混沌と黎明の横顔

第13章:暗神は何処へ潜るか 2

 ここに来る前にあらかじめ用意していたらしく、ジノンは馬車を辻の向こうに連れてきていた。見た目は下級貴族が使うような地味な馬車で、決して大公家の娘が使うような代物ではない。が、贅沢を言える状況ではなかった。
 本来なら公女が歩いて上級僧院に行くのも身分としては相応しい行為ではなかった。しかし、急なことで、人目を忍ぶ、今日のような場合は仕方あるまいと考えていたフォレイアには、相手の思わぬ配慮に驚くばかりである。
「よく馬車が用意できたのぅ。昨夜遅くか今朝のうちに手配したのであろう?」
「一緒に仕事をしているキッショーボーに相談したら、奴が上手く手配してくれた。さすがに公女を歩かせて僧院まで行くのは難しいだろうしな。それに従者も連れずにというのも体裁が悪いだろう? それも手配したぞ」
 随分と手回しがいいものだ。それだけのことが出来るなら父の不興を取り除く努力をしたほうが良さそうなものだが。
 そう考えた公女だったが、大公の意を翻させる難しさは彼女もよく知っていた。そんな可能かどうか判らぬ賭をするよりも確実なほうに力を注ぎたいのが人の常だろう。実際にフォレイアも父と向き合うのは難しかった。
「その者らはどこにおるのじゃ? 馬車はこの一台しか見えぬが」
 馬車の座席で揺られながら、フォレイアは包布ポンブと呼ばれる袋を取り出す。包布は庶民の間では荷物を運ぶ手提げ袋として利用されるものだ。上流階級者の間では贈り物を運ぶときの覆い布の代わりとされる品である。
 今回、フォレイアは携帯用の朝食を持ち歩くために使っていた。と同時に、別の袋には僧院への寄贈品として自身が所有するガラス細工も包んできていた。
 何年か前にアルド公国の貿易商から購入した品で、異国風の曲線が艶めかしい。僧侶が愛でるには生臭い品であるが、異国好きな貴族になら気に入られるはずだ。これを僧院に出入りが許されている商人を介して売れば、かなりの金銭が出来る。それを喜捨として僧院が受け取るのだ。
「一応、わらわの手持ちの品の一つを贈るよう持ってきた。品を検分しておいてもらえるか? 贈り主が中身を知らぬでは笑えぬからのぅ」
 商人の端くれらしく、ジノンが慎重な手つきで包布を受け取り、そっと中身を取り出す。さすがに品を見る目つきは目利き特有の鋭いものだった。
 しばらく眺めた後、力強く頷いた様子から彼が満足していることが窺える。明るい表情のジノンの顔からは予想以上に好意的な感情が読み取れた。
「素晴らしい品だ。アルド公国南部地方の作品だな。意匠も比較的新しい斬新なものだし、古臭いと文句を言う者は誰もいないと思うぞ。さすがに従妹殿はものを見る眼がある。僧院には不向きだが品としては一級品だ」
 品物の由来など一言も話していないのに産地を当てられ、フォレイアは目を丸くした。アルド公国の品だと見抜けても、作った地方まで当てられるとは思っていなかったのである。意外にジノンは目端が利くようだった。
「良い眼を持っておるのはジノン卿のほうじゃ。その品をアルド公国のものと判っても地方まで当てられるとは思わなんだわ」
「あぁ、アルド公国の特徴が前面に出ていて地方の特徴は見えにくいからな。だが南部は土着の民の文化がまだ色濃く残っていると聞く。あの地方の焼き物を幾つも見たことがあるが、北部よりも荒っぽい作風が好まれているんだ。オレ個人の好みも北部よりは南部のほうがいい。生き生きしているからな」
 フォレイアはふわりと微笑みを浮かべた。ジノンは間違いなく貿易商としての知識をしっかり身につけているようである。それは彼自身が自らの血肉となる知識を真剣に求めた結果なのだと理解できるものだった。
 アルド南部の工芸品には荒っぽさがある。と同時に、真正直な印象が強かった。北部の技巧を前面に打ち出す作風とは対極のものだったが、それは微差で作風の差異は年々縮まっているのが現実だった。
 その微細な差を読み取るのが貿易商としての腕の見せ所である。ジノンであれば、どんな国に行っても商人で通用するだろう。
「待ち合わせの場所に着いたようだ。ここで馬車を乗り換えて僧院に向かおう」
「乗り換える? はて、この馬車ではいかんのか?」
「これは公女が乗るには相応しくないだろう。もう少しましな馬車を用意してもらったんだ。従者の馬車を前後につけて三台で移動するなら、やはりそれ相応の馬車を用意しないと格好がつくまい」
 それほど大袈裟にしなくてもいいはずだが、と首を傾げるも、馬車の戸が開けられて手を引かれれば、ぐずぐすしているわけにもいかなかった。
 どこかの貴族の屋敷であろうか。門を入ったばかりの前庭には萌え始めたばかりの木々の緑が早朝の光の中で柔らかく輝いていた。
 手入れの行き届いた庭の隅に瀟洒な外観の馬車が一台みえる。それを前後に挟むようにして、地味だが一目で高級だと判る馬車が一台ずつ止まっていた。
 なんという手際の良さ。ジノンの仕事の相方は人脈に恵まれているに違いない。そうでなければ、短時間でこれほどの備えをするのは難しい。
「急なお呼び立てに応じていただき感謝しております、公女さま」
 ジノンに案内されて次の馬車に近づいていくと、建物の陰から歩み出た人物が深々と腰を折る姿が目に入った。東方人特有の背の低さとのっぺりした顔立ちである。が、どこかで見たことがある人物だった。
 首を傾げたフォレイアの傍らで、ジノンが朗らかに相手の名を呼ばなければ、それがキッショーボーなる人物だとは思いも寄らなかっただろう。
 だが、そのお陰でジノンの態度と相手の物腰から以前に顔を合わせたことがある人物だと思い出し、公女も相手の礼に応えることができた。父を真似て鷹揚な仕草をしてみせたが、どれほどの威厳を示せたかは疑問である。
「公女さまの麗しい御姿を再び拝謁できるとは無上の喜びでございます。月光の鋭きも色褪せる美貌には、ご用意した名馬も己が身を恥じらいましょう」
 聞き慣れた美辞麗句は彼女には挨拶程度の意味でしかなかった。己の外見はよく判っている。それを褒められたところで嬉しさなど湧きはしなかった。
 亡き姉と比べられる外見は陰陽の対で例えられる。太陽に対しての月、昼に対しての夜、赤に対しての白。どれもこれも聞き飽きた。
 だが、フォレイアはそのうんざりした気分を表情に出すことはしない。それが最低限の礼儀であることくらいは弁えていた。が、だからといって相手の心証を良くしてやる努力をする気にはならない。
 無駄な装飾語などいらないのだ。褒めるという行為の真の意味を理解している者から贈られた言葉なら、どんな言葉でも心に響くだろうに。
「朝早くからの支度でございますので、お食事もまだでしょう。こちらで簡単なものを用意いたしましたので、これを……」
 ジノンが口を開きかかったのを、公女は素早く制した。朝早くから予定外の食事を用意するとなれば、料理人にも負担をかけたはず。その心づくしの食事を断れば落胆する者もいるはずだ。
「ありがたくいただこう。これを用意してくれた者にも礼を申してたもれ」
 困惑するジノンを差し置いて手を伸ばすのは非礼であろうが、余計な口を挟まれる前に収めておいたほうが無難である。彼女は自身が持つ包布を巧みに隠しながら、思ったより重い包みを気安く受け取った。
「それでは出掛けるとしようか、ジノン卿。ぐずぐずしていると僧院の朝食時間とかち合って、懺悔をしながら朝食を一緒に摂ることになるからのぅ」
 僧院では食事の時間には皆で一緒に食事をすることが尊いとされている。病や怪我で寝込んでいるか、所用で建物内にいない場合はその限りではないが、そうでなければ僧院長も見習いも同じ席に着くのが習慣だった。
 そして、その習慣は部外者にも適用される。王族だろうが貴族だろうが、僧院での食事では同じ卓に着くよう促されるのだ。
 僧侶と同じ振る舞いを望まれ、食事前から食事中、食後も数多の懺悔をするとなればうんざりしてくるものである。僧侶だからこそ耐えられる苦行だ、とフォレイアはそう考えていた。世間よりも朝が早い僧院ならば、朝食前の訪問でも問題ない。微妙な仕事は早々に片づけるに限るのだ。
「公女さま、お出かけの前にお願いがあるのですが……」
 ジノンの腕に手をかけたところで呼び止められ、フォレイアはキッショーボーを振り返る。穏やかな声であるが、何を考えているか知れない、妙に不安を煽る声だと彼女は思った。が、それを表情に出すことはなかった。
「なんじゃ? あまり込み入った願いでなければ聞こう」
「我が家に仕える一族の娘を侍女としてお側においていただけませんでしょうか。いえ、それほど長期間でなくていいのです。行儀見習いをさせたいと思っているのですが適当な人物が見当たりませんで。お受けいただければ、彼女の一族にも顔向けできて私も鼻が高いというものです」
「それはどうであろうか。妾の側仕えでは行儀見習いにならぬぞ。妾には屋敷付きの者が片手間に仕える程度じゃ。何せほとんど屋敷におらぬからのぅ」
「お屋敷でなくてもよろしいのです。なんでしたら官庁での日中だけのお世話でも。一通りの行儀見習いは覚えさせたのですが、各国の一流教養を覚えさせたいと考えております。我が家特有の教養修業だとご理解ください」
 いつの間にかキッショーボーの後ろに小柄な娘が立っていた。この者が侍女になりたいと言う娘なのだろう。東方人特有の平坦な顔であったが、ややつり気味な瞳には利発そうな光が踊っていた。
「娘。お前、名はなんと申すのじゃ?」
 キッショーボーに促されて前に進み出た娘が深々とポラスニア風に腰を折る。優雅な物腰で、大公屋敷に出入りしても申し分ない動作が端々に覗いていた。
「身内には“ハナ”と呼ばれております。公女さまもそうお呼びください。今回も道中お供をさせていただきます」
 少し訛りはあるが滑らかなポラスニア語を喋る。態度も言語も屋敷で働けるよう推挙するのに申し分なかった。この娘の主人の知り合いでポラスニア貴族でもいるならば、その者に紹介状を書かせれば、フォレイアが雇ったことにして屋敷や官庁で使うことも可能であろう。だが……。
「教養を身につけたいのであれば妾の側では不向きじゃ。妾に専属の侍女は不要でのぅ。肩書きに箔をつけたいのであれば別じゃが。我が地藩の貴族宅で働くほうが、よほど見るべきものも多かろう。それでも働きたいのか?」
「公女さまのお側に仕えたとなれば鼻が高うございます。どのような主人にも仕えることができてこその使用人。是非ともお仕えさせていただきたく……」
 つまり王族に仕えたことがある、という箔が欲しいというわけだ。成り行きを見守り、口出しせずにいたジノンが居心地悪げに足許の土を蹴る気配が伝わる。退屈で、苛ついているのだ。これは早々に切り上げるべきだろう。
「では、この道行きでの働きで今後のことを決めさせてもらおう。雇うにしろ断るにしろ、この国の貴族の誰ぞに紹介状を書かせておくがよい。雇うならばその紹介状は妾がもらう。断るなら他の家への口添えをしてやろう」
 ありがとうございます、と頭を下げる東方人の男があやふやな微笑みを浮かべる。面白がっているようにも、何か不安に思っているようにも、どちらとも取れそうであった。が、それが彼の内心を表しているかどうかの確証はない。
 ジノンに先導され、馬車の座席に収まったフォレイアに声がかかった。
「お渡した荷物に公女さまがお好きなワインを入れてございます。どうぞ料理と一緒にお召し上がりください。……あ、ジノン殿は最近飲み過ぎてますから、別の飲み物を用意してありますので、そちらをお渡しください」
「なんでオレは飲めないんだ。従妹殿が飲むなら相伴に預かってもいいだろう」
「公女さまほどお強かったら問題ありませんが、伯父上の廟を詣でるのに酔っぱらっていてはまずいでしょう。今回は我慢してください。よろしいですね?」
 ジノンとキッショーボーが互いに強い視線で睨み合ったが、結局はジノンが折れて用意された自分用の飲み物に手を伸ばした。
 そのやり取りの間、フォレイアは二人を見比べていたが、世話焼き風の態度のキッショーボーの眼がなぜか険しくなっているように感じて首を傾げた。
 よほどジノンが酒に酔って何かしでかしたか。他に何か訴えたいことがあるのか。キッショーボーの態度からは、どちらなのか判らなかった。
「それじゃ、僧院に行ってくる。後のことは頼んだぞ、キッショーボー」
「あなたの希望が叶うよう祈ってますよ。これはそのための助力なのですから」
 どこか恩着せがましい声音にジノンが皮肉げな苦笑を漏らす。だが言い返さないところを見ると、彼も相応の恩を感じているのだろうか。
 ゴトゴトと動き出した馬車の中、わずかな沈黙が妙に居心地悪かった。
「朝食の件、すまなかった。まさかキッショーボーがそこまで気を回すとは思わなかったんだ。オレのように気づかなさすぎるのも問題だろうが……」
「妾が用意した朝食では足りまい。彼の気遣いのお陰で空腹を抱えて伯父上の廟に詣でるハメにならずに済む。ありがたいことじゃ。それにしてもこちらは量が多いのぅ。これはジノン卿に差し上げよう」
 キッショーボーが用意したものをジノンが摂ることになり、二人はそれぞれの包みを交換した。が、飲み物に関してはジノンは頑として譲らない。
 自分に用意されたもの以外は口にしないと言い張る彼に、公女は多少ならワインを飲んでもかまわないだろうと誘ったのだが、無頓着なところがある彼にしては珍しいことだった。よほど懲りるようなことでもあったのだろうか。
「それよりも、キッショーボーが用意したワインだけでも飲んでやってくれ。東方で作ったワインのようだから、きっとフォレイアに出来映えを確かめて欲しくてこの朝食につけてよこしたのだろうからな」
 そう言われてしまえば飲まないわけにはいかない。陶器の瓶に詰められた栓を抜き、その口から漂う芳香を嗅ぎながらフォレイアは頷いた。
「国産品より芳香が強いな。料理を選ぶであろうがワインだけでも愉しめよう。キッショーボーは妾の好みをよく調べたらしいのぅ。妾の気性を知った上であの娘を道中に加えたのであれば、彼はなかなかの策士だと見えるが」
 一度でも同行を許してしまえば断りにくい。最終的には雇うことになろう。
「あの女を雇うのか? オレの連れの紹介だからと無理をしているのなら……」
 早々に料理を口に運び始めたジノンが食事の手を止めた。
「使用人を雇うのも上流階級者の器量のうちじゃ。雇用確保の点だけでなく、教養を授けて人材を育てられる者は重宝されるからのぅ」
 公女は馴染んだ料理を味わい、異国のワインをあおりながら説明する。
「上に立つ者は贅を尽くした暮らしをしておる。それを享受している以上、相応しい行いをすることが求められるのじゃ。昨今の貴族の中には放蕩を尽くすばかりで何もせぬ輩もおるが我が家はそうではない。父上や妾、あるいは家令パレの眼に適った者は基本的に無条件で雇い入れることになっておる」
 口内のものを嚥下したジノンが口角を緩く持ち上げて笑った。好青年めいた笑みであったが、いつもの彼の笑い方と比較してぎこちない。何か思うところでもあったのかもしれないと思ったが、フォレイアは追及はしなかった。
「他の大公家は違うのか? ほら、地域が違えば風習が違うだろう? そんなふうに使用人を雇い入れる条件も違っているんじゃないのか?」
「確かに違うのぅ。この王都があるドロッギス地藩はどちらかといえば閉鎖的な土地じゃ。縁故を頼って働き口を求める者が多いらしい。つまりコネの力が強いということじゃから、利権が絡んだ賄賂も我がタシュタンより多いのぅ」
 ふとフォレイアは舌の上で転がるワインの渋みに混じって妙な苦みを感じることに気づいた。異国のワインも数多く飲んだことがあるが、この苦みは今まで感じたことのないものである。なんだろう? ワインに苦みとは……。
「どうしてドロッギスは閉鎖的なんだ? この街を歩き回ってみたが、他の地藩都と大差ないと思ったが。どこか違うところでもあるのか?」
「あぁ、いや。違うのじゃ。王都は別格でのぅ。ドロッギス地藩都は王都ではない。黒耀樹家の本拠地は“幻都ダレム”で、そこは王国中でもっとも閉鎖的な土地の一つじゃぞ」
 気になる苦みに眉をひそめたが、ジノンはそれに気づいていない。たぶんドロッギス地藩の話になり不機嫌になったと思われているのだ。
 黒耀樹家当主ナスラ・ギュワメと炎姫家公女フォレイアの不仲は知る人ぞ知る事実である。積極的に嫌悪を表面には出さないが、冷ややかな怒りを滲ませていることくらい、聡い者なら気づいているはずだ。
 比較的フォレイアの側にいることが多かったジノンであれば、従妹が時折見せる苛立ちに気づいていてもおかしくはない。
 ワインが詰まった瓶を脇に避け、公女は食べ慣れた料理を平らげ、屋敷の料理人が好意でつけてくれたワインの小瓶の蓋を開けた。ジノンは彼女がワインを呑みきったとでも思っているのか、特に不審げな顔はしなかった。
 説明を続けながら、フォレイアは新しいワインを口直しに呷る。
「ドロッギスはアルド公国やルネレー王国と国境を接しておる。ルネレーは我が国以上に保守的な考えの国じゃから言うまでもないが、アルド公国は開放的な国柄で知られておる。その反対を行く考えが根強いのには訳があるのじゃ」
 官庁に行くのだろうと思っている料理人だから、庁舎で茶でも淹れればいいと本来なら考えはずだ。がしかし、底なしの酒呑みの公女を知っている料理人たちは公女の食事には必ず少量でも酒を出してくれるのが常である。
 今回はそれで助かった。好みの味ではないワインを最後まで飲むほど酔狂ではない。もったいないとは思うが、折を見て貰ったワインは捨ててしまおう。下手に飲み残しておいても嫌味になるだけだ。
「アルド公国と国境を接している土地はエシュート地方と言う。昔あの土地は独立地域であったが、始祖王を助けた褒賞として当時の領主はより豊かな土地を与えられて公国を建てることを許されたのじゃ」
 二人分の料理を頬張るジノンが興味深げに話に耳を傾けている。その姿が神殿の講義生と重なり、フォレイアは自分が講師になったようで面映ゆかった。
「だが新しい土地への民の同行は許されなかった。領主がいなくなっても民はエシュートという土地への愛着が深く、王国への併呑に納得してはおらぬ」
「ではエシュート地方の民は独立を画策しているのではないか?」
「うむ。王都から派遣された貴族を新しい領主としてはおるが、自分たちは王国民とは違うという選民意識がとても強い。周囲への警戒心が強く、軋轢も大きい。その歪みはドロッギスという地藩全体に広がり、今ではハスハー南部もあわせてかなりの範囲で他民族同士の小競り合いに刺激を与えておるのぅ」
 ジノンが複雑な顔で咀嚼する食事を飲み下す。彼の故郷と王国の国境にも少数民族が暮らしていた。どの国でも民族間の紛争は面倒なものである。
「王国北部地方でも少数民族の小競り合いは多いが、エシュート地方の選民意識は厄介じゃ。他地方と交わろうとせぬ。あの傲慢な敵愾心が周囲に今以上に火の粉を散らすと紛争にでもなりかねん。あそこは黒耀樹家の頭痛の種じゃ」
「そういえば、黒耀樹公の継母の腰巾着にエシュートに関わる貴族がいたな?」
 フォレイアは重く頷く。小エシュート伯は王都から派遣された新領主だ。
「今では半分自治区のような状態で、形ばかりは中央貴族が領主じゃが、税はエシュート地方の一部からしか取れぬ。大部分は国境警備や海岸線の整備、遊民の取り締まりという名目で領主の懐に入る前に消えておるようじゃ」
 エシュート地方との円滑な交渉を心得ていると小エシュート伯は吹聴し、元黒耀樹公妃に取り入る。北のユーバーダ地方バラド区を王命で直轄するバラド侯爵と供に大公家、引いては王国に恩を売り続けているのだ。
「中央貴族に支持されない大公が当主でいる間、ドロッギスは北も南もいざこざが絶えまい。やはり私生児が政治に関わるべきではないのじゃ」
 今までの均衡がナスラ・ギュワメの大公就任で崩れようとしている。意に添わぬ継子の台頭に怒り心頭のリウリシュ妃は、小エシュート伯とバラド侯に各地方で民衆を煽るようそそのかしていると王宮内ではもっぱらの噂だった。
「同郷のよしみで元黒耀樹公妃に面会したが、あの女は気位が高いばかりで駄目だ。己の血筋が第一で地藩のことなど顧みない。黒耀樹公も可哀相に」
 ナスラ・ギュワメに同情的な従兄弟の口調に炎姫公女は眉をひそめる。
 黒耀樹公に就任するなら、円滑に地藩の支配を受け継ぐためにケル・エルスを立てたほうが軋轢はずっと少ない。わざわざもめ事を起こす必要はないと考える公女とはジノンは意見が異なるようだ。
 私生児は嫌いかと訊ねられ、彼女は諍いの原因になり好きではないと返事をした。頷いたジノンが食べ終わった空の器を包布に押し込む。その動作は随分と丁寧な手つきだった。しばしの沈黙の末、彼は重苦しく口を開いた。
「オレは……父親に不義の子ではないか、と疑われたことがある」
 ジノンの頬が引きつっている。驚き、公女は息を詰めて相手の出方を窺った。
「母は使用人との仲を勘ぐられた。幸い歳を重ねるにつれ父親に似てきて疑いは晴れたがな。しかし疑われた母は父を疎んじ、父も後ろめたさから母を遠ざけたのだ。幼い頃は両親のことを気に病んだが、成人する頃には諦めたよ」
 窓の外に視線を向けたジノンにつられ、フォレイアも外を眺める。長いようで短かった。いつの間にか馬車は僧院が建ち並ぶ区画に入っていたのだから。
「オレの子どもの頃の感傷だ。今の話は忘れてくれ。考えても詮無いことだ」
 見慣れた景色が眼に入り、彼女はホッと息をついた。炎姫家の僧院は礼拝堂の吹き抜け塔を蔓で覆われたいつもの姿で静かに訪れる者を出迎える。
 到着したな、と呟いた従兄弟の声を聞き、公女は背筋を伸ばしたが、クラリと眩暈を感じて背もたれに身を預けた。今の話で動揺したか。困惑を隠し、フォレイアは膝に乗せた包布の結び目を、指が青白くなるほど固く握りしめる。
 公女の内心など知らず、馬車は僧院の門をくぐり抜けた。