手駒の数は増減を繰り返している。この勝負は思った以上に時間がかかりそうだ。いいえ、これくらいでいいのかもしれない。バチンのばらまいた欠片を回収して、下天を元通りに修復しなければならないのだから。
アンディーンは上手く立ち回っているだろうか。魂だけで移動する身では精神的に大きな負荷がかかっているはずだ。一度の移動後は狭間の空間で休息を取らねば動けないに違いない。それでも自由に動けるだけマシなのだけども。
「さぁ、次はお前の番だよ。サッサと駒を動かして欲しいね」
「あら、つい今し方まで長考に入っていたくせに随分な言いようだわ。わたしだって納得がいくまで考えさせてもらうわよ。規則でもそうなっているもの。これは当然の権利でしょ。それともこんな簡単なことも忘れてしまった?」
「ハンッ! 忘れてなどおらぬ。こんな勝負にいつまでも関わっていたくないのだえ。お前の顔を見ているだけで虫酸が走る」
左腕に抱いたままのむつきをそっと揺すりあげ、アジェンティアはうっすらと微笑みを浮かべた。心底笑っているようには見えない仮面の笑みは相手の神経をいっそう逆撫でたようで、バチンの眉がつり上がる。
「さてさて、次はどんな策を打とうかしら。あなたの好みはどんなもの?」
「戯れ言など聞きたくはないわえ。……あぁ、だが今の質問への返事ならしてやれる。お前を完膚無きまでに叩きのめして跪かせるのが好みだえ」
「あらまぁ、奇遇ね。わたしもよ。あなたが二度と立ち上がれないようにしてあげようと思うの。わたしたちって気が合うわね」
バチンの赤い唇が小さく引きつった。それをじっくりと観察し、どう切り返してくるかと身構えたが、相手はアジェンティアの予測通りには動かない。
白い髪を掻き上げ、苦々しさを薄く浮かべた笑みを返してきた。怒り狂って罵倒してくるかと思ったのに。どうやら勝負をしている間に冷静さを取り戻したらしい。予想以上に早い立ち直りだった。
「お互い同じ結末を望んでいるのなら丁度良いわえ。一刻も早く勝負をつけて、お前をそこから引きずり降ろしてくれる」
クスクスと癇に障る笑い声を漏らし、バチンが一つの駒を弄ぶ。先ほどアジェンティアの陣地に鎮座していた月型の駒だ。相手から取り上げた駒は自分の物として勝負に投入できる。彼女はあの駒を有効に使う気だ。
「己の本体すら見つけられないあなたに勝ち目があって? この勝負に勝てたとしても、結界は閉ざされたままなのよ」
「そうはいかぬえ。お前には結界を解いてから滅んでもらおう。器さえあれば良いのだから、こちらは中身がどうなろうとかまわぬからのう」
「わたしがそんなことをするわけないでしょ。第一、この勝負に勝つのはわたしのほうであなたではないの。最初から判っていることよ」
お互いに勝つのは自分だと思っているのだから言い争ったところで平行線である。判っているのにやってしまうのは、もはや性分と言うしかないのか。
「お前がどうなるかは勝負がついてからのお楽しみだえ。精々、この勝負の間に覚悟をしておくことさ。決着がついた後は命乞いなど聞いてはやらぬ」
「その言葉、そっくりそのままあなたに返させてもらうわ」
アジェンティアはゆったりと細棒を遊戯板脇に差し込むと賽子を振った。出た目に従って駒を動かそうと腕を伸ばした瞬間、バチンから待ったがかかる。
「買収! この賭棒五本で勝負しよう」
置いたばかりの賽子を取り上げ、バチンは指先でそれを弾いた。賽の目数の大小で動かそうとした駒の買収が成立するかどうかを賭けるのである。買収を阻止するためには相手が出した目数よりも大きな数を出さねばならなかった。
アジェンティアは相手の出した数を確認すると、改めて賽子を振る。金属皿の上で転がる賽子が賑やかな声をあげながら小さな運命を示す数を提示した。
「残念。引き分けね。もう一度振ってちょうだい」
これが勝負が着くまで繰り返されるのである。ところが不思議なことに、二度目も三度目もお互いが振った賽子の目数は同じだった。
「珍しいこともあるものね。こうまで同じ数を出すなんて滅多にないのに」
さすがに戸惑ったアジェンティアが思わずといった調子で囁くと、同じように困惑した様子のバチンが弾かれたように顔を上げる。
「お前がわざとやっているのではないのかえ?」
「そんな面倒なことをするわけないでしょう。もしわたしが賽の目を自由にできるのなら、サッサと自分の都合の良い数を出しているわ」
確かにその通りだと思ったのだろう。バチンは改めて賽子を振って目数を指し示した。続いてアジェンティアも賽子を振る。だが、またしても出した目は相手と同じものだった。まるで勝負をつけまいとするかのように。
それから何回も同じように賽子を振り続けたが、目数は引き分けばかりで、二人は唖然としてお互いの顔を見入ったのだった。
すっかり夜も更けていたが、王太子の前に座した老人は背筋を伸ばし、昼間の仕事の途中で抜けてきたように鋭い眼をしていた。
「なぜ今まで姉にかけられた呪詛についての報告を誤魔化していた?」
苛立ちを抑えようにも抑えきれない。どうあっても聞かずにはいられないことだった。呪詛の種類も対処方法も詳しく判らない、と報告してきたのに、護衛につけられた双子の僧兵はなんなく対処してしまったのだ。
「アルティーエ姫に僧院で過ごされ、俗世から遠ざかっていただくために」
「まっとうな理由があってのことだろうな。そうでなければ、王家に対して叛意ありと断じられても致し方のない状況だ」
離宮に女騎士アイレンと共に残してきた姉はちゃんと眠っているだろうか。
呪詛によって懇意にしていたワイト・ダイスに襲いかかっただけでも、彼女にとっては最悪の記憶であろうに、今度は双子の弟を襲ったのだ。明日の朝、目覚めたときにどれほど嘆き悲しむことか。
それを思うと、ヤウンの胸は引き絞られるように痛んだ。
双生児の不思議としてよく偶然の一致や感覚の共有が取り沙汰される。双子の僧兵オルドクとヴィドクのように明敏な共有はなくとも、ヤウンとアルティーエにも妙な共有感を感じることはあった。
この痛みは姉の嘆きかと思うと、歯がゆさ故に王子の身体はひどく強張った。
「殿下はお母上の故郷で魔導に関する書物をご覧になっておいでですね。そこには魔力の不安定さが示されていたと思いますが、今回の呪詛も魔力の大小によって影響を受ける類のものであります」
「魔力? 姉に魔力などない。彼女は普通の人間だ。もちろん双子の弟である僕も。今この王家に魔人はいないぞ」
「いいえ。人間は誰しも魔力を持っております。その力が表層に出てこないだけなのです。表に溢れ出したものが魔人と呼ばれるだけのことで」
頭から足許に向かって一気に血の気が引いていく。老師が語った内容は、バゼルダルンの王宮にある書庫で魔導書を見ながらヤウン自身がふと疑問に思ったことへの答えだった。大量の書物のどこにも記されていなかったが。
「これは僧院の中でも文書室や写生室、天文室に関わっている者のごく一部しか知りません。多くの僧侶……いえ、魔人たちは己と人間を決定的に分けているものがなんであるのかを知らぬまま一生を終えるのです」
魔力を制御する術さえ体得すれば他人と関わっても不用意に相手や自分自身を傷つけずにすみますから、とひっそりと口許に苦笑いを浮かべる男自身が魔人の端くれなのだろうか。いや、今はそんなことはどうでもいい。
「人には誰でも魔力があることは判った。だが、アルティーエは魔力が表だって現れてはいないはず。双子の僕にはなんの異変も……」
不意に口をつぐみ、ヤウンは頬を強張らせた。今までも仕事や役目で離ればなれになることはままあったが、最近お互いの意志に反して離れてしまったことがあったではないか。そのとき起こったことを姉は覚えていないはずだ。
「お察しの通り、姫は拉致された先で魔力を引き出されてしまったのです」
今度こそ全身の血が引き、眩暈にヤウンはクッションにもたれかかる。やはり戦の最中に起こった事件で姉は何かされたのだ。
「どうやって……。どうしてそんなことが可能なんだ? 魔力はそんな簡単に引き出したりできるものなのか? 姉は、彼女の魔力はこれからどうなる?」
王子の動揺を見越していたのだろう。老人は静かに立ち上がり、足を引きずりながら若者の目の前へと歩み寄った。人払いした室内で、王家の者と僧侶という距離が一気に縮まる。それは密談をする共犯者の距離だった。
「ヤウン殿下、お気を確かに。あなたが困惑すればアルティーエ殿下も混乱するでしょう。どうかお心を鎮めてお聞きください」
瞬時に平静を装うのは慣れている。宮廷に出入りする中央貴族の大半は日和見主義の能なしだが、中には野心のためにこちらを害そうとしたり、取り込もうとしたりする者もいるのだ。そんな輩に隙を見せてはいけないのである。
そういう環境下で育った王子であるから、老僧侶の言葉に本来の自分を取り戻すのも早かった。そうでなければ今頃は墓場で眠っていたかもしれない。
「残念ながらアルティーエ姫を元に戻すことは無理かと思われます。一度引き出された魔力を封じる手だてを我らは未だに見つけておりませんので」
やはりそうなるのか。気落ちしそうになる心を奮い立たせ、ヤウンは話の続きを促した。彼の態度に安堵したのだろう。老師はゆっくりと口を開いた。
「実は魔力を引き出すことも我らにはできません。ですから姫の魔力を引き出した輩は恐るべき手練れです。今は、僧院に入る魔人が魔力に目覚めた原因を長年調べた結果、強い感情が作用している、と推測している段階です」
「強い感情? というと、憎悪や悲嘆の類か?」
そうです、と頷いた老人の顔をヤウンはまじまじと眺めた。もし目の前の男がそうやって僧院にやってきたのならば、抱いた強い感情をどうやってなだめ、己を律するまでに立ち直ったのだろうか。
それを今問いかけたところで答えは得られまいが、老僧侶の深い色をした瞳の奥にはゆらゆらと立ち上る感情が確かにある気がした。
「魔力が発現するかどうかは賭のようなものです。ですが、何かを強く憎んだり、事故や病気、あるいは大切な者を亡くした悲嘆に暮れた者の一部が僧院にやってくることが多いのです。もちろん例外もいくつかありますが」
王子は相手の話の腰を折ることなく、紡がれていく言葉の数々をとりあえずは受け入れ、己の中で吟味することを繰り返す。
「姫にかけられた呪詛の内容ですが……」
埋もれていたクッションから身を起こすと、ヤウンは相手の声に耳を傾けた。
「ポラスニア王族と一定の距離に近づいたときに発動するようです。守護結界を張ってあった場所では封じられていますので強制力は強くないと予想していますが、結界外だとよほど意志が強くなければ呪詛に飲まれてしまいます」
「離宮に結界を張れば問題ないか? それとも特定の土地でなければ結界そのものを張ることができないのか? 何か方策があれば教えて欲しい」
「一時的な結界でしたら使い手が術をかければどこでも張れます。しかし強固なものが入り用の場合は使い手の力量や道具だけでなく日時や気象条件も厳しくなってきます。特に、殿下の仰る離宮の地形も拝見しない今の段階では、安易にお答えすることはできかねる問いでございます」
ヤウンは僅かに肩を落とし、うっすらと顔をしかめる。一見して魔人とそうでない者との差など判らないのなら、姉の周囲に守護結界を張ってしまえば自由になれるのではないかと考えたのだが、そうは上手くいかないらしい。
このままでは魔人族だと露見した瞬間、アルティーエは僧院送りが確定し、彼女の双子の弟である自分も王家を追われる危険性が出てきた。見ぬ振りなどできない。なんとかして姉も自分も守らなければならなかった。
「どうしたらいいんだ。アルティーエを僧院に閉じこめ続けるのにも限界がある。今回のように僕に楯突く者にとって姉は格好の人質になってしまう」
この老僧侶にこうも簡単に助力を乞うべきではないのかもしれない。彼が本当の意味で味方になるかどうかはまだ判断できないのだから。しかし双子の片割れを離宮に匿った以上、ヤウンには猶予などないのだ。
「現状で早急に対処するには、アルティーエ姫に魔力の制御を覚えていただくことと、呪詛を封じるまじない符のようなものを身につけていただく必要があります。それでも完全ではありませんが、応急処置にはなります」
魔力の制御は必然だろう。暴走した魔力に傷つくのは他人ばかりではない。持ち主すら傷つけることがあるのだということは、魔導書を読んだヤウンにも理解できた。だが呪詛を封じるまじない符などあるのだろうか?
「アルティーエが受けた呪詛にはどのようなまじない符がいるのだ?」
「一番簡単なものは姫殿下の護符に新しい呪詛を施し、そちらの呪詛で古い呪詛を抑え込ませるものです」
王太子は眉間に皺を寄せた。老僧侶の言葉は対処療法でしかない。
「それには弊害があろう? 呪詛に呪詛をぶつけたのでは、場合によっては強い反動を受けることがあるはず。もし新しい呪詛が古い呪詛を押さえ込めなかった場合、姉は二つの呪詛の反発によって傷つけられる」
「その通りです。ですが、もっとも手早く対処するのであれば、これ以上に早く対処できる方法は他にないのも事実なのです」
「他には? まだ方法があるのだろう?」
「はい。もう一つが先ほどまでお話していた守護結界を築く方法になります」
ヤウンは口許を歪め、片手で顔を覆った。守護結界は簡単には築けないと聞いたばかりである。これでは選択肢のうちにはいらない。
「王太子殿下。守護結界にも色々と方法があることをお伝えしておりませんでした。拙僧の話をどうかお聞きください」
「特別なものがいるのだろう? 先ほど聞いた内容以上に簡単で、なおかつ安全な方法が本当にあるのか? もしその方法がなかった場合、僕は姉を幽閉せざるを得ないのだぞ。それがどれほどの苦痛を伴うか……」
「限りなく強固な結界を作り上げるのは色々と条件が必要になることは確かです。しかし、限定的でもよければ方法があります。物体を仲介しての守護結界であれば、ある程度の強度を可能にするのです」
ヤウンは顔を上げ、目の前に座す老人の瞳をまじまじと覗き込んだ。この男に野心があったなら間違いなくこの状況は利用できるはず。相手の心の奥を見透かすため、王太子は慎重に相手の挙動を観察した。
「この方法でもっとも重要なことは、結界を張る使い手を確保することです」
当たり前ではないか。何を言い出すかと思えば、当然のことを至極重大なことのようにもったいぶって話し出すとはどういうつもりか。
腹立たしさに胸の奥が焦げ付いた。が、ヤウンは相手がすべて吐き出すまで沈黙する気で、今はありったけの忍耐力を駆使して表情を殺した。
「結界は一度張ってしまえばそれで終わりというものではありません。常に維持するための力を注ぎ続けねばならない代物です。ですから、使い手の力量そのものが結界の強さに比例すると言っても過言ではありません」
また再び、頭から血の気が引いていく感覚が甦る。
今まで気づきもしなかったが、結界がただの入れ物ではなく、それを継続させるさせるために力を使い続ける必要があるということは、使い手に大変な忍耐と集中力を要求することになるのではなかろうか。
「一人で作り上げたものより二人、二人で作り上げたものより三人、三人より四人。そうやって大勢のもので作ることで、さらに強度を増すのです。が、それは同時にお互いの力量を把握し、呼吸を合わせて作り上げていく、緻密で神経を使う魔術でもあります。もし一人でも力が潰えてしまえば、また一から作り直さねばならないのですから。お判りいただけますか?」
ぎこちなく頷く王太子を老いた僧侶は不憫そうに見つめたが、すぐに姿勢を正すと話の続きを始めた。説明を終えなければ王子は判断できないのである。
「もちろん、術者の集中力を高めるためにアルティーエ姫にも協力を仰ぐことになります。離れていても結界が構築できるよう、媒介となる物体を常に身につけておいていただく必要があるのです」
「その媒介となる物質というのはどんなものなのだ?」
「色々とございますが、もっとも効率が良い物質が鉱石類です。魔力と相性の良い石であることはもちろん、出来ればアルティーエ姫の守護神か属性に関わりが深い石のほうがより効果的に魔力の流れを作ります」
王子は少し考え込み、己の滑らかな顎の線を右人差し指で撫でながら呟いた。
「姉の守護神は名が示す通り美女神アルタとされてはいる。が、実際には僕と同じ日に産まれたわけだから星神ヤヌのほうが気質的には守護神に相応しい。美女神なら守護石は緑柱石、星神なら翡翠だが……」
「二柱を守護神とする者の存在は珍しくありません。姫は黎明刻に産まれたことからその刻限を支配する女神の名を戴かれたのでしたな?」
そうだ、と頷きながら、ヤウンはふと首を傾げた。そういえば先ほど属性がどうとか言っていた。それはどうすれば判るのだろう。もしや姉に持たせる品はとても大仰なものになるかもしれない。
「その……守護神はともかく属性はどうやって調べる?」
王太子の困惑を感じ取り、僧侶は小さく頷くと懐から薄手の箱を取り出した。金属の円盤がいくつも重なったもので、航海のときに使う羅針盤に少し似ている。その盤で属性とやらが判るのか。
身を乗り出して箱の表面を凝視する王子に見やすいようそれを翳し、老僧は皺だらけの指先で円盤を一つずつ動かしながら説明し始めた。
「これは上級占星術士がよく使う見取り図です。天文士も同じものを使って星の動きを読みます。一般的な品ではありませんので、ご覧になるのは初めてでしょう。動かしながら説明させてもらいます」
今回の場合は姫殿下の誕生時のことを調べますので、と老人の指先は一番外側の円盤をカタカタと半分ほど回した。赤い印が曲線模様の一つの上で止まり、ヤウンにはよく判らない何かを指し示したことを教える。
続いて老人が一つ内側の円盤を「これが日付です」と言いながら、先ほどと同じようにカタカタと動かした。「次は時刻」とさらに内側の円盤を回していくところを見ると、最初の円盤は出生児の年かもしれない。
そう見当をつけて大人しく見ていると、一番内側の小さな円盤を「これが“属”です」と指さし、老僧侶は顔を上げた。最後の円盤だけは少し違う。他の盤のように赤い印ではなく色分けがされていた。
「それで、姉の属性は……?」
「風神の領域に多くの属を含みますが、いくらか樹神の領域にも属が見られます。姫殿下の守護神は美女神と星神、お生まれ年が“明風の梟”ですので、風神と樹神の属を考えますと、中心に据える属性は“風”となります」
萎びた手が箱を懐にしまいながら、さらに言葉を続ける。
「媒介となる物質でもっとも効果が高い石は“青水晶”となります」
ヤウンは黙りこくって考えに沈んだ。老僧侶の言う青水晶は希少な貴石類の中でももっとも見つけにくい鉱石である。曇りや傷、内包物のない品は目も眩む高値をつけるのだ。入手するならば貴族ですら家が傾くかもしれない。
「また一番厄介な石だ。金品を積んでも滅多に手に入らないとはね」
s 苦い笑いを口の端に浮かべた王子を老僧侶はじっと見つめていた。が、おもむろに羽織っていた法衣の中に腕を引っ込め、再びそれを出したときには掌に何かを握りしめていた。首を傾げる若者を凝視したまま、彼は口を開いた。
「殿下にお尋ねしたいことがありますが、よろしいでしょうか?」
何を訊ねる気か知らないが、相手の真剣な眼差しは無視し難いものがある。
「なぜ、拙僧の話をお信じになられました? あなた様を謀ることもできるのですよ。詰問のために呼び出されたはずなのに……」
「お前を信じるなどと僕が一言でも言ったか?」
呆気に取られた老人の顔は大層な見物だった。思わず噴き出してしまうのではないかとさえ感じたが、実際のヤウンは涼しい顔をして座っていた。
「策士ほど饒舌に自身の策を語るものだ。真実を告げる者との見極めは一見しただけでは難しい。見破る方法はひとつ。腹に溜めた策をすべて吐き出させることだな。……完璧に見える計画ほどどこかに綻びがあるものだから」
「それで。拙僧の話はどちらでございました?」
「その前に、その手に握りこんでいるものを出したらどうだ。それを出さねばお前たちの計画は完成しないのではないのか?」
僧侶はふと自らの拳を見おろし、小さく頭を振る。
「いえ。殿下の答えを確認してからでないとお見せすることはできません」
「信じない、と言えば見せずに引っ込める気か? 思わせぶりに取り出しておけば、その品見たさに僕が話の乗ると思ったか」
「そうは思いません。ですが、伸るか反るかの瀬戸際は殿下も我々も同じかと」
ゆっくりと瞬きし、ヤウンは顎に己の拳を押しつけながら笑った。
「では僕の答えは“信じる”だな。お前たちが味方につくか敵に回るか、それらを見極めるのはいつでもできる。だから僕はお前たちを利用する選択を取る」
老人の肩の力が抜けた。彼はゆるゆると身を屈め、握り込んでいたものを指先で挟むと、王太子の目の前の床に差し出した。
「如何様にもお使いください。我が守護石を御前に差し上げましょう」
小さな、小指の爪の半分ほどしかない蒼い輝きがぽつんと床に置かれたのを、王太子は呆けたほうに見つけた。得難いとつい今し方呟いていた貴石が、彼の目の前に無造作に存在する。その簡単さに彼は途方に暮れた。
「お納め下さい。我が身が差し出せる最後の忠誠にございます」
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