の幾つかを眺め回し、目的の場所への方角を把握しようと首を捻っていた。ある程度は都市の構造に慣れても同じ様な建物が建つ地域では目的地までの道のりを把握するのは、異邦人には難しい。
 案の定、金には意地汚いところがあるが、どこか抜けている商人は、建物や路地の名称を把握しきれておらず、目的の場所を探すのに苦労していた。
 その様子を尾行する男がイライラと見守っている。ドンイルが裏切った証拠を得て、すぐにでもジョーガに復命したいのだろう。が、そうはいかない。
『あいつはちょっと不器用なんだ。今さら腹を立てたって無駄だぞ』
 男の真後ろまで歩み寄り、ソージンはいきなりシギナ語で話しかけた。気配を読めなかったことに驚いた男が慌てて振り返る。その目の前で皮肉げな笑みを浮かべ、ソージンは相手の首後ろに手痛い一撃をくわえた。
 崩れ落ちる男を支え、素早く脇の路地へ引きずり込む。背後の出来事に気づいていないドンイルは、ようやく目的の場所へ向かう道筋を思い出した様子で、再びフラフラとした足取りで歩き出した。
 うっかりと進むべき方向を間違うのではないかと心配したが、どうやら大丈夫そうだ。他に尾行している者はいないようだし、ドンイルは指示した通りに動いてくれるだろう。そう確信して、ソージンは胸を撫で下ろした。
 が、安穏とドンイルの行く末を思っている場合ではない。すぐに彼は気を引き締め直し、気を失っている東方人の男の顔を覗き込んだ。
 一族の者ではないようだ。その証拠に右のこめかみ部分に小さな刺青が見える。伸ばした前髪に隠れて見つけづらいが、間違いなかった。
「シギナの山岳民か、それともセンショ諸島の海洋民……ではないか。あそこの民なら刺青は入れるが肌の色は褐色だ。こいつの肌色はどうみてもチャザン人に近い。となると、やはり山岳の少数部族の出だな」
 この男の部族もジョーガによって滅ぼされかけているのだろう。憎き怨敵はいくつもの部族を脅迫や暴力によって従え、束縛し続けているのだ。
「さて、こいつを連れていけば説明も容易いな。ともかく急がねば……」
 女たちの移動はドンイルが屋敷に到着するまで待たされることになるだろう。時間稼ぎが出来た分だけ、こちらは余計に動いて相手を包囲しなければならない。そうでなければ、女たちは二度と王国の土を踏めなくなるのだ。
 イコン族の女たちだけではない。炎姫公女も心配の種だ。僧院で彼女に何が起こったか知らないが、気分が優れないから休んでいるという妹の談を信じるならば、彼女も半ば囚われの身と思っていい。
 大公家の者が拉致され、他国に売り飛ばされるような事態になれば、王国としては最大級の屈辱であろう。そんな醜聞に公女のみならず己の主人をさらすわけにはいかないのだ。故郷の一族が関わっているから、なおさらである。
「援軍はドンイルに任せるとして、おれは王宮に戻ってヤウンに警告してやらないと。最悪、港を封鎖してでも奴らの足を止めないと大変なことになる」
 ジョーガが女たちをさらい、売り飛ばすだけで満足するとは思っていなかった。あの仇は狙った獲物を骨までしゃぶり尽くす。貪欲な屍喰獣と同じだ。喰らわれたくなければ、こちらから徹底的に叩き潰すしかない。
 ソージンは男の片腕を己の両肩に担ぎ、少々乱暴な動作で王宮へと急いだ。