混沌と黎明の横顔

第12章:破陽の石と陰守の花 7

 早朝に起こされて不機嫌極まりなかったナムルだが、もたらされた報告に眉をひそめた。何やら良からぬことが進行していると直感が囁く。
「それで、館から逃亡した輩は大荷物を担いでいた、と?」
「館から逃げ出した者たちの行方ですが、さる商館縁の建物です。逃げた館の主人との関わりがない商人の持ち物でしたので、まずはご報告を、と」
 急な報告だからと無理に起こされたせいで、毎日の習慣にしている朝の梨花蜜水も出来ていなかった。自他共に無類の甘い物好きの彼にとって起き抜けの蜜水は頭を働かせるのに必要不可欠なものである。その蜜水がないだけで、ナムルの機嫌は下降線を描くばかりだった。
「おおかた元主人の館から金目の物を失敬して、新しい主人に取り立ててもらうための袖の下にでもするのだろう。朝も早くから起こしてまで報告することではあるまいに。もう少し詳しい内容が判ってから報告しろ」
「ハッ。申し訳ありません。しかし、逃げ出した者らは全員が東方人でして、以前に館に身を寄せる娘が東方人に襲われたこともありましたので……」
 今にも二度寝を決め込みそうな顔をしていた水姫公の眼がカッと見開かれる。
「なぜそれを早く言わない! 奴らが入り込んだ建物の持ち主の素性をすぐに洗い出せ! 東方との関わりだけでなく王国の関係者もすべて調べるのだ。ほんの些細な関わりでも見逃すな。すべて私の手許に報告書として上げよ!」
 大公の変わり様に部下は思わず身を引いたが、すぐに跪いた姿勢のままで礼をとり、発せられた命令を実行すべく立ち上がった。
「見張りに残してきた者とは別に建物内部に探りを入れる者も用意します。建物が建つ場所は上級商人たちが住まう区画ですが、地元のドロッギス地藩の者が住まう地区とタシュタン地藩の者が住まう地区の境界線辺りです。どちらかの大公が絡んでいる可能性も視野に入れたほうがよろしいかと思います」
「判った。だがハウラ・ジロー=タケトーと名乗る商人は我が国に来るのも初めてなら、王国人に知り合いもいないはず。どこぞの国の豪商だからと言って貴族と繋がりがあると思い込んで探りを入れると先入観に支配されるぞ」
 ベッドから抜け出して小卓に置かれた水差しから水を汲むと、ラシュ・ナムルは杯に満ちた水を一気に飲み干した。ひどく喉が渇いたように感じるのは乾期が迫っているからか、それとも血が騒いでいるからか。
「承知。ですが、水面下で貴人と接触している可能性もありますぞ」
「その可能性も否定はせんがな。しかし、探るのであれば、上流階級者との関わりだけではなく、下層中層民との関わりのほうこそ注意を払え。そちらのほうが厄介だ。彼らが結束して隠し事を始めると恐ろしく口が固くなる」
 物足りない気分で杯の底を覗き込みながらナムルはさらに指示を出した。
「昨夜の報告ではイコン族と一緒に王太子の護衛騎士も館に滞在したそうだな。彼が東方人と繋がっている可能性もある。逃げた東方人の素性も出来るだけ詳しく調べておけ。状況によっては巡検使の局にも話を通せ」
「御意。ですが、出来るだけ閣下直属の巡検使殿たちの手を煩わせずに進めていきます。巡検使が関わると他の王族の方々にも知れてしまいますから」
 王族が独占している巡検使という存在は便利なようで不便なことも多い。
 巡検使が所属する局は人に知られていない役所だが、成年した王族男子ならば誰もがその存在を知っていた。そして、その局に報告された情報は王族が共有する情報として各王族に回されていくのである。
 王家や大公家の当主が所有する各自の巡検使は主人に絶対忠誠を誓っているが、それは建前のことで内情は断言できはしなかった。
 他の役所の者と接触せずに各地の官吏と直接顔を合わせる巡検使は、誘惑の多い職である。地方で甘い汁を吸っている役人にしても、王族に直接繋がっている巡検使を懐柔できればしめたものだ。お互いの欲望が合致すれば、これほど不正の温床になる関係はないのである。
 皮肉なものだが、とナムルは掌中で杯を弄びながら考えを巡らせた。
 かつて巡検使が謀反人と結託したことがある。五代盲王の暗殺事件がそれだ。王の日々の習慣を知り、各地で毒薬の知識を仕入れることが可能で、王に叛意を抱く者と接触できる者。それが王直属の巡検使だった。
 聡明と謳われたかの王になぜ叛意など抱くのか、と当時の庶民は驚いたらしいが、建国からおよそ八十余年、異邦人の血筋が王位に就き続ける現状に不満を持つ貴族もそれなりにいたのである。
 さらに盲王は四代凱王の唯一の子だが、私生児だという噂もあった。子がない正妃のために身分の低い娘に産ませた子を秘密裏に迎えたのだと。
 王家の書簡室になら正確な記録が残っているだろうが、大公であるラシュ・ナムルには本当のところは判らない。だが、火のないところに煙は立たないものだ。噂は意外と本当のことであろうと推測しているのだが。
 そんなわけで、王や大公に限らず王族の周辺から危険を排除すべく、巡検使は巡検使によって監視されることとなった。
 定期的に局に報告書を提出し、その内容を審査され、ときには追調査が行われる。それが局の本来の存在意義だった。巡検使には局は鬱陶しい存在だろうが、煙たがっていては共存できないのが今の巡検使制度なのである。
 報告書を上げてこない場合、あるいは内容に不備が見つかると、王家や大公直属の巡検使といえども処罰されるのが掟だ。
 水姫公が巡検使を使って調べものをすれば、その内容は報告書に記されて局へと回され、王族血縁者に知られることになる。それを避けるには私設の間諜を使うしかなかった。独自の情報を収集するには手間暇がかかるのである。
 だからこそ手に入れた情報の貴重さを知っていた。今回のことも直感的に何か重要なことだと悟るだけの鋭さがナムルにはある。その嗅覚こそが彼を水姫公として生かしているのだ。そうでなければ妻の喪に服すとうそぶいて八年もの長きに渡って政治から遠ざかっているかのように欺けるはずがない。
「報告は出来るだけ頻繁に入れよ。但し、このことは誰にも悟られるな」
 部下の背を見送り、ナムルは唇を噛みしめてくすぶる苛立ちを抑え込んだ。
 本当はこんな真似などせずに目的を遂げてしまえばいい。強引に連れてくることもできるのだ。そう、あの生意気なジャムシードを跪かせる方法くらい星の数ほどもある。それをしないことがナムルのこだわりだと言えた。
「奴を追い込む方法と同じくらい奴の逃げ道も多い。お互いに譲る気がない以上は実力を行使するか諦めるかだ。どちらにしろ寝覚めが悪いが」
 右手親指を顎にかけ、残りの指で拳を作って唇の下に押し当てると、沈思黙考する気難し屋の哲学者のように見えなくもない。その横顔が好きだと褒めそやしてくれた妻のことが思い出され、ナムルは思考を中断した。
「どうして肝心なときに邪魔をするんだ、ユーニ。お前を一瞬でも忘れたら許さないとでも言うつもりか? 自分は私を置いて逝ったくせに」
 杯を卓に戻し、大公は窓の鎧戸を押し開けて早朝の風を室内に取り込む。再びベッドの住人となることもできたが、考えに浸るには眠気が邪魔だ。
「お前の翼をもぎ取るのは私だ。この場所まで堕ちてこい、ジャムシード」
 薄雲たなびく空は黎明の空気を変じていく。変化は同じようで毎日違う。刻々と色が移ろう空を見上げ、彼はゆっくりと胸に峻烈な空気を吸い込んだ。




 まだ薄暗い中から起きだし、フォレイアは剣の素振りに精を出していた。
 こうやって毎朝の独り稽古を始めてもう十年ほどになる。姉娘には剣術の手ほどきをするのに妹娘には剣すら与えなかった父だが、こっそりと彼女が剣術の稽古を始めても咎めることはしなかった。
 最初のきっかけは修練時代に姉のところで剣を手にしたことだ。五歳になるかどうかといった年頃から剣術を習っていた姉にしてみれば、妹が十三にもなって剣柄の握り方すら知らないことに愕然としたのだろう。
 修練中の神殿から抜け出すことは御法度であったが、月に一度か二度だけある妹の公休日に合わせてユニティアは剣術の手ほどきをしてくれた。
 だが毎日の稽古となると当時は難しいはずである。なにせフォレイアは女神官の資格を取るために神殿で学ぶ見習いだった。神学や歴史、救護学を身につけるのに忙しいのが建前というものである。
 ところが実際はといえば、公休日でもないのに暇を見ては神殿を抜け出し、姉に小言を言われるのが日常と化していた。ユニティアは妹のじゃじゃ馬ぶりに呆れつつも、神殿での勉学に手を抜かぬのならばと黙認していたのである。
 そうして、彼女のために大公屋敷に詰めている警護騎士たちが代わる代わる剣術の相手を買って出るのにそう時間はかからなかった。
 懐かしい想い出に浸りながら身体を動かしていたフォレイアだったが、少し離れた植え込みでガサガサと何かが動く気配を感じ取り、稽古を中断して身構えた。迷い犬や猫の類ではない。それより大きなものの気配だ。
 茂みのざわめきは徐々に大きくなり、確実にこちらに近づいてくる。大公屋敷に盗賊か? だとしたら、随分と剛胆な者である。
 ピタリと白刃を正眼に、不埒者ならば斬って捨てようと公女は待ちかまえた。
 だがしかし、彼女の間近で蠢いていた茂みがコソとも動かなくなる。こちらの気配に気づいて出方を窺っているのか。であれば、先手必勝であろう。
 フォレイアは衣擦れの音をさせぬようゆっくりと切っ先を持ち上げ、目の前の茂みを薙ぎ払おうと柄を握る手に力を込めた。
「待て。ちょっと待て、フォレイア! その刃を振り下ろすなよ。いくらオレが頑丈でも、そんなものを振り回されたら無事ではすまん!」
 慌てて植え込みの間から飛び出してきた男を目視し、公女は胡乱げに睨む。
「こんな場所で、こんな時刻に、いったい何をしておるのじゃ、ジノン卿」
 身体中についた枯れ葉やら土埃やらを払う従兄弟を用心深く観察しながら、フォレイアは相手の目的はなんだろうかと首を捻った。こんなこそ泥の真似事をしなくても、彼なら堂々と大公屋敷に入れるはずなのに。
「どうもこうも。オレは官庁や屋敷への出入りを禁じられたんでな。こそこそと入り込むしかなくなったんだ。まったく! 伯父貴は横暴すぎるぞ」
「出入り禁止とはどういうことじゃ?」
 昨日、フォレイアが仕事を切り上げて帰宅するまで、父はそんなことを一言も漏らしてはいなかった。同じ屋敷にいても顔を合わせる機会は少ないので、その後に何かがあったのかもしれないが。
「お前の予定を立てている役人がうっかり僧院詣でのことを伯父貴に漏らしてしまったんだ。急に呼び出されて出向いてみれば、まるで反逆罪で尋問を受けるが如き扱いだぞ。伯父貴はどうかしている!」
 唖然として公女は苦々しい表情を浮かべるジノンを見つめた。
 父大公がそんなことをしたとは露知らなかった。従兄弟が尋問を受けたのであれば、フォレイアにも知らされて然るべきではないか。役人たちはとうに知っているであろうことを大公の娘である自分は何も知らされなかったのか。
「だからフォレイア。お前に話をするにもこうやって人目を忍ばねばならなくなったというわけさ。どうせ炎姫公の不興を買いついでだ。朝食前にでも一緒に僧院に行ってくれないか? オレだけでは僧院の門は開かないだろうし、ササン・イッシュ伯父の墓の在処も判らぬしな」
「しかし……。父上の不興を買ったのなら無謀な真似はせぬほうが良かろう。無理に僧院へ押し掛ければ、いらぬ誤解を増やすだけではないか」
「そう悠長にも言っておれん。オレはこれでも商人の端くれだ。ポラスニアで仕入れた品をそろそろ他国で売りさばく頃合いだろう。大公の不興を買ったことだし、近日中にこの国を出ることにしたのだ」
 それはまた急な話だ。しかし、それほど父は甥をキッパリと遠ざけたということなのだろう。清々しいはずの早朝の光の中で、ジノンの顔色はひどく悪く見えた。もしかしたら炎姫公から言外に王国を去るよう促されたか。
わらわで役に立てるのであれば僧院まで同行しよう。どうせ父上とは一緒に食事をすることもない。早めに仕事に出たとでも思われるであろうしな。多少の時間は稼げるであろうよ」
 父に逆らうべきではないのだが、今回のことにはフォレイアの部下の落ち度もある。いや、むしろ炎姫公の態度のほうが不可解だ。たとえ異母兄が謀反人であろうと甥には罪はないというのに国外退去を匂わせるとは。
「そう言ってもらえるとありがたい。今から頼めるか?」
「判った。着替えてくるので外で待っておれ。すぐ合流する。ここから一緒に出ていっては不審がられよう。……ところで、朝食はまだであろう。厨房で何か見繕わせようか? あり合わせであればすぐに用意できるはずじゃ」
 ジノンが情けない顔つきで頷いた。
「何から何まですまん。頭にきて昨夜はあまり寝ていないので考えなしに飛び出してきてしまったのだ。朝食のことまで気が回らなかった」
「ここまで忍び込んできたくらいじゃ。無謀なことをやっておるとは思わなんだのであろう? どうせ乗りかかった船じゃ、朝食も用意させよう」
 早めに仕事に出るときに作らせる携帯食を多めに作ってもらおう。いつもは官庁の執務室で手早く食事を摂るのだが、今回は歩きながら食べることになりそうだ。褒められた食べ方ではないが、急いでいるのだから目を瞑ろう。
 再び茂みを揺らしながら──音が大きいので隠れている意味がないが──遠ざかっていくジノンを見送った後、フォレイアは屋敷内に引き返した。
 厨房入口で中を覗けば朝食作りの真っ直中で、料理長が鬼気迫る顔で奮闘する姿が目に入る。彼の補助をしている料理人の一人と眼が合い、手招きして呼び寄せると、今朝の食事を携帯食に変えて自室に届けるよう命じた。
 公女自らが厨房に足を運ぶのは非常識である。貴族は下働きの者らの仕事場に足を踏み入れないのが通例だ。普通なら侍女を通じて命じるだけである。
 だが幼い頃から屋敷の厨房に出没しては菓子をくすねてきた前科がある彼女には下の者との接触は禁忌ではない。むしろ厨房脇の酒蔵庫から勝手に寝酒用の酒持ち出す公女と管理する料理人との攻防戦は日常茶飯事と化していた。
 顔を見る機会が多い分、料理人たちは公女に対して気さくである。その気安さで、朝食の変更を直接頼みにきても驚かれない程度の関係は築かれていた。
「さて、急がねばのぅ。従兄殿が痺れを切らさぬ前に出掛けねば」
 従兄弟だけあってジノンはフォレイアに似て気が短い。待たせれば勝手な行動に出るかもしれない。父に睨まれたのであればそういう暴挙は避けたほうが無難だ。が、苛立っているであろう彼がそこに思い至るか不安である。
 彼女は自室の衣装室に飛び込んだ。炎姫家直下の僧院に出入りしても恥ずかしくないが、華美すぎない外出着に着替えて無造作に髪を結い上げる。銅板鏡をチラとも見ないところから髪型には頓着していないことが窺えた。
 結い終わった指先はそのまま小物箱の蓋に伸び、中から幾つかの飾り護符トゥルクル腕輪リーテを取り出す。
 僧院に行くなら派手な装飾品は避けるべきだが、質素すぎても侮られるのだ。貴族出が多い僧院では身分に相応しい装いが好まれる。本来ならジノンも着替えたほうがいいが、同行するフォレイアが公女ということで余計な誹謗中傷にはさらされずに済むだろうことを祈るのみだった。
 飾り護符の一つが眼に入る。冴え冴えとした乾期の空を連想する鮮やかな青水晶の装飾品だ。幼い頃に贈られた品だと聞くが、詳しいことは知らない。
 姉が成年で修練に入る折、離れるのが厭で駄々をこねると、姉と揃いで飾り護符に加工されたのだ。姉は金細工で、妹は銀細工で、太陽と月を象った意匠の逸品である。姉がいない寂しさを紛らわせるためによく身につけていた。
「そういえば姉上が亡くなってからは身につけておらぬ。これを見ると、父上が不機嫌になるような気がして外してしまったのを覚えておるが……」
 無意識のうちにそれを手に取って首に巻き付けると、貴金属のひんやりとした冷たさが肌に染み込む。子どもの頃には大きすぎた品だが、今の彼女にはよく似合った。銅板鏡でそれを確認し、公女は微苦笑を漏らした。
「これを身につけていくのは父上への当てつけか?」
 やはり炎姫家に相応しい紅玉を使ったものに変えようか。一瞬はそう考えたが、フォレイアは結局その飾り護符を外すことはなかった。
 軽い靴に履き替え、全身を隠す覆布サーを羽織ると貴族令嬢の完成である。
 待っていたかのように控え室の扉が叩かれた。携帯食が完成したらしい。が、厨房の者は公女の部屋に入ってはこなかった。
 主人部屋手前の控え室扉の向かい側に花を飾る花高台が置いてある。その片隅に荷物を置くことになっている。今のノックはその合図だ。
 稽古に出たとき侍女は朝の仕事へと出向いている。公女の外出を見咎める者はいない。変わり者の主人に仕える者らが後で叱責されねばいいが。
 廊下を見渡して誰もいないことを確認すると、フォレイアは足早に屋敷を抜け出し、通りの角で待つ従兄弟と合流を果たしたのだった。