混沌と黎明の横顔

第12章:破陽の石と陰守の花 1

 痛む頭をクッションに落ち着けたまま、アルティーエはうっすらと目を開けた。室内がほんのりと明るくなっている。ようやく夜明けを迎えた時刻だろうか。雨期が終わる季節とはいえ、まだ夜明けの空気は冷たい時期だった。
 泣き疲れて眠った後の目覚めは最悪だ。こんなに惨めな気分で朝を迎えるなど、これまでにはなかっただろう。
 最悪、と口の中で呟いてみたが、その最悪を思い出すとさらに気分が悪くなる。思い出したくなかった。いっそ眼を醒ますことなく昏々と眠り続けていられたらいいのに。いや、今はそれすら迷惑でしかない。
「ヤウン、きっと怖かったでしょうね……」
 起きあがりたくなかった。ひどく頭が痛くて。どうしようなく痛くて。考えなければならないのに、考えることが億劫で億劫で。
「どうして生きてるのかしらね。もうヤウンには影武者も必要ないし、わたしがいなくても大丈夫なのに。なぜ生かしておくのかしらね」
 乾いた嗤いが喉を震わせた。泣く力がなくなると人は笑うのだろうか。それとも笑うことでしか正気を保っていられないから笑うのか。あるいは逆か。
 まるで呼吸困難に陥ったように断続的な嗤いをこぼしながら、王女は天井を見上げた。幾何学紋様の彫り細工が暁光の中で深い陰影を刻む。
「お母さまも身代わりは不要だとお考えのはずだわ。政略の駒にならぬ娘など、あの人には必要ない存在なんだもの」
 母親が息子のサルシャ・ヤウンほどには娘のアルティーエを愛していないことなど、とうの昔に知っていた。表立っては双子の姉弟に同じように愛情を注いでいるように見えるだろうが、受け取る本人にはその差は歴然としている。
 同じ我が侭を言っても、アルティーエの我が侭は受け流され、サルシャ・ヤウンには根気よくつき合う。それが王妃シヴェラリアーナの態度である。
 アルティーエの我が侭を聞き届け、周囲と上手く均衡をとってくれたのは皮肉なことに弟のヤウンだった。姉と同じ我が侭で駄々をこね、姉が勝ち取ることができなかった我が侭を双子の当然の権利として二人で分け合ってきた。
『アルティーエ! 僕のを半分あげる。ほら、これで一緒!』
 無邪気さを装った子どもの顔の下に強かな策士の顔を持つサルシャ・ヤウンを知っている者はどれほどいるだろうか。幼いながらも他人を観察することをよく心得ていた。それが王宮で生き抜く術だったのだが。
 弟のおこぼれがあればこそ生きてきた、という部分がいくつもあった。
 国王の跡継ぎと認められるために、母である王妃はサルシャ・ヤウンがどれほど幼くとも公式行事に引っぱり出す。それでも体調が優れないときには、アルティーエを王子の影武者に仕立てて乗り切ってきた。
 王妃が娘の存在を認めるのは息子に絡んでいるときだけ。息子からの進言があれば娘の言葉にも耳を傾けるが、それ以外に興味を引くことはない。それが昔から当たり前のことだったのである。
 王子が水姫公に師事して兵学を学ぶことになったとき、アルティーエがユニティアから菓子作りを習えるようになったのも。
 ヤウンが元炎姫公女にして水姫公妃から史学を学ぶことになり、王女が護身術をワイト・ダイスから教わることになったのも。
 王太子が王国正統剣術を黒耀樹公から学ぶことが決まったとき、王の娘がラシュ・ナムルを相手に多面双六で暇つぶしをしていたことも。
 淑女らしくない趣味を認め、さも当然のように彼女にその時間を与えてくれたのは父でもなければ母でもない。彼らは自身のことで手一杯だったのだから。
 ぎくしゃくした父母の間で、国王夫妻の絆を強固なものに見せる代償のように、弟が上手く立ち回って手に入れてくれたものだった。
 母の気に入りの息子。その姉で、息子の身代わりになる、有能で少々おてんばな娘。その立場は昔も今も変わらない。それを演じ続ける限りは王宮に居場所があった。これからもそうしなければならなかったはずなのに。
「疲れた。わたしはヤウンのように強くはないの。本当に、疲れたわ」
 足枷になるつもりなどなかった。潔く己自身でけじめをつけてしまおう。それが一番だ。重荷になるくらいならいっそ、スッパリとすべてを捨てよう。
「ヤウン。わたし、わたしでいなくてもいいかな。もうやめたい」
 物わかりの良い娘でいたくなかった。溌剌とした姉でいるのも厭だ。少し変わり者だが愛らしい王侯貴族の令嬢であることにもうんざりである。
「わたしにもわたし自身が何者なのか判らない。だから、もうやめにしたい」
 終わらせてしまおう。何もかも終わらせてしまおう。間違いを正すのだ。
 力が入らない体を引きずるように起こし、アルティーエは明け初めた光に照らされた室内をのろのろと見回す。片隅に水差しが置かれ、その傍らに艶やかな光沢を放つ果物と冷たく光るナイフの存在を認めた。
 立ち上がる気力はなく、彼女は腰と腕の力だけでにじり寄っていく。まるで足腰が弱った老婆か腰が抜けた者のような心許ない動きだった。
 それでも移動する動作が止まることはない。羽毛が詰まったクッションの山をいくつも乗り越え、アルティーエは着実に目的の場所へと近づいた。
 もう少し。あと少しで手が届く。冷たい金属を手にしたなら、王女の希望は叶えられるはずなのだ。あとほんの少し。腕をめいっぱい伸ばせば……。
「水をご所望ですか、アルティーエ姫?」
 突然、頭上から降り注いだ静かな声に彼女は全身を強張らせ、おそるおそる首を捻って傍らに立つ人物を見上げた。
「アイ……レン? いつからそこに、いたの?」
「少し前に。殿下がクッションから身を乗り出された辺りから、です」
 音もなく跪いた女騎士がアルティーエの身体を易々と抱き起こす。抵抗する間もなかった。唖然としている間に水を満たした深杯が手渡される。澱みのないアイレンの所作は元奴隷とは思えない洗練さを感じさせた。
 促されて口をつけた深杯の水はほどよい冷たさで、知らぬ間に乾いていた喉を一気に潤してくれる。干涸らびている心も瑞々しく甦らせてくれたらいいのに。そう思えるほどには、まだ正気は保たれていることに気づいた。
「朝食までに時間がありますから、こちらもどうぞ」
 水を飲み干している短い間に皮を剥いたリンゴが差し出される。このリンゴも去年の乾期の終わりに収穫したものを城の地下貯蔵庫で保存しておいた貴重なものだ。ふんわりと甘い芳香が鼻腔を満たす。
 空腹ではない、と顔を背けても、アイレンは一口大に切り分けた欠片を遠慮なく口に放り込んできた。強引であるが、不快にさせない巧みさである。
 親鳥に餌を与えられる雛のように何度もリンゴを口許に運ばれ、アルティーエは諦めの境地でそれを咀嚼し続けた。
 声をかけられた直後に部屋から出ていくよう言えば良かったのである。そうすれば煩わされることもなかった。しかし、そのきっかけを失った今、王女は惰性で口を動かし、女騎士の手に収まっているナイフを見つめるしかない。
「落ち着かれましたか?」
「わたしはずっと落ち着いてるわ!」
 アルティーエは反射的にアイレンのシナモン色の顔を睨んだ。
「いえ、腹は落ち着きましたか、と申し上げたかったのです」
「お腹は空いてないって言ってるでしょ!」
「そのようには見えませんでしたが、充分であればもうこれはよろしいですね」
 王女のために用意されたリンゴの残りを無造作にかじり、アイレンは小さく首を傾げながら咀嚼し、嚥下していく。放っておけばリンゴは褐変して味が落ちるだけであるから、食べてしまったほうがいいに決まっていた。
 しかし、目の前で旨そうにリンゴをかじる女騎士の様子に、アルティーエは思わず唾を飲み込む。本当に空腹ではないのに、なぜか目の前のリンゴをもう少し食べたくなった。この世の最後の食事になるからだろうか。
 最後の欠片を口に放り込もうとする指先からそれをかすめ取り、王女は素早く口に放り込んだ。アイレンの体温で温くなった欠片は締まらない味だったが、どこか懐かしいように感じる。この味、どこで味わったのだろう。
 首を捻りながら過去の記憶を掘り返していると、掌中の深杯を取り上げられ、水を満たして差し出された。まったくもってそつのない動きである。
 頑是ない幼子にでもなった気分だ。自分では何もできない幼女であったなら、アイレンの至れり尽くせりの世話は当然のこととして受け入れることができただろう。しかし今の王女には鬱陶しいだけだった。
「もういいわ。朝食は遅めでいいから、もう一眠りさせてちょうだい」
 早く一人にして欲しい。決心が鈍らないうちに事を済ませてるのだ。それには他人の存在は邪魔でしかない。
 しかし、立ち去ろうとしたアイレンの手に果物を盛った銀盆とナイフが収まっているのを見つけ、アルティーエは思わず呼び止めた。
「ちょっと待って! それをどこに持っていく気? ここに置いていって!」
「いいえ。こちらは下げさせていただきます。朝食までの時間を考えれば水だけで充分でしょうし、お休みになるのなら必要のないものです」
 一人になる口実に使った「一眠り」が仇となった。ここで強引に置いておけと言い張れば、相手に不審を呼び起こしてしまう。後で様子を見に来られでもしたら邪魔をされるのは必至だ。どうしたものだろう。
 何かなかろうか、と室内を見回した王女の視界にベッドの天蓋幕をまとめておく飾り紐が目に入った。たっぷりとした薄幕をまとめている紐の長さはかなり長そうである。あの紐を数本を繋ぎ合わせれば……。
「判ったわ。それは下げてちょうだい。眠るからしばらく邪魔しないで」
 昨夜はベッド脇のクッションに埋もれ、その上から柔らかな羊毛の毛布をかぶって寝てしまったようだが、今回はベッドに入ったほうがよかろう。天蓋を下ろしておけば邪魔も入りにくいというものだ。
 アイレンのことなどすぐに頭から抜け落ちた王女は、天蓋幕を自ら下ろして飾り紐を手に入れた。小指ほどの太さがある紐を数本使って組んである飾り紐は思った以上に丈夫そうである。
 見上げた天蓋の裏側には横木が走っていた。あれに引っかければちょうどいい。ベッドの上に立ち上がり、アルティーエは横木へと手を伸ばした。
 そっと揺すって確認してみる。王女一人の体重を支えるには充分だ。時間を惜しむように飾り紐を横木二本に渡し、彼女はもどかしげに紐の先端を固く結んで輪にした。太い紐はひどく結びにくい。が、どうやら大丈夫そうだ。
 後は足場になりそうなものを用意し、紐の輪に首を突っ込み、足場から身を投げ出せば終わりである。簡単なことではないか。
 死へと突き進んでいるというのに、うきうきした気分で考えを巡らせた。
 さぁ、足場には何を使おうか。ベッドの上に引っ張り上げるとなると椅子では大きすぎた。何より、この部屋に椅子などなかったはず。小道具を入れておく収納箱を使えばちょうど良さそうだ。
 思い立ったらすぐに行動である。アルティーエは天蓋幕を引き開け、壁に穿たれた窪み棚アルコーブから持ち運べそうな箱を引っぱり出し、いそいそとベッドへと運んだ。
 ふかふかの寝具の上に置いても転がらないだけの重みが収納箱にはある。これなら上に乗っても問題なさそうだ。しかも蹴り転がせば動かせる。
 これで何もかも終わらせることができる。ホッとして、王女は知らぬ間に強張らせていた肩の力を抜いた。準備は整った。後は実行するだけである。
 ふと残していく弟の顔が脳裏を過ぎった。彼は泣くだろうか。それとも怒るだろうか。あるいは呆れ果てるだろうか。そのどれもがあり得そうだ。
「ごめんね、ヤウン。でも、あなたなら大丈夫よね」
 あぁ、思い出した。生温いリンゴの味。あれは弟とお忍びで城下町に出たときに二人で分け合って、交互にかじったリンゴの味だ。あのときは自分たちの未来は輝かしく、希望に満ちていることを疑いもしなかった。
 あの頃が一番楽しかったのかもしれない。あの頃に一生分の幸せを使い果たしたのかもしれない。あの頃に、すべてを置いてきてしまったのかもしれない。
 断言しきれないのは、どうしてだろう。子ども時代の記憶は鮮やかで、何より楽しかったはずなのに。なぜ一番楽しかったと断言できないのだろう。
 ノロノロと腕を上げ、頼りなく垂れ下がった飾り紐を掴んだ。絹糸を撚り合わせて編み上げられた飾り紐は滑らかで、すべすべとした手触りが気持ちいい。それを親指の腹で何度も撫でながらアルティーエは暗い瞳で天蓋を見上げた。
「女だというだけで陰に押し込められ、顧みられない。これ以上一緒にいたらわたしはヤウンを憎むわ。同じ顔なのに、これほどに差がつくのだもの」
 双子の片割れには感謝している。彼がいなかったら、王女としてやっていけなかっただろう。強気を装って気丈に振る舞ってはいても、内心は途方に暮れ、困惑を重ねてここまできた。他人が望む姿を演じるのに疲れ果てた。
 王女というだけで大切な人を失っても感情を乱さず、狼藉を働かれても傷ついていないと胸を反らさねばならない生活などもうたくさん。
「ヤウンが王になる前に消えるわ。他人の悪意に染まるのはもう厭よ」
 両手で紐を握り、王女は踏み台代わりの箱の上に乗った。目の前では紐の輪が彼女を飲み込もうと口を開けている。何もかも、これで終わる。これ以上、惨めな思いをすることも、嘆くことも、憎むこともしなくていい。
 アルティーエはゆっくりと顎を反らし、自分の下顎に紐を滑らせた。
「縛り首になった囚人の死体を見たことがありますか、殿下」
 ひっそりとした声が意外と近い場所から聞こえ、王女は僅かに動揺する。が、すぐに気を取り直して紐を自分の首筋まで引き寄せた。
「彼らは幸いなほうです。処刑台の落とし穴を利用していますからね。板を外されて落ちた瞬間、首の骨を折って絶命します。でも、そういう恩恵にあずかれなかった場合は最悪です」
 こちらにお構いなく続く声は止まることなく語り続ける。
「藻掻き苦しんで死んだ者の形相はひどいものですよ。舌と一緒に涎を垂らし、白目を剥きだして苦痛の涙を流して。さらにひどいのは、鬱血した顔が腫れてくるのです。そして失禁と脱糞で辺りに汚臭を漂わせている」
 見る者に虚しさを感じさせる死です、と呟く声など利きたくはなかった。
「わたしを止めるための説得だったなら失敗ね、アイレン。黙りなさい」
「時間が経つと身体の重みに引っ張られて首が伸びてきます。そして、腹の中身も漏れ出す場合があるのですよ。判りますか? 腸がはみ出す有様が」
「黙りなさい、と言ったの。あなたと話をしたい気分ではないわ!」
 首が紐の輪に完全にはまり、王女は足許の箱を蹴り転がそうとつま先を浮かせる。ところが、彼女が蹴るよりも先に箱の感触のほうが先に消えた。
 アッと思う間もなく身体が落ちていく。首に当たる紐の感触が強まり、すぐにでも食い込んで首を絞めるだろうと予測できた。が、その衝撃は襲ってくることもなく、身体は簡単にシーツの上に落下しただけ。
 死ぬ寸前に一瞬にして過去の想い出が次々と溢れ返ってくる、と聞いたことがあったが、そんな瞬間などなかった。何がなんだか訳が判らない。
 唖然としたアルティーエだったが、頬に風を感じてノロノロと顔を上げた。
「失敗したのでしょう? 人間はそう簡単に死ねないように出来ていますからね。こんな滑りやすい紐を選んだことも、不安定な場所に足場を置くことも、失敗しろと言っているようなものです」
 振り向いた先に、天蓋幕を跳ね上げたアイレンが苦笑を漏らしながら立っていた。女騎士の表情には不可解な笑みがあるばかりで他の感情は読み取れない。
「ど、して? なぜ、死ねないの? 何が悪いの……」
「首を吊るには高さが少々足りませんし、足場が悪すぎて首をしっかり輪に通すこともままなりません。それに、適当に横木に通しただけの紐ではね。固定して歪まないようにしないと首から簡単に外れますよ」
「し、知っていたから止めなかったのね! わたしがばかだと思ってっ」
「えぇ。愚かですね。死ぬことすら出来ないのですから」
 口をあんぐりと開け、王女は目の前の女をまじまじと凝視した。普通は思いとどまらせようと説得するだろうに、死ねないことが愚かだと言い切るこの人物は、いったい何が言いたいのか。まったく理解できなかった。
「死ぬのは容易すぎる。それすら出来ないあなたになんの価値があるのです?」
「わ、わたしはっ。王女としての役割が、あったけど……。でも、それが厭で。もう、何もしたくないから。だから、だから、だからっ!」
「人から押しつけられた役目を果たすのが厭だから死にたい、と?」
「そうよ、望んでもいないのに! それにヤウンは王になるのにわたしは……」
「王太子殿下に嫉妬する自分が醜いから死にたいわけですね」
 一瞬返答に詰まったアルティーエの腕を掴むと、アイレンが勢い良くベッドから引きずり降ろす。ガッチリと掴まれた腕が痛かった。褐色の指先からは怒りが伝わってくる。が、表情は押し殺されたままだった。
「王族であるあなたには上に立つ者としての義務がある。しかし、同時に自らの死を選ぶ自由もある。そんなに死にたいというのなら止めはしません」
 窓際まで王女を引きずってきた女騎士は鎧戸を外し、窓の外を指し示した。
「確実に死ねる方法を教えて差し上げましょう。……さぁ、ここから飛び降りなさい。この下には逃走を防ぐための鉄杭が打たれています。そこに身を投げ出せば串刺しです。どんなやり方よりも確かでしょう」
 夜が明け始めたばかりの空は鮮やかな藍色。西側のこちらからは昇る陽の光を見ることはできないが、紫色へと変化していく蒼穹はしっかり確認できた。
 その下に広がる急峻な山脈の裾野には幾つもの丘が連なり、その一つを丸ごと抱えた場所が王都である。丘のもっとも高い場所には王宮の建物が建ち、大河へ続く緩やかな坂を利用して数多の屋敷や館、家屋がひしめき合っていた。
 アルティーエは窓から首を出して恐る恐る眼下を覗き込む。そして獣の牙のようにそそり立つ何本もの大きな杭を確認した。
 ここは後宮である。侵入を防ぐと同時に逃亡を防がねばならない場所だ。建物の外にも内にも、見えぬところにも見える場所にも、こうやって多くの仕掛けが施されて物理的、心理的に侵入者や逃亡者へ圧力を加えてくる。
 黒々とした杭に自身が貫かれる様を想像し、王女は身震いした。なんと恐ろしい光景だろう。そんな死に方をしろというのか。
「なぜ、こんな場所を見せるの?」
「死は甘美なものではなく、死は死でしかない。首を吊ろうが、杭に串刺しにされようが、病に命を奪われようが、死ぬのは同じです。王だろうと僧侶だろうと商人だろうと。あなたたちには死ぬ自由がある」
「だからって、おぞましい死に方をしなくても……」
「では、私の剣の錆になりますか?」
 冷徹なアイレンの声が背筋を凍らせた。すぐ傍らに立つ存在がひどく不気味なものに思え、アルティーエは身をすくめた。
「あなたは死に陶酔しているだけです。死ぬ覚悟などない。甘えているのです」
「違う! 甘えてなんていないわ。ここにわたしの存在価値なんてないの!」
 両手を胸の前で固く握りしめ、王女は唇を噛みしめた。誰も認めない存在など不要なのだ。だから消えてしまうのが一番いい。それなのに甘えているなどと言われれば腹が立つ。どう言えば理解してもらえるのだろうか。
 だが、アルティーエの煩悶を嘲笑うが如く、アイレンは鼻を鳴らした。
「存在価値を云々している時点であなたの覚悟など知れている。本当に自分に価値を見出せない者なら、とうに死に魅入られていますよ。うだうだと迷っているあなたが自分だけで死ねるはずもない」
「そんなことない! わたしだって……」
「くだらない。意地で死ぬような人間は誰からも顧みられはしませんよ」
 自らを消し去ろうとした行為そのものを否定され、王女は絶句した。青ざめた彼女の顔が見えているだろうに、女騎士はきびすを返してベッドに向かう。
「あなたたちには死ぬ自由がある。それは同時に死に対する責任も負うと言うことです。あなたは自分の死に責任が持てるのか? 出来はしないでしょう。それっぽっちのことも出来ぬ者が存在価値を語らないでいただきたい」
 男にも勝る体格のアイレンの背が常よりも大きく感じられた。
 アルティーエにはそれが呑まれているからだということが判らない。彼女には得体の知れないものを相手にしている恐怖が先に立っていた。
「先ほどあなたの侍女が荷物をまとめて来ました。ここで専属に働くそうです。今日は朝一番に王太子殿下もおいでになるでしょう。完全に目が覚めたのなら顔を洗っておかれたほうがよろしいかと思いますが」
 つくねんと立ち尽くし、王女はアイレンがベッドの上を片付けている姿を無意識のうちに目で追う。何も考えられなかった。考える気力が湧いてこない。
 茫洋とした表情のアルティーエに向き直ると、女騎士は探るような目つきで王女の出方を待った。しかし、王女は動かない。いや動けなかった。
 いっそ心が壊れたなら良かった。ここまで否定されるのなら、心などなくてもいいではないか。何も感じないほど壊れてしまえばいいではないか。
「死によって存在を示すような真似はやめなさい。あなたがすべきことは自らの存在を認めさせることです。死ぬよりは難しいが、やる価値はあるでしょう」
 動かない娘に痺れを切らしたか、アイレンは待ちの姿勢を崩して口を開いた。
 返事は期待していなかったらしい。背を向けて歩き出した女は一度も振り返ることなく部屋を出ていき、王女の周囲には深い深い沈黙が落ちた。