混沌と黎明の横顔

第13章:暗神は何処へ潜るか 1

風はうたうのみ そを感じるはなれなり
風ははしるのみ かを認めるは汝なり
そこに在る風を信ぜよ 汝がために吹く風を
しかるに、くらす心を抱く間は
戦旗の神を汝は知らず
さすれば、汝よ
暗々くれぐれと往くみちを照らす 月神招きの風を望め──
 ひどく身体が怠いが空気の変化に目が覚めた。何かが異変を告げている。それを確かめようとベッドから降り、サキザードは扉を薄く開けて気配を探った。
 廊下の奥で使用人たちが話す声が聞こえる。常よりも興奮しているのか、いつもなら聞き取れないであろう会話の内容を知ることが出来た。
「全員が集められたってことは、あたしたちも疑われていたってことでしょ?」
「でも、あの子たちの話だと若旦那様はお叱りにはならなかったと言うし」
「どうなのかしら。ご主人様は若様のお兄さまだからって許されてるけど、今回のことはご主人様を蔑ろにしてはいないの?」
 若様が自分のことを指すのだと、使用人ともあまり関わらないサキザードでも知っている。会話の中に混じるだけで背筋がむず痒くなるが黙認していた。
 気恥ずかしく、そう呼ばれると顔を合わせづらいので止めるようタケトーに頼んだことがある。が、そうなると名前に様付けで呼ばれると言われ、そんなご大層な呼ばれ方よりマシだということで妥協したのだ。
わたしの名は本当にサキザードなのだろうか? いや、違うはずだ。あの人は生き別れたと言っていたくらいだ。もしかしたら生活していた場所では別の名で呼ばれていたのではないのか?」
 思わず漏らした疑問に正確な答えをくれる者はいない。サキザードを弟と呼ぶ男は腫れ物に触るが如き態度で決してこちらに深く関わろうとはしないのだ。弟が失った記憶を取り戻すことを恐れているらしいことが透けて見える。
 記憶が戻ったら再び離れてしまうと恐れているのだ。あぁ、いや。もしかしたら、兄は知っているのだろうか。以前の自分がどこで何をしていたのか。兄の世界とはかけ離れた生活をしていたか、褒められない仕事をしていたか。
 悶々と悩みの底へ堕ちていこうとする意識が使用人の話し声で再び浮上した。
「ご主人様は理由もなくあの方を先走らせてるわけではないと思うわ」
「そうなの? でも、炎姫家にお仕えする方だから遠慮があるだけじゃあ?」
「詳しいことは判らないわよ。でも、ご主人様は遠い国ではご立派な身分の方だと聞いたわ。いくら異国においでだとはいえ、他人に自分の館をいいようにされて黙っておいでになるとは思えないもの」
「それならいいのだけど。同じ館に二人も主人格の方はいらないわよ」
 噂話で忙しい使用人の間に足音が割り込む。階下から駆け上がってきたようで、その騒々しい足音に使用人たちの会話が途切れた。
「ねぇ、ちょっと! ちょっと聞いて。大変! 一大事よ」
「なぁに、騒がしいわよ。あまり大声を出すと若様のお邪魔になるわ」
 足音の主が同僚と判った途端、使用人たちの会話が復活した。女が集まると、その場はアッという間に茶飲み話のように騒がしくなるのは、階級に関係ないのかもしれない。サキザードは散策途中で見かける街の光景を思い出した。
「判ってる。でも大変なんだってば。若旦那様があれほど険しい顔をしてた理由が判ったのよ! お嬢様が……いえ、お嬢様だけじゃなくって、若旦那様の奥様やお姉様もさらわれたっていうのよ!」
「えぇっ!? だって、三人もいっぺんに? 不可能でしょ、いったい誰に!」
「だから若旦那様はあれほどピリピリしてらしたのだわ。あんなに厳しいお顔をしているのは珍しいと思っていたのよ」
 聞き耳を立てていたサキザードも息を飲んだ。ジュペが拉致されそうになったことは記憶に新しい。それだけでなく、昨夜一緒に食事を摂ったイコン族の女たちまで連れ去られたというのか。賊はどうやって館に侵入したのだ。
「だけど、どうして三人一緒にさらわれたことを隠していたのよ!」
「もしかして、使用人の中に拐かした者の一味がいるとか?」
「いやだ! よしてよ、そんな怖いこと。あぁ、でも。それなら使用人を全員集められたことにも納得できるわ。みんなの反応を見てらしたのだわ」
「あたしたち、疑われていたってことじゃない!」
「だけど。館に入り込んでいたってことでしょ? 怖いわ。大丈夫なのかしら」
 今までは声を潜めていた女たちの声が高くなる。日常とはかけ離れた事件を目の当たりにして興奮が収まらないのだ。怖いと言いつつ、彼女たちの声には好奇心が満ち、この事件がどう転がっていくのかに興味津々な様子である。
「ねぇ、あんたさ。どこでお嬢様たちがさらわれたって聞き込んできたのよ」
「ほら、お嬢様のお国の人たちだよ。あの騒々しいイコン族の男たち! 皆でお嬢様の部屋で喚き立てているんだもの。聞きたくなくても聞こえちゃうわ」
「まぁ。まぁまぁまぁっ! それじゃ本当にお嬢様たちはさらわれたのね!」
 もはや気配を殺す必要もないほどの騒ぎだ。そのうちに階下にいる女中頭に叱責されることだろう。それまで彼女たちのお喋りは止まるまい。
「いったい誰に? あの子たちが逢ったっていう東方人の女に?」
「その女だけじゃないよ、きっと。お嬢様が子どもとはいえ、奥様やお姉様は大人なんだもの。女三人をさらったのよ。きっと仲間が何人もいたんだわ」
「どうしましょう。まさか女子どもを一人残らずさらっていく盗賊ではないでしょうね。そうなると、次はここで働いている者の誰かかも……」
 階下から上がってくる足音が聞こえた。女中頭の厳しい叱責が聞こえる。下まで響く女たちのお喋りに女中頭が気づいたのだ。あの騒ぎでは他の使用人たちにも会話は丸聞こえだったろう。朝食が始まる前に噂は館中に広がる。
「さっさと持ち場に戻りなさい! 今日は人手が足りないことくらい判っているでしょう。お喋りで手を止めている時間はないはずですよ!」
 バタバタと足音が入り乱れた。浮ついた娘たちを追い払った女中頭も彼女たちを追って仕事場に戻ろうとしている気配が伝わってきた。
 サキザードは扉を大きく開き、階段を降りかかっていた女を呼び止めた。
「まぁ、若様。すみません。あの子たちが騒いで起こしてしまいましたか。朝食はもう出来上がっておりますよ。食堂に行かれますか? それともご気分が悪いようでしたら、お部屋に運びましょうか?」
「ありがとう。食堂へ行くので……。それより、今の話。ジュペたちが……」
「あぁ……。お耳に入ってしまったのですね。たぶん本当のことだと思います。旦那様は今は館の外を見て回っていますので、使用人にはまだ話をしていらっしゃいませんが。朝食前には説明されるでしょう」
 イコン族の少女はこの館で人気者だ。どんな仕事にも興味を示し、面白そうに人の後ろをついて歩く姿は使用人に好意的に受け止められていたのである。
「あの……。彼は、あの……あ、兄はどこに?」
 娘を大切にしていた男はこの事態にひどくショックを受けているに違いない。
「食事前に済ませておくことがあると仰って、先ほどおでかけになりました」
 唖然としてサキザードは立ち尽くした。この状況でどこへ出掛けたと?
「でかけた? こんなときに? あ、もしかして警邏の番所か官庁に?」
「いえ、警邏の者はとうに呼びました。今、旦那様と外を見回っています。官庁はまだ開いておりませんから、若旦那様は食事後に出向かれるでしょう。たぶん他にご用だと思いますが、どこに出向かれたのかは存じません」
 娘が誘拐されたというのに、彼はどこで何をしているのだ。よもや仕事仲間に助けを求めに行っているとは思いもしないサキザードはこみ上げてきた怒りにまなじりをつり上げた。
「兄が戻ったら知らせてください。吾はジュペの部屋に行ってきます」
 女中頭に当たり散らしそうになり、彼は急いでその場を後にした。娘を大切にしているように見えて、実は自分の用件を優先する男であったか。そんな輩と血が繋がっているかと思うと、やるせない怒りが湧き上がる。
「なんて男だ。娘がどこでどうなっているか判らないというのに。このような心根でいる者が身内となれば、吾と生き別れた経緯とて真実かどうか……」
 産まれたばかりの弟と別れたかったわけではない。そう話してくれたのは偽りではないのか。自身の血を分けた娘やその母親ですら見捨てたとなれば、弟の存在など忘れ去っていたとしても不思議はなかった。
 怒りに任せて足を運んだ先にイコン族が言い争う姿があった。女たちがさらわれて混乱している。これが普通の反応だ。
 サキザードの中でいっそう腹立たしさが募った。
 歩み寄る彼に気づいたのはジュペの伯父だと紹介された部族長。名はジューザと言ったか。昨夜はしきりと酒を勧められたのだった。男たちの中で唯一怒鳴り合いに参加していない。が、眼が据わり、内心の苛立ちが読み取れた。
「何か手がかりは見つかりましたか? 吾でよければ手伝います。……あの、それより皆を落ち着けなくていいんですか? 館中で噂されていますが」
「あぁ、申し出はありがたいが出来ることは今はなさそうだ。オレもこいつらを抑えておくだけで手一杯でな。まったく、こいつらときたら……。怒鳴りたいのはオレのほうだってのに。ここが王都だということを忘れているな」
 苦々しい表情に一筋の疲れが差したように見え、サキザードは眉を寄せる。いつ誘拐に気づいたのか知らないが、部族長としてずっと平静を保っていたのならば精神的にきつかろう。さらわれたのは彼の身内ばかりなのだから。
「彼らはどうして怒鳴り合っているんです?」
 今にも部屋から溢れ出しそうな勢いでイコン族の男たちは部屋の中で押し合いへし合いしながら喚き続けていた。どう考えても、異様な光景にしか見えない。彼らは何をやっているのだろう。
「部屋の中に手がかりはないかと探しているんだ。……いや、そのつもりなんだ、あいつらにとっては。そうは見えないだろうがな」
「ですが、あれでは手がかりがあっても踏みつけてしまいますよ」
 失礼かとは思ったがそう伝えると、ジューザが苦笑いを浮かべた。
「室内に手がかりはなかった。あいつらにも判っているんだ。だが、それを認めたくなくて、何がなんでも手がかりを見つけようと躍起になってる。オレはあいつらが館中を探すと言い出さないよう見張るだけだ」
 本当は自身が率先して館中を探して回りたいに違いない。平静を保っているように見えるが、ジューザの肩は落ち着かなげに揺れていた。
 どう言ったらいいのか判らずサキザードは口をつぐむ。浮かんだ言葉はイコン族の男たちの姿を批判しているようなものになってしまう。
「ここから見てるとこいつらの頭がおかしいように見えるだろう? だが、何かしていないと気が狂いそうな気持ちも判る。大人しくしていろとは言えん」
 部族長として一族の者が無茶をしないよう見張るしかないのだ、とそう漏らしたジューザの瞳にはひどく暗い光が射していた。
 イコン族の気質の一端を見た気がする。サキザードは凶報を聞いて途方に暮れたが、イコン族は動かねば気が済まない性質の者たちばかりなのだろう。
「ジャムシードが戻ったら方策を考えるさ。オレでは口を開けば罵り合いに参加するだけで終わりだ。こういうときはあいつのほうが役に立つ」
「あの人は何をしてるんです。彼らをこのままにしておいていいはずがない」
 憤りが甦り、サキザードの声が険しくなった。
「ジャムシードはやるべきことをやる男だ。あれが動いたということは、何かを見つけたか、見つけるために最善を尽くしているか、だ」
 イコン族を放っておいて何をしているというのだ。まずは彼らを落ち着けるほうが先だ。方向を見失っている男たちの姿が哀れではないか。
「ハムネアのときもそうだった。あいつは動くとなれば誰よりも先に動く。オレたちが混乱している中で真っ先に進む道を見つけていた」
 混乱する男たちから部族長へと視線を向けると、彼は祈るように遠くを見つめていた。それはどこか確信に満ち、ここにいない者に対して絶対的な信頼を置いているように見える。何を根拠にそうまで信じられるのか。
「あの人を信用しているんですか? 皆を放って出掛けてしまったのに?」
 サキザードにはジューザの置く信頼の根拠が見えなかった。実の弟にすら遠慮する男のどこに信頼に値するものがあるというのだ。
 ささくれた内心が隣の男にも伝わったらしい。驚きに軽く目を見張ったジューザが首を傾げるのを見て、サキザードはさらに苛立ちを募らせた。
「娘が連れ去られたというのに彼はどこで何をしているんです? あなたも知らないのでしょう? 自分の用件を優先するような人を……」
「ジャムシードはジュペのために動いている。今のあいつにとっての最優先事項はジュペ以外にない。行き先を告げなかったのは、その余裕があいつになかったのか、あるいはオレが同行すると言い出すのを防ぐた、め……か」
 不意にジューザの言葉が力を失ったことに気づき、サキザードが俯いた目の前の男をまじまじと見た。が、眼の端に滲んだものを確認し、慌てて目を反らす。大の男が泣いているのを指摘する気にはなれなかった。
 ジューザがこんなふうに泣くとは。昨夜の彼の姿は陽気で豪快だが、部族長としての威厳が備わっていた。こんな弱り切った姿を見せるとは思わなかった。
 あまりにも意外な姿にサキザードは戸惑い、立ち尽くした。
「あいつが激怒するはずだ。オレの無能ぶりに呆れ果てているかもしれんな」
 あいつがジャムシードを指していることはなんとなく判る。だが、なぜ彼がジューザに対して怒っているだとか、無能だとか思うのだろう。昨夜は彼らの仲は良かったはずだ。義理の兄と呼ぶ男を疎んじる気配はなかった。
「ジャムシードに聞いていないのか? オレが無能だったばかりにジュペは砂漠から飛び出し、妻は混乱し、妹は怒り狂っている。この状況の原因はオレだ。オレが早くに対処していれば、こんな事態は招かなかった」
 サキザードはそっと振り返った。まだジューザが涙を浮かべていたらどうしようかと怯えたが、そこには表情を殺した男の顔があるばかりだった。涙をにじませていた気配すら見つけられない。ホッとすると同時に、部族長の中にある深い悔恨に戸惑いを感じずにはいられなかった。
「今度こそ約束を守る。これ以上、あいつを犠牲にするわけには……」
 先ほどの涙はつい感情が高じてのことなのだろうか。それとも部族長という仮面の下には脆い心を持っているが故の綻びだったのだろうか。ジャムシードであればそれが理解できるに違いない。彼らにはそれだけの絆が存在するのだ。ジューザの言葉の端々ににじむ感情からそれが読み取れる。
 今までに感じていた苛立ちとは別の焦燥が湧き上がり、サキザードは慌ててジューザから目を反らした。なぜこんな感情が湧いてくるのだろう。兄とイコン族との間に何があろうとどうでもいいではないか。彼らには彼らのつき合いがあるのだ。それをどうこう言う資格など自分にはないはずだ。
 だが、たった今湧き上がった気持ちはどうにも説明しづらいものである。怒りと呼ぶには弱く、悲しみと呼ぶには熱い。
 もしも他人に話したなら、それは嫉妬と呼ぶのだと教えられたかもしれない。しかし自身の抱いた感情を言葉にしなかったサキザードにそれを教える人間はいなかった。いや教える者がいたとしても彼は認めなかっただろう。
 彼は気づいていなかった。兄が距離を置く関係を実は自分が生み出していることに。一定の距離を取っているのはサキザード自身でもあったのだ。ジャムシードを必要以上に踏み込ませない線を引き、自身から近づかない。その微妙な距離こそが二人の間のわだかまりになっているのだが……。
「あの人は自分が犠牲になるような真似はしないでしょう。そういうことは巧みに避ける人だと思いますが?」
 ジューザに背を向け、未だに混乱の中にあるイコン族を見つめながらサキザードはぽつりと漏らした。背後のジューザの反応など見たくはなかった。
「いいや。あいつは自分を犠牲にしてでもオレからジュペを守ろうとしたんだ。今回もどんな犠牲を払うか知れたものではない。放っておいたら、オレは義理の弟まで失うことになる。それだけはハッキリと判るぞ」
「まだジュペたちが失われたわけではないんですよ。あなたがそんなことでどうするんですか。彼女たちを取り戻すために皆が動いているのに!」
 思わず振り向いたサキザードはジューザに喰ってかかった。女たちのことを諦めたように振る舞う態度が解せない。彼はどうかしてしまったのではないか。
「諦めてはいない。だが、最悪の覚悟だけはしなくてはならない。もしも女たちのことで部族が……ひいては一族が危機に陥るようなことになれば、彼女たちを切り捨てて一族を取る覚悟を。オレに、それが出来るか判らないが……」
 そんな悲壮な覚悟をするな、とはサキザードには言えなかった。イコン族の内情など知らない身には、それを軽々に紡ぐことは許されない。もしもそう言う資格があるとしたら、それはこの場にいない男だろう。
 そう考えると、また先ほどの焦燥がこみ上げてきた。その感情に吐き気を覚え、サキザードは奥歯をきつく噛み締めて自身を落ち着かせようとした。
「もう、あいつの手を血で染めさせるようなことをしてはいけないんだ。もしも何かを犠牲にしなければならないのだとしたら、それは部族長のオレが甘んじて受けるべきもので、あいつではないのだから」
 囁くように漏らしたジューザの言葉が胸に痛い。その言葉を受け止める相手は自分ではないのだ。それが不意に判り、サキザードは焦った。
 ジューザが涙を見せたのも、弱音とも取れる覚悟を呟くのも、それはサキザードがジャムシードに似ているからだ。ジューザが知らぬ間にさらけ出している本音を受け取るはずの男の身代わりにされているのだと、気づいてしまった。
 それだけの信頼があるのか。己が知らぬところで彼らが培ってきた絆はこれほどに太いものなのか。それを見せつけられた気がして、サキザードは愕然とした。身体中から血の気が引き、膝の力が抜けそうになる。
 敵わない。彼らの間に入っていけるほどの強さを自分は持っていない。そして、これから先もそれだけのものを築けるとは思えなかった。
 大海原に放り出されたような、あるいは真っ暗闇の底に取り残されたような、虚ろで心許ない寂しさが胸を満たし、ヒタヒタと押し寄せる孤独が身体中の血を凍らせていく。イコン族の騒ぎが遠いところから聞こえるようだった。
「ジューザ! ジューザ、大変です。これをっ!」
 階段を駆け上がってくる軽い足音の主が姿を見せ、サキザードの身体はようやく僅かな温みを取り戻した。そうでなければ凍え死んだままだったろう。
「どうしたガイアシュ。お前、下の使用人たちと話してたんだろう?」
「これっ。たった今、出入りの業者から受け取って……!」
 少年が差し出した紙切れを受け取り、それに目を通したジューザの顔つきが一変した。一瞬だけジューザの顔に浮かんだ動揺の中に絶望が去来したのは気のせいだったろうか。怒りに顔を赤くした部族長の表情に今はそれを見いだすことは不可能だった。もしかしたら見間違いだったかもしれない。
「出掛けてくる。ガイアシュ、お前はあいつらが部屋から出ないよう注意しろ」
「待ってください、ジューザ。ジャムシードやタケトーさんにも報告をっ!」
「駄目だ。誰にも報せるな。特にジャムシードには。オレが一人で行く!」
 毅然と顔を上げたジューザの横顔には並々ならぬ決意が透けて見えた。取り乱す少年を振り払い、階下へ降りていこうとする彼の肩に思わず手が伸びる。
「待ちなさい。察するに、それは誘拐した犯人からの脅迫状でしょう? あなた一人で行くという決意はけっこうですが、失敗したら後がない。そうなれば、ジャムシードに許してもらうどころではありませんよ」
「判っている! だが、これにはオレ一人で来るよう書いてあるんだ。ご丁寧にイコン文字を使っているところから見ても、初めから狙いはオレだったんだ。となれば、他の者を巻き込むわけにはいかない」
「もうとっくに巻き込まれてますよ。今さら手を引いたのでは館の主人もジャムシードも面目が保てますまい。出入りの業者を巧みに利用しているなら敵は館の内情にも詳しいはず。対策も考えずに行けば、あなたまで捕まります」
 自身が捕まるかもしれない、などとはこれっぽっちも考えていなかったのだろう。呆気に取られたジューザに向かってサキザードはなおも言い募った。
「どうせ相手側も本当にあなたが一人で来るとは考えていないはずです。吾があなたの後をつけていきますし、他の方々にも協力してもらいましょう」
「後をつけるって……。他の奴らにどう協力させる気だ?」
 こちらの話に引き込まれたジューザの様子にサキザードはホッと胸を撫で下ろした。これで少しは時間が稼げる。闇雲に彼を一人で行かせるわけにはいかないのだから、この間に敵側への対処を考えねば。
「幸い今ここには警邏もいますし、イコン族の男手が揃っています。交渉に出てきた相手を外側から包囲する人数くらいはいるでしょう」
 使用人の中には犯人側の耳目となっている者もいよう。それをどこまで出し抜き、こちらに有利に事が運べるかが鍵だ。
「呼び出された場所はどこです? その建物と周囲を取り囲む人数を割り出し、配置を考えなければなりません。時間がないのでしょう? 急ぎますよ」
 サキザードは相手に考える暇を与えない。未だ騒がしいイコン族を振り返り、彼らを大声で呼ばわった。熟慮する時間はないが限りなく慎重に進めねば。
 朝食を食べる時間はないかもしれないな。ふと妙に現実的なことを思い出し、サキザードはそんな自分が可笑しくて思わず笑みを浮かべたのだった。