建物の中に引き返したキッショーボーは真っ直ぐに屋敷の主人が使う部屋へと足を向けた。中央階段を上がって角を曲がると、廊下の向こうにうずくまる人影が見える。小柄なところから同じ東方人であることが判った。
いや、彼にはそれが誰であるのか一目見たときから判っていたのだが。敢えて素知らぬふりをして悠然とした足取りで近づいていった。
「おやおや。こんなところで何をしておいでかな? 朝食には今少し早いが?」
「お願いが、あります……」
丸い体型を小さく屈め、目の前の人物は床に額をこすりつけている。俯いた姿勢から発せられる声はくぐもり、相手の感情を抑え込んでいた。
「どうしたね? 何か入り用なものでもあったかな。ロ・ドンイル殿、商人のお前に手に入らぬものはないと思っていたが」
「お判りになっておいでのはずです! 今朝の仕事でもう終わりにさせてください。これ以上はおつきあいすることはできません! 故郷に帰って妻子と供に静かに暮らしたいのです。もう、あなたのお手伝いはしたくない!」
跳ねる鞠のように飛び起き、一気に言いたいことを伝えたはいいが、ドンイルはキッショーボーの顔に張り付いた微笑みを眼にしてガタガタと震え出した。
「手伝いたくないと、そう言われるか。左様か。では好きに帰られぃ。ただし、故郷の妻子がお前を許してくれるといいがなぁ? 借金までして荷を作り、今度こそはと商いに出たというのに、手ぶらで戻ったらどう思うことか」
「い、今までの働きに対する賃金もないと言うのですか! あんまりだ。ただ働きなんかさせたとあっては、あなたの評判も地に墜ちましょう!」
グィと身を屈め、キッショーボーは床に座り込んでいるドンイルを覗き込む。
「仕事を途中で投げ出すような者になぜ賃金を払わねばならぬ? お前こそ、まともに仕事ができぬ半端者の烙印を押されて終わりではないかね。もう少し自分の立場というものを理解したらどうだ?」
「こんな、こんな大それたことをしでかすなんて、聞いてない! 上流階級にツテを作って、この国で商いをするためだと……」
「もちろん。これも商いだよ。物も人も命も、何もかもが私には商品なのだから。なんなら、お前の命にも値段をつけてやろうか?」
土気色の顔で仰け反るドンイルがくたびれた麻袋のようにクタクタと床の上に倒れた。腰が抜けて背筋さえ真っ直ぐに保てなくなったらしい。
「さぁ、お前の言い値を言ってごらん。その値段でお前の妻子に融資してやろうではないか。それなら自身の命の値段もつけ甲斐があるだろう?」
「あ、あんまりだ。どうしてこんな目に遭わねばならないのか……」
両腕で上半身を支えながらドンイルが呻いた。その傍らに跪くと、キッショーボーはそっと相手の肩に掌を置いて囁きかける。
「ドンイル殿、何か勘違いしてはいないかな。私は何もお前を取って喰おうと言っているのではない。私の頼みを聞いてくれるのなら、相応の報酬を弾んでやると言っているのだ。お前は仕事をこなすだけ。なんの罪があろう?」
「王侯貴族とその周辺の情報を集めるだけではなく、主立った領主や僧院、神殿の調査までしているではありませんか。これ以上、いったい何をしろと……」
調査を依頼すればこちらの核心に触れやすいものだ。ロ・ドンイルはこちらの動きに薄気味悪さを感じているのだろう。明確な理由も告げてはいないので、余計な想像力が働いて被害者妄想も激しいようだった。
「商品の売り込み先の情報はいくらあっても困らないだろうに。お前も商人の端くれならそれくらい承知しているだろう?」
「あなたの情報収集はいくらなんでも過剰だ! 弱みを見つけるために周囲を嗅ぎ回っているとしか思えない。脅しつけて懐に入り込むかのような……」
ドンイルの舌が凍る。微笑むキッショーボーの眼は笑っていなかった。猛禽類が捕まえた獲物をどう料理してやろうと思案しているような目つきで、下手な言葉を発しようものなら即座に腑を引きずり出されそうである。
「そういたずらに想像力を働かせるものではないね。お前の戯れ言で傷つく人間もいるかもしれないのだから。物事をよく考えてから口にすることだ」
笑っていない眼できつく睨まれ、ドンイルの顔色はいよいよ悪くなった。立ち上がったキッショーボーはへたり込んでいる男に一瞥をくれたが、すぐに廊下の奥に見える主人室へと足を踏み出した。
「今の虚言は聞かなかったことにしてあげよう。家族のためにも、しっかりと働きなさい。前に支払った報酬だけでは借金は返せないでしょう?」
呼びかけに対してのドンイルからの返事はない。返事など初めから期待していないキッショーボーは喉の奥で低い笑い声を漏らし、目的の部屋の扉に手をかけた。ゆっくりと肩越しに振り返れば、男はまだ床にうずくまっていた。
「海都に向けて出発できるよう、中型の船を手配してください」
のろのろと首を巡らせたドンイルが首を傾げる。その瞳に浮かんだ微かな希望にキッショーボーは失笑したが、笑みに歪んだ口許が相手に見えなかったのは幸いであった。もし見えていたらドンイルは何を置いても逃げ出したろう。
「海都へ? もしや、国に帰るのですか?」
「そうですね。いつかは帰るでしょう。でも、それは今ではない。今回の海都行きは新しい商品を国元に送る手配をするためですよ。そうそう、手配する船は個室の多いものにしてください。そのほうが都合がいい」
それじゃ、頼みましたよ、と言い置いて扉を開け、彼は室内へと滑り込んだ。扉を閉じる一瞬で垣間見たドンイルの顔に激しい失望が浮かび、すぐにどこか遠くに思いを馳せている目つきに変わったのを見て取れた。
余計な思惑を巡らせなければいいが、と緩やかに首を振ったキッショーボーだったが、すぐに気を取り直して部屋の奥へ向き直った。
「お館さま、ご機嫌はいかがですか? お望みの香を追加しましょうか」
部屋には甘ったるい芳香が充満し、その匂いで空気が澱んでいるように感じられる。実際に、香を焚き続けるランプの熱に舞い上がった煙がゆるゆると室内を満たし、薄い靄が寝椅子に横たわる女にまとわりついていた。
「キッショーボー? あぁ、ちょうどいいところに。芳香が弱ってきたようで、あまり効き目がないわ。もっとたくさん香を焚いてちょうだい」
女は上半身を少し起こしたが、眩暈でも起こしたのかすぐに寝椅子に身を預けて、腕を振り回しながら煙を掻き集める。それは子どもが気に入りの玩具を離すまいとむずがる姿に似ていた。
「よろしいのですか? この香は非常に稀少で高価な品です。ラナーシェ候からいただく手当に随分と食い込んでいると思いますが」
「いいのよ! 旦那さまは本宅の奥方を毛嫌いしてあたくしに寵をくださったというのに、最近では頭の空っぽな若い娘のところに入り浸り。憂さを晴らさずにいられないわ。さぁ、もっと香を持ってきて!」
キッショーボーは慇懃に腰を折り、懐から包みを取り出す。香炉の上の香木と包みから新たに出した香木とを取り替え、その上から琥珀色をした薬液を注いだ。細かった煙が倍の勢いで立ち上り、空気の密度を更に濃くする。
「今はこれでいいでしょう。後で湯を用意させますから、この香を湯にも溶かして差し上げます。きっと、もっと爽快な気分になれますよ」
身体の力を抜いた女の傍らに跪き、キッショーボーは相手の白い手を取った。チラリと非難の目を向けた女に微笑みかけ、彼は美しい手をさらに美しくする方法を教えて差し上げましょう、と囁く。
指の一本一本を揉みほぐし、掌や甲も同様にほぐしていくと、女の唇からは満足げな溜め息が漏れた。半ば微睡みの中に沈んでいる相手の様子をつぶさに観察し、彼は占者が占卜の結果を伝えるが如く潜めた声を漏らす。
「お館さまはいつまでラナーシェ候に操立てなさるおつもりで? あなたなら侯爵以外にもツテはありますでしょうに。もっとご自分を高く買ってくれるところに売り込んでは如何ですか。もったいのうございますよ」
女は眼を閉じたまま夢見心地で口を開いた。
「何をバカなことを言ってるの。旦那さまは中央貴族の侯爵なのよ。これ以上を望むなら同等以上の侯爵か公爵か王族の方々に見初められるしかないわ。わたくしには彼らとの面識はないのだから、これ以上は望めないでしょう?」
「面識がないのなら作ればよろしいのです。恩を売る相手なら、探せば幾らでも出てくるものですよ。あなたに家屋敷と適当な手当だけ残して通ってこないような不実な男に義理立てして何になりますか」
興味を引かれたらしく、女はうっすらと目を開けてキッショーボーの表情を窺った。どこまで本気か図りかねているのだろう。
「中央貴族の方々とて一枚岩というわけではありません。敵対勢力というものがあるのでしょう? 彼らを味方につけようとは思わないのですか?」
「旦那さまを裏切れというの? そんなことをしたら、どんな目に遭うか……」
「ラナーシェ候がどの程度の人物かご存じないのですか? 彼は派閥の中では大した存在ではない。下位の伯爵にバカにされることすらある人物ですよ。その程度の男で満足してどうするのですか」
「何か掴んでいるのね? でなければ、そんなことを言うはずがないわ」
キッショーボーは微笑みを緩やかに口の端に乗せる。曖昧な笑みは彼の内心を覆い隠していた。東方人の外見と相まって、彼の印象はあやふやである。
「悪知恵が随分と働くようね。わたくしに何をさせようというの?」
寝椅子から身を起こした女がクスクスと笑い声を上げた。が、女の声は濃密な香に冒され、ひどく浮ついたものに聞こえる。それを己の耳で確認しながら、キッショーボーは白い指先に接吻をひとつ落とした。
庶民の生活は動き始めているが貴族はまだ眠りから覚めたかどうかという時刻、王宮から貴人街に出ると、人通りが徐々に増えていくことに気づく。
間もなく開かれる朝市に出向く者たちだった。たぶん、貴人の住まいで働く者たちが朝市の買い付けにでも行くのであろう。
道行く人を目深に被ったシャーフの隙間から一瞥し、彼はある辻を目的地へと折れる。急いで用事を済ませて報告に戻らねば主人の機嫌は悪くなる一方だ。
「ヤウンの警護につく前に片付けておかねばならんとはな。まったく! ジャムシードを呼び出す役目くらい他の誰かにやらせたほうが良かった」
忌々しげに舌打ちし、ソージンは昨夜送り出されたばかりの館へと急いだ。
「あの異形に後を任せてきたが役割を判っているかどうか。心配でならん」
ぼやく彼の耳に石畳の上を車輪が転がる騒々しい音が聞こえた。どうやら朝も早くからどこかの貴族が出掛けるらしい。ご丁寧に護衛の馬車までいるようだ。自堕落な生活をしている貴族が多い中では珍しい。
ちょうど人通りが途切れ、通りで馬車を迎えるのはソージンひとりだった。ふと好奇心が首をもたげる。どこの馬の骨の馬車か見てやろうと、彼は道端に寄って馬車が通り過ぎるのを待つことにした。
本当は急いで用事を済ませたほうがいい。しかし昨夜遅くに辞した館に朝っぱらから顔を出すのは少し厚かましく感じていた。急がねばと愚痴りながらも足取りは重くなりがちだったのである。
馬車は3台が連なって走ってきた。毛艶の良い良馬が軽快な足取りで近づいてくる。真ん中の主人を乗せた馬車は瀟洒な意匠で、どことなく女が乗っていることを思わせた。早起きする貴族女がいるとは珍しいことこの上ない。
誰が乗っているのかと眼をすがめたソージンは、馬車の窓から垣間見えた横顔に眼を見開いた。知りすぎるほど知っている顔がそこにあるではないか。
「フォレイア? どうしてこんな時刻に……。一緒に乗っているのはジノンではないか。二人でいったいどこへ行こうというんだ?」
僅かな時間しか見ることは出来なかったが、動体視力に優れた彼の眼が見間違えるはずがなかった。炎姫公女がその従兄弟とともに馬車に乗っていたのである。それが何を意味するのか、彼には判らないことだったが。
「この先の辻を曲がったか……。ということは、神殿区域付近に向かっていることになる。どこぞの神殿か僧院に行くにしても、随分と早い時刻だな」
このまま見送って自分の用事を優先させるか、それとも追いかけて様子を見るか。ほんの数瞬であったが、ソージンは迷った。
だが主人の気性を思い出し、彼は気合いを入れるように一度鋭く息を吐き出す。そして、次の瞬間には馬車の後を追い始めた。人目を避けるように裏路地を使って馬車の音を追う。走る姿は異形の狼を思わせた。
走りながらソージンは苦笑いとも舌打ちともつかぬ、奇妙な唸りを漏らす。その声を聞く者がいたら、まさに狼だと勘違いしただろう。それほどに今の彼の姿は人間離れしていると言えた。
初恋の相手だかなんだか知らないが、王太子は炎姫公女に甘い。それが炎姫公に利用されてないとは言えないのに、王子は態度を改める様子がなかった。
守るだけでは人は育たない。そんなことはヤウン自身が一番知っているはずだ。それなのに、王太子はフォレイアを災いや障害から遠ざけようとする。
馬鹿げていた。そんなものは愛情でもなんでもない。彼女に大公になれと命じるのなら、それ相応の試練を与えねばならないのだ。
今もこうやって馬車の後を追う自分が滑稽である。結局、彼女が危機に陥らぬように気配りをすることが主人の意に添うことになり、それが彼女の成長を妨げているかもしれないのだ。本末転倒とはこのことではないのか。
矛盾している主人の思惑と行動。それに従う自分の矛盾。考えれば考えるほど堂々巡りに陥ってしまっている気がした。
「フォレイアめ、これでろくでもない騒動に巻き込まれでもしたら許さんぞ」
彼女の外出が問題ないことが判ればいい。それならすぐにでも引き返し、自分のやるべき仕事を果たすだけのことだ。そう自分に言い聞かせてはみるが、口から溢れ出す言葉は八つ当たりとも言えるものである。
それというのもヤウンが悪いのだ。ソージンにその気はないのに、フォレイアの補佐をさせるために彼女と添わせようとする。
「どいつもこいつも、オレの意向を無視しやがって。まったく! どこに行っても涼しい顔をして癪な真似をする輩ばかりだ」
徐々に近づいてくる車輪の音に耳を澄まし、ソージンは手近な建物の壁に取り付いた。鎧戸や雨樋を伝って屋根に上がると、大通りの辻から曲がってやってくる馬車の屋根をジッと見据えた。
「この通りを行くということは、やはり行き先は神殿か僧院のどちらかだな」
腕を組み、しばしの思案にくれたソージンが静かに屋根を蹴る。まるで風に舞う花びらのように虚空へと飛び上がり、三台の馬車の最後部へと取り付いた。森によく出入りする者なら、その姿をムササビのようだと表現したろう。
御者に見咎められることなく馬車の後ろにしがみつき、猿が幹を滑り降りるが如き身軽さで馬車底に身を潜めた。屋根を蹴ってから身を隠すまでの時間、僅か十呼吸といったところか。人と思えぬほどの早技であった。
「さて、どこの建物に入るか見極めてから仕事に戻るとするかな」
炎姫家が援助する神殿や僧院の数は多い。もちろん他の大公家や王家が後援する施設も同じくらいに多かった。名門の貴族も縁故の神殿や僧院を持っており、聖界と政治は離れているようでしっかりと繋がっている。
亡くなった王ラジ・ドライラムが聖界を政治から遠ざけて以来、聖職者たちの不遇は続いていた。が、新しい王が選ばれようとしている今、王族の絆に楔を打ち込む好機が来ている。彼らには見過ごせぬ機会であろう。
それらの事情を王太子から聞かされていたソージンには、今のフォレイアの行動は軽率なものにも見えた。従兄弟とはいえ人目を忍ぶように男と外出したとなれば、下手をすれば彼女の信用を落とすことになりかねない。
公女にとってはあり得ないことでも、他人はそこに邪な眼を向けるものだ。
「奥に向かっているな。ということは、大公家縁の施設であることは間違いなさそうだ。問題は、その施設へなんの目的で訪れるのか、ということだが」
まぁ、おおよその見当はつくがな、と呟きながら、ソージンは身を潜めている場所から首を伸ばして往来の様子を見回した。
神殿や僧院が建ち並ぶこの区画は、大広場の活気とはまた違った空気が流れている。騒々しさはないが神々への祈りを捧げる声が聞こえ、命を言祝ぐ楽曲が奏でられていた。上品な香が焚かれ、人々の生活の営み以外の物音や気配に満ちた場所である。早朝の清々しさがよく似合う場所だった。
「周囲に妙な気配はない、か。行きの道中に問題はないようだ。となると、後は目的地そのものと帰りの道中だな」
ソージンが首を引っ込めて身を隠すのと、馬車の速度が落ちていくのと、どちらが先だったろう。躍動する馬の筋肉を視界の端に収めたまま、ソージンは目的の場所の特定をするのに忙しかった。彼が考え込んでいる間にも馬車はどんどん先に進み、目的地と思われる場所へと滑り込んでいく。
「この辺りは炎姫家の息がかかった建物が多いはず。あの門構えは……上級僧院か? なるほど。坊主どもが食事を摂る前の訪問か。堅苦しい儀式を好まないフォレイアらしい。となると、滞在はそれほど長くないか」
基本的に出入りが自由な神殿には門が存在しないが、それとは対照的に僧院の施設は塀で囲われているのが常だ。当然、出入りは門を通ることになり、施設によっては出入りする者を厳選する。上級僧院ともなれば顕著である。
一通りの予想をすると、ソージンは豪華な僧院の建物に小さく鼻を鳴らした。
「どこの国でも贅沢に慣れきった聖職者ってのはいるらしいな」
多くの僧院が慎ましい暮らしを送るのに対して、貴族と関わりが深い僧院ほど高額の喜捨を受けて贅を尽くした生活に浸っている。
貴族出身の僧侶もいるということで華美な暮らしを許されているが、本来の僧侶の生活習慣とは相容れないものだった。
ソージンは建物の豪奢な外観とは別に、門の守衛を勤める僧兵や早朝の務めに出る僧侶の表情や仕草から、この場所の雰囲気を掴んでしまった。贅沢を好まない彼には納得できかねる気配を感じ取って不機嫌なのである。
不満たらたらなソージンのことなど誰も知らず、馬車から降り立った炎姫公女は従兄弟の腕に寄り添って出迎えの挨拶を受けていた。が、彼女はすぐに長引きそうな挨拶を遮り、僧院の建物の中へと進んでいく。
やはり長居をする気はないのだ。食事時まで居座れば、僧侶たちと同じ席について食事を供にしなければならないと聞いている。時間に拘束されたくない者にとっては、その僧院の習慣は苦痛でしかないはずだ。
「オレの出る幕ではなさそうだな。とんだ早とちりだったか」
少し落ち着かないジノンの態度を除けば、出迎えの僧侶も公女も違和感を感じない。ジノンにしても場の雰囲気に呑まれていると解釈すれば、落ち着きのなさも納得できる範囲であった。怪しいところはない。
だが、前後の馬車から降り立った従者たちを眼にすると、ソージンは顔を歪めた。炎姫公女が伴うには妙な連中が姿を現したのである。
「誰だ、こいつら? 従者の何割かに東方人が混じっているとは。それ以外の奴らも癖のありそうな連中ばかりだな。フォレイアは彼らのことを承知しているのか。それとも知らぬまま一緒に連れてきたのか?」
油断なく従者たちを見回し、ソージンは彼らの動きを観察した。
取り立てて怪しい動きをしている者はいない。だが明らかにフォレイアの従者ではなく、ジノンの関係者と思われる者たちばかりだった。いや、ジノンの連れだと紹介されたことがある東方人の関係者と言ったほうが正確だろう。
男たちに混じって一人だけ女の姿が見えた。ソージンに背を向けている女も東方人である。出迎えの僧侶としばらく話し込んだ後、そのうちの一人と供にフォレイアとジノンが消えた建物へと進んでいった。
残されたのは護衛役の男たち数名と出迎えの僧の中でも身分の低い者ばかり。彼らも別の棟に足を向け、主人が戻ってくるまでは休憩するようだ。
「奴ら、妙な動きはしなかったな。どうやらオレの思い過ごしだったか」
ソージンは肩の力を抜き、馬車の底から這い出した。人の眼がないのであれば、少しばかり周囲を探索してもよかろう。どうせ炎姫公女たちが戻ってくるまでには多少の時間があるはずなのだから。
タケトーの館に出向きたくないばかりに、ソージンはぐずぐずと時間を引き延ばしにかかっている節があった。白黒をきっぱりとつける彼には珍しい優柔不断ぶりである。が、再びあの館を訪れてタケトーと婿になれ、厭だ、と言い争うことを考えれば、気が滅入るのも致し方ないことかもしれなかった。
建物の端から裏を覗いたソージンは、表の壮麗さとは反対の所帯じみた裏側に微笑みすら浮かべた。新米の僧侶らしい若者が果樹園の手入れをしている姿が見える。その傍らでは縄をなっている中年男の姿があった。奥では材木を採寸する者、肥料と思われる土くれを鍬で混ぜ合わせている男の姿もある。
貴族が多い僧院だと下働きを外から雇うこともあると聞いたが、どうやらここはそうではないようだ。真面目に働く彼らはすべて僧侶の着る袖無し上着を羽織っている。
「平和なものだ。どうやら何事も起こりそうもないな」
足音を忍ばせ、ソージンは馬車が見える場所まで戻ってきた。
何気なく周囲を見回した彼は、先ほどフォレイアが入っていった建物へと急ぐ年老いた僧侶を目に留める。そして、すぐに先ほどの従者数名が何気なさを装って建物から出てきたことにも気づいた。老僧を遮るように立ちふさがった男たちは、先ほど不審を抱いた東方人の従者ばかりであった。
東方人たちは僧侶を取り囲み、二言三言と会話を交わす。ソージンは割ってはいるべきかどうか見極めようと、壁に背を預けたまま息を潜めた。
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