混沌と黎明の横顔

第11章:水底の陰謀 7

 手にしたインク壺を手に取り、彼女は床に平伏する男へと投げつけた。
「役立たずめ! お前の不手際のお陰でこれからの計画が台無しではないか!」
 小動物の悲鳴のような音を響かせて割れたインク壺が青黒いシミを広げながら男の腕や指先に斑を作る。このまま放っておけば簡単には落とせなくなるはずだ。が、甲高い女の怒声に男は小さくなるばかりである。
「小娘ひとりに何をやっておる。サッサと次の策を取らぬか!」
「そ、それがっ。捕らえようとした者どもも戻ってこず、肝心の王女も花館に入ったところまでは掴めても、それ以上は……」
「花館!? では小娘は歓楽街エルマイナにおると! なんと汚らわしい。王家の娘がそのような穢れた場所に居座るなど、とんでもないこと。そのような女を王女と認めることは出来ぬ! 他の貴族に知らせて王女を追放させよ!」
 貴婦人らしからぬ荒々しさで地団駄を踏み、女は自らの言葉を正当化するように大袈裟に腕を振り回した。弁舌巧みな官吏の如き仕草であるが、華やいだドレスと嫌悪を露わにした険しい表情がそれを裏切る。
「ですが、そのようなことは……」
「黙りや! お前に口答えする権利があると思ってか! トットと他の連中の根回しをして参れ。しばらくそのまぬけな顔を見せるでないわ!」
 女が今度は文鎮を手に取り男に投げつけた。騒がしく床を転がっていく音に恐れをなし、男は飛び上がるように立ち上がる。怒りを込めた眼で見遣る女の目の前で、退出の挨拶もそこそこに一目散に扉に向かっていった。
 物音に驚いて逃げ惑うネズミのようだ、と侮蔑の視線でそれを見送った女の横柄な態度は扉が閉じても変わらない。書記机の上に八つ当たりするものがないかと見繕う横顔はまさに邪悪さがにじみ出ていた。
「あの女の娘らしい。男を誑かすことしか出来ぬ者が入り込むには、花館ほど似合いの場所はないわ。おぉ、汚らわしい!」
 吐き捨てるように言い捨て、女は机上の紙を払い落とす。そこに憎い相手の頬でもあるかの如き勢いで、元々の顔の作りが美しいだけに凄まじい形相だ。
「我が忠告を無視した女の娘など追放してくれる。ついでに、あの女も。この国の王妃に相応しい身分ではないものをいい気になりよぉってっ!」
 嫌悪も限界に達すると憎悪に変わる。今の女がその状態だった。触れるものすべてを破壊せねば気が済まぬらしい嵐は、女からしばらく去りそうもない。
「国をなくした女が王妃とは笑止千万。ラジ・ドライラムはどうかしておった」
 貴婦人とは思えぬ形相で舌打ちし、女は床に散らばる紙を踏みつけた。憎い相手を足蹴にするかの如くつま先で紙をこね回す姿は復讐に猛っているからか。
「故国の後ろ盾があるわらわと滅ぼされた国の女なら、力のあるわらわのほうが上で当然。なのにドライラムめ、あのような女を王妃に据えるとは。どこまでも粗暴で愚鈍な男でしょう。粗野な我が夫と同じでどうしようもない」
 散らばった紙に彼女の足跡が点々と残った。それを苛立ちがこもった視線で睨み下ろし、再び忌々しげに舌打ちをする。
「誰ぞおらぬか! この部屋を片づけなさい! サッサと片づけるのよ!」
 怒鳴り散らす主人の声に引っ張られるように部屋に飛び込んできた侍女があたふたと姿を消した。控えの間にいるであろう他の使用人を呼びに行ったらしい。遠くの廊下を駆けていく複数人の足音が鈍く聞こえた。
「茶を……いいえ、薬草酒を用意しなさい。焼き菓子もよ」
 部屋に戻ってきた侍女に居丈高に命じ、女は暖炉の傍らに置かれた寝椅子に腰を落ち着ける。その間にも使用人が床に散った紙や文鎮、インク壺の欠片を拾い、シミを広げるインクを吸いとろうと格闘していた。
「リウリシュ様、先ほど遣いの者が参りまして、これを預かっております」
 侍女が蝋封をした封書を差し出し、茶の用意の指示を出すべく退出していく。
 素っ気ない侍女の態度は使用人としては正しかった。だが、それでも今だけは侍女の態度にすら腹が立つ。自制心を働かせるのが難しかった。
 苛立ちはさらに大きくなっていたが、リウリシュは掌中にある封書から中身を抜き取り、そこに書かれている文章を目で追う。
「どうやら鬱陶しい戯童フェデールは排除できたようね。これでケル・エルスも眼を醒ますでしょう」
 口内で転がすように呟き、彼女は形の良い唇の端をつり上げた。陰険な笑い方であったがリウリシュは気にしない。
 汚れた床の拭き掃除をしている使用人が、主人の急な変わり様に胡乱げな視線を向けていたが、彼女にはそれすらどうでもいいことだった。いや、リウリシュにとっては使用人など備え付けの家具と同じなのである。
「あの女の乳母も遊民の尻軽女も手に入ったことだし、後は無知な嫁がケル・エルスとの婚姻を承諾しさえすれば、ほぼ思った通りの筋書きになる」
 手にした手紙を暖炉へと放り、そこでくすぶっていた炎が舌を伸ばして紙を飲み込んでいく様子を元黒耀樹妃は見守った。
 この時代、貴族の間では紙が普及し始めていた。が、自国で紙を賄うまでには至っておらず、東方からの輸入に頼っている。当然、庶民にはまだ高値で、役所でも貴族関連のもの以外は羊皮紙を使う場合が多かった。
 その貴重な紙を燃やしてしまうのだから、傍らで掃除をしていた使用人たちにしてみれば、もったいない、の一言に尽きる。
 だが、使用人の眼など気にしない彼女に彼らの内心を推し量ることなどできるはずもなかった。完全に灰になるまで眺めた後、リウリシュは侍女が用意した薬草酒を喉に流し込みながら焼き菓子を囓った。怒鳴り散らすと喉が渇くし、空腹になっていけない。 それに使用人が妙に浮ついて苛立ちが募る。
 この程度のことで動揺していては使用人としての立場が危うかろうに、彼らはいったいこの先どうするつもりかと腹が立つが、そわそわしている姿を見せられるのも鬱陶しく、普段は鷹揚に振る舞うように心がけているのだが。
「暖炉の火を強めて湯を用意なさい。薔薇の花びらをふんだんに入れるように。パラキストから送ってきた香油があったでしょう。あれも入れなさい」
 湯浴みをして腐った気分を流してしまおう。不愉快な報告と朗報の両方を受け取ったが、不快な目に遭ったほうが感覚に強く残っていて、気分を解すために用意させた薬草酒や焼き菓子だけではどうしようもなかった。
「リウリシュ様、目通りを願っている者がおりますが如何致しましょう」
「誰です、このような時刻に無礼な。急用でないのなら追い返しなさい」
「それが早急にお目通りを、とだけで用件は……」
 このような夜更けに客人とは。しかし急ぎの用事で無理にでも押し通そうとする様子が気にかかる。何か新しい知らせであろうか。
 侍女に訪問者を通すよう命じ、リウリシュは数人の衛士を室内に呼び寄せた。もしやとは思うが慮外者であった場合を考慮せぬわけにはいかない。
 待ちかまえている間に床板と絨毯の染み抜きに必死だった使用人も作業を終え、しずしずと退出していった。残ってるのは軽武装した衛士たちと彼女だけである。沈黙が降りる中、廊下を歩いてくる複数の足音が聞こえてきた。
 入室許可を求める声が響き、それにリウリシュが応えると、侍女に伴われて小柄な人物が滑り込んでくる。男か女か一見しただけでは判らなかった。
「お時間をいただき、まことにありがとうございます、大公母さま」
 跪き深々と頭を下げた人物から発せられた声は成長期の子どもを連想させる高いもの。頭部をほとんど覆い隠したフードから覗く白い顎の線は滑らかで、これではどちらの性別か判断できなかった。
「このような夜更けに突然訪問してくるとは何事ぞ。事と次第によっては牢に繋がれることも覚悟せよ」
 厳しい声で相手の挨拶を無視してみたが、恐れ入った様子もなく、訪問者は畏まった姿勢のままこちらの出方を伺っている。
「用件は? もったいぶっているだけなら……」
「お届け物がございます。これを受け取っていただけますでしょうか」
 羽織ったマントの中から伸びた手が深紅の薔薇を取り出した。鋭い剣のような花びらが重なった様子は凛として美しく、雨期の終わりから咲き始める早咲きの薔薇の中でも特に際立った華麗さを誇る品種である。
「それを……どこで手に入れたのです」
 ドクドクと雷鳴の如く胸が打ち震えた。薬草酒を注いだ杯を握る指に知らず力がこもり、頬や顎が強張り引きつる。
「我が主人より預かってきた品で、大公母さまにお納めいただければ幸いと存じます。如何でしょう。お受け取りいただけますでしょうか?」
 首から背筋にかけて冷や汗が噴き出し、肩や腕に異様な力が入った。
 この薔薇は眼をかけた貴族か大公家の庭にしか咲いていない貴重な品種である。リウリシュに由来する名を持ち、品種改良に成功してから十年ほどしか経っていない新しいものだ。誰も彼もが持てる品ではなかった。
 以前にも招かれざる客が持ち込んだことがある。あのときは密談を匂わせる隠密の訪問者だったことから、貴重種の薔薇を手にしていても気にしなかった。
 しかし、今度の訪問者は真正面から堂々とやってきている。これは何を意味するのだろうか。妙な胸騒ぎがして息苦しかった。
「お前の主人は使用人に対しての躾がなっておらぬ。訪問先でフードもとらずにおるとは非礼であろう。名乗る気がないのなら消えうせよ」
 相手を退けようと強気の口調で切り返す。それをどうとったのか、訪問者は滑らかな動きでフードを掴むと、優雅に頭部から布を払いのけた。
「失礼。緊張のあまりにフードを被っていることを忘れておりました」
 現れた顔をじっくりと眺め、黒幕の正体を見極めようとしたが無理だった。そこには東方人の中性的な顔があり、この屋敷にツテがあるようには見えない。
 元大公妃は傍らに立つ侍女の顔色を盗み見た。この年若い娘も困惑しきっている。たぶん、この訪問者は紹介符の抜け道を使って入り込んできたのだ。でなければ、侍女がこれほど動揺するはずがない。
 もともと貴族には領地民や使用人の縁者など縁のある者の陳情を受ける義務があった。今は形骸化してきており、腹心の部下や専門の文官などに丸投げしている貴族も多いが、事前に届け出を出されれば面会を許さざるを得ない。
 その陳情の中でも表立って行えない代物に関しては、闇を利用して訪問してくる者が多いのが現状だ。記録に残る届け出を出さず、陳情する相手の側近に袖の下を掴ませて潜り込んでくるのである。
 もちろん賄賂を受け取る側も容易く受け入れはしない。紹介符と呼ばれる特殊な符丁を持たぬ輩は、賄賂を積まれても無視する。紹介符そのものが側近の縁者や贔屓にしている筋の者にしか与えられないのが現実だった。
 侍女のツテ筋をどうやって探り当てたか知らぬが、こうして主人の指示を仰がざるを得ない立場に立たせ、まんまとリウリシュの前までやってきたということは、それ相応に鼻が利く輩であると見て間違いはない。
 さて、何をどこまで知っているのだろう。差し出された薔薇を受け取らなかった場合、どういう事態が引き起こされるのかが読み取れない。
 リウリシュは顎をしゃくった。堅苦しい動作で薔薇を受け取った侍女が、訪問者を威嚇するように大仰な仕草で主人にそれを差し出す。ご大層な態度だ。
 どうやら侍女は主人の名にちなんだ薔薇に粗相があってはならぬと緊張するのと同時に、己の縁者筋ではない者を案内してきてしまった後ろめたさから、必要以上に険のある動きをしているらしい。
 実際、愛用品を破損させた側仕えを何人も首にした過去があるので、今は侍女の態度を人前で咎めることはできなかった。
 馥郁とした薔薇の芳香を嗅ぎながら、元黒耀樹公妃は無遠慮に訪問者の顔を眺め、無言で話の先を促した。まだ相手が男か女かも判らないままだったが、真に薔薇の意味が判るまで帰すわけにはいかない。
「主人の伝言をお伝えいたします。“船を用意していただけたなら、逃げ出した傷負い人を探し出して差し上げましょう”と」
 リウリシュは小さく片眉をつり上げた。何を言い出すのかと思えば、また訳の判らぬ突拍子もないことを。これで依頼という脅しをかけているつもりか。その考えが顔に出ていたのだろう。訪問者はなおも続けた。
「お疑いならば僧院の地下牢に遣いを。手に入れた証は消え失せていますよ。あなたの大切な駒は王太子の厳命により花館へと出向いていて留守ですし」
 唖然とした彼女の目の前で訪問者が立ち上がる。跪いていたときも小さく見えたが、立ち上がってもやはり目立たなかった。威圧感を感じるはずもないのに、なぜか身体を動かすことができない。
「お返事は後日伺いに参ります。手遅れにならぬうちにご決断を」
「ま、待て。お前たちに船を提供するとして、こちらにどれほどの利益があるのか。逃げた罪人を捕らえるくらいのこと、我々が出来ぬと思うてか」
「出来ませんね。傷ついた雛は親鳥の庇護下にいるのですよ。誘い出すだけの材料があなた方にあるとは思えませんが?」
 リウリシュは引きつりそうになる頬に力を入れ、訪問者を睨み据えた。
「随分と見くびられたものだ。そう言うからには、そちらには勝算があるのか」
 取引相手から引き渡されたばかりの証拠の罪人が逃げたとなれば、確かに保護されている先は容易に判るまい。本来なら捕らえることが出来なかったものを、取引相手が代わりに捕らえて引き渡してくれたくらいなのだ。
 ポラスニア王国の民であればなんとかなる。しかし、相手がその枠から外れた者となると大公家とはいえ手を出しづらい。いや、大公家でも手出しできる範囲が限られてくる、と言ったほうが正確だ。
 そして枠外に生きる者の中でもドロッギス地藩内での遊民は特に厄介だった。
 タシュタン地藩ならば炎姫公の一存で遊民の出入りが限定されている。ハスハー地藩は水姫公の生母がアルド公国出身ということでアルド寄りの遊民との関係は良好である。だが黒耀樹家には遊民のツテがなかった。いや庶子を虐げていたという点において、遊民とは険悪と言ってもいい。
「こちらから持ちかけた話です。出来ぬ話を振りはしません。ご期待に添う働きをしましょう。十年の沈黙を守るその薔薇が証です」
 ただの遣いとは思えぬ泰然とした口調だった。それに易々と呑まれるのが悔しく、リウリシュはわざとらしく鼻を鳴らす。
「たとえ名を与えても所詮は薔薇。見目と芳香で人を楽しませるのみよ」
 傲岸そのものの声と態度で切り返せば、訪問者は密やかな笑い声をもらした。
小さく振動する空気が気泡が弾けるように軽々しく感じられる。
 傍らの侍女が不快げにうなり声を漏らしたが、リウリシュは相手のふてぶてしさが気に入った。これくらい腹が据わっているほうが話し甲斐がある。怯えひれ伏されるのも操りやすくて良いが、軽妙な態度は見ていて飽きなかった。
「この屋敷へのツテを手に入れるのは苦労したでしょう。次に屋敷にやってきたときの紹介符を渡しておきます。明日にでも使うがよい」
 わざとらしいほどのバカ丁寧さで腰を折り、侍女から恭しく符丁を受け取った使者が、用件は終わったとばかりに退出しかける。その背中に向かって、リウリシュは何気なさを装って呼びかけた。
「ところで、お前は男なの? それとも女なの? お前の主人もそうなのかしらね。東方人は年齢だけでなく男女の区別もつきにくくて困るわ」
 緩く首を傾げた訪問者が口許だけで笑う。それは出来の良い人形の微笑みの如く完璧な微笑みだったが、それ故に人の温みを感じない冷たさがあった。
「使者に性別や名など不要ですよ。どうせ忘れ去るのですから」
「なんと無礼な! 奥方様に対して……」
「お黙り。話の途中で割り込むでない。さて、それでは使者よ。お前の主人の名はなんと言う。それすら答えられぬか?」
 リウリシュは手にしていた薔薇を指先だけでつまみ、今にも床に落としそうな位置でゆらゆらと揺り動かした。それは相手を挑発するような動きである。
「名に意味がありましょうか? 数多の名を持つ者にとって、あなたに名乗ることの意味を、どう捉えると? それでも知りたいのなら答えましょう」
「では答えるがよい。お前の言動が明日に繋がるか断ち切るかを決める。そこのところをよくよく考えて答えるがよいぞ」
 訪問者は改めて向き直り、深々と腰を折った。
「その薔薇を送った主の名は“ジョーガ”です。あなたならご存じでしょう」
 リウリシュが片眉だけつり上げ、眼をすがめて訪問者の頭を見おろす。聞いた名で知っているものはひとつだけだ。それが正解なのだろうか。
「シギナのジョーガか? かの国の大小百の部族のひとつを束ねる長にそのような名の者がいたと聞いたことがあるが。嫁いでくる前の話では古すぎような」
「よく覚えておられます。それだけご存じであれば充分でしょう」
 やはり何を考えているのか判らぬ相手の表情をまじまじと見つめ、リウリシュは目の前の珍客が東方人らしからぬ眼の持ち主であることを知った。
 多くの東方人は黒髪に黒い瞳を持つ。多少茶色みのある髪や瞳ではあっても、基本的な黒色からはずれることはなかったはずだ。ところが目の前の人物の眼は色素が薄い。暖炉とランプの灯りの中では判然としないが、青っぽい色合いではなかろうか。珍しい、というよりはほとんどあり得ない色彩だった。
「嫁いでくる以前のジョーガの噂といえば相応の歳がいっていたと聞いた。二十年以上が経つ今、彼はかなり老いぼれておるであろうに、この王国に食指を動かすほどの気力がまだ残っておるとは驚きだこと」
「ジョーガはジョーガでしかあり得ませんよ。ジョーガという存在に歳を問うことは愚かです。今の彼は貪欲な存在だとだけ申し上げましょう」
「ということは、以前のジョーガは貪欲ではなかったように聞こえるが」
 年齢を重ねるにつれ我慢が利かなくなったということか。それとも歳月が彼になんらかの影響を与えて性格が変わったのか。いずれにしろ貪欲さはつけいる隙であり、同時につけこまれる危うさを孕んでいた。
 得体の知れない笑みを浮かべ続ける相手から返事はない。答える気がないのだと知れた。これ以上は何を言ってもはぐらかされそうだった。
「船は明日には用意させましょう。お前が望み通りの証を持ってきたなら、交換に場所を教えてやろうではありませんか」
「交換ということですね。よろしいでしょう。大公母さまのお望み通りに」
 なんの支障もなく会話がかわされていくことに一抹の不信感が拭えない。だがお互いに腹を探り合っている現状では、相手を完全に突っぱねることも媚びることもできるはずがなかった。欲しい情報を得た後なら……。
 帰りは衛士を同行させて奇妙な訪問者を見送った後、元黒耀樹公妃は気難しげに眉を寄せ、薔薇を目の前に翳して睨みつけた。視線はそのままに傍らで小さくなっている侍女に呼びかける声は低い。
「さて、どうやって口説き落とされた? 申し開きがあれば聞いてやろう」
「し、紹介符がわたくしのものではなかったので、どうしたらよいかと……」
 侍女の言い訳によれば彼女の先輩にあたる休暇中の侍女の紹介符を持って訪問者は現れたという。大切な用件で大公母以外には明かせぬ、と。先輩格の紹介符ということもあって、己だけで判断するのが怖くなったに違いない。
 侍女になんらかの処罰を加えるべきなのだが今はその時期ではなかった。明日も側仕えをするよう申し渡し、湯浴みの準備を命じて部屋から追い払った。
 なんとも腑に落ちぬことばかりである。引き渡されたはずの囚われ人は逃げ出したというし、見張り役代わりの息子の不在まで告げられた。
 今頃は機転の利く衛士が僧院に遣いを走らせ、訪問者の言葉が真実かどうかを確認しているであろう。が、真実であれ偽りであれ、こちらの行動が相手の掌で踊らされているような錯覚を受けるのが腹立たしい。
「秘密を知られたなら口封じをせねば。しかし相手の詳しい素性が判らぬ今はジョーガとやらの組織に食い込む手筈を整えるが先。喰われる前に喰うてやる」
 噂でしか知らぬ他国の一部族長などに操られてたまるものか。明日も訪問してくるだろうが、大人しく船を差し出すだけで終わらせる気はなかった。
「バラドに命じて使者に仕立てた東方人がおったな。まずはあれを潜り込ませようか。それとも他に贄を作り上げたほうがよいか」
 そうそう、と思い出したように呟き、リウリシュは手の中に収まる薔薇を暖炉に放り込む。瑞々しい花弁が火中でよじれ、身悶えるように萎れていった。
「あの侍女もいずれは始末しておこう。不用意に得体のしれない者を招き入れた罪を減じるわけにはいかないわ」
 褐色になり、縮んでいく薔薇は無言のまま仮初めの主に反抗するが如く細かな火花を周囲に散らす。しかし、抵抗も最後には尽き、花はぐったりと薪の上に横たわって不出来な灰と化した後、炎に煽られて崩れ去った。
「薔薇の秘密で脅したつもりか? 証拠など何も残ってはおらぬものを。餌を見つけたと勘違いした小者どもめ。望み通りのものを手に入れたとぬか喜びするがいい。肥え太ったお前たちを最後に喰らうは我らのほうぞ」
 立ち上がり、火掻き棒を手にした元公妃は無造作に薪を掻き回して炎を強めた。燃え尽きた薔薇の残骸は元からあった灰と混じり合い、もはや見分けがつかない。新しい薪を放り込みながら彼女は唇の端をつり上げた。
「囚人が逃げて行方不明であれば他にやりようもある。それを探し出してやろうなどと親切ごかしてやってきたのはお前たちの不運よ。火にくべる薪を増やしただけだということに気づいておらぬ愚か者に思い知らせてやろう」
 ニタリと嗤うリウリシュは炎に顔を赤く染めながら瞳を鋭く輝かせる。その横顔は美しさとはかけ離れ、禍々しい異形を見ているかのようだった。