混沌と黎明の横顔

第13章:暗神は何処へ潜るか 4

 その足取りを優雅と称する者もいただろう。だが騒然とした大理石の廊下は槍の先が右往左往し、人々のざわめきが潮騒の如く満ち引きして、さながら銀波輝く波打ち際を連想させる騒がしさであった。
「どうしたらいいんだ? こ、殺すべきでは……?」
「しかし、こいつを傷つけてはならないと言われてるし」
「そうだ。確かに命令されてる。だけど、ここをのし歩かれては……」
「それじゃ攻撃するのか? こいつの中には精霊ディンがいるっていうじゃないか。もし機嫌を損ねでもしたらどうする!?」
「本当に精霊がいるかどうか知るものか。だけど襲いかかられたら防ぎきれないぞ。オレたちなんてひとたまりもない!」
 何十人もの衛士たちがおろおろと槍を握り、立てたり振り下ろしたりしながら囁き交わす。彼らの視線の先には白く美しい獣が超然と歩いていた。
 周囲のことなどお構いなし、といった態度の陰に知性の気配が漂う。行く手を遮ろうとする槍の穂先を難なくいなす姿などは、熟練兵を思わせた。
「こいつ、オレたちのこと判ってるのか?」
「知らないよ、そんなこと。どうすりゃいいんだよ。このままじゃ……」
「誰か知らせを出したのか!? 早くしないと後宮区画に入ってしまうぞ!」
 白き獣は王宮の美麗な廊下を進んでいたのである。裏手の林に住処を定めて悠々と暮らしているとばかり思っていた宮廷人たちは度肝を抜かれ、貴族は個々人に割り当てられた部屋に引っ込み、女官は手を取り合って震えていた。
 なんとかしろと前面に押し出された宮廷衛士たちがへっぴり腰で獣を取り囲んでいるところである。彼らでは為す術がなく、宮廷騎士に知らせを走らせ、王太子に指示を仰ごうと騒ぎ立てているだけだった。
 残念ながら狼狽する衛士たちを救ったのは、彼らの期待した人物たちではない。衛士と宮廷騎士は職分が違う故に決して馴れ合うことがなかった。自分たちの領域を侵されることを嫌い、知らせを走らせるのが遅れたのである。
 だが、彼らにとっては現れた救い主も宮廷騎士と大差なかっただろう。
「静まれぃ! これは何事ぞ。王国の要を守る兵がなんたる無様か!」
 一斉に振り返った衛士たちが見た者は、猛獣に勝るとも劣らぬ形相で立ちふさがる一人の騎士だった。誰かがコソリと呟く。
 ――死寵児アイレンだ。剣を一薙ぎすれば十人が死ぬと聞くぞ。
 ざわめきがさざ波となって兵の間に広がっていった。ひそひそと囁き交わされる声はアイレンの耳にも届いているはずである。しかし彼女は眉ひとつ動かすことなく、兵士の壁の隙間から白い猛獣をひたと睨みつけていた。
「なるほど。間近で見ると確かに凶悪な面構えだな」
 自分の今の形相はどうなんだ、と兵士の何人かは内心で反論しただろう。だがその兵らを押しのけて前に出たアイレンは少しも恐れる様子を見せなかった。宮廷衛士たちにしてみれば恐怖をどこかに落としてきたとしか思えない。
「貴様らはさがれ! 王太子殿下の下知である。皆、持ち場に戻るがいい」
 目の前の猛獣を炎姫家最強の騎士が引き受けてくれるのはありがたかった。しかし王宮を守る兵として素直に引き下がれるものでもない。彼らには彼らの矜持があり、職分を侵されることは我慢ならないことだった。
「アイレン卿、あなたが王太子殿下のご命令を携えてきたという証拠は?」
 サルシャ・ヤウン本人から命じられたわけではないので衛士たちも強気である。戦いになればアイレン相手では勝ち目はないが、彼女は騎士だ。主命以外での殺生は固く禁じられていた。
 アイレンの主人はあくまでも炎姫公アジル・ハイラーその人であり、王太子サルシャ・ヤウンではない。殿下の下知と伝えられたところで、まともに聞き入れられるはずがなかった。彼らは騎士をやりこめられる貴重な機会を得たとばかりに、「証拠は?」と声高に叫んだ。
「愚か者めらが……」
 羽織っていたマントを大仰に払いのけ、アイレンは腰に帯びていた剣を衛士らに見せる。多くの者はその意味が判らず、剣を見せつけて脅されているのかと気色ばんだ。だが、ごく一部の、典礼に参加する機会がある者は青ざめた。
「せ、せせせ……聖なる剣!? そ、そんな……。国王陛下以外の者が……」
「この剣の意味を知るのなら控えておれ。我が言葉は王太子殿下の言葉である。我が行いは王太子殿下の振る舞いである。……さぁ、あえて再び命じよう。下がれ。そして己の持ち場にて本分を尽くせ。以上だ!」
 腰を抜かして後退していく仲間を助け起こした兵士のひとりが首を傾げた。なぜ同僚がそれほど驚いているのか未だに判っていないのである。彼にしてみれば、居丈高に要求を突きつけてくるアイレンこそ本来の仕事に戻るべき身であるはずだ。そう反論しようとしたが、同僚に強く腕を引かれて口を閉ざす。
「手を出すな。あいつが持っている剣はただの剣じゃない。あれは、国王陛下しか持つことが許されないはずの、始祖王の剣だ」
 呆気にとられた兵は同僚とアイレンの顔を交互に見比べ、徐々に顔を歪めた。それは嫌悪混じりのもので、隣の同僚の驚愕とはまったく別種の表情である。
「なんだよ。それじゃ、あの女騎士は勝手に聖剣を持ち出したかもしれないじゃないか。殿下の命令を携えてきた証拠には……」
「なるんだよ! あの剣は国王自らしか持ち出せないよう、厳重に管理されてるんだぞ。今現在、王太子殿下は国王代理というお立場だ。剣を持ち出せるのは、サルシャ・ヤウンその人しか無理なんだ!」
 まだ納得しきっていないようだが、ジリジリと後ずさっていく同僚たちを見ては、自分ひとりだけが不満をこぼしているのも損な気がしてきた。口を尖らせたままではあるが、彼は持ち場に戻ろうとしたのだが……。
「おい! この騒ぎはなんだ!? いったいどうなっている!」
 応援を要請した宮廷騎士がこのときようやく到着した。
 衛士たちを押しのけ、騒ぎの元凶へと近づく騎士をアイレンが一瞥する。彼女の存在に気づいた騎士の何人かが顔をしかめた。戦奴ドール上がりの騎士など認めたくない者にとっては、アイレンという存在は不愉快なものとしか目に映らないのである。
「ここで何をしておいでかな、アイレン卿。よもや貴様がその獣を招き入れたのではなかろうな。如何に炎姫公のお声掛かりで騎士になったのであろうと、そのような愚行を犯したとなれば容赦は……」
「持ち場に戻れ。貴様らに用などない」
 素っ気ないどころか冷気すら漂うアイレンの物言いに、宮廷騎士が一瞬絶句した。が、すぐに反動で頭に血が昇り、腰の得物に手を掛ける。いつでも剣を抜ける体勢で相手を睨み、鋭い声で詰問する。
「本来ここにいないはずの地方騎士の分際で我らに命令するか! どういう了見でそのような振る舞いに及んでいるのか、答えてもらおうか!」
 猛獣とアイレンを取り囲む騎士の殺気は凄まじかった。一刀のもとに女騎士を斬り殺してくれようという気概が溢れ出している。しかし、熱すら感じる殺意の中心で、アイレンはまったく涼しげな顔で佇むばかりだった。
「貴様らに説明することなど何もない。必要とあらば後ろの奴らに聞け」
 気色ばむ宮廷騎士たちに興味を失ったか、アイレンは興味深げにこちらを眺める猛獣へと向き直った。それまでの歩みを止めるほどの出来事とは思えないが、獣の尾は関心の高さを示すようにゆらゆらと揺れ動いている。
「き、貴様。なんという傲慢なっ!」
 一人の騎士がアイレンに駆け寄り、その肩を掴んだ。強引に彼女を振り向かせようと腕に力を込める。が、彼の腕は呆気ないほど容易く彼女の肩から外され、凄まじい勢いで大理石の床に突き倒された。
 鳩尾に一撃を突き込まれて息が出来ずに身体を折った男を、同僚のひとりが助け起こす。その段になってようやく彼らは女騎士が手にしている剣の正体に気づいた。一様に青ざめ、彼らは畏れからたじろぐ。
「それをどこで手に入れたっ。貴様、宝物殿に押し入ったか!?」
 誰もがアイレンを疑った。彼ら宮廷騎士にとっては戦奴が王太子の信任を受けたなどとは受け入れがたいことであったから。
 だが、彼らの怒りを無視して背を向けたアイレンは平然と猛獣の前に跪き、まじまじと白い毛に覆われた獣の顔を凝視する。また獣も異質な女騎士の顔を覗き込み、互いに内心を探ろうとでもするかのように見つめ合った。
「サルシャ・ヤウン殿下より貴殿を案内してくるよう申し遣った。貴殿がこの廊下を歩いていたということは、案内して良いと判断してもよいか?」
 猛獣に対して人と同じように語りかけるアイレンを遠巻きにしている衛士は呆れたように眺め、騎士たちは気味悪げに嫌悪を浮かべる。
「我らを無視するな。そんな獣に話しかけてなんとする! 今ここで貴様と話をしているのは我らのほうだぞ!」
 ──やかましい、下郎。今は我と話しておろうが。黙っておれ!
 廊下中に響く異様な声に女騎士以外のすべての者が凍りついた。どこから聞こえてくるのか判らぬ声の主を探し、皆が皆、キョロキョロと辺りを見回す。
 ──サルシャ・ヤウンの許へ案内しろ。我が必要なときが来た。
 再び聞こえた声に衛士たちは怯えた。騎士たちも内心は恐慌をきたしていたかもしれないが、厳しい修練に耐えてきたお陰で表情に出すことはない。彼らは一斉に猛獣へと振り返り、アイレンを促して歩き出したその姿に注目した。
「まさか……。本当に精霊が憑いているのか?」
 思わず漏れた一言が浸透するにつれ、震えるような動揺が広がっていく。
「いったいどうなっているんだ。何が起こっている?」
 困惑が素直に騎士の口を突いて出てきた。周囲の同僚や衛士たちも同じ思いのはずである。今までの日常が崩れ去っていく音が聞こえるかのような出来事だった。それを目の当たりにしているのに信じがたい。
「アイレン卿! 貴卿が王太子殿下の命令で動いているのであれば、我らに説明する義務があるのではないのか!?」
 遠ざかっていく一人と一頭の背に向かって誰かが呼びかけた。廊下に響き渡る声が小さく微かなこだまを産む。その反響が今日に限って異様に鋭く聞こえるのは気のせいだろうか。それとも音すら異質なものに影響を受けるのか。
 ──死ぬ覚悟が出来た者だけ従え。その覚悟があれば同行を許してやろう。
「貴卿らに説明する権限まで与えられていない。説明を求めるならサルシャ・ヤウン殿下に直訴せよ。精霊殿が許した以上、私も同行することは許そう。その代わり、殿下が貴卿らにどう対処されるかを保証はせんがな」
 歩みを止めることなく奥へと進んでいく女騎士の背中に何人かの騎士が忌々しげに呪詛を吐き捨てた。残りの何割かは戸惑いから抜け出せず、ほんの僅かな人数だけが好奇心から後を追っていった。いや、もしかしたら彼らなりの義務感に突き動かされての行動だったのかもしれない。
 廊下を進み、ついに後宮の区画へと足を踏み入れた猛獣とアイレンが不意に足を止めた。その視線の先に小柄な人影が見える。かの姿を一人と一頭の肩越しに見た騎士が思わずといった勢いで跪いた。
「殿下、ご命令通りに精霊殿をお連れいたしました。私はこれにてお暇を……」
「ご苦労、アイレン。昨夜のうちにアジル・ハイラーには許可をもらっている。君は引き続きこの近辺の警護にあたってくれ。ちょうど後ろに控えている者たちがいる。彼らを君の麾下に置こう」
 滑らかな足取りで近づいた王太子が愛おしげに猛獣の首を撫で、鼻筋に頬ずりする。子猫をあやすが如き態度に跪く騎士たちが微妙な表情になる。異形の獣に対する振る舞いではない、とは思っても、口にすることは憚られた。
「君に見てもらいたいものがあるんだ。一緒に奥まできてくれるね?」
 女騎士同様に人と変わらぬ態度で獣に接する王子の姿に騎士の困惑は深まる。人外の声を聞いてもなお、彼らには理解の範疇を超える出来事だった。事実として受け入れるには、彼らの感性は硬直しすぎていたのである。
「ここに近づいてもいいのは僕が許可した者だけだ。たとえ元老院の貴族であろうと許しなく立ち入ろうとする者がいれば斬り捨ててもかまわない。お前たちはアイレンの下につき、後宮区画へ出入りする者を厳しく吟味せよ」
 普段がおっとりしているように見える王太子の口から出た苛烈な命令に宮廷騎士たちは驚きに目を見張った。だがアイレンが跪き、その主命を恭しく拝しているのを見ては厭だとは言えない。
「殿下、お預かりしておりました聖剣をお返しいたします」
 大袈裟な仕草で剣を両腕で支え、頭上に差し出した女騎士の態度にサルシャ・ヤウンが小さく苦笑を漏らした。彼にしてみれば剣はただの剣でしかないが、騎士であるアイレンにはただの剣とは映らなかったのだろう。
「ここまではよくやってくれた、アイレン。明日には王宮内の警備人員の配置替えが完了する予定だ。だからしばらくは君の世話になる」
「卑賤の身にはもったいなきお言葉にございます。今日一日、後宮警備に当たらせていただきます。他にご命令などは?」
「何かあれば追って沙汰を出す。そうだ、母上がこちらに参られる予定になっている。おいでになったら離宮の入り口まで案内せよ。それから僕の護衛騎士が城下から戻ったらすぐに復命するよう伝えてくれ」
「承りましてございます。では、ここに控えている者を頭に、宮廷騎士たちに後宮周辺の警備をするよう、早急に申し渡して参ります」
 そのやり取りの間、大人しく王太子の傍らで座り込んでいた猛獣がゆったりと腰を上げた。人語を理解し、ここでの用が済んだと判断できるだけの能力があるのだ。もちろん先ほどの異形の声を聞いた後であれば納得できる行動だが、知らぬ者が見たなら異様な光景だったろう。
 獣の純白のたてがみを指で梳りながら離宮への渡り廊下を歩み去る王子の背は、華奢ではあるが繊弱さなど欠片もなかった。宮廷に出入りする貴族が陰口で叩くようなか弱さをそこに見つけることはできず、騎士たちはそれまでの己の見解が崩れていく音を聞いた思いであった。
「では諸卿ら。警備の担当区域を決めるとしようか?」
 ぼんやりと王太子の背を見送った騎士たちは雷鳴のように鋭いアイレンの声に飛び上がる。そうして互いに顔を見合わせ、ばつの悪い表情を作った。今日という日は始まったばかりだというのに、何やら長い一日になりそうである。




「随分と怒鳴り散らしちゃったみたいだね、ターナ?」
 離宮へと足を踏み入れ、周囲に誰もいないことを確かめると、サルシャ・ヤウンはクスクスと喉の奥で笑い始めた。
『聞こえていたのか?』
「あ、久しぶりに君の本当の声を聞いた気がするね。そうそう、さっきの。聞こえたなんてものじゃないよ。たぶん、王宮内に響き渡ったと思うね。あれだけ派手に精霊の存在を示しては君がやりにくいんじゃないのかい」
 むっつりと不機嫌さを醸し出す隣の存在と歩調を合わせ、王太子は双子の片割れの許へと急ぐ。精霊の力を借りてでも姉を救うという目的は果たさねばならなかった。そうでなければヤウンは天を憎むことになるだろう。
『……制御できなかったのだ』
 猛獣の脚が止まり、それに合わせて王子の歩みも止まった。
「制御できなかった? おかしいね、昨日まで君は難なく思念の声とやらを操っていたのに。今日になって急に制御できなくなるなんて。心当たりはないのかい。どんな小さなことでも……」
『心当たりがあるには、ある』
 ひどく言いづらそうに口ごもった相手の気配に首を傾げたヤウンだったが、すぐに相手の内心を察して皮肉とも苦笑ともとれそうな笑みを浮かべる。
「僕のせい、だね?」
 今ここで思念の声を使ってないのはそういうことなんだよね、と微笑みながら確認すれば、ギクリと獣の白い肩が揺れた。動揺を見透かされまいと気張っているようだが、察しの良い王太子相手に隠し通せるはずもない。
 ゆるゆると項垂れて相手の視線を避けようとする態度こそが、ヤウンの推測が当たっているのだと如実に物語っていることに気づかないのだろうか。
「君と僕は“血の契約”とやらをしているんだったよね。となると、何らかの繋がりが出来上がっていることになる。僕の動揺が君に伝播して、それがきっかけで君の力に妙な歪みを与える、ということも考えられる」
 ギクシャクとした動きで顔を背ける獣の前に回り込み、サルシャ・ヤウンは相手の両頬に掌を添えて自分のほうへと振り向かせた。
「僕は君に嘘をつかない。だから、君も話せることはきちんと話をするんだ」
 背は丸まり、尾は身体に巻きつき、ターナは上目遣いの哀れな表情になった。
『それは……心当たりではあるが、まだ確信には至っていない。確定せぬことを肯定できないだけだ。だから、お前の質問に──』
「お前、じゃない。僕はサルシャ・ヤウンだ。君と血の契約を交わした相手じゃないのかい? それなのに君は僕を避けて通る気か」
 王子の視線の先で何度か獣の口が開閉したが、結局そこから言葉が漏れることはない。怖いほど真剣な顔をした彼を前にしては、如何なる言葉も力を失ったのだろう。あるいは言うべき言葉など初めからなかったのか。
「ターナ? 君にとって僕は未だに仇の子孫でしかないのかい」
 相手の頬に添えられた掌をはずし、ヤウンは囁くようにひっそりと問いかけた。自虐的な気分が沸き、喉につかえた厭な感覚が胃の腑へと落ちていく。
「いや……。聞くまでもないことだったね。君は契約に縛られているから僕の側にいるだけで、他にはなんの繋がりもないのだから」
 垂れ下がった両腕が僅かに震えていることに王太子は気づいているだろうか。爪が食い込むほど固く握りしめられた拳が血の気を失うほど白くなっていることには? 青ざめた頬が強張っていることには?
「君に悪い影響を与えないように気をつけるよ。大切な君の魔力を歪ませられるのは不愉快だろうし、これから頼む作業にも悪影響を及ぼしかねない」
 背を向け、先に立って歩き出したヤウンを、猛獣は何か言いたげに見つめた。だが今度も言葉が発せられることはなく、異形の獣は仮初めの主人に従って離宮の奥へと向かう。なんとも言えない沈黙だけが彼らの間を支配していた。
 王子の足音だけが辺りに響き、それに応えるようにして廊下の奥から人影が姿を現す。主人の陰からそれを確認した獣がグルルと喉を鳴らした。
『あれは魔人族ガダグィーンか?』
「……そうだ。今朝早くに守護結界を築くための物質を持ってきてもらった」
『結界か。昨日のような事態を防ぐためのものだな?』
「そう。アルティーエをこのままにはしておけないからね。出来る限りのことをしておきたい。だから君の力を借りたいと思って──」
『我を呼んだ、か』
 王子の言葉を獣が引き取る。その言葉の本当の意味こそが互いの間に間違いなく何かの絆が繋がっていることを示すものだった。が、それについて深く語り合うことはない。表面上だけ会話が交わされ、淡々と言葉は紡がれた。
「守護結界を築き上げるには結界を作り上げる者たちの精神力と結界の力が重要な鍵になるらしい。そして、強固な結界には多くの魔力が必要になるとも」
『その結界に注ぐ魔力を我が提供すればいいのだな?』
「そう。魔力の受け皿は用意できた。しかし僧院にいる者たちだけではどう頑張っても魔力の補強ができそうもないと判った。君は人界に関わりたくはないだろうけど、僕にはこれは必要なことだ」
 膝を折り、王太子と猛獣を待ちかまえていた僧侶が深々と頭を垂れる。
「お待ちしておりました、毛獣バウの君」
 あまりの呼称にヤウンが噴き出した。不本意そうに猛獣が低く唸る。
「オルドク、その呼び方はいくらなんでもひどすぎないかい?」
「ですが、個別の呼び方を存じません。まさか精霊の君と呼ぶわけにもいきませんでしょう。殿下から毛獣に宿っているとお聞きしましたので」
 確かに精霊殿や精霊の君では精霊全般を指し示し、ターナ個人を示さない。だがターナ自身が個別の呼称を明かしたがらないのだから「精霊」と呼ばれても仕方なかろうと思ってたのだが……。
『ファレスと呼べ。まだそのほうがマシだ』
 うんざりした声で答えた猛獣にオルドクが見えぬ眼を向け、曖昧に頷く。
「“狩人ファレス”ですか? そうお望みなら以後はファレスと呼ばせていただきましょう」
 ファレスという名の意味を正確に理解しているらしいオルドクの知識に、ヤウンは内心ではギョッとした。が、そんなことはおくびにも出さず、姉の待つ部屋へとターナを誘う。オルドクが先導役を買って出た。
 個別の呼び方を周囲に知らしめるな、というターナの考えは間違いではないのだろう。古代語を理解できる者になら、ターナが“朱”を意味することが判るのだ。そこからターナがどんな属性を持つ精霊か想像できてしまう。
『案ずるな。我の真名ルーン・ガルドを知る者は限りなく少ない。実際、主人たるお前も知らぬではないか。我を隷属させる者は、この人界では契約者のお前しかいないのだぞ』
 こちらの不安を読み取ったのか、互いにしか聞こえぬ囁き声で慰められた。それに力無い笑みを返しながら、王太子は未知なる知識への不安を抱え、これから先の未来に微かな焦燥を感じていた。