混沌と黎明の横顔

第10章:とぐろ巻く刻《とき》の声 6

 キャンキャンと叫ぶ者どもを押しとどめ、ハインは苛立ち混じりに嘆息した。
「いい加減にせぬか、お前たち。聞き分けのないことを言い出すでない!」
 しかし、彼が一言発するだけでその三倍は抵抗する言葉が発せられる。
「なんで出ちゃダメなのよ。アジェンティアだって奨励してるわ!」
「そうだ、そうだ。オレたちを閉じこめようなんて、冗談じゃないぞ」
「だいたい、あんたたちが生温いこと言ってるからもめ事が収まらないのよ。いいから、そこどきなさい。あたしたちが行って解決してくるから!」
 再び小さく溜め息をついた後、ハインは強硬に首を横に振った。
「断る! 状況は常に変化しているのだ。お前たちを繭から出すわけにはいかぬ。サッサと奥に戻るのだ」
「何よ、あたしたちが半人前だとでも言うつもり!? もうとっくに成年を迎えてるのよ。あんたに指図される覚えはないわ」
「お前、オレたちを捕らえたとき、まるで猛獣を捕まえるみたいに首根っこ押さえ込みやがったろ。絶対に赦さないぞ。アジェンティアに報告してやる!」
 そういう言い方がすでに大人ではないのだが。そう思っても、口に出せばろくでもない理由を挙げて反論してくるだけだ。半人前を相手にするのも疲れる。
「お前たちを外に出せば下天は余計に混乱するだけだ。どうあっても繭から出すわけにはいかぬな。諦めて奥に戻るのだ」
「なによ、偉そうに。アジェンティア直属だからっていい気になってるんじゃないわよ。あたしだってその気になれば……」
「アジェンティアから直接命じられなければ従わぬと? 私の言うことに従えぬと言うのなら……。是非もない。アジェンティアに与えられた権限をもって、お前たちを抹殺するしかなさそうだな」
 そろそろ我慢も限界だ。どれほど時間を浪費させれば気が済むのか。押し問答もここまで続けば立派な嫌がらせである。
 素早く呪文を練り上げ、ハインは掌上に青白い炎を出現させた。たじろぎ、後ずさる二人の同胞の恐怖に歪んだ顔を見ると、少しだけ溜飲が下がった。
「オレたちを手にかけたら、後でどうなるか判ってるのか? いくらお前がアジェンティアのドルクでも裁きは免れ得ないぞ」
「そんなことは百も承知だ。しかし彼女から受けた命令を最優先させるなら、粛正もやむを得ないと判断する。……覚悟はいいか?」
 一人が弾かれたように逃げ出した。そうすると、釣られて残りの一人も後を追う。逃げた二人の足音が消え、その場にはようやく静寂が戻ってきた。
「愚かな。裁き手でもない私がお前たちを害するはずがなかろう。そんなことも忘れてしまったのか。……いや、忘れるほど長きに渡って我ら一族は眠り続けていたということか。その間のことをアイン一人に押しつけて」
 気が抜けてうずくまりそうになったが、呪文を練り、結界の修復を終えた。
「アジェンティアは何をしているのだろう。自らがバチンをおびき寄せるための餌になると言っていたが、バチンの幻体が複数いることが判明した今、逃げ回るだけでは解決しないと判っているだろうに」
 結界に背を向け、ハインは虚無の空間を歩き始めた。行けども行けども変わらぬ景色。その何もない風景に彼の真白な髪は溶けてしまいそうである。澄んだ空色の瞳ばかりが茫洋とした空気の中で鮮やかな輝きを放っていた。
「もしや、一気に片を付けるために無茶なことをしでかしているのでは……?」
 ふと立ち止まり、彼は足許を覗き込んだ。眉を寄せ、苦々しい表情を作ってすら端正に見える美貌である。ただ残念なことに、英雄を思わせる整いすぎた容姿は親しみよりも畏れを先に感じさせ、他者とは馴染まぬものだった。
「探ってみるか。アジェンティア一人ならば切り抜けられることでも、一緒にアインの本体がいたのでは心配でならぬ。名付け子にもしものことがあっては、名付け親としての立場がなくなってしまうわ」
 もどかしげに指先を蠢かせ、ハインはゆっくりと息を吐きながら意識を集中させた。まるで哲学者が瞑想するかのような静かな表情だったが、彼を知る者が見れば、それが己の気配を拡散させる方法だと理解しただろう。
 どれほども時が経たぬうちに、白い眉間に深い皺が刻まれた。カッと眼を見開いたハインが立て続けに舌打ちする。
「なんてことだ。アジェンティアとバチンの気配が重なり合っている。彼女たちは一緒にいるのか? やはり無謀な真似をしているのだな」
 焦りすら混じった声で内心の苛立ちを吐き出していたが、ハッとして彼が背後を振り向き、白い闇の向こうを透かし見て口内で悪態をついた。
「また繭を破ろうとしているのか。何度説教すれば諦めるのだ、あの愚か者め」
 あちらでもこちらでも騒ぎが絶えぬ。その現状を再確認して、ハインは押し殺していた怒りが爆発しそうになりながら、元来た道を引き返していった。




 ふわりと視界の端に蒼い色彩が躍った。なんだろう、と振り向けば、どこから入り込んできたのか、蒼い蝶がヒヨヒヨと室内で舞っている様子が目に入る。それは夢を見ているような不思議な光景に見えた。
「どうして……? どこから入り込んできたんだ、お前。いくら雨期の終わりとはいえ、まだまだお前たちが飛び回るには早い時期だぞ」
 ふと、なぜ自分はこの蝶が飛ぶ時期を知っているのだろう、と疑問が湧く。しかし、それに答える記憶が自分にはないことを思いだし、薄暗い部屋に沈み込むが如くどんよりとした気分に陥った。
 蝶は不規則な軌道を描きながら確実に彼を目指して飛んでくる。まるで助けを求めて手を伸ばしているようにも思えた。
 記憶を失った身だからそう感じるのだろうか。あるいは季節より早く産まれてしまった蝶から連想したのか。判らぬことだらけの今、気が塞ぐ原因は記憶を失っていることだけではないのを、頼りない蝶を見上げながら思い出した。
わたしがお前を見捨ることは、あの人と同じになるのか。それとも季節外れに産まれた宿命と命を摘むほうが親切か。どちらが正しいだろう?」
 問いかける声に引き寄せられたか、蝶の軌跡が目に見えて降下する。あるいは力尽きようとしているのだろうか。それとも呼んでいるのか。
 呼んでいる? 誰を? どうして?
「お前は、何がしたいのだ? それともお前こそが吾の記憶なのか?」
 どこかへ置いてきた記憶が蝶になって戻ってきたか。不意に浮かんだ突飛な考えに彼は失笑した。歪んだ口許から漏れるかすれ声が震えているのは誰のせいだろう。いや、誰も悪くはない。己が己を嗤っているのだ。
 差し伸べた両掌の上で蝶が羽根を休める。開閉する蒼い羽根の動きが誰かの呼吸のようで、ひどく生々しさを感じた。
「お前も独りぼっちなのか? この季節では仲間も望めまい」
 ──独りは厭なの?
 どこからか、いや、直接頭の中に響いた声に彼は唖然として周囲を見回す。
「なんだ? 今の声はどこから?」
 ──わたしはここよ。
 規則的に蠢く羽根が彼を呼ぶように震え、再びゆるゆると開閉を繰り返した。
「お前……。蒼い蝶よ。この声はお前なのか? いや、まさか蝶が……」
 問いかけの声は小さい。己の正気を疑う動揺が喉を震わせているのだ。
 ──蝶が話しかけるのは不気味? でも、あなたが眼にしているのは現実よ。
「お前はなんだ? どうして蝶なのに話ができる?」
 ──簡単よ。元々が蝶ではなかったってこと。
「では人だったのか? 死んだ者の魂だと?」
 ──まぁ、まやかしの言い伝えを信じてるのね。蝶は死者の魂だと。
「違うのか? 吾はそう教えら……」
 教えられた? 誰に? いつ? どこで? どうやって?
 ──ふふふ。混乱してるの? 自分で記憶を掘り起こそうとしてるだけよ。
 クラクラする。目の前で羽根を揺らす蝶がぼやけて見えた。何が現実で何が幻なのか。自分の気は確かなのだろうか。自身では判断できなかった。
 ──記憶を取り戻したいの? それとも忘れたままでいる?
「取り戻したいに決まっている。どうしてそんなことを訊く!?」
 ──あら、だって。記憶を取り戻したら苦しいわよ?
「なにを……」
 身体が強張り、思わず両手の指を握りしめた。それがあらかじめ判っていたのか蒼い蝶は難なく彼の掌中から飛び上がり、ヒラヒラと虚空を舞い始める。
 ──あなたは彼を憎む。この国を憎む。この世界を憎む。なのに記憶を取り戻したいと言う。彼は望んでいないのに。自分でも怖いくせに。
「黙れ! 吾は過去の自分を取り戻したいと本気で思っている!」
 ベッドの上掛けを跳ね除けて床に飛び降りた。飛び回る蝶を睨み、拳を固く握りしめる。そんな彼を嘲笑うように、蝶は青白い鱗粉を頭上に撒き散らした。
 ──過去を取り戻せば、ここでの暮らしを忘れるわ。あなたは小さな自分を忘れ、偉大だと思い込んでいた者に傅いていた自分を当然と見なす。
「違う! 世話になったことを忘れはしない。こうやって日記にも記して……」
 書記机へと駆け寄ると、彼は傍らの本立てから一括りの紙束を掴み出す。それを目の前で振り回し、ここでの記録はしっかり書いてある、と叫んだ。
 ──あぁ、可哀相なシグムド。あなたはなんにも判っていない。
 クスクスと笑う声が部屋中に響き渡る。それが彼の耳を聾し、平衡感覚を奪っていった。歪んだ視界から逃れるように彼は眼を閉じてしゃがみ込んだ。
「やめろ。吾に何をした! この眩暈を止めろ!」
 ──記憶を取り戻したいのでしょう? だったら必要な試練だと思わない?
 こんなことをして記憶が戻るというのか。得体のしれない蝶の言うことなど信じられなかった。何かが間違っている。勘がそう告げていた。
「やめろ! お前に頼らずとも記憶は取り戻してみせる!」
 ──あらまぁ、随分と強気だこと。人と関わるのが怖いのでしょうに。
 頭の中で銅鑼ダムドを打っているように蝶の言葉が鳴り響く。これ以上眩暈がひどくなったら、意識を保っていられる自信がなかった。
「やめろ……と、言っているっ。吾に手を出すな!」
 ──自力で取り戻した記憶にろくなものなんかないわよ。大人しく……
 不意に頭の中で聞こえていた声が途切れる。いや相手が口をつぐんだのだ。
 いったい何が起こったのだろう。緩やかに収まっていく眩暈を抑えようと彼はベッドに寄りかかり、乱れた息を整えた。辺りにはなんの気配もない。
 額に滲んでいた脂汗を拭っていると扉が叩かれ、誰かが室内に滑り込んできた。まだ続く眩暈に、彼は頭を上げることができずにいる。
「どうしたんです、サキザード。何かあったのですか?」
 タケトーだ。相手が判った途端、全身から力が抜ける。知らぬ間に緊張を強いられていたのだ。ひどく喉も渇いている。まったく気づかなかった。
「すみません。ちょっと気分が悪くて。水をもらえますか?」
 異質な蝶との会話を話したところで信じてもらえまい。彼は表面的な言い訳をしながら顔を上げた。心配げにこちらを覗き込んでいる異邦人と視線が絡まったが、サキザードはすぐに視線を反らしてしまった。
 タケトーは簡単な食事を用意して持ってきてくれたらしい。食器を乗せた銀盆をベッドの傍らに置くと、水を入れた杯を手に近寄ってきた。
「ベッドに上がれますか? 手を貸したほうがよければ……」
 大丈夫だと断り、サキザードはベッドに這い上がる。上掛けの下に滑り込み、杯を受け取って一気に水を飲み干した。
「書き付けを取ろうとしていたのですか? あちこちに散らばって……」
 日記代わりの紙綴りを拾い集めながらタケトーが首を傾げている。不審に思っているだろうが、詳しく説明する気にはなれなかった。
「立ちくらみでも油断してはいけませんよ。食事は摂れそうですか?」
 説明する気のないサキザードをどう思ったか知らない。が、館の主人は飄々とした態度のまま集めた紙束の皺を伸ばし、書記机の上に戻した。
「少しなら摂れそうです。すみません、こんなところまで運ばせてしまって」
 本来なら食事を運ぶような雑用は館の主人の仕事ではない。しかし人に馴染めない彼のためにタケトーは自ら彼の世話を焼く機会が多かった。
 兄だという男よりも近くにいる存在にこれまで随分と助けられている。もしもタケトーに出逢わなかったら、今頃どうなっていただろうか。
 記憶を取り戻したとき、受けた恩を忘れる不義理だけはしたくないものだ。そのためにも貰い受けた紙束に日々のことを書き記しているのであるが。
 タケトーの雇う料理人が作る粥は本当に美味しかった。こんなに美味しい粥を今まで食べたことがない。いや、記憶はないのだが、舌が無意識に覚えている味覚の中にこんな美味はなかったはずだ。
「食事が終わったら階下に行きますか? お客人の多くはもう各自の部屋に戻られましたが、あなたの兄上はまだ起きていらっしゃいますよ」
 粥をすくう匙が止まり、サキザードはしばし考え込んだ。あの人が帰宅してくる前までは話をする気でいたが、今はそんな気分ではなくなっている。
 兄弟の実感がないのに、己によく似た容姿を持つ男に対して親しく振る舞うことなどできようはずがなかったのだ。できれば近寄りたくない。それなのに周囲は兄弟ゆえに親しくして当然と思っているのが煩わしかった。
「これから先に進んでいくには、彼と話し合ったほうがいいですよ。あなたが彼を苦手にしていることは知っていますが、避けてばかりもいられません」
 タケトーの言うことはもっともである。今後の互いの生き方がどういうものになるのか、それが交わらないのであればお互いに納得して離れなければ。
 現に先ほどの彼は離れていこうとしていた。あちらも弟などという存在を持て余し、鬱陶しいと思っているに違いない。
「話をしてみます。……まだ兄だとは思えませんが、あの人とどう関わっていくのかを見極めていかないといけませんよね」
「急に何もかもを決める必要はないのですよ。少しずつお互いの間にあるわだかまりを解きほぐしていくことが肝要ですから」
 サキザードは小さく頷き、再び匙を動かした。温くなった粥は美味しくない。それ以上にこの後に待っている気が重い試練のことが味覚に影響していた。
「同席していただけますか、タケトー?」
 気安く同席を請け負う館の主人の鷹揚な笑顔へ曖昧に微笑み返し、サキザードは兄や異形の蝶が残した言葉を繰り返し思い出しながら食事を続けた。




 歴史は繰り返す。判っていても、それは避けて通れるものではない。誰もが否応なく巻き込まれていくのだ。しかし、切り抜ける方法は幾通りもある。選択肢に正誤を求める者にとっては、どれを選ぶかは死活問題だろうが。
「今度はこちらが貰ったよ。お前は人を使うのが下手だえ」
 優雅な手つきで駒の一つを取り上げた女の声に愉悦が滲んだ。望み通りに駒が動いたのが嬉しいのか。それとも目の前の人物に煮え湯を飲ませてやれたとでも思っているのか。いずれにしろ得意満面である。
 アジェンティアは表情をピクリとも動かさずに盤面の配置を見おろした。
 盤上で始めた戦いは一進一退といったところである。これは容易に決着がつくものではなかった。入り組んだ駒の配置に加え、不確定要素の賽子の目が戦いをいっそう複雑なものにしている。さらに賭け棒が相手の駒を翻弄するので、少しの油断が形勢を逆転させてしまう気の抜けない戦いだった。
 金箔塗りの賭け棒を掌で転がしながらアジェンティアは小さくあくびをする。のんびりしているようだが、彼女の頭脳は凄まじい勢いで回転していた。
「駒が集まったからと言って油断しないほうがいいわよ、バチン。わたしの手にはいくつのも賭け棒があるわ。そちらの駒を買収することもできるの」
「その買収とて賽の目が合わねば成立せぬ。何もかもが思い通りになると思うでないわ。今に吠え面をかかせてやろうぞ」
「そういうあなたもこちらの手許の駒が気になって仕方がないのでしょう。わたしと同じく買収を仕掛けることで手許に呼び戻せるものね」
 どちらも攻防に気が抜けないのは同じである。どちらかの大将駒を盗るまで終わらない。しかも途中で放棄することもできぬ戦いだった。
「どちらがより優れているかはすぐにでも明らかになるぞえ。今のうちに命乞いの練習をしておいたほうがよかろうよ」
「どうかしら? 足許にひれ伏しているのはあなたのほうかもよ」
「あり得ぬ。この盤上で我らの勝敗がつくとき、お前の命運も尽きる」
 自信に満ちている相手の態度にアジェンティアは閉口する。盤上の駒の配置から自分の優位を導き出せるほどバチンは先の手を読んでいるとでもいうのか。不確定要素が多い盤戦で結末を予測することなど不可能に近いのに。
 未確定の勝利に酔いしれているだけなら誰にでもできる。賭け棒を盤に差し込み、賽子に手を伸ばしながらアジェンティアは奥歯を噛み締めた。