混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 1

 空気に満ちる動揺を感じる。周囲の軋みに必死の抵抗を試みる彼の忍耐も。
 それでも揺れる。揺れている。この振動が結界にヒビを入れる。
 遠い地にいるはずの彼の存在を耳元に聴きながら、閉ざしていた瞼を持ち上げると、入り口の幕を持ち上げて女が滑り込む姿が眼に飛び込んできた。
「どうやらそっちも本格的に動き出したところみたいだね」
 女の苦い口調にゆっくりと頷き、再び聴覚に集中する。暴風雨のように揺れる空気が彼の置かれた状況を刻々と告げていた。
 落ち着け、と叫んだところで、彼には聞こえまい。何かひとつのことに思い込んでいるとき、彼は周囲などまったく見えていないのだから。
 女が足音を忍ばせて小卓に近づいていった。薬草酒でも呑むつもりだろう。酔わずにはいられない、といったところか。女のほうも散々だったらしい。首尾良く事が運んだとしても、それが望んだ結果だとは限らないものだ。
「また一人、仲間を失いそうだよ。いや、もしかしたらもっと増えるかも。そっちもかなり苦戦してるみたいだけど、こんなところでくたばっちまったら、今までのお前さんの悪童ぶりが笑われるよ。大丈夫なのかい?」
 苦々しい、少し引きつった笑い声を漏らしながら、結界を支える蒼い光に綻びがないかを探った。過去の自分の行ないの報いだと、目の前の女なら言うだろう。が、自分の行動に後悔などあるものか。
 皮肉を湛えた笑みで口角をつり上げ、女に薬草酒を持ってくるよう指示した。
 いいや、本当は綻びだらけだ。歪んでしまったものはどこまでも歪み、それを正そうと思えば最初から組み立てるしかない。だがやり直しは利かない。時空を跳べる者ですら過去に干渉できない。破れば時空軸は崩れ、世界は滅びる。
 あぁ、だがしかし。この結界を破ろうとしている存在にとっては理など邪魔だろう。阻むものを叩き壊し、逆らう者を喰らい尽くす。そんな存在を作り出した輩の愚行が世界を支えている、ここはなんと陳腐な世界であろうか。
「集中しているところに薬草酒を呑もうなんざ、お前さんの正気を疑うよ。そんなことするくらいなら青水晶を奪い返して、邪魔な奴らをひとまとめに封印してやればいいものを。お前さんはいつだって暢気すぎるよ、ファーン」
 目の前に差し出された酒杯に手を伸ばし、ファーンは再び苦く引きつった笑みを浮かべた。本当は余裕綽々とした顔をしていたいが、今は無理そうだ。
 結界は保たない。絶対に。結界が破られたら、彼はどうなるだろうか……。
 チリチリと空気を焦がす熱がファーンの周囲を取り巻いた。思わぬ変化に掴んだ酒杯を落としそうになる。かろうじて杯を元の位置に戻し、こちらの様子を観察している女の肩先を見上げた。
「なんだい? この子に何か用かい?」
 興味深げにこちらを見おろしているのは女だけではない。真っ黒な子猫が今にも飼い主の肩から飛び降りそうな勢いで、そこにいた。
「まさか、この子まで使おうっていうのかい。冗談じゃないよ。お断りだね」
 こちらの視線の意味に気づいたのだろう。女は厭そうな顔をして後ずさり、相手の出方次第では逃げだしそうな気配をまといだした。
 ゆっくりと首を振る。子猫に危害を加える気はないのだ。がしかし、好奇心いっぱいの小さな猛獣を利用したいと思っているのは確かである。それが厭だと言われれば、諦めざるを得ないのだが。
「お前さんの眷属を使いな。この子はまだ子どもなんだよ。好奇心を利用して好き勝手しようなんざ、このオルトワが許さないからね!」
 女の結い上げた髪に差した銀細工が澄んだ音を響かせる。飼い猫の安否を気遣う態度に笑いだしそうになった。が、そんなことをすればさらに機嫌を損ねる。ファーンは口の端を歪める程度にとどめ、黒い小さな猫を凝視した。
 ナォン、と甘く鳴いた猫がとうとう飼い主の肩から飛び降りる。お待ち、とオルトワが慌てた様子で腕を伸ばしたが、それをスルリとかわし、子猫はファーンの膝の上に飛び乗った。さも得意げに尻尾を揺らしながら。
「ちょっと! その子をお返し。お前さんに貸してやるなんて言ってないよ!」
 ファーンは子猫に問いかけるように首を傾げ、ふと今まで気配を殺していた存在のことを思い出して肩越しに振り返った。
 恨めしげにこちらを睨むエメラルド色の眼と視線がぶつかる。赤毛猫は部屋の隅にうずくまり、主人の動向を見守っていたのだが、自分の存在そのものを主人が忘れ果てていることに気づき、ふてくされていた。
 ツンとしてそっぽを向き、赤毛猫はいよいよ身体を丸めてしまう。不機嫌を囲う眷属の態度にため息が出そうになった。が、そんなことをすれば、いっそう意固地になってしまうことは眼に見えていた。
「ほぉら、ごらん。自分の眷属を使わないから拗ねちまったじゃないか。さぁ、チビちゃん。お前さんの出番はないんだよ。こっちに戻っといで」
 猫なで声で飼い猫を呼び寄せるオルトワに流し目を送り、ファーンは小さく頭を振る。それは一見すると諦めの仕草に見えたであろうが、長年のつき合いであるオルトワは事態を察して伸ばした腕を引っ込めた。
「まったくもって困ったもんだよ。お前さんにかかると人と言わず猫と言わず、使えるものはなんでも使おうとするんだからね!」
 楽しそうに尻尾を振り、ゴロゴロと喉を鳴らす子猫に複雑な視線を向け、オルトワが忌々しげに呟く。飼い猫を取り返したいのはやまやまだが、そうするには分が悪いと踏んだらしかった。
 ファーンは片手で子猫の背を撫で、残りの腕で己の眷属を差し招く。ふてくされてはいても主人の命令は絶対なのだろう。赤毛の猫はノソノソと億劫そうな動きで目の前に移動してきた。が、顔はそっぽを向いたままである。
「ほら、ごらん。チビちゃんを放さないからだよ。お前さんは選ぶ相手を間違えてるのさ。早いところ訂正しておきな」
 さも己の意見が正しいと言わんばかりの勢いでオルトワが子猫に向かって両腕を差し出した。しかし、肝心の子猫はファーンの膝上で喉を鳴らし、そこから出てこようとはしない。このまま四竦み状態では事態は改善されない。
 ファーンはくつろぐ子猫を持ち上げ、赤毛猫の目の前に据えた。微睡み易い膝上から追われた黒猫は不満たらたらで膝に戻ろうとするが、赤毛猫が素早い動きで子猫の首をくわえて主人の意向に従った。
 不機嫌であってもやるべきことはやる。眷属の行動に満足げに頷き、ファーンは視線を反らすことなく虚空の一点を指し示した。
 子猫をくわえたまま、猫は瞬きひとつで了解の意を示す。そして、子猫を取り戻したそうに身体を揺すっているオルトワを無視して、黒猫を連れたまま悠然とした足取りで部屋から出ていった。
「無事に戻ってくるんだろうね? あの子に何かあったら赦さないよ!」
 ファーンは口をつけぬままになっていた薬草酒を口許に運び、苛つくオルトワの声に小さく笑いながら酒の風味を味わうように杯を舐め取った。
 利用できるものは利用させてもらう。オルトワは厭がっていたが黒い子猫は好奇心で首を突っ込んできた。動く意志のあるものを使わない手はない。分別臭くなってしまった我が眷属よりよほど行動力があるだろう。
 そう。結界が保たないのなら、新たに別の結界を作り上げるしかなかった。
『あの子なら無事に戻ってくる。思った以上に好奇心が強くて賢いからな』
「うわぁっ。なんだい、その声! ファーン、お前さんったら古代語すらまともに発音できないくらいひどいことになってるじゃないか!」
 ガサガサの声は聞き取りづらいだろうに、オルトワは確実に古代語の発音を聞き分け、こちらの状態すら見切ったらしい。
 呆気に取られた相手の様子に苦笑を漏らし、ファーンは再び薬草酒を舐め取った。一気に飲み干してしまっては喉に効果が現れない。ゆっくりと、少しずつ喉を湿らせ、薬効を高めるのが一番だった。
「呆れたね。だから薬草酒を用意してまで結界の補強をしてたのかい。でも、チビちゃんを使うってことは、それも限界にきてるんだろう? 身体にガタがくるほどとは、いったい今度の相手はどれだけの力を持ってるんだい」
『下手をしたら無限大だ。彼には荷が勝ちすぎるだろうな。まして宿主を守りながらなぞ、どう考えても無謀だぞ。俺だってそんな危険な賭はしたくないのに自分から進んでそんな泥沼にはまるなど、彼は気が狂ってるな』
「無理に喋ることないんだよ。……でも、だったらなおさらお前さんが封印を施してやったほうがいいんじゃないのかい?」
 ファーンは小さく首を振る。喋りづらいが発声が制限されて苦しいわけではなかった。ただ他人が聞き取りづらいだけのことである。それをオルトワが気にしていないのであれば、喋らずにいるのは不自然というものだ。
『俺がしゃしゃり出れば番人とその守人が出てくる。そんなことになれば、彼が守ってきたものは確実に潰されるじゃないか。竜王人ドルク・リードどもに人の世界を好き勝手に弄り回されるのはごめんだ』
 自分の杯に満たした薬草酒を呷り、オルトワは苦々しい表情を作る。彼女にも過去の厭な記憶があるはずだ。それを思い出していたのだろう。
「勝算はあるんだろうね?」
『なければ、骨身を削って働くものか。俺はのんびり漂泊していたかったんだ』
「だろうね。お前さんの働きぶりは気まぐれで有名さ。だけど負け戦だけはしたことがない。今回の喧嘩にも勝ってもらわなきゃね」
 おどけた仕草で杯を振り回すオルトワも精神的にはかなり厳しいところにいるようだった。特に彼女の場合は人の範疇を出ないだけに、竜王人や獣人の血族争いに関わる騒ぎに巻き込まれると立場が弱い。
魔人族ガダグィーンなどと呼ばれて一括りにされても竜王人と獣人は相容れない存在だ。原初の闘争から続く対立はそう簡単には解消されない。それでも俺たちは希望に縋った。我らの血を薄め、この惑星と融合させる、人という生き物の可能性に、だ。番人とてそれは同じ思いだろう。
 ようやく融合が加速されつつある今、その勢いを殺しかねない一派の行動を無視はできん。番人の指針に従う気はないが、我らなりに動く必要はある。
 オルトワ、お前が記録している“意志の記憶”を閲覧するかもしれん。そのときは出し惜しみしてくれるなよ』
 一気に説明して喉の渇きが増した。ファーンは多めに薬草酒を含み、舌で転がしながら、ゆっくりと嚥下していく。
記録者オルトワはいつだって閲覧を許可しているさ。だけど“意志の記憶”を覗くのなら急ぐことだね。わたしにも限界がある。そろそろ次の世代に代替わりする必要がありそうだよ」
 ファーンは瞳を細め、心なしか青ざめている目の前の女を凝視した。
 オルトワの意志を次の世代に継がせるとなれば、力が不安定期に入る。その間の“記録者”の持つ記憶の閲覧も不安定なものになる。下手をすると何も見えないかもしれないのだ。かなり厳しい現実が迫っていた。
『次は誰に“オルトワ”を引き継がせる気だ?』
「何名か候補者はいるけど決めかねてる。オルトワの意志を継げるだけの覚悟がある者は今のところまだいないからね」
『だったら……』
 そんなあやふやな状態なら次世代への代替わりなどさせるべきではない、と言いかけて、ファーンは口をつぐんだ。記憶を受け継ぐ力は代替わりごとに弱まっている。それもまた血が薄れてきている証拠だ。
『オルトワ。お前、養い子の復讐を果たす気だな?』
 不安定な状況で代替わりを強行しようとする女の真意は長年のつき合いならすぐに悟れる。そして今この時期に仕掛ける気になったのは、ファーンが青水晶の力を使おうとしているからだということも。
「お前さんのことは関係ないよ。この器が限界なのさ。だから気にしなさンな」
 そうは言うが、やはり青水晶のことがきっかけには違いない。過去を悔いる気はないつもりだったが、これだけは早まったような気がしてならなかった。
『戦いでは勢いに乗ることも大切だ。その勢いが今の遊民にあると判断したわけだな? でなければ、お前が動くはずがない』
「勢いじゃないさ。あの子の周囲をウロチョロしてる輩がいる。見過ごせないだろ? どれだけ遊民と縁が薄かろうと、あの子はフィオナの娘なんだから」
 どこか遠い眼をして虚空を見上げたオルトワの表情に見覚えがある。遠い昔、誰かがこんな眼で世界を見おろしていた。いや、世界そのものを見ているわけではなかろう。あれは遙か果てにあったはずの別の世界を見ていたのだ。
 過去に思いを馳せるときに見せる眼はどうやら誰もが同じ目をするらしい。
『オルトワ。お前が仕掛けるのを止める気はないが、向こうだって大人しくはしていまい。間に挟まれて混乱するのはあの娘だ。戦い方を間違えるなよ』
「言われるまでもないね。フィオナの娘を取り戻すんだ。あのむかつく男を寄せ付けないよう気をつけるさ。これが最初で最後の機会だろうしね」
 空になった酒杯を卓上に戻し、オルトワは己の肩を揉みほぐした。
 疲れが見え隠れする横顔に青白い炎が浮かんでは消える。それが怒りからくるものであることをファーンはよく知っていた。が、誰に対しての怒りであるかまでは読み切れない。過去の事実は変えようがないのだ。
 事実に対する見方を変えることはできると諭したこともある。だが、それを受け入れるだけの余裕が当時のオルトワにはなかった。今もないだろう。
「さて。それじゃ、そろそろ戻るとするよ。お前さんの現状も判ったことだし、今は何も手助けできそうもないしね」
 凝った肩をほぐし終わり、緩やかに伸びをしながらオルトワが笑った。
『今後も気をつけることだ。特に次世代に代替わりするとなれば混乱は避けられないからな。“オルトワ”が途絶えれば、遊民はバラバラだ』
 承知してるさ、と返し、オルトワは髪飾りを鳴らしながら部屋を出ていった。彼女の背中から憂いを読み取ることは難しい。だが、先ほど垣間見た暗い横顔には伸るか反るかの厳しさが去来していた。
『あの男とお前は最強の戈と最強の楯だよ、オルトワ。どちらかが生き残ろうと打ち合えば、どちらも滅びてしまうぞ。判っているのか?』
 残りの薬草酒を飲み干しながらファーンは呟く。誰に聞かれることもなく消えていくその言葉に、言った本人が恐れおののき、彼は小さく身震いした。