混沌と黎明の横顔

第12章:破陽の石と陰守の花 4

 鈍い震えに襲われて意識が覚醒した。誰かが遠くで叫んでいる。何事かと起き上がって辺りに意識を伸ばすと、遙か遠くから凄まじい勢いでこちらに近づいてくる気配が伝わってきた。こんな騒々しい音を出すのは誰だろう。
「マーヴェ。マーヴェ・ファレス! マーヴェ!!」
 ひっきりなしに叫び、ウロウロと旋回しながらも徐々に近づいてくる存在にアインは小さく溜め息をつき、押し殺していた己の気配を解放した。
「マーヴェ! そこにいたのか!」
 弾むような勢いでこちらの意識に飛び込んできた叫びに、彼は己の聴覚機能を抑え込む。このままの騒ぎが続けば、この騒音に悪酔いしそうだった。
「いったい何を叫んで回っている、ターナ。お前は今、毛獣バウの意識に入り込んでいるはずだが」
「もう厭だ! 血の契約を解除する方法を教えてくれ。こんな忌々しい契約など今すぐに放り出してやるっ。我慢ならん!」
 唖然とするこちらの気配すら読めずに喚き続ける相手の声を意識から追い出そうとしたが失敗した。アインは小さくかぶりを振って悪態をつく。忌々しいのはこっちのほうだ。
「ターナ、言っておいたはずだぞ。血の契約を交わした以上、お前は契約主が死ぬまで側に仕えねばならん、と。その約定を違えることは許されないものだ」
「そんなことは判っている! だが、あの忌々しいチビにはっ!!」
「お前から見たら人間は誰も彼もがチビだ。いったい誰のことを言っている?」
「あの、白くてチビっこいのに決まっているだろうがっ!」
 火を噴きそうな絶叫にアインは今度こそ大袈裟な仕草で耳を塞ぐ。
「ちゃんとこちらの話を聞け、マーヴェ! なんだそのやる気のなさは!」
 猛烈な抗議にアインはあさっての方角を向き、あからさまな溜め息を吐いた。どうしてこうターナは堪え性がないのだろうか。もう少し忍耐というものをデラの元で学んで欲しかった。今さらどうしようもないのではあるが。
「私にせっつくより長老がたタルクスにお願いしたらどうだ。お前を可愛がっている方々が親身になってくださろうよ」
 吐き捨てるように返事をすると、今までの騒ぎが嘘のようにピタリと喚き声が止まった。今度は何だというのか。騒がしいのも困るが、静かすぎるのも不気味だ。アインはうんざりした気分でターナに向き合った。
 我が侭を言って何がしたいのかと問い質そうとしたが、相手の気配を読み取った途端にアインは押し黙った。どんよりと曇った感情が空気の隙間に入り込み、この場の支配者であるはずの自分すら憂鬱な気分にする。
「どうした……? 何があったのだ。馬鹿げた我が侭を言うためだけに、私のところに乗り込んできたわけではなさそうだな」
 そもそも血の契約を破棄したいなどとごねても、それが聞き届けられないことくらいターナもよく理解しているはずだ。それをわざわざ言い立てて来るのである。何か別の、口にしづらい用件があったと判断してもよかろう。
「黙っていたのでは判らん。無理に記憶を読み取られたくはあるまい。私が聞く気でいるうちに喋ってくれ。今の私はそう気長ではないぞ」
「どうせ我は力押しばかりが能のヒヨッコだ。マーヴェも年寄り連中の掌の上で遊ばれておればいいと思っているのだろう?」
「何もそこまでは言ってない。私のところに苦情を持ち込まれても対処できんと言っているのだ。お前だってそれくらい判るだろうに」
「皆、我ひとりでは何もできない子どもだと思っているのだ!!」
 拗ねているのか! ターナは完全にへそを曲げていた。先ほどの発言だけでこれほど不機嫌になるとは思えない。これまでに何かあったのだ。
 相手の気配に触れようと意識の触手を伸ばすが乱暴に遮断される。自身の殻の中に閉じこもってふてくされるターナの子どもっぽい態度に溜め息をつきたくなった。が、そんなことをしたら火に油を注ぎかねない。
「お前が腹を立てているのは、その白いチビだけではないな? 他の誰に何を言われたのだ。まさか長老タルクがお前に何か言ったのか? それとも人の嫌がらせが厳しいのか?」
 水が不足して萎れてしまった草木のようにしょげ返るターナに色々と声をかけてみても、期待するような言葉は返らなかった。どうしたものだろう。怒鳴ればさらに頑なになりそうだし、なだめすかすのは得手ではなかった。
「もしや契約主ともめ事でも? だから白いチビと諍いを起こしたか?」
 白くてチビっこい奴がターナの契約主に雇われている存在だったことを思いだし、アインは相手の内心を汲み取ろうと言葉を重ねる。ともかく、ここへ来た理由を正確に把握しなくては何も始まらないのだ。
「他の人間には平気な顔をして大嘘を吐いても、ヤウンは我にだけは正直だ」
 だったら何を落ち込む必要があるのか。問題なく過ごしているのではないのか。なぜ人間と揉めるようなことになったのか。さっぱり判らない。
「いっそ、ヤウンが腹が立つほど厭な奴だったらよかった。それなら、こんなに気が滅入ることなどなかったのだ! 他の奴らにやるように嘘でもついてくれたほうが気が楽だった! どうしてヤウンは我に嘘をつかない!?」
 そんなこと知るわけがない。アインはこっそり溜め息をついた。
「嘘をついたらお前に殺されるからではないのか?」
「そういうひねた気配すらないんだ!」
「だったら、私に判るわけがないだろうが。そんなに気になるなら本人に直接聞きにいけばいい。嘘をつかないというのなら正直に答えてくれるだろう」
「そ、そんな真似ができるかぁっ!」
 肩をすくめて──精神だけの会話であるから、正確には肩をすくめたふりをして──アインは素っ気なくターナの叫びを無視した。だんだん鬱陶しくなってきたが、叩き出したりすればさらに騒ぎが大きくなることが予想される。
「ターナ……いや、リーヴァ・セラ。お前はいったい私にどう言って欲しいのだ? そもそも、お前は何をしに来たのだ。いい加減に正直に話せ」
 真名ルーン・ガルドを呼んで強制などしたくはないが、このままでは埒があかなかった。多少は強引でも核心を掴まねば、この年下の同僚は延々とここに居座るだろう。
 しかし、しばらく待ってもターナが口を開く様子はなかった。
「言いたくないのか? それとも、私の邪魔がしたかっただけか、どちらなのだ? 何も言わないのならサッサと出ていってくれ。私にはやることがある」
 暇ではないのは事実である。これ以上はつき合いきれない。背を向け、相手から関心をはずそうとしたとき、背後の気配が弱々しく震えた。
「ヤウンが殺されかけた……」
 ぽそりと出た言葉にアインは振り向く。その一言でおおよそのことが判った。契約主の危機を助けたのはターナではないのだろう。そして、それを白いチビに詰られたのだ。自らの力を信じるターナにとっては屈辱だったか。
「お前の実力なら挽回する機会はこれからいくらでもあろうが。それとも契約主から契約の解除の申し出でもあったのか?」
 首を振る気配にアインは虚空を仰ぎ見、自分の髪を乱暴に掻き混ぜた。
「そんなに気になるなら素直に謝罪してこい。お前の契約主ならそれで許してくれるだろう。これで一件落着だと思うぞ、ターナ」
「我に助けすら求められなかった。それなのに謝罪してどうする?」
 そういうことか。ようやくターナの落ち込みの全容が見えてきた。
 契約主の危機を救えなかっただけでなく、助けすら乞われなかったらしい。もっとも契約主にしてみれば人の争いに精霊を巻き込む気などさらさらなかったのだろうが、ターナにしてみれば無視されたようなものだ。
 挙げ句に他人に役立たずとでも誹られたなら、己の力を信じてやまないターナにとっては、不本意などというものではなく、存在を全否定された気分だろう。こういうときターナの経験の薄さが惜しまれた。
 長老たちのやり方を否定したくはないが、ターナの意識を封じたまま知識だけを与え続けたのは間違いなのだ。精霊とて経験から学んでいくことは多い。その機会を奪ってはいけなかったのである。
「ターナ。お前が今やらねばならないことは私のところに来て愚痴ることか?」
 座り込んで肩を落とすターナの気配を探りながらアインは話しかけた。慰める言葉など持たぬ身だ。よくやっている、と褒めてやることもできない。今できることは突き放してでも経験を積ませることだけだ。
「己がやるべきことをやっているという自負があるのなら他から聞こえる声など無視すればいい。だが誹りが気になるのであれば、その声を封じるだけのことをやれ。お前の力を相手に必要とさせる努力を怠るな」
 存在を否定されたのであれば必要とさせるだけの存在感を示さねばならない。そうでなければ契約を交わした意味はなかった。
「……どうやって?」
「まずは鬱陶しいと思われるくらい話しかけることだな。相手がこちらのことを知らぬから存在を忘れられるのだ。相手の意識の片隅に常に存在するくらい話しかけてみろ。力を誇示するのはその後だ」
 萎れきったターナの声にアインは再び溜め息が出かかったが、それを飲み下して根気よく言葉を重ねることにした。気長ではないと断ったはずが、よくもまぁここまでつき合っているものだと我ながら呆れる。
 今まで考えたこともない事態に怖じ気づくターナの気配を察したが、アインはここに転がり込んできたからには見逃してやる気はなかった。
「ど、どうして我のほうから話しかけねばならないのだ。そんなものヤウンから話しかけてくればいいことではないか!」
「契約主は話しかけてこないのか? 違うだろう? どうせ話しかけてくる契約主にお前が嫌々つき合っているのではないのか」
 否定する言葉が見つからないターナの気配を読むよりも簡単な推測である。この性格では素直に自分から動くことはないだろうと察した通りだった。
 契約主のほうは話しかけているのだ。次はターナが応える番だ。鬱陶しいと嫌われるかもしれない。上手く関係を保てるかもしれない。それはターナ次第だ。が、やることをやらずに進展など望めないことだけは確かだった。
「契約主の意識にしがみついて離れぬことだな。どうせ血の契約が生きている間は離れることはできないのだ。知らぬことはないというほど張り付け」
 己の経験から導き出した助言がどこまで活きるか判らない。だがやらずに後悔するくらいなら行動して後悔したほうがいいのだ。
「そんなことをする必要があるのか?」
「やりたくないのなら無理には勧めない。だが、それなら私から助言することは何もない。話は終わったから出ていってくれ」
 今度こそ相手に背を向け、アインは素早く自分の意識の底へと沈んだ。背後からは再び喚き散らす騒音が聞こえたが、いつまでもつき合ってはいられない。アインにもやることがあり、それに割ける時間は決して多くはないのだ。
「そんな馬鹿げたやり方で何が変わるというのだぁっ!!」
 悲鳴に似た怒鳴り声にアインは苦笑を漏らした。それは相手には感じ取れぬ気配である。もしターナに察するだけの機微があったなら、自嘲混じりのそれに、助言の裏側にあるアインの過去を察したことだろう。
「貴様のことを、番人が気に掛ける、理由が、さっぱり判らぬわぁっ!」
 とぎれとぎれに聞こえてくる喚き声から、アインはターナの置かれた複雑な立場を察した。ターナはとうとうアジェンティアと接触したのだ。長老は我らの支配者とターナとの邂逅を喜ばぬであろうが避けられぬことである。
 そしてアジェンティアが接触してきた理由をも察し、今度は刺々しい嘲弄混じりの苦笑いを浮かべた。随分と甘く見られたものだ、と。
「アジェンティア。私があなたの思惑に乗るとでも思ったのか? 我が主人の魂すら守れぬようでは、私が私足り得る意味などなくなるものを」
 もう切れ切れにしか聞こえない喚き声を振り返り、アインは眉根を寄せた。
「ターナがアジェンティアと接触したということは、私をここから引きずり出す気でいることは間違いない。それを実行しないのはターナの意地か。だが長老が動けばターナも重い腰を上げざるを得ない。その前に……」
 ふと口をつぐみ、アインは周囲を見回す。風が動いたような気がした。この場所に風が吹き込んでくることなどあり得ないのに。
「なんだ……? いったい何が起こった?」
 ──思ったより元気そうじゃないか。送った剣は気に入ったか?
 ギクリと背筋が強張り、アインは用心深く声が聞こえた方向を振り返った。
 ゆらゆらと黒っぽい影が青い炎をまとって佇んでいる。鮮やかな空色の炎に包まれ、涼しげな声を発する人物に一人、心当たりがあった。
放浪者ファーン。“私”と接触したか。だが、どうやって……」
 ──アジェンティアがお前を抱いて逃げ回ってるのさ。バチンは血相変えて追っかけ回してる。複雑な結界の魔法陣でも描く気なんだろうが、バチンとやり合ってへたばっちまってるんじゃお粗末なものだ。
「アジェンティアが私を……? 彼女は無事なのか?」
 ──自分の本体の心配しろよ。莫迦な女たちに振り回されてるってのに、何を暢気に女の心配なんぞしてやがる。頭悪ぃのか、お前は。
 アインは大袈裟な仕草で肩をすくめ、相手の悪態を聞き流した。相手の口の悪さは機嫌が悪いときの癖だ。まともに受け取っていたのでは神経が保たない。
「私がこうしているということは本体は無事だ。それが判ればいい。だが彼女の無事は自分の眼で確認できないのでな。……で、アジェンティアは?」
 ──気絶してるさ。力を暴走させたからな。放っておいてもそのうち気づく。
「では、どうしてその場を去らない? 天敵の側になどいたくはないだろう」
 アジェンティアとは疎遠なはずの放浪者が傍らにいる。それが解せなかった。彼は何をやろうとしているのだろう。
 ──きれいな女の子を放置するなど言語道断、なんだそうだ。
 誰がそんなことを? 疑問が相手にも伝わったのだろう。それまでの不遜な声に苦々しさを混ぜ、ぽそりと彼の眷属の名が伝えられた。
「アジェンティアは放浪者の眷属と面識はあるまい? それに彼女の命の恩人ではなかったはず。いったいどんな理由があって……?」
 訳が判らない。だが、放浪者の次の言葉に噴き出しそうになった。
 ──アジェンティアがお前の世話をしないとお前が困るからだそうだ。お前に何かあると宿主にも問題が発生する。そして、その宿主はこのチビの恩人だ。
 チビと罵る眷属の恩人にまで手を尽くす辺り、放浪者も義理堅い性格である。
 ──何かあったときには手助けすると約束したからな。それで? 答えをもらっていないが、送った剣の使い心地はどうだ?
「これは放浪者殿の仕業だったか」
 片腕を振り上げて少し前に手に入れた剣を掲げて見せると、アインはニヤリと口の端をつり上げた。手に馴染む剣の威力は抜群で、結界を作り上げる補助には最適である。不安定な場が随分と安定していた。
 ──お前のためにあつらえたわけじゃない。チビが煩く騒ぐから、お前の宿主のために作り上げた代物だ。大切に扱え。でないと、逆に宿主を殺すぞ。
「心得ておこう。大っ嫌いな私に助力する屈辱に甘んじている放浪者殿に存分に感謝を差し上げたいが、どのような言葉をお望みかな」
 ──いらん、そんな気色の悪いものは。サッサと片を付けて宿主から離れろ。
 うんざりした声の背後からナォンと甘く鳴く声が聞こえてくる。主人の刺々しい態度に抗議する眷属の姿が目に見えるようだった。ゆれる人影の近くに小さな影は見えないが、きっと足許で抗議しているのだろう。
「では放浪者殿の期待に応えるべくジャムシードを鍛えることにしよう」
 影が腕組みし、ふんぞり返らんばかりに胸を反らした。
 ──宿主殿にはみっちりと剣の腕と魔道の腕を上げてもらってくれ。そうでなければ剣を送った意味がない。それに……いや、まぁ、いい。
 言葉尻を濁した放浪者の影が薄れていく。術の限界にきているのだろうか。
「報酬は何を望む? ただでこれだけのことをしたわけではあるまい」
 ──恩人に報いただけ、だそうだ。お前には関係のないことだな。
 少しずつ声が遠ざかっていく。もしかしたらアジェンティアが意識を取り戻しつつあるのかもしれない。天敵の傍らで術中の無防備な姿をさらしたくはなかろう。だから魔術を収束させようとしているのだろうか。
 だが、どうしても納得できないことを聞く時間くらいはあるはずだ。
「ジャムシードはこれだけの待遇を得られるほどのことをしたか? 眷属殿は何か勘違いしているのではないのか?」
 ──いつ、どれほどの返礼をするか、はチビが決める。それが俺たちの流儀だ。お前に返す必要はないが宿主に必要とあらば手を貸す。それだけだ。
 短い沈黙の後にもたらされた返事は、やはりアインは納得できなかった。
「あり得ない。第一、ジャムシードはほとんど何もしては……」
 ──彼は必要なことをし、同時に何もしなかった。それも大切なことだ。何かすることが総てではないからな。
 いよいよ声は遠ざかり、人影もほどんと見えない。喚き散らしていたターナの騒音も消えており、今は痛いほどの静寂が戻ってこようとしていた。
「何も、しない……? バカな。あり得ない、そんなことは……」
 呟きに答える声は聞こえてこない。放浪者の術は解かれてしまったようだ。返ってこない答えを待ち続けるかのようにアインはしばらく立ち尽くしたが、困惑を振り払うために頭を振り、掌中の剣を頭上に掲げた。
「今の段階で考えても判らぬことに頭を悩ませるのはやめておこう。やらねばならぬことを進めるほうが建設的だ」
 自分に言い聞かせるように呟き、彼は白刃を虚空に閃かせる。キラキラと光を振りまく剣の軌跡は優美な曲線を描いた。踊るアインの顔は真剣で遊んでいるとは思いがたい。それは名うての舞姫が供する剣舞の如き鮮やかさだった。
「これで……ひとつ、完成だ」
 呟きが途切れると同時に刃が振り下ろされ、鐘の音に似た金属音が辺りに響き渡った。白刃の軌跡は煌めきの残滓となって虚空を漂い、水面に舞い落ちた淡雪を連想させる儚さで空気の中に溶けていく。
 思い描いた通りのものが完成し、それが充分に機能を果たしていることを確認すると、アインはゆっくりとした足取りでその場を離れた。
「次はもっと奥へ……。あぁ、だが……しかし。これを持ってあそこに入り込んだら、ジャムシードの意識はまた……」
 異質な剣を見おろし、彼はしばし途方に暮れた顔をした。己が今からやろうとしていることは必要なことだと理解している。だが、そのために利用している剣が厄介なことを引き起こしそうな予感がしていた。
 置いていこうか。ふとそんな考えに取り憑かれた。が、目的を果たすためには剣を利用したほうが確実である。失敗を避けたい身としては置いていくという選択肢はあり得ない、と理性が強烈に囁きかけていた。
 空いた手で前髪を掻き上げ、深い嘆息を吐き出しながらアインは瞼を伏せる。迷っている暇はないのに迷いが生じていた。
「ジャムシードのためだと言いながら、私がやっていることは結局は一族を守るための行為でしかないか。……アジェンティアと変わらないな」
 確実性を選ぶか、宿主の精神を守ることを選ぶか。あぁ、だが判っているのだ。どちらを選ぶべきなのか。判っているからこそ迷う。そして、迷いが己自身をも追い込み、さらに時間を削っていくのだ。
「今一度ジャムシードに苦しみを与えるのか。引き裂かれる苦痛は計り知れぬというのに。自らの存在理由に疑問を持つ彼に、その理由を与えることを口実に、私は再び偽善者を装うというわけだ」
 頬を歪めたアインの表情は怒っているようにも、泣いているようにも、嘲笑っているように見える。ところが、そんな複雑な表情すらも次の瞬間には消え失せ、彼は今の懊悩を感じさせない一歩を踏み出した。
「恨まれるのには慣れている。今さら呪詛の言葉がひとつ増えたところでなんだというのだ。互いが生き残るための最善を尽くすと決めたときから、私はジンとなる道を選んだのではないか。今になって泣き言をほざくなぞ許されん」
 進むにつれ静けさに混じって破壊音が伝わった。何かを叩き壊そうと暴れている者がいる。それが何者であるかを推察し、アインは鋭く舌打ちした。
「やはりここに回っていたか。早く結界を補強して入り込めないようにしておかなくては。この箇所を食い破られたら防ぎようがない。……ここはジャムシードの意識の中でももっとも脆弱な部分だからな」
 剣を持ってきたのは正解だったのだ。そう心で言い訳をしながら、アインは再び優美な剣舞を舞い始めた。虚空に舞う軌跡の残像が溶けていくごとに空気は熱を持っていく。温みを頬に感じながら彼は表情を歪めた。
「ファーン、もしや知っていて剣を寄越したのか。より確実にジャムシードの意識に食い込ませるために。だとしたら私はなんという残酷な真似を……」
 言葉と心は繋がる。が、同時に裏切りもする。
 王太子の正直さに戸惑うターナの叫びが今頃になって思い起こされた。
『いっそ腹が立つほど厭な奴ならよかった』
 その通りだ。嫌悪する相手であれば、こんな罪悪感など抱かぬものを──!