混沌と黎明の横顔

第12章:破陽の石と陰守の花 5

 ふと肩の力を抜き、彼は足許に横たわる女を見おろした。意識を失い、脱力した身体は軟体動物のように頼りなげに見える。その傍らに寄り添う小さな影の視線がどこか非難がましく感じられるのは被害妄想だろうか。
「ちゃんと助けてやっただろうが。そうつんけんした態度を取るな」
 赤毛の猫が緑柱石色の眼を細め、唸るように喉を鳴らした。ぐるぐると地を這うような喉鳴りには明らかな不満が含まれている。が、それを無視し、放浪者ファーンは腕に抱いていたむつきを椅子の座面に下ろした。
「俺を呼んだことが竜王人ドルク・リードどもにとって吉と出るか凶と出るかは奴ら次第だ。生憎と俺はお前のように可愛いかどうかで相手を判断するほど酔狂ではないからな」
 嫌味を言ってやったものの猫はまったく堪えた様子を見せない。それどころか、そっぽを向いて顎を反らす始末だ。主人をなんだと思っているのか。
「サッサとここを出るぞ。いつまでもアジェンティアの側にいても事態は改善されはしないんだからな。お前だってそれくらいは判るだろう?」
 しばらくの間、猫は不満げに眼を細めていた。が、最後には渋々といった態度で立ち上がり、主人の足許に歩み寄った。それでもピシリと立てた尾が主人の態度に無言の抵抗を試みているように感じられる。
「今のアジェンティアが無防備なことくらい理解している。ここは一時的に封印しておいてやるから文句を垂れるな。お前はどうしてそう見た目に左右されるんだ。こいつの外見に騙されると後で痛い目に遭うぞ」
 ブチブチと不平を漏らしながら放浪者が腕を振り、幾つかの呪文を唱えた。それが封印の合図だったのだろう。空気は凍りついたように鋭さを増し、封印の条件から外れた放浪者とその眷属を押しだそうと捩れ始めた。
「行くぞ。これ以上ここに留まっても無意味だ。次は逃げ出した阿呆どもを追いかけ回している莫迦者を捕まえねばならん。主人が陰守の花を使ったことにも気づかないとは眷属失格だが、アジェンティアの眷属をやっているだけでも頭痛の種だろうからな。この際は大目に見て助言をくれてやるさ」
 不遜な口調に猫が嘆息する。あまりにも人臭いその仕草に放浪者はムッとした表情になったが、何を思ったのか口の端を歪め、嫌味な笑みを浮かべた。
「そんな偉そうな態度でいていいのか? 俺がいなければ受けた恩は返せないぞ。俺からしてみれば今までの行為だけでお釣りがきそうなんだからな」
 赤猫は身体を硬直させ、見開いた瞳を激しく瞬きさせる。その表情があまりにも滑稽で、放浪者は思わず噴き出し、ゲラゲラと笑い出した。主人の態度が気に入らないのだろう。猫は怒りを多分に含んだ鳴き声で抗議した。
「判った判った。俺は約束を反故にするほど薄情じゃない。だが主人を顎で使おうというんだから相応の扱いがあって然るべきだ。相手を気分よく働かせなきゃならんのに、不平不満を漏らしているようでは従僕としては失格だぞ」
 言うだけ言って気が済んだらしい。放浪者は項垂れた猫を薄い肩に乗せると、鋭く指を鳴らした。その音が空気に溶け込まぬうちに周囲の景色が変わる。
「あぁ、やってるなぁ。あれじゃあ、周囲でどんな騒音があがっても気づかないはずだ。……爺が子守なんぞやるもんじゃないな」
 虚空に浮き上がった状態で放浪者はさらに上空を見上げていた。一見するとそこには何もないのだが、魔力を持つ者が目を凝らせば、空間が奇妙に歪み、時折ブルブルと震えていることに気づいただろう。
「なんとか閉じこめたが言うことを聞かないみたいだな。これは手間取るかもしれないぞ。ガキの説得なんぞは俺の仕事の範疇から外れるんだが。お前、それでも俺にやれっていうのか?」
 ナォン、と肩に乗る猫が鳴いた。十歳程度の少年ほどの体格でしかない放浪者の肩の上は狭かろうに、優雅に尾を揺らして主人と同じように頭上を仰ぎ見る猫の声に迷いなど一片もない。拒否されるなどとは考えてもいないのだ。
「本当に主人遣いの荒い奴だよ、お前は。俺の歴代の従僕の中でも屈指の出来だ。……何を偉そうに胸を反らしてるんだ。俺は一言も褒めてないぞ」
 あんな約束するんじゃなかった、とぼやきながら放浪者は再び指を鳴らす。鋭い音に共鳴したか、歪な閉じられた空間が大きく湾曲した。
 ──誰だ! だれだ、だれだ、だれだ、ダレダ、ダレダ……。
 幾つもの思念の声がこだまする。もはやそれは声とは呼べない騒音だった。いや、音としての美しさも完全に失っている。凶器になりかねなかった。
「不協和音ほど醜いものはないな。ガキの相手などしてる暇はないだろうに、そんなところに閉じこもってどうする気だ」
 ──ファーンか!? ふぁーんカ、ふぁーんカ、ふぁーんか……。
 狂ったこだまは一言一言に反応し、聞く者の神経を逆撫でる。これでは会話にならない。早々に対策を講じる必要を強く感じた。
 左肩に乗った猫を落とさぬよう、ゆっくりと右腕を頭上に持ち上げると、彼は歪な空間に向かって掌を翳す。
 じっと見上げた先はまだうねうねと歪み続けていた。やはり中で暴れている。
 慎重に観察して内部状況の検討をつけると、放浪者は自身に宿る魔力を右掌に集中させた。チリチリとした痒みを伴う熱が頭上の掌に集約されていく。その異様な気配を感じ取ったか、視線の先にある空間の動きが鈍った。
 右腕の周囲に巻き起こった風が大きな渦を描きながら異空間を飲み込む。外側からの衝撃に中にいる者たちが悲鳴を上げた。
 乱れたこだまが耳を聾するほどの凶器となって襲い来る。だが、それを予測していた彼は首の一振りで音の狂乱を粉砕してしまった。
 ──何を、する気だ!? 我らに仇なしたとて、意味はあるまいに!
 表情を無くした放浪者の顔は出来の良い仮面を連想させる。焦げ茶の巻き毛に覆われた白皙はくせきの美貌の中で、見る者を恐慌のどん底に突き落とす冷厳な瞳ばかりが眼を惹いた。
「ガキどもは気を失っただろう? 今のうちに隔離しておくんだな。繭まで連れていくくらいの間はそれで保つだろうさ」
 左肩の上で猫が居心地悪そうに身じろぎする。先ほどの主人の魔術にさしもの下僕も恐怖を感じたか、尾から背にかけての毛が逆立っていた。
 ──確かに、風壁に遮られたお陰で、この子ら平衡感覚が狂ったようだが。
「どうせ逃げ出した奴らは三百年未満のガキどもばかりだろう。磁場の乱れにはまだ身体がついていかない奴らだ。少し考えれば動きを封じる工夫くらい幾らでもあるだろうに何をしてやがる」
 下界は足許遙か遠い。普通の人間なら下を見た途端に眩暈を起こしそうだ。そんな蒼穹を、放浪者は足取りも軽く歩く。
 ──未来ある子らに怪我を負わせるわけにはいかん。こんな暴力的な……。
「何が未来ある、だ。飼い殺しにして生きたまま腐らせてるだけだろうが」
 空間の歪みを目の前に放浪者は皮肉げに口角をつり上げた。少年らしくない仕草に、長い歳月を過ごした者特有のふてぶてしさを感じ取れる。
 ──ここの大気はまだ我らに馴染んではいない。機が熟せば外へ出られるだろうが、それまではこの子らの翼を守るためにも隔離は必要だ。
「違うな。お前らは血脈の濃さが薄れるのを恐れているだけさ」
 誤解だ、と叫ぶ声にも冷笑で報い、放浪者は右手の指を鋭く鳴らす。再び異空間がブルブルと震え始め、内部から戸惑う気配が伝わってきた。
 ──な、何を……? やめろ、いったい何をする気だ!
 激しい振動が続く空間を睨む主人を横目に猫が嘆息する。相変わらずの人臭い仕草であったが、今はそれを見る者もいない。猫はふよふよと揺らす尾を振り子の如く揺り動かし、勢いよく焦げ茶の頭に叩きつけた。
「痛っ! お前、主人の頭を殴ったな!?」
 赤猫の首根っこを掴み、放浪者は眉をつり上げたが、主人の怒りにも恐れ入った様子も見せず、相変わらず彼の眷属は非難がましい視線を向ける。
「うるさいっ。気に入らない奴をご丁寧に助けてやる気になるか! ちょっとくらい扱いがぞんざいだからって文句を垂れるな!」
 猫の喉から地を這うような鳴き声が漏れた。半眼の恨みがましい視線と相まって、睨んだ相手を呪い殺しそうなほど殺気立っている。
「お前な! 主人を使うだけじゃなくって不平まで漏らすとはどういう……。あぁ、もう。煩い! ちゃんとやることはやってるだろうが!」
 いつの間にか異空間の振動は収まってきた。術を発動した放浪者の集中力で維持される力だったらしい。自身の魔術が消滅したことに気づき、彼は忌々しそうに舌打ちして、猫を自分の頭の上に放り上げた。
「お前という奴はぁ……っ! 次に邪魔したら生皮剥いで肉屋に叩き売るぞ!」
 言われたことの残酷さの割に猫は落ち着いた様子である。主人の言葉をまともに捉えていないのかもしれなかった。
「おい、中からサッサと出てこい! ガキの相手などしてる場合じゃないんだからな。お前がそこでもたついている間にも、アジェンティアは一人で勝手に暴走してあちこちでもめ事を起こして回っているんだぞ!」
 ──何かあったのか……? いや、そんなことより、どうして放浪者が我らに肩入れするのだ。少し前まで傍観者を決め込んでいたではないか。
「俺は俺のやりたいように動いているだけだ。お前らの指図を受けないと言っただけで、自分のやることにまで傍観者でいる気はない!」
 ──あれほど我らと共闘する気はないと言っていたのに? 我らの血筋も獣人の血筋も忌み嫌っていた者の言葉をどこまで信じていいものやら。
 嫌っているのはお互い様だ。放浪者は何度目か判らない舌打ちを繰り返した。
「アジェンティアが“陰守の花”を使った。そのときに俺のことでも考えていたんだろうさ。こっちは結界の中に引きずり込まれて大迷惑だ」
 実際には干渉できる機会を窺っていたのだが、それを相手にわざわざ悟らせる必要はない。頭の上でむくれている眷属もそこは同じ考えだろう。そして、効果を狙って発した言葉は相手の動揺を引き出すのに成功した。
 ──まさか! 陰守の花を使っただと!? 彼女にあれを操れる技術があるはずが……。あぁ、でも。いや、確かに魔術の残滓が遠くに感じられる。では本当のことなのか。アジェンティアは今どこに……?
 異空間の歪みが大きくなり、ボコボコと粟立つように震える。内部にいる者の精神的な揺れが空間全体に影響を及ぼしているのだ。その有様を眺めながら、放浪者は沸き上がった意地の悪い感情に口許を歪めた。
 そんな主人の態度が面白くないのか、猫の尾がピタピタと白い頬を打つ。
「お前……。本当にいい根性してるよな」
 苛ついて首を振ると猫は振り落とされまいと焦げ茶の巻き毛にしがみついた。
「えぇい! 髪を引っ張るな、はげるだろうが!」
 髪の毛に絡まっている猫を引き剥がし、放浪者は反抗的な態度でむくれている従僕を睨みつける。同じ緑柱石色をした瞳が火花を散らした。
 ──ファーン、そちらは主従で仲違いか? もめ事ならよそでやってくれ。
「こ、この……! せっかくの機会だったのに、お前のせいで台無しだ」
 目の前に据えた猫の鼻先に指を突きつけ、唸り声のような囁きを吐く。
 すっかり動揺から立ち直った相手から声をかけられるまで、一人と一匹は睨み合いを続けていたのだ。相手に物理的にも精神的にも揺さぶりをかけて、しばらくの間は嫌がらせをしてやろうと思っていたのに。
 ──アジェンティアが陰守の花を使ったとき、どうしてお前のことなど考える必要があったのだ? あの術は集中力がいるものなのに。
「判らないのか? 陰守の花と対を成すものが何か知らないとは言わせんぞ」
 呆れ果てた様子の放浪者が刺々しい口調で返事をした。もしかしたら異空間にいる相手はまだ完全には動揺から抜け出していないのか?
 ──“破陽の石”か。お前が施術した石の力を連想してしまったのだな。
「まったく迷惑な話だよ。意識を取り込む術の最中に考え事などしやがって」
 ──だが見捨てもせずに助けたのだろう? 我らに味方する気に……
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「なるわけないだろうが、このボケナス! 俺は獣人側の存在だぞ。なんだってお前らの肩など持たねばならん? 冗談じゃない!」
 まなじりをつり上げて怒鳴る放浪者の腕にしがみついた赤猫が深いふかい嘆息を吐き出した。
 ──だが、お前は竜王人としての力のほうが強い。それが獣人たちに煙たがられているのではないか。だったら、その力を使って我らに……
「貴様らに仕えるなど、まっぴらご免だ! 俺を莫迦にするな!」
 ──仕えろなどとは言っていない。我々に協力してくれと言っているのだ。
「何度乞われようと答えは同じだ。断る!」
 ──ではなぜここにいる? 我らに協力する気でなければ……
「協力などしない。利用させてもらうだけさ。俺は破陽の石に影響を及ぼせる立場にいる。あれは今のお前たちでは作り出せない石だ。それがどういうことなのか、お前たちにもいずれ判る」
 苛烈な態度を改めない放浪者に言葉を尽くす意義を見出せなかったのだろう。会話は寸断され、白々とした沈黙が流れた。
 そんな厭な空気を拭い去るかのように「ナァーオ」と猫の甘い鳴き声が響く。
「判っている。サッサと仕事に取りかかるさ。今日は邪魔なガキどもを繭に放り込みに来ただけだ。俺はまだるっこしいやり方などしない」
 再び右掌を掲げ、彼は高速呪文を唱え始めた。特殊な聴覚を持っていなければ聞き取れない音域の声音は奇妙な歌に似ている。彼の腕の中にいる猫は聞き惚れているのか、小さく首を傾げて眼を細めた。
 ──何をする気だ。この子らに怪我を負わせるようなら容赦しないぞ。
 詠唱が止まり、放浪者の右腕が冴え冴えとした青銀に輝き始める。急速な魔力の集中に周囲の空気から熱が奪われているからだった。白い腕自体には変化は見られないのに、辺りの空気は凍えきっている。
 ──イヤダ。セッカク、外ニ出タノニ。戻リタクナイ。イヤダ。
 ──何を言い出す。アジェンティアがそんなことを許すはずがないだろう!
 意識を失っていた者が覚醒したらしい。再び異空間から争う物音が響きだす。放浪者は最後に鋭く呪文を発し、高まった魔力を放出した。見えぬはずの次元の狭間が歪み、一方向に吸い寄せられていく。
「繭までの最短距離で道を開いた。トットと閉鎖空間に引っ込め!」
 裂け目に吸い込まれていく異空間から幾つもの悲鳴が上がった。その中心で騒ぐ者たちを落ち着かせるべく奔走している者の声が響いている。耳を覆いたくなるほどの騒音と異空間が歪む軋み音が空気を切り裂いていった。
 ──ファーン! こんな真似をしてただで済むと思っているのか!?
「ただで済むかどうかなど興味はないね。お前らは同族だった俺の親父を追放したじゃないか。俺のおふくろが獣人族だってだけでな。今さら俺を罰しようなんて了見を起こすな。俺はお前らの言いなりになんかなるもんか」
 相手の放った言葉をアッサリと切り捨て、放浪者は掲げていた右腕を下ろし、ホッと一息ついた。さすがに立て続けに魔力を放出すると疲れる。
「……あぁ? なんだよ、本当に主人遣いが荒い奴だな。もう次の仕事場へ移れっていうのか。少しは休ませてくれてもいいだろうが」
 腕の中で赤毛猫がジタバタと暴れた。どうやら高所があまり得意ではないらしい。やることがなくなったのなら早々に地面に脚を下ろしたいようだ。
 地上を動き回る人間が砂粒ほどにしか見えない場所というのは、確かに高所が苦手な者にとっては脅威であろう。空を飛んでいる楽しみを味わうどころではあるまい。げんなりしている主人に猛烈な催促をしているらしい従僕の様子からは、己の要求を何がなんでも貫き遠そうとする意地が読み取れた。
「まったく可愛くない奴。そんなに怖いなら着いてこなきゃいいのに。あー、はいはい。俺がサボらないようにお目付役なわけだな。だけど、これで判っただろ。ちゃんと仕事をしたんだから文句を言うんじゃない」
 さて次の仕事に向かうか、と呟きながら彼は異空間を飲み込んだ次元の裂け目の跡を振り返る。もうそこには何も見えず、僅かに異質な気配の残滓を感じ取れるだけだった。呆気ない消失は地上の誰も知らない出来事である。
「どっちつかずの者たちの気持ちなど、一生涯かかってもお前には判るまいよ。なぁ、長老タルク殿」
 放浪者はとうに消え去った者に答えを求めるように呟いた。が、すぐに気を取り直すと、素早く呪文を唱えて再び空間を移動していった。
 それぞれの気配の残骸がたゆたう空気が淋しげに感じられたのは気のせいか。それとも孤独こそが彼らの特権であるのか。その答えを明確に返せる者は、今はまだ存在していなかった。いや、これからも存在しないかもしれない。
 彼らはあまりにも孤独と親しく、孤高であることに慣れすぎていた。




「客人はどうしている。暴れないように繋いであるだろうな?」
 朝市の喧噪を窓の隙間から眺め、彼は物憂げに問いかけた。
「眠り香を焚いております。そう簡単には眼を醒ましませんよ。それに見張りも二重三重にとつけてありますので心配ないでしょう」
 答えたのは女の声。若々しい張りのある声音だったが、問いかけた者への返答にしてはどこか反抗的な印象を与える口調であった。
 部屋のほぼ中央に立つ女から窓辺に佇んで眼下を望む男の表情は見えない。見えたとて無表情な顔つきから内心を推し量ることは難しいはずだ。
 今の彼から内心を読み取ろうと思えば声を聞くしかあるまい。それとても確実に内心を察することが出来るとは言い切れないのだが。
「もうこの地での仕事はお済みですか? 終わったのであれば、シギナに引き上げる準備を始めたいと思いますが」
 沈黙に耐えられずに口を開いたのは女のほうだった。今回の首尾を報告した後、相手からの発言は数少なかった。褒め言葉など絶対にいらないが、何も言われないというのも気まずいものである。
「まだ仕事がお済みではないとなれば、次の仕事をいただきたい」
 この男のために働きたくはなかった。が、交わした契約はまだ生きており、一族からの助けがない以上、己の道は己で切り開くしかない。
 命令に従うのは自身のためであり、同時に一緒に働く同郷の者のためだ。男の許にはそんな弱小民族が何組もいる。己もそれらの一つでしかないと知りながら、顎で使われる屈辱に内心でほぞを噛んで怒りに耐えているのだ。
「まだ仕事は残っている。が、差し当たってのお前の仕事は女たちを見張ることくらいだ。潜入させた場所で顔を覚えられて戻ってくるなどという不手際は聞きたくなかったが、過ぎてしまったことを言い立てても仕方がない」
 申し訳ありません、と謝罪しながら、彼女は内心で舌を出す。本気で申し訳ないなどと思えるはずがなかった。潜入先で顔を覚えさせたのはわざとである。そこから新たな道筋を作るつもりでやったことだ。
 身を守るだけでは足りない。守られている場所から抜け出し、痛撃を与えねば逃げ切れる相手ではなかった。
「では見張りの仕事に就かせていただきます。ジョーガ様は今後どちらに?」
「自ら動くとなれば、場所はおのずと判ろうが。……供はつけるな、邪魔だ」
 報告だけで状況を信用はしないらしい。己の耳目で確認するために動くのだ。そう直感した彼女は頭を下げて主人を見送りながら内心で舌打ちした。
「あぁ、そうだ。お前の兄は昨夜あの館に行っていたはずだが、よもや接触はしておらぬだろうな? それとも秘かに連絡が取れたか?」
「客人に奥仕えの者が気安く近づけるはずもございません。あちらからも我が方からも姿を垣間見ることすらできませんでした」
 男の浅葱色をした瞳が面白げに細められ、嘲弄を含んだ微笑みが浮き上がる。
「それは残念だったなぁ。だが確かにその通りなのだろう。一族の鬼子がお前の姿を見つければ、今ここにいるはずもない。……いや、そう思わせておいて策にはめる算段をしてきた、とも捉えることができるか」
 疑惑はまだ続いているのだ、と直接的にこそ言いはしないが、主人の眼は飼い犬が叛意を抱くことを充分に察しているのだと彼女に悟らせた。下手な返答などしないことである。彼女は沈黙をもって返答に変えた。
「まぁいい。逃げた獲物を狩るには罠も必要だ。お前たちがどう動くか、これからじっくり検分しよう。せいぜい私を楽しませてくれよ」
 表情の通りに嘲けられたなら強い反発だけで済むだろうに、凍えた大地思わせる声は背筋が凍る割合のほうが大きかった。何を仕掛けてくる気だろう。
 考えに沈む間に怨敵の背は扉の向こうに消え、彼女は詰めていた息を解いた。
「直接の接触ができぬよう見張られていたことは知っていたけど、もしや間接的な接触にも気づかれたかしら。そうなると兄者の身も危険だわね。兄者ときたら仕掛けられた罠だと判っていても飛び込んできそうだし」
 兄と顔を合わせることはできなかったが、眠り薬を盛ったときに兄の知り合いとは接触を果たした。それはジョーガも予想の範囲内のはず。
 あのとき、囁きかけた言葉をかの人物が覚えているだろうか。覚えており、それを伝えていれば兄の身に降りかかる危険は増す。だが忘れているか、あるいは聞こえていなかったのであれば、兄は関わってはこないかもしれない。
 そのほうが良いのだろうか。兄に一族に降りかかる状況を知らせたくて思わず接触したが、もしかしたら、それはジョーガの思う通りの行動だったか。
「考えていても仕方がないわね。兄者が捕まらないよう祈るしかないわ」
 つい先ほどまで己の行動に間違いはないと思っていたが、今ではそんな自信は木っ端微塵だ。迷いに揺れながら彼女は仕事に戻るべく一歩を踏み出した。