混沌と黎明の横顔

第11章:水底の陰謀 1

 馬車を乗り換え、無事に遊民が天幕を張る歓楽街エルマイナに到着し、緊張感から解放されたウラッツェは肩の力を抜いた。
 如何に黒耀樹家がヨルッカを取り戻そうと手を尽くしても、歓楽街の中の、しかも遊民の天幕内ではどうしようもない。ここは一大公家だけの思惑で物事を取り仕切ることができる場所ではないのだ。
 グッタリしたヨルッカをキハルダの連れが運び去る。手持ち無沙汰のウラッツェは元締めが待つ部屋へといざなわれた。
 予想以上に容易く仕事をやり遂げた安心感を抱いたままオルトワの前へやってきた。女元締めはいつも通り子猫をあやしている。
 銀の髪飾りをふんだんに使って結い上げた髪を撫でつけながらオルトワが振り向くのをウラッツェは暢気に眺めた。つり気味の眼許に細かな皺が見える。東方人との混血で若く見えるが星霜がもたらす重みには逆らえないようだ。
「ご苦労さん、キハルダ。こちらで僧院に手回ししたのは余計だったかい?」
「そんなことないさ、姐さん。お陰で見回りの警邏を上手く退けられたよ。でも生臭坊主どもに大枚を叩いたんだろ? 随分な出費をさせちまったねぇ」
「なぁに、大して使っちゃいないよ。ちょっとした薬を餌にしたらイチコロさ」
 女たちの会話を聞くともなしに聞きながら、ウラッツェはすり寄る子猫を肩に乗せ、部屋の片隅に放り出されたままの干し果実が盛られた器へと近づいた。
 昼食後にユーゼと連絡を取り合ってから何も食べていない。緊張感から解放され、しかも真夜中近くの今、急に腹の虫が騒ぎ出したのだ。
 せっつく子猫を適当に遊ばせながら、ウラッツェは干したナツメやら杏、リンゴを口の中に放り込む。とにかく空腹を満たせるならなんでも良かった。
 女たちがひそひそと囁きかわす声が聞こえるが話に加わる気はない。遊民は女系家族で成り立つ集団だ。各家庭でも各団長も頂点に立つのは女と決まっている。男が下手に口を挟めば睨まれ、灸を据えられるだけだ。
 元締めが身を沈めたクッションから起きあがり、傍らの小さな卓へと寄りかかる姿もいつもの光景である。結論が出れば彼女は遊民の方針を示すはず。だが、女たちの会話に舌打ちが混じる。どうも雰囲気が険悪だ。
 オルトワがカツカツと卓上を叩く指先がひどく神経質そうに見える。苛立っていても周囲に気づかせないことが多い元締めにしては珍しかった。
 その苛立ちをぶつけるように、彼女は忙しげにウラッツェに手招きする。
 何か方針が決まったのだ。ボゥッとしていた時間は終わり。ウラッツェは姿勢を正し、猫を抱いたまま女たちの傍らへと歩み寄った。
「ナスラ・ギュワメ閣下。今回はこちらの不始末で大変ご迷惑をおかけしましたわ。誠に申し訳ないこと。この埋め合わせはいずれ何かの形でお返しします」
 他人行儀な口調に呆気に取られる。今までは配下を顎で使うようにぞんざいな態度を示していたではないか。今さら貴族扱いするとはどういうことだ。
 それに、申し訳ないと口にするが、瞳には謝罪の色は浮かんでいない。むしろ冷え冷えとしたその奥には激しい怒りが灯っているように感じられた。
「オルトワの姐御は何が言いたいんだ? オレに判るように説明してくれや」
「閣下にお貸しした娘が引き起こした不始末はこちらで処理いたします。大公家の方々のお手を煩わせるまでもございませんわね」
「おい? オレを黒耀樹一族と一括りにしやがる気か。今さら大公なんぞに据えられたことを持ち出して……」
「お黙り、坊や。貴族が遊民のことに口出しするんじゃないよ」
 ようやく普段のオルトワの口調に戻ったかと思えば、これまでのウラッツェを否定する言葉が彼女の口から飛び出してくる。ほとんど強制的に大公に就任させられた身を指して、今さら貴族だとほざくとはどういう了見だ。
「だったらオレをキハルダに同行させたのはどういうわけでぃ! 今ここで貴族扱いするってンなら、今夜のあれはなんだっていうんだよ」
「もちろん、今このときよりお前さんに遊民の身分を捨ててもらうためさ」
 ウラッツェの腕の中で子猫が暢気にあくびをする。場の緊張感など知ったことかといった態度で、ただ一匹だけ己の世界に遊んでいた。
 オルトワとの会話を見守るキハルダの顔色は青ざめている。内心がどうなのか知らないが、彼女の顔に表情というものはなかった。
「どういう意味だ。オレが今夜のことに関わることと、遊民であることをやめることと、どこでどう繋がるってンだよ!」
鎖鞭グィガーを捨てたろう? あの得物は巡検使ウラッツェが持つ暗器で、あの暗器を教えたのはお前さんの母親だ。そのエイリアの技を捨てさせた意味が判らないかい」
「そんな適当な説明で納得するか! 訳が判らん! オレは確かに今は巡検使じゃねぇが、暗器を手放したくらいで遊民をやめる気はねぇ!」
 怒声に子猫が身じろぐ。ウラッツェの強張った腕を嫌い、優雅に身を翻して飼い主の足許へと戻っていってしまった。
「お前さんには大公をやるのが精々さ。それ以上のものは期待しちゃいない」
 冷めた視線で射抜かれ、身体が強張る。傍らでうずくまるキハルダの表情もさすがに引きつり、オルトワとウラッツェを交互に窺っていた。
「大人しく大公としてやっていきな。これより先、お前さんはエイリアの息子じゃない。クラウダ・ヌーンの息子ナスラ・ギュワメになるんだよ」
「意味が分からねぇ! オレは遊民だ。仮住まいの大公屋敷になんか未練はないんだぞ。いずれこんなもの甥っ子に押しつけて……」
「クラウダ・ソロスが成年を迎えるまで十数年、それまでの間ずっとお前さんが大公位を温めているってンなら、それは紛れもない貴族としての生活が待ってることになる。そんな輩を遊民と認めることはできないね」
 半端な立場など赦さない気だ。オルトワは境界線が曖昧なはずの遊民という存在の中に明確な線引きをし、当てはまらない存在を認めないらしい。
「オレはナスラ・ギュワメになる気はねぇ。どうしても今すぐ大公位を退けっていうのなら、ケル・エルスに譲ってきてやらぁ!」
「この阿呆がっ。そんなことしたらドロッギス地藩から遊民が弾き出されちまうんだよ! タシュタン地藩内の動きが制限されてるときに、王国の西側でも身動きできなけりゃ、遊民が大陸中を思うように移動できなくなる!」
 ウラッツェは喉を小さく鳴らし、呻き声が漏らす。元締めの言う意味を理解した途端、彼は自分の両肩に乗った重責を感じ取った。
 ケル・エルスが大公位に就けば異母兄の身内である遊民を遠ざける政策を布くだろう。どれだけ遊民から得る情報が有益であっても、ケル・エルス自身が政策を望まなくとも、彼の背後にいる母親が口うるさくせっつくはずだ。
「オレを防波堤にする気なんだな、オルトワの姐御。遊民が王国内を自由に行き来できるように働けと。そういうことなんだな?」
 情報の売り買いをする遊民が身内のツテを頼らねばならない事態にある。それはヨルッカの関わった事件がのし掛かっているのだと判断できた。
「ヨルッカのやったことは到底赦されることじゃない。こちらできっちりと処分しなけりゃ王国側は納得しないだろうよ。お前さんは人身御供さ。ヨルッカは処分し、お前さんを黒耀樹家にくれてやる。それで今回の始末をつける」
 今のオルトワの立場から見れば、ヨルッカの処分は当然で、さらにウラッツェとの縁を切り、王族たちが決めた次期大公として彼を認めることで、遊民はかろうじて今の立場を保てる状態に違いない。
 遊民が抵抗すれば街道の行き来が制限されるのだろう。そうなれば陸路が主で海上を自由に移動できない一族は行動範囲が狭まってしまう。
 巡検使として自由に各地を旅することも、遊民として気ままに流されていくことも、これからは許されないのだと悟ると、ウラッツェは自分の足許がひどく心許ないものであるような錯覚に陥った。いや、実際に危うい。黒耀樹家での彼の立場は不安定で、油断すればアッという間に潰されるだろう。
「大公の地位ですら持て余してるってのに、それを永続的に続けろってのかよ。こんなものいらねぇのに。今すぐにだって放り出したいってのに」
「だったら逃げ出すかい? お前さんの代わりに他の遊民が処分の対象になるだけさ。差し当たりキハルダが預かる団は解散、団長はじめ幹部も何人か首が飛ぶ。イコン族や王族の不信を解くのは容易じゃないからね」
 さすがに頬が引きつった。己の行動で仲間の今後が変わるなどと聞けば。
「誰かを恨みたいってのなら、このオルトワを恨みな。お前さんのような若造に憎まれたって痛くも痒くもないからね。だけど、お前さんに少しでも遊民を守ろうって情があるなら、仲間たちを助ける方策に従ってもらうよ」
 オルトワは退く気などないのだ。当然と言えば当然か。彼女は遊民全体の利益のために動く。不利益になる者を置いておくはずがなかった。
 ポラスニア王族との取引でウラッツェを有利に動かせるのなら、元締めは迷わずそうするだけだ。そして一族の掟に背いた者は……
「ヨルッカはどうなるんだ? オレが大公の地位に留まるならあいつへの咎めもなしだと思っていいんだろうな」
「何バカなこと言ってるんだね、この子は。お前さんを大公にしておくのはポラスニアの連中の思惑だよ。こちらとしてもナスラ・ギュワメが黒耀樹公でいる利益があるのは確かだけど。しかしね、ヨルッカのことは別問題さ」
「なんでだよ。ヨルッカの悪戯なんていつものころだろうが」
 大袈裟な仕草でオルトワが溜め息を吐き出す。その様子が癇に障ったが、ウラッツェは罵りを自分の口の中だけに留め、音にはしなかった。
「ヨルッカはイコン族にお前さんの正体をばらしちまったんだよ。巡検使は隠密行動が基本だろうに。その根幹を揺るがしたあの子の罪は重いのさ」
 反論しようと口を開きかかったが、元締めの冷たい一瞥に口をつぐむ。膝に這い登ってきた猫を撫でる手は優しいのに、人間にはまったく容赦がない女である。腹立たしさにウラッツェは唇を噛みしめた。
「ヨルッカは契約者の情報を他人に売った。その行為は赦されない。一族が築いてきた信頼を壊した罪は贖ってもらうよ」
 キハルダ、と呼びかけたオルトワの身体が一回り大きくなったように感じられる。威圧しているつもりはないのかもしれない。オルトワの黒い瞳に過ぎった陰に邪悪さはなかった。気が進まないことをやろうとしてるのだと、その一瞬を見ただけで判る。だからといって、不本意なことをやめようとはしない。
「ヨルッカの身体が治るまではお前さんが面倒を見てやりな。お前さんが預かっていた子なんだからね。だけど、怪我が治った後は……」
「判ってるよ、姐さん。あの子が掟を破ったことに気づかなかった落ち度は、これから一緒に償わせてもらうしね。だから、念押しなんて無粋だよ」
 げっそりした表情でキハルダが元締めの言葉を遮った。
 部屋のあちこちに置かれた灯心ランプは小さく呟きながら、時折身悶えるように炎身を震わせる。今、その赤い揺れが大きくなった。まるでキハルダの押し殺した内心を代弁するかのように。
「あいつをどうする気なんだ、姐御! オレの正体をばらしたくらいでヨルッカの居場所を奪うなよ。あいつは遊民の領域から出ていける女じゃねぇだろ!」
「自分の居場所を失いたくないのなら相応の覚悟をしておくことだよ。あの子には我が侭で失ったものを嘆く資格はないんだ。これ以上、遊民内のことに口出しをするんじゃない、ナスラ・ギュワメ!」
 鞭打ちように鋭い声だった。これまでにオルトワのこんな声は聞いたことがない。よほど遊民と王国の均衡が崩れているのか、あるいは崩れそうなことを察知して神経質になっているのか。
 ヨルッカの怪我が治れば彼女には重い処分が待っている現実は変えられなかった。これ以上反発すればウラッツェはつまみ出され、二度と元締めと接触することができないように追いやられてしまうに違いない。
 これ以上の口論は受け付けない気らしい。下がるよう掌をヒラヒラと振るオルトワはもうウラッツェを見ようともしなかった。彼を引きずるように天幕から連れ出したのは、自身も青ざめ、震えているキハルダであった。
 それでも納得しかねていたウラッツェは元締めの天幕を出ると、辺りに人の気配がないことを確かめ、キハルダの肩を揺さぶって問いつめた。
「なぁ、どうしてオルトワの姐御の言う通りにするんだよ。このままじゃ、ヨルッカの奴はひどい咎めを受けるんだろうが。お前、あいつを預かってたんなら元締めに取りなしくらいしたっていいだろ!」
 顔を強張らせたキハルダが邪険に彼の腕を払いのける。憎々しげにウラッツェを睨む彼女の表情はジンもかくやという形相だった。
「ヨルッカを追い詰めたのは誰だと思ってンだい。どっちつかずのお前さんのせいじゃないか! 貴族にも遊民にも成りきれない半端者が偉そうに説教するんじゃないよ。あの子を女として見てないなら放っておきな!」
 ウラッツェは頬を震わせた。思ったように上手く言葉が出てこない。
 ヨルッカが少なからず好意を寄せていることは気づいていた。
 天の邪鬼な彼女は気を許した相手や気に入った相手にほど我が侭を言う傾向がある。従弟という気安さもあり、ウラッツェやそれに関わる者に質の悪い悪戯を仕掛けてはその反応を見て楽しんでいることがよくあった。
 だが、ウラッツェにとって、それはあくまでも身内の好意でしかない。
 それが今回の事件に繋がったというのなら、彼女の内心を読み切れなかった自分の落ち度ということか。従姉で幼なじみの気楽さから、関係を持っていてもそれ以上深いところまで入り込んではいないという甘えがあった。
「トットと貴族様だろうがなんだろうが、遊民と関係ない場所にいっちまいな。もうヨルッカの側に近寄るんじゃないよ」
 憤然ときびすを返したキハルダの背にウラッツェが呼びかけた。
「なぁ、おい。ヨルッカの奴、これからどうなるんだよ?」
「それを聞いてどうするんだい。お前さんには関係ないだろう」
 肩越しに振り向いたキハルダに表情はない。
「オレのせいでヨルッカが不始末を起こしたんなら、オレが代わりに……」
「それが出来りゃ、とっくの昔にオルトワ姐さんにそう進言してるさ。出来ないから腹が立つんじゃないか、バカ野郎」
 冷え冷えとした声で怒鳴り、キハルダは歩いていってしまった。もう一度呼び止めようかと手を伸ばしたウラッツェだったが、声は喉に貼りつき、荒々しい女の足取りを見送ることしかできなかった。