混沌と黎明の横顔

第10章:とぐろ巻く刻《とき》の声 7

 大公屋敷に戻って夕食を終えたフォレイアは談話室に立ち寄った。自室に戻る前に寝酒を調達しておきたかったのである。
 この時間に厨房に足を踏み入れては使用人たちに迷惑をかけることになる。酒蔵から持ち出せぬ以上、談話室に置かれた酒から選ぶしかなかった。
 もちろん使用人たちに言いつけて酒を持ってこさせることもできる。その程度の頼み事くらい聞き入れられるだけの力はあった。が、それでは酒樽や陶瓶を手にしながら寝酒を選ぶ愉しみは味わえない。
 結果、王都の屋敷にいる間、かなりの確率で談話室に立ち寄って寝酒用に酒瓶を持ち出してしまう彼女のために、使用人たちは毎日のように酒蔵から補充を繰り返しているのが、ここ何年かの習慣になっていた。
 公女を満足させられる酒を用意しておこうと、使用人たちの間では談話室に置く酒の種類を吟味する目が厳しくなっていることは、フォレイアも薄々気づいている。それが彼らの娯楽にもなっているのであれば一石二鳥だ。
 今夜はどんなものが用意されているだろう。ささやかな愉しみに浮き立ちながら談話室の飾り棚を覗き込んでいた公女は、つい今し方入ってきた入り口が開閉する音を聞きつけて振り返った。
「ジノン卿? どうしたのじゃ、部屋に戻ったとばかり思っておったが」
 一緒に夕食を摂った後、彼は知り合いが訪ねて来たとかで早々に食堂を出ていったのである。父大公はまだ官庁から戻ってきていないこともあり、フォレイアは侍女相手に夕食後の香茶を楽しんでから自室に戻るところだった。
「ちょうど良かったよ。話をしておきたいことがあったんだ。家令パレにお前との面会のお伺いを立てる手間が減ったのはありがたい」
 僅かな嫌味を言葉端から感じ取れる。大公の甥とはいえジノンはこの屋敷内では客分で、大公家の身内としては扱われないのだ。主人の身内たる公女に逢うのにもいちいち許可を求めねばならない。うんざりしていることだろう。
 だからこそ彼はフォレイアと話をしたいときは屋敷以外の場所にやってくることが多かった。昼間も官庁を訪ねてきたのが良い例である。
「何かあったか? 先ほどの知り合いが不都合なことを言ってきたか?」
「不都合といえば不都合だな。特にこの屋敷内では禁句だろうし」
 なんじゃ、と首を傾げながら訊ねると、近寄ってきたジノンが耳打ちした。
「ササン・イッシュ伯父に隠し子がいるという話を聞いたことはあるか?」
 唖然として見上げたフォレイアの目の前に従兄の複雑な表情があった。上手く言葉にならないのか。それとも他に何か思惑でもあるのか。それを目の前の男から読み取ることは難しそうだ。
「伯父上の隠し子じゃと? その話は本当のことなのか? あの方は正式な婚姻を結んではおらぬ。ということは、その子どもは私生児ということに……」
「そうだ。伯父貴は婚姻直前で反逆罪に問われて僧院へ送られたからな。さらに質の悪いことにだ。その隠し子というのが、伯父貴が僧院に入って何年も後に産まれたという話だからな。この話、表に出ればひどい醜聞だぞ」
 僧院に入った僧侶は婚姻はもちろん、肉体的な交わりすら禁忌である。もっともそれは表向きのことで、隠れて悪徳を積んでいる僧侶は枚挙に暇がないが。
 暗黙の秘密ではあるが、それでも僧侶に子がいることが知れれば世間は騒然とするだろう。しかも、それが反逆罪に問われながら僧院への入門廃嫡だけで、死罪を与えられなかった大公家の元公子となればなおさらだ。
「この話、父……いや、炎姫公にはまだ通しておらぬな?」
「話してない。下手に他人にも聞かせられんしな。真実かどうかもまだ判らん。だがな、この噂は随分と昔から囁かれていたらしいぞ」
「バカな! そんな噂があれば大公家に聞こえてこぬはずがない。何か別の噂と取り違えておるのではないのか? たとえば、前大公の隠し子の噂とか……」
 しかし、その言葉にジノンは首を振る。彼は厳しい表情で口を開いた。
「たぶん炎姫公はこの噂をすでにご存じだと思うぞ。もしかしたら隠し子がどこにいるのかも把握しているかもしれない。噂が広がりもせず、ごく一部で囁かれているに留まっているのが何よりの証拠じゃないか?」
「まさか。それなら父上が隠し子を放っておくはずが……」
 たとえ子に罪はなくとも反逆者の血を引いているのである。もし何かのきっかけで王家や大公家に悪意を持ったなら、あるいはすでに憎悪を抱え込んでいたとしたら、王国全体の脅威になりかねないではないか。
「本人に私生児の自覚がなければ処分する必要もない。そう推測することもできる。下手に事を荒立てるより監視の眼を光らせておくほうがいいからな」
「それにしても危険じゃ。この噂を持ってきた人物は信用できるのか?」
 ジノンの眉間に不快げに皺が寄るのをフォレイアは確認した。自分の情報源を疑われているのが気に入らないのだろうが、鵜呑みにすることはできない。
「話を持ってきたのは信用できる奴だ。今まであいつの情報でガセはなかった」
「そうか。ジノン卿がそこまで言うのなら確かなのであろう」
 言葉では肯定しておいたが、フォレイアにしてみればジノンの言葉だけで信じることはできなかった。今までの情報が確かだったとしても、今回の情報が間違いないという保証にはならない。
 だが頭ごなしに信用ならんと言ってしまえば、それはそれで問題を引き起こす。たとえ客分であっても、ジノンは炎姫公の甥であり、公女の従兄なのだ。仲違いをしたと周囲に広まれば、付け込もうとする輩が現れる。
「今度の僧院への参詣で少し探りを入れてみるか?」
 どうだろう。それだけで隠し子の有無や現状などが判るとは思えなかった。また嗅ぎ回っていることを父が知れば不快に感じることだろう。フォレイアにはそこまでして調べねばならないことのようには思えなかった。
 ところが、ジノンのほうはそう考えていないらしい。亡くなった伯父への思い入れが彼女より強いのだろうか。それとも何か下心が……?
 僧院の中でササン・イッシュと関わりがあった者は誰かとか、話をどういう風にもっていけば聞き出しやすいだろうとか、フォレイアにも判らぬことを訊ねてくる。適当に返事をしながら、彼女は胸にくすぶる苛立ちを押し殺した。
 いっそ疑問を父に直接ぶつけたほうがいいのかもしれない。それなら悶々と悩まないで済むというものだ。一笑に付されて終わりかもしれないのだし。
 そう考えながらも、いざ噂話を切り出すとなると身が竦む思いがした。
 ササン・イッシュ伯父は部下が引き起こした反逆罪の連帯責任で廃嫡されたと聞く。本人にとっては不本意極まりないことだったのだろう。
 その後に異母弟アジル・ハイラーの暗殺を謀り、失敗して斬り殺されたことを考えても、異母兄弟たちの仲が良かったとは思えない。その不仲の兄に隠し子がいたのかなどと安易に問いかけるのは無神経すぎるというものだ。
 やはり噂の真偽は父に知らせないまま確かめておきたくなった。ただの噂話にしても不穏である。偽りであれば早々に火種を消しておくに限るし、真実であれば……どうするというのだ? 内々に処分するとでも?
 結局、父を介してしか関われなかった。炎姫家はアジル・ハイラーを中心に回っている。彼の影響が及ばないことなどあってはならないのだから。それは娘であっても避けられぬことなのである。
「噂の真偽を確かめるために探るのか? それとも父上の弱みを握るためか?」
「直に真偽を確かめる必要があればそうするさ。それにこれは大公の弱みになるのか? そうであればなおいいがな。……従妹殿はどう思う?」
 堂々と伯父の弱みを探していることをほのめかすとは大した度胸だ。嫌味を混ぜた問いに平然と返事をする剛胆さは一目置いてもいいかもしれないが。
「この程度の噂でアジル・ハイラーがぐらつくはずもない。噂が真実であれ、偽物であれ、我が家の屋台骨は盤石じゃ」
「だったら調べるくらいいいだろうが。俺の知り合いの言葉は信じられないのだろう? だったら噂が嘘だと証明したほうが気楽じゃないか」
 ふとフォレイアは視線を反らし、火勢が衰えた暖炉を見つめた。もうしばらくしたら使用人が火を落としにくるだろう。燭台の蝋燭や暖炉の火が消えれば、この部屋は今以上にそっけない顔になることを公女はよく知っていた。
 父は談話室をあまり利用しない。客人を招いたときに使われる程度だ。それでも姉が駆け落ちする前までは、まだ利用される回数は今より多かった。
 姉がいなくなってから父の気難しさは手に負えないほどひどくなっている。それだけ愛情を注いでいたのだろう。その万分の一でも父と向かい合ったことがない己には、姉の不在に不機嫌になる父の姿すら妬ましかった。
 なぜ同じ娘でありながら、姉と自分ではこうも態度が違うのか。それすら問いかけることができずにいる。なぜ、と問うた後の答えを聞くのが怖かった。
 噂が本当であるはずがないと思いつつ、もしも真実であったら父がどう動くのかと考え出すと恐ろしくなってくる。他の人間の前に出てもなんともないのに、父の前に出ると身体がすくみ上がって言うことをきかない。
 もしも異母兄の私生児を処分するような決断がなされたなら、自分はどう思うだろう。父の命令に従えるのか。それとも背くのか。今は判らなかった。
「噂を調べるというのならやってみればよい。しかし、炎姫公に迷惑がかからぬようにすることじゃ。痛くもない腹を探られれば、誰でも不快になるぞ」
「もちろん。あからさまに調べて回る気はない。ただササン・イッシュ伯父に隠し子がいたのなら、アジル・ハイラー伯父に見つかる前に保護したいだけさ」
「相手がそれを望んでいるかどうかは考えぬのか? お節介かもしれぬのに」
「そのときはそのときだな。それに伯父貴が隠し子を見つけていないなら、俺が先に見つけて鼻をあかしてやるのも一興だ。そう思わないか?」
「炎姫公を見くびらぬことじゃ。余計な虚栄心は己を首を絞めるぞ」
「伯父貴が少しくらい俺を買ってくれたら文句はないさ。能力があることを示すいい機会だと言ってるんだよ、俺は。それ以上の他意はない」
「だとよいがの。身内から叛意のある者を出してもめ事を起こしたくはない」
「機会は自分で作るものだろ? 叛意もクソもあるか。俺はこの国での居場所を作るんだ。力を示すにはちょどいい案件だってことさ」
 従兄との会話は噛み合っているようで噛み合っていない。お互いに見ている部分が違うのだ。価値観が微妙にずれている。
 それなのにこの男は結婚を申し込んできた。やはりのし上がるために公女である従妹を利用したかっただけか。それとも野心と結婚は別だとでも……?
 近日中の僧院参詣への同行を念押しし、ジノンは会話を切り上げて談話室を出ていった。僧院に出向いたとき、甥の立場を利用して探りを入れる気だ。上手く隠れ蓑に利用された気がしないでもないが、彼を強く止められなかった。
 父の噂に近づくのが怖いくせに、その噂の内容が気になって仕方がない。怯えながら闇の中を彷徨っているようなものだった。
 寝酒用に適当な酒瓶を掴むと、フォレイアは自室へ向かった。途中、寝酒を選びに行っただけにしては遅い彼女を心配して迎えに来た侍女と行き会った。
 女が寝酒などと初めは良い顔をしなかった侍女も今では慣れたもので、フォレイア用の酒杯を寝る前に用意し、肴まで据えてある始末である。
 今夜も寝支度を侍女に任せながら公女は酒杯からワインをちびちびと啜った。
 髪を梳る侍女は何やら話しかけてくるが彼女は生返事しかしない。思い出しているのは先ほどのジノンとの会話だ。伯父の私生児をどうしてここまで気にするのか自分でも判らない。ひどく胸の奥がもやもやしていた。
 仕事を終え、退室していく侍女に素っ気ない労いの言葉をかけた後、フォレイアは酒瓶から直接ワインを飲んだ。侍女は酒の量が増えている主人を気遣ってくれるが、飲んでも酔えないのだから質が悪い。
「もう一本寝酒用に持ってくれば良かったか。……いや、たとえ樽で飲み干したとしても、この渇きが癒えることはあるまいのぅ」
 仕事をしている間は薄まっている疎外感が寝る前には急激に大きくなる。独りだと、誰にも愛されていないのだと、ジクジクと心が痛んだ。
 それを消す方法は未だに見つからない。何もかも放り出したくなることもあるのに諦め悪く何かに縋り付いている己の弱さに、フォレイアは吐き気がした。




 先ほどまで賑やかだった談話室も今は暖炉で薪が爆ぜる音しかしない。そのたびに壁に伸びる影が震える様子をジャムシードはぼんやりと眺めていた。
 ジュペを休ませるためにハムネアとナナイは早々に床についたし、タケトーとやり合っていたソージンも王太子の夜警に当たる時間が来たとかで王城へと戻っていった。イコン族の面々も今は各自の部屋へと引き取った。
 館の主人も客人を部屋に案内しがてら見回りに行くと言って出ていったが、たぶんその後にサキザードの部屋へ寄ってくるだろう。
 タケトーがこまめに弟の様子を気に掛けてくれるお陰でジャムシードは仕事に集中できるのだが、兄としての立場を置き去りにされているような気がして、疎外感を感じるのも否めないことだった。
「サキザードと向き合うのが怖いからだ。俺は絶対に憎まれるだろうし」
 どんな会話が楽しいか、欲しいものは何か、そんな些細なことすら判らずに途方に暮れるばかりである。洪水のように押し寄せてくる問題を次々に片づけている間は、弟のことを忘れがちであることも情けないことだった。
 子どもの頃、あれほど生き別れたことを気に病んでいたというのに、長い歳月の間に弟がいない日常が当たり前になっている。実際に一緒に暮らしたこともないのだから当たり前と言えば当たり前であったが。
 ジャムシードがひとつ溜め息をついたとき、談話室の扉が静かに開かれた。振り向いて確認してみると、館の使用人らしい少女がワゴンを押しながら入ってくる姿が目に入った。どうやら空いた食器類を片づけに来たらしい。
「何か夜食をご用意しましょうか、旦那さま?」
 イコン族の男たちは食後酒と肴をすべて平らげてしまっていた。あちこちに散らばる盆の上にはそれらの残骸が転がっている。今はもう食べるものも飲むものも何もなかった。少女が気を利かせたとしてもおかしくはない。
「俺は君たちの旦那さまじゃないよ。そんな堅苦しい呼び方をしないでいい」
「ですが、お館さまからそう呼ぶよう言われています。旦那さまはこちらの館に滞在されるお客さまの中でも特別だと」
 ジャムシードは苦々しい思いを奥歯で噛み殺した。
 タケトーにとって自分は王宮にいるソージンとを繋ぐ大切な駒で、記憶を失っているサキザードの兄でしかない。ソージンにも逢えたことだし、弟が自立できるようになれば用済みの存在だろう。
 夕食を食べた後でも談話室で豪快に飲み食いするイコン族らに相伴したジャムシードだったがあまり酒を飲む気にはなれず、一杯だけつき合って後は香茶ばかりを口にしていた。が、今は無性に酒が飲みたい気分になっていた。
 どうにも気が塞ぐ。サキザードのことが引っかかって仕方がなかった。
 片付け物をワゴンに移し終えた少女が手際よく飲み物の用意をする。そつのない優雅な手つきと控えめな態度に素養が感じられた。東方人特有の背格好であるところから察するに、タケトーが国元から連れてきた者かもしれない。
 しかし、ジャムシードがこの館に滞在するようになってから今日初めて逢った人物だ。今まではよほど館の奥で働いていたのだろうか。
 壺急須タンプルに注がれる液体から微かに湯気が立ち上っているのが見えた。香茶を用意してくれているのだろうか。
 しかし、ジャムシードの目の前に置かれたのは酒を飲むための深杯ゴブレットだった。彼女は温めた薬草ワインを用意したのだろうか。
「お食事で蜜酒ミードをお出ししましたし、食後酒に火苺酒フランベリーディーを飲まれたと思いますから、今回は乳酒をご用意いたしました」
 ジャムシードは呆気に取られて少女の顔をマジマジと見上げた。よくよく空気に漂う匂いを嗅げば、確かに乳酒特有の酸味を感じられる。ぼんやりしすぎていて注がれた液体の正体に気づかなかったようだ。
 乳酒はアルコール度数がほとんどない。女性や子どもに出すことはあっても、成人男性に出すことはまずないのだ。それを堂々と差し出すとは。
「眠れないときにお酒を飲みすぎると余計に眠れなくなりますし、もし眠れたとしても身体の疲れがとれませんので」
 強引さは感じられない。だからだろうか、思わず手が伸びて深杯を取り上げていた。とろりとした粘液質の液体がつやつやと光りながら杯に満ちる。漂ってきた匂いは確かに乳酒だ。しかし、今までに飲んだものと少し違う気がする。
「なんだか匂いが違う気がするけど、これは特別な乳酒?」
「いいえ、特には。たぶん王国の乳酒と材料が違うからだと思います。こちらの国では山羊乳を用いますが、東方の北中部域では馬乳を利用していますので」
 東では乳酒を総称してミクスと呼ぶのですよ、と説明する少女の顔が子どもを諭す母のように見えた。東方人はポラスニア人より若く見えるのが一般的であるから、想像した以上に年齢を重ねているのかもしれない。
 乳酒を一口含んでみると予想よりサラリとした舌触りで驚いた。同じ乳酒でも東方では作り方が違うのだろうか。王国のものよりアルコール度数が高いようにも思われた。そう、これなら酒だと言ってもかまわないくらいである。
 ジャムシードが嚥下する様子を横目に娘は談話室を整え続けた。飾り棚に特徴的な形をした陶製の酒瓶を置く。暖炉の薪を補充し、皺が寄った敷物を丁寧に整える。不規則な向きの椅子を一脚ずつ暖炉へと向け直す。
 雑然とした気配が消えた談話室を見回し、ジャムシードは自室に戻ろうと決めた。いつまでも居座っていては彼女の仕事の邪魔になる。
 残りの乳酒を飲み干して椅子から立ち上がった。一瞬、酔い特有の眩暈が湧き起こる。が、足に力を入れて踏みとどまった。
「もうよろしいのですか? まだお代わりがありますよ」
「あぁ、いや。もう充分だよ。残りは奥の皆で分けてくれ」
 乳酒程度で酔ったのだろうか。いくら普通よりアルコール度数が高いとはいえ、他の酒ほど高いようには思えなかったが。
「旦那さまがそう仰るなら皆と分けさせていただきます。今夜は皆、よく眠れることでしょう。そうそう、先ほど覗いてきましたが、お嬢さまとお連れさま方もよくお休みになっておられましたよ」
 旦那さまと呼ばれることに抵抗があるが、彼女は自分で決めたことを曲げる気はないらしく、しごく当然といった口調を変えることはなかった。
「そうか。連れにまで気を回してもらって……ありがと、う……」
 ふわりとまた眩暈が起こった。やはり酔っているようだ。もしかしたら食事の時に飲んだ蜜酒が乳酒を飲んだことをきっかけに今頃になって回ってきたか。
「大丈夫ですか、旦那さま。お部屋までご案内しましょうか?」
 穏やかな女の声に平気だと答えたいのに、上手く声が出ない。いったいどうなってしまったのだろう。ついさっきまではなんともなかったのに。まるで乳酒に何か薬でも混ざっていたかの──
 己の考えにゾクリと背筋に寒気が走った。ぎこちない動きで女のほうを振り返れば、慈悲深い笑みを浮かべた小さな顔がこちらを見つめてくる。母が子を見守るような穏やかな表情だ。なのに、何か小さなひっかかりを覚える。
「何を、混ぜたんだ。俺に何を、飲ませた……?」
 呂律が回らない己の舌の働きが恨めしかった。詰問の声に張りがない。
「毒ではありませんよ。ご安心ください。よく眠って、明日には気分よく目覚めるはずです。ですから、このままゆっくりお休みなさいませ」
 そんな言葉が信用できるものか。酒に混ぜ物をするような輩が何を言うか。
 しかし、三度目の眩暈に襲われ、ジャムシードは立ち上がったはずの椅子に再び座り込んだ。身体を支えるのが億劫で、頭の中がボゥッとする。手足の先にも力が入らず、寝入るときと同じ怠さが全身を支配した。
「危害を加える気はありませんよ。あなたは兄の大切な友人のようですしね。でも仕事の邪魔はして欲しくありませんから、ここで大人しくしていてくださいな。それがあなたの身のためです」
 ふざけるな、と叫んだつもりだったが、舌は僅かに痙攣しただけで喉はくぐもった呻き声を漏らしただけで終わった。瞼が重く、意識が闇の底へ底へと引きずり降ろされていく。全身が椅子にめり込んでいきそうだ。
 柔らかな足音が近づく。衣擦れの音が響き、身体をすっぽりと覆う温かな感触で毛布を掛けられたのだと悟った。初めから毛布も用意してあったのか。
 朦朧とする意識を奮い立たせようと足掻いたが、ジャムシードの抵抗を嘲笑うが如く、手足の先は小さく痙攣するだけで持ち主の意志に逆らった。
「お休みなさいませ、旦那さま。あなたに恨みはありませんが、わたしも仕事をしなければなりませんので。できれば追わないで欲しいのですが、きっとそれは無理な注文でしょう。……ですから、そのまま聞いていてください」
 ジャムシードの身体に毛布をしっかりと巻き付けながら女は慈愛に満ちた声で話す。きっと顔には先ほどの穏やかな微笑みが浮かんでいるはずだ。
「人質を取るのはあの男の常套手段なのです。それも実に巧妙に」
 今にも途切れそうな意識をなんとか留め、ジャムシードは女の声を拾った。
「今、彼の関心は王国中でもっとも自治権が強い地域に向いています。そこを足がかりに支配域を広げていく気です」
 女が離れていく気配がする。ワゴンが動く軋んだ音も届いた。去ってく相手を呼び止めたいのに、意識は生温い湯に浸かったように微睡み続ける。霞んでいく感覚の底で鈍い焦りだけが広がっていった。
「あの男を止めるなら兄を頼りなさい。そして伝えて。黒帆船が到着した、と」
 扉が開き、静かに閉ざされる音が耳に届く。それを最後にジャムシードの意識は途切れ、生温い闇へと沈んでいった。