混沌と黎明の横顔

第13章:暗神は何処へ潜るか 8

 連なって走る三台の馬車が通りを抜け、優美な門へと吸い寄せられていく。
 馬車の底板にしがみつき、馬車が門を潜る手前で地面へと転がり落ちた彼は、素早く飛び起きて門扉の陰へと走り込んだ。
「どうやら乗ってきた馬車はここの主人のものか、あるいは主人のツテで調達してきたものらしいな。どうせヤウンに報告しなけりゃならないだろうし、どこの派閥に属する貴族なのか調べておくとするか」
 ソージンは周囲の屋敷を見回し、人影がないことを確認すると、足早に門を離れて屋敷の裏へと回った。忍び込んでどういった輩がいるか見ておかねば。表玄関のほうに人が集まっている今が狙い目だろう。
 人並みはずれた跳躍力で飛び上がると、彼は器用に塀を乗り越えて敷地内へと侵入を果たした。建物の角向こうが井戸にでもなっているのだろう。飯炊き女が調理器具を洗っているらしい物音が響いていた。
 屋敷内の朝食が終わったところなのだろう。早起きを好まない主人であれば朝食も摂らずに惰眠を貪っているだろうし、勤勉な主人であれば朝一番の仕事に取りかかるべく、書斎の机にでも向かっている頃だろう。
 塀を乗り越えたときと同じように壁に取り付き、雨樋を利用して上階の窓辺に登ったソージンは、背中から引き抜いた太刀をピッタリと閉ざされた窓扉の隙間に差し込み、手首の力を利用して内側の落とし鍵を外した。
 彼が盗賊になったら被害は甚大なものになるだろう。塀を乗り越えてから部屋の一つに侵入を果たすまで、時間にして三十拍もなかった。
 余談であるが、拍の単位は手拍子から来ている。時を支配する暦神が舞踏を好んだ性質から古典の名曲の調子を合わせるときに打たれる手拍子の一拍が時間の最短単位とされた。大雑把な計算であるが一拍は二秒ほど。つまり、ソージンが建物内に入り込むまで一分かかっていないことになる。
 こう説明すれば、彼が盗賊として振る舞えば如何に希有な能力を発揮できるか判ってもらえるだろう。もっとも、本人に己の能力をそのような職業で使う気があるのかどうかは知らないが。
「客室のようだがあまり使われていない。この屋敷には客は少ないのか?」
 うっすらと積もった埃の具合から一つの仮説を導き出し、ソージンは腕組みして唸った。炎姫公女が公然と出入りする屋敷に客人が少ないとは妙である。いよいよ胡散臭く感じられ、王太子への報告を思うと頭が痛かった。
「あのお人好しめ。どうせジノンに何か言われて同情でもしたのだろうが、自分の立場がどれだけ危ういか少しくらい考えたらどうなんだ」
 苛立ちを吐き出したところで何が解決するわけでもない。が、湧きあがってきた感情をやり過ごせるだけの大人でもなかった。とはいえ、腹立たしさに呑まれて自分の仕事を忘れ去るような浅はかな性格でもない。
 音も立てずに客室から出ると、ソージンは近くで動く人の気配がないか探った。ジャムシードの超人的な聴覚ほどではないが、彼もまた並以上の感覚の持ち主である。長年培われてきた戦いの嗅覚は近場に脅威がないことを告げた。
「下の階には使用人がウジャウジャいるが、この階には人が少ないようだな。あとは上の階……。屋敷の主人はそこか?」
 おおよそのあたりをつけると、ソージンは足音を忍ばせたまま移動を開始した。ここの主人がどういう思惑を持ってジノンに肩入れし、炎姫公女を招き入れたかが判らねば、王太子に報告のしようがない。
 上階に到着すると、彼は再び周囲の気配を探った。ひっそりと静まり返った場にポツンと一カ所だけ人がいる気配を伝えてくる。肌の上をなぶる微妙な気配にソージンは顔をしかめた。この感覚はあまり好きになれないものである。
「おれの苦手な人種か、それとも人ならざる異形か。今すぐに部屋へ踏み込むには情報が足りなさすぎる。……が、探らぬわけにもいかん」
 忌々しげに小さく舌打ちし、彼は廊下の天井を見回した。そこに目的の天板を見つけると、壁に取り付いて天板へと腕を伸ばす。天井裏へ侵入する気だ。
 全身をバネのように伸ばし、天井裏へと潜り込む。ソージンは蛇の如く滑らかに這いずり、見当をつけた部屋の上部を目指した。彼の真っ白な手足や王子から支給された上着に埃が絡みついたが、それを気にする素振りはない。
「さて、どこのどいつが、なんの目的で炎姫家に取り入ろうとしている?」
 己の気配を殺し、ソージンは天井の羽目板を外した。途端に甘ったるい芳香が薄い煙とともに立ち上る。彼は盛大に顔をしかめた。東方の一部の人間が使っている媚薬の一種だと経験が囁く。使い方次第で劇薬にも変わる代物だ。
「ここの主人も傀儡か? となると、操り糸をたぐる必要が出てきたな」
 更にこんがらがった糸を解きほぐす必要性を感じ、王太子の巡検使は深いため息をつく。面倒に面倒が重なって、いいことなど何もないのだ。そういう事件を過去に何度も見てきただけに、彼の気分は陰鬱であった。
 薄い煙を透かして室内を見回せば、数人が横たわっている様子が見える。よくよく見れば一人は寝椅子に、残りは部屋の片隅にうずくまって身を寄せ合っていた。それらの存在は体つきから女だと判断できた。
「女ばかり、となると……。ここの主人が囲うために集めたか。いや、それとも奴隷商人に売りつけるための女を集めているのか。どちらにしろ、炎姫公女が関わるべき事柄ではないのは確かだな」
 どうにかしてフォレイアをここから引き離さねばならない。下手に関わって痛くもない腹を探られるのは彼女も不本意であろう。第一、娘が妙な輩に関わっていたとなれば、炎姫公の不機嫌は頂点に達するはずだ。
 どういう気か知らないが、タシュタンの支配者は娘への対応が厳しい。子ども、特に娘を甘やかせて駄目にする親は多いが、手厳しい態度を取ることのほうが多いというのもどうかと思う。
 他人の子育てに口を挟む気はないが、ソージンから見た、アジル・ハイラーのフォレイアへの対処方法は間違っているとしか言いようがなかった。
 彼が他に気を取られている間に扉が叩かれ、小柄な人物が室内に歩み入った。
 この媚薬漬けの部屋に入り込んでも平気な輩だという時点で猛烈に胡散臭いのだが、それが炎姫公の甥が連れていた東方人となれば、彼のささやかな疑念が大いなる不審へと感情が移り変わってきても不思議はあるまい。
「キッショーボーとか言っていたな。あいつ、何をやらかす気だ?」
 以前に故郷の一族のことで絡まれて以来、ソージンにとってキッショーボーという人間は警戒すべき者だという認識しかなかった。
 ジノンがフォレイアに関わっている以上、多かれ少なかれキッショーボーも関わりあいになってだろうとは踏んでいたが、どうやらどっぷりと関わり合っているのではないかという憶測が去来する。
 というのも、寝椅子に横たわる女に語りかける東方人の声音が、ソージンの背筋に悪寒を走らせるほどの猫なで声であったのも関係していた。こういう声を出す人間にろくなヤツはいない。そう彼の直感が囁いていた。
 我知らず身震いし、ソージンは嫌悪に顔をしかめた。羽目板の隙間から立ち上る媚薬煙に自分も酔ってしまったかと、一瞬思ったほどである。
「フォレイアめ、ろくでもないことに巻き込まれたな。こんな媚薬を使う輩に関わって、自分がどうなるか判って……は、いないんだろうな、あいつの場合」
 だが、下の様子を眺めているうちにキッショーボーの口調から寝椅子の上にいる人物がここの主人であることが推察できたことは、不幸中の幸いだった。
 女が屋敷の主人の場合、二つが考えられた。未亡人か、愛妾か、だ。
 未亡人はともかく、愛妾が炎姫公女と知り合いである確率は低かろう。おおよその貴族と同じく、公女は私生児やそれを取り巻く環境に冷淡だ。正統な契約によって婚姻し、その上で産まれた子ではない存在は貴族階級を脅かす。
 これは王国の民全般が奴隷や傭兵の存在に重宝しながら、その階級に嫌悪と侮蔑を感じ、軽んじられていることにも繋がっていた。道具としての存在は必要でも、秩序を乱す存在は不要と断じる。それが今の王国人の意識だ。己に不都合なものからは目を背けるのである。
 また女の様子からも炎姫公女フォレイアと顔見知りとは思えなかった。夫という庇護者が亡くなったか、仕える主人の寵を失ったか。女の美貌には翳りが差し、どこか投げやりになっている節が見え隠れした。
 何よりも、二人が知り合いではないのは、貴族の行動例から予測できる。並の貴族女に比べれば地理を知っているほうであろうが、フォレイアがこの屋敷までの道のりを自力で辿ったとは想像しづらかった。
 早朝に貴族が自分の足で歩いている姿など目立ってしょうがない。自前の馬車でやってきたはずだ。が、朝っぱらから所有する馬車を大公屋敷から引っ張りだせば炎姫公の耳に入らぬはずがない。いくら従兄とはいえ、男と二人で出掛けると大公が知って黙って行かせるはずがなかった。
「娘自身には冷淡なくせに、娘の行動そのものには模範的な注文をつけるからな、あの石頭親父は。ジノンは公女の良心にでも訴えて誘い出したに違いない。となると、ここの主人の出自に期待するのはまずい、か」
 炎姫公女の風評を落とすことなど容易い。フォレイア自身を詳しく知らぬ貴族などは口々に乗る醜聞に飛びつき、尾鰭をつけたがるものだ。
「これは早いところフォレイアを連れ出さないと、ここの奴らが何をしでかすか判ったものではないな。……さて、どうやって彼女に知らせるか?」
 唸り、頭を抱えたソージンだったが、懐を探るキッショーボーの動きに不穏なものを感じ、眼下の様子に注目した。が、東方人の次の行動にさしもの彼も息を呑み、隠れている身であることを忘れて止めに入りそうになる。
 キッショーボーは取り出した瓶の蓋を開け、女に飲み干すよう指示したのだ。
「ばかな。すでに飽和状態の媚薬煙の中で体内にまで媚薬を取り込んだりしたら命取りになる。多少の耐性が出来ていたとしても……」
 すんでの所で思いとどまり、目の前の状況を見守るソージンの予測通り、寝椅子に横たわる女が小さく痙攣し始めた。
 煙を吸引するだけであれば恍惚感をもたらす媚薬だが、服用した場合はより強烈な快楽を引き出す。が、痒みの度が超えれば痛みへ変わるように、快楽も過ぎれば苦痛でしかないのだ。許容範囲を超えた快感は女の体内を責め苛んでいることだろう。快楽と苦痛が入り交じった表情がそれを物語っていた。
 キッショーボーが寝椅子を離れ、片隅にうずくまる女たちへと近づいていく。
 彼女たちにも薬を盛る気か? ソージンは顔色ひとつ変えずに女を観察する男の様子に慄然とした。人を、命を見つめる眼ではない。あれは道具を眺めている眼だ。己が操作した結果、道具がどのように動くのか、と。
 止めに入らなければ、そう判断して身体を起こしかかったとき、キッショーボーの手が一人の女の腕を取り、強引に引きずり起こした。
 それまで膝に顔を埋めて座り込んでいた女たちが顔を上げ、恐怖に彩られた表情で男を見上げる。その顔を天井の隙間から確認したソージンは、今度こそ声を上げそうになって、己の首を掌で掴んだ。
「イコン族……。なぜ、あの女たちがここに──」
 囁きすら詰まり、ソージンは思わず顔を背けた。心理的なもの以上に物理的に限界がきている。僅かながらでも立ち上る煙を吸い続けているのだ。媚薬の影響が身体に出始めている。何事もなく動けるキッショーボーが異様なのだ。
「クソッ。これ以上煙を吸い込んだら身体が動かん」
 忌々しげに吐き捨て、それでも後ろ髪を引かれる思いで最後に一度だけ羽目板の隙間から下を覗くと、ジャムシードが「ナナイ」と呼んでいた女が部屋から引っぱり出されるところだった。
 残された女と少女が連れていかれる女の名を呼ぶが、彼女たちも媚薬に浸され続けて身体が思うように動かないらしく、床に這いつくばるようにして腕を伸ばすばかりで、キッショーボーの動きを妨げることはできなかった。
「おれ一人でフォレイアを含めた女全員を助けることは不可能だ。手勢がいる。一刻も早く応援を頼んで引き返してくるしかない、か……」
 血が出るほどきつく唇を噛みしめ、ソージンは怒りに拳を固く握りしめた。




 気分が優れないという炎姫公女をジノンに任せ、彼女は裏庭に足を向けた。食事の後片づけもほぼ終わり、人の気配がなくなった井戸端はひどく淋しげに見える。が、今の彼女の心情的にはちょうど良かった。
 人を欺く最中は気分が高揚し、集中していることも手伝って他のことを考える余裕などない。しかし、ひとたび場を離れたなら、己のやっていることに反吐が出そうなるのは、もう日常と化していた。
 顔をしかめた彼女の背に、申し訳なさげな声が届く。
「ハナ様、このような場所に一人でおいでになってはいけません。早く屋敷の中にお戻りください。皆、あなたを捜しています」
 自分を捜しに来たらしい若者の言葉に陰鬱な気分が加速した。どうして少しの間でも放っておいてくれないのだろう。己で判断し、何かを成そうとする気はないのだろうか。苛立たしさばかりが募った。
 が、それは同時に自分自身へ突き返される焦りでもある。己で判断しているつもりで、実際には別の誰かの指示に踊らされているのだ。操り人形の主体が誰であるのか、嫌と言うほど思い知っているはずなのに。
「少ししたら戻ります。あなたは皆のところに戻って適当に誤魔化しておいて」
 でも、と反論しかかった若者に儚げな微笑みを向け、彼女が「すぐに戻るわ」と囁けば、相手は言葉に詰まって強引に戻れとは言わなくなった。
 肩を落として建物内へ戻っていく若者を見送り、彼女は小さくため息をつく。彼が裏庭に来るのと前後して、周囲にピリピリとした空気が広がっていた。若者は気づいていないようだったが、彼女はそれを瞬時に察していた。
 静まり返った空気の中、彼女は刺すような気配を発する相手がいる方角へと向き直った。正確には、建物の上階に位置する窓を見上げたのだが。
「わたしの伝言を聞いてから探し出したにしては随分と早いわね」
 煉瓦の一部に指二本を引っかけ、それと片足だけで全体重を支えていた相手が鋭く舌打ちする音が聞こえた。埃であちこちが汚れているが、真っ白な顔や腕に眼が引きつけられる。噂には聞いていたが見たのは初めてだった。
「今回のことから手を引け、ハナサギ。今ならまだ間に合う」
「間に合う? いいえ、わたしたちは十年前から後戻りなどできない場所に来てしまったのよ、ハヤヒト兄者。それは兄者が一番よく判っているでしょう」
 微笑みすら浮かべ、彼女は兄と呼んだ男にジッと視線を注ぐ。
 十年前の面影は確かに目の前の姿と重なった。夜空を思わせる黒々とした一族特有の瞳は今もなお生き生きと鋭い光に満ちている。誰がなんと言おうと、この男は共に育った異母兄だ。だが、この異質な肌や髪の色だけが見慣れない。
 そうではない。正確に言えば、真白き肌を見たのは初めてではなかった。以前にもこの都の街中で見たのだが、あれは遠目すぎて現実感が伴わないままであった。記憶の中にある兄とのあまりの違いに、認めたくはなかったのだ。
「その姿、兄者の母上がご覧になったら卒倒なさったでしょうね。わたしたちの父上でも嘆かれたでしょう。……まだ、大婆さまとの約束は果たせないの?」
「約束は必ず果たす。手がかりを追ってこの国まで来たのだから。次の手がかりを見つけたら、すぐにでも旅立つ予定でいた。が、その前に刈り取る首が出来たがな。ジョーガは何をやらかす気だ? あいつは今どこにいる?」
 怨敵を見つけた眼は憎悪にぎらつき、それが十年前のあの日を思い出させる。彼女は一瞬背筋を震わせ、強張りそうになる身体を内心で叱責した。
「ナバのハヤヒトを捕らえて連れてこい、という指令は取り下げられていないのよ。大人しく掴まってくれたら答えてもいいけど。どうする?」
「……断る」
 彼女は兄が僅かに逡巡したことを見逃さない。敵の懐に入り込んででも復讐を果たしてやろうかと彼が考えたであろうことは、容易に想像がついた。それを思いとどまったのは、彼女がこの場にいる意味を考えてのことだろう。
「残念ね。他にも懐かしい顔に出逢えたでしょうに。……ねぇ、ハヤの兄者。先ほどの子が誰だか判ったかしら?」
 眼を細め、こちらを睨む黒い瞳の奥に解答は浮かんでいなかった。さしもの兄でも、十年前には童子だった若者を思い出すのは難しいらしい。
「ヤタカ、よ。タカマキの弟やアヤノジョウも一緒にいるわ。逢いたくない?」
 糸のように細くなった男の眼にほんの一瞬だけ動揺が走った。それを確認できただけでも収穫と言えるだろうか。それとも判りきっていることを訊ねた己の愚かしさを罵るべきであろうか。
「サラシナはナギヒト兄者と一緒にいるし、ルウ兄者も所帯を持った。アイフサ姉者は……。二ヶ月ほど前に、死んだわ。わたしの、目の前で、殺された」
 兄の頬が震えた。奥歯を噛み締めたのだ。意地悪く兄を試し、彼が今もなお一族と深く関わっていることを確かめる自分は、いったい何がしたいのか。
 頑是ない子どもでもなかろうに、無邪気さを装って昔の兄と目の前にいる男との差を比べるとは。きっと幼なじみが知ったら悲しむだろう。それでも確かめずにはいられない。そして、結果にひとり満足しているのだ。
「黒帆船は姉者の喪章か。あのキッショーボーとかいう男はアイフサ姉者の死を知って、おれに粉をかけてきたわけだな。……となると、お前がここにいる理由は人質か。おれをおびき寄せる餌にしては身を隠しすぎだと思ったが、アイフサ姉者に対しての人質であったなら、説明は簡単につく」
 やはり、聡い。こちらが語る近況と、目の前の事実から素早く現状の真実を導き出すだけの頭の回転の速さは昔以上に冴えていた。
 それなのに十年前、兄は致命的な失敗を犯したのだから情けない。十四の齢であったにしろ、悲惨な光景を目の当たりにしたあのとき、ほんの一瞬でいい、彼が憎悪に心を明け渡すことを躊躇ってくれたなら……。
 緩く首を傾げ、彼女は曖昧な微笑みを浮かべたまま後ずさった。実力差から考えても、今ここで兄を捕らえることなど不可能である。むしろ容易く捕まってもらっては困るのだ。それでは後で面倒なことになる。
「そこにいるということは、屋敷内を確認したのでしょう? だったら早く行動したほうがいいわよ。間もなく屋敷は無人になる。必要な者と不要な者の選別はもうすでに終わっているのだから」
「この騒動に荷担する気か? 今ならまだ間に合う。おれをジョーガのところに連れていけ。どうせあの男はお前を監視するためにどこかに潜伏しているのだろう? 近くにいるなら絶好の機会だ。おれがあいつを屠ってやる!」
「捕まってはくれないのでしょう? だったら連れてはいけないわね。今ここでハヤヒト兄者を連れていけば、他の仲間に……そうね、特にアヤノジョウ辺りになぶり殺されるだけだもの。そんなの面白くないでしょうに」
 壁にぶら下がったままだった男が素早く地面へ降り立った。体重を感じさせない相手の動きに、彼女はつい目を奪われる。が、すぐに数歩飛び退き、いつでも逃げ出せるように身構えた。
「港に行きなさい、ハヤの兄者。間もなく兄者の片割れが到着するわ。久しぶりの対面を、こんな場所で過ごして棒に振りたくはないでしょう?」
「だったら、お前も一緒に連れていく!」
「大婆さまとの約束を果たしてない兄者とは一緒に行かないわ」
 後ずさっていく妹を、兄は追いかけてはこない。追えないのだ。大婆との約定が果たされていない以上、彼は一族の許へは戻れない。
 まして一族の長たるアイフサが死んだ今、次の仮長が誰であるかを兄が予測していないはずがなかった。黒帆船が島から出航した以上、これまでの一族の方針は覆る。ジョーガですら一族がどのように動くか読み切れまい。
 だがしかし、今までの契約が無効となっても、追放された者は一族には戻れないのだ。他の民との契約以上に同族との約定は果たされねばならない。
「ハナサギ、お前は大婆の……先見のかんなぎの跡継ぎだ。ジョーガごときにくれてはやれぬ」
「どこに居ようと、わたしが大婆さまの力を引き継ぐための器だわ。大婆さまの力は使えないけれど、巫の力の道筋くらいはえるのよ」
 ゆっくりと兄から距離を置き、彼女は胸を反らした。
「大婆さまとの約定を果たしなさい、ナバのハヤヒト。あなたこそ、この騒動に首を突っ込んでいる場合ではないでしょう」
 先見の巫がいかほどの力を駆使するのかは誰も知らない。その威力には波があり、強大な力を使えるときもあれば、まったく役に立たないこともある。
「島を出るときに大婆さまから言づかった言葉を、今ここで伝えておくわ」
 であるから、彼女は島を出るときに受けた言葉も無駄になるだろうと踏んでいたのだ。が、ここで兄に伝えることを巫は視ていたのである。その力がより正確に働いてくれていたなら、十年前の悲劇は起こらなかっただろうに。
「聞け、ナバの鬼子。“疾く、狼の牙を得よ。呪詛は汝を蝕む。写し絵は歳月と共に汝に染み、消せぬ彩となり果てる。”意味が判……」
 背後で彼女を呼ぶ声が響く。先ほどの若者の声だ。
 思わず振り返った彼女は戸口から走り出た人影に舌打ちする。だが、すぐに平静を装って兄へと向き直った。ところが、その肝心の兄は姿をくらましている。よほどヤタカと顔を合わせづらかったに違いない。
「ハナ様! 今の、あの白い人影はっ!」
 隣に並び立ち、塀の向こうを凝視する若者の眼許を、彼女はそっと覆った。
「あなたは前を見ていなければ駄目。わたしたちのように繋がれているわけではないのだから。そんなことでは姉のサラシナが悲しむわよ」
 彼女は幼なじみの憂い顔を思い出し、苦い笑みを唇の端に浮かべた。
「さ、戻るわよ。わたしたちのやるべきことは、まだまだ多いのだから」