混沌と黎明の横顔

第10章:とぐろ巻く刻《とき》の声 5

 板間に耳を押し当て、ウラッツェは向こう側の音を拾っていた。その後ろではジリジリと苛立ちを募らせてた女が彼の検分が終わるのを待っている。
「弟殿はいないみてぇだぜ。どうやら王子様に呼び出しを喰らったらしい」
 今にも噴火しそうな女の様子を察し、ウラッツェが背後に声をかけた。それを待っていたかのように女は小さく身じろぎする。もし怒りや苛立ちが目に見えるとしたら、彼女の背には炎が揺らめき立つのが見えただろう。
「だったら早いところ下の連中を始末して、ヨルッカを助けに行かなきゃなンないよ。いつお前さんの異母弟が戻ってくるか判らないんだから」
「まあそう焦るなって、キハルダ。オレだって判ってる。そろそろ見張り番が替わるみたいなんだよ。今動いたらすぐに異変に気づかれるぜ。ヨルッカがいなくなったことに気づかれるのは遅いほうがいいだろうが」
 キハルダが小さく舌打ちするのを薄闇の中で振り返り、ウラッツェは口の端だけで笑った。いや彼の表情に浮かんでいたのは、彼女を笑ったというよりも己自身を嘲笑ったような歪んだ笑みだった。
「余裕かましてるンなら絶対にヨルッカを助けな。もし、あの子に万が一のことがあったら、オルトワ姐さんに止められたって、お前さんを殺してやるっ」
「承知してるっての。手筈通り、逃走用の荷馬車と御者は整ってるんだろうな」
「それこそ愚問だね。遊民の演技力をなんだと思ってンだい。半端に遊民から抜けたお前さんと一緒にするんじゃないよ」
 ウラッツェは再び口の端をつり上げる。ともすると他人を嘲笑っているように見える表情だが、彼の暗緑色の瞳は暗く沈み込み、悩ましげに曇っていた。
「だったら、ここを脱出してからは頼むぜ。オレが一緒にいたんじゃ捕まっちまうからな。オルトワの姐御のところに逃げ込むまでは気が抜けねぇし」
 言われるまでもない、とつんけんした態度で返事をしたキハルダが憎悪に燃える瞳でウラッツェを射抜く。彼のやることなすことすべてが気に入らないとばかりに、彼女は尖った態度を崩そうとしなかった。
「来た。やっぱり交替の見張り番も三人か。ここに来る奴はほとんどいねぇと思うが見回り役くらいはいるかもしんねぇ。部屋の外の見張りは頼んだぜ」
 キハルダの批判的な視線から逃れるように、ウラッツェは板間の下から伝わる気配に意識を集中させる。隙間に耳を押し当て、会話を拾い上げた。
 簡単な引継だけで見張り番を替わった男たちのぼやきが耳に届く。
「いつまでこの女の見張りをしなきゃなんないんだぁ?」
「さぁなぁ。お偉いさんの間で始末が終わるまでじゃねぇの」
「っていってもな、今日中に運び出す予定だったはずだろ。もう日が暮れたってのに全然指示がこないんだぞ。上はやる気あんのか?」
「王子様からの呼び出しだからなぁ。坊ちゃんが戻ってくるまで無理だぜ。ま、諦めてのんびりしてようや。どうせ何もやることねぇんだからよ」
 見張りとはいっても頭数を揃えただけのようだ。男たちは監禁部屋の外に置かれた卓を囲み、酒を呑みながら賭事を始めた。腐った気分を酒や賭事で慰めようというのだろう。職務に忠実とは言い難い連中だった。
「キハルダ。外に回ってくれ。オレはこのまま下へ行く」
 床に耳を押し当てたままウラッツェは背後のキハルダに呼びかけた。風がざわめき、キハルダが彼の言葉に従って離れていったことを教える。
 暗がりの中では彼女がどんな顔をしていたのかは見えなかった。だが、先ほど顔を寄せて話し合っていたときに垣間見た表情とそう大差なかろう。キハルダにとってのウラッツェという存在は異端児でしかないのだ。
「さて。サッサとすませちまうかな。ヨルッカの手当をしてやらにゃあ」
 下の部屋は半地下になっている場所である。外部に通じているのは出入り口と天井付近に穿たれた空気取りの穴、そしてウラッツェが潜む上階と天井の隙間だけだ。男たちから従姉を奪い返したら正面から逃げねばならなかった。
 ゆっくりと天井板をずらし、己の身体がすり抜けられるだけの隙間を作っている最中、男たちの会話がさらによく聞こえてきた。
「この女、どうなるんだ? やっぱ殺すのか?」
「今すぐじゃねぇらしい。餌の役割を終えてからだってよ。もっとも、今だって半分死んでるようなもんだ。どれだけ役に立つか判ったもんじゃねぇ」
「上の連中同士で引き渡されたときにもボロボロだったんだろ。いっそひと思いに殺してやったほうが情け深いんじゃねぇのか」
 賭札の木片を手の中で弄びながら見張りの一人が小さく首を振る。憐れみを含んでいるような仕草であるが、声には同情など一片も混じっていなかった。
「坊ちゃんにそんな慈悲があるもんかい。きれいな顔してジンよりおっかねぇ人なんだぞ。てめぇも知ってるだろうがよ」
「あぁ、怖ぇ人さ。顔色一つ変えずに拷問相手の生皮を剥いじまうんだからよ」
 ザワリ、と一瞬にしてウラッツェの背筋が粟立った。
 見張りたちが弟の配下の者である以上、彼らが口にする坊ちゃんなる人物は異母弟に間違いなかろう。彼の内面の冷酷さはウラッツェも聞き及んでいた。彼の拷問で自白しない者はいないという上層部の高い評価付きで。
 彼が拷問相手の生皮を剥いだと? その相手は誰だ。もしや監禁部屋にいるヨルッカではあるまいな。厭な想像がグルグルと頭の中を巡っていった。
 しかし、深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻したウラッツェは異母弟がヨルッカに残虐な拷問を加えるだけの時間的余裕がなかったことを思い出した。
 まったく時間が皆無だったわけではないが、用意周到に拷問を加える弟が短時間でとってつけたような拷問を加えることはない。相手を徹底的に潰しにかかる手順に己なりの美学を求めている弟の性癖から考えても、受け渡されたばかりの人質を短時間でアッサリと廃人になどするはずがないのだ。
「この女もいずれ坊ちゃんに殺してくれって頼むんだろうなぁ。いつものように手当させたんだろ? これから自分が拷問しようって奴なのに」
「それが坊ちゃんの恐ろしいところさ。少し回復させては生き血を絞るように責め苛んでいくんだからよ。死んだほうがマシだぜ」
「おいおい、中に聞こえるぜ。怯えちまうじゃねぇか。可哀相だろ」
「ばぁか。ここは特別頑丈な石造りの部屋だっての。聞こえてねぇよ。第一、可哀相ってなんだ? お前、坊ちゃんの許しを貰えりゃやっちまう気だろうに」
 ドッと笑い声が上がった。淡々と賭札を回している男たちの表情は夕食の内容を訊ねる程度の他愛のなさである。彼らにとって主人の性癖に関わる会話は茶飲み話と同等でしかないことがよく判った。
こん畜生ジン・ガズー! ……いや、罵ってるオレもあいつらと大差ないか。ヨルッカを利用したのは同じだ」
 苦々しげに吐き捨て、ウラッツェは腰に絡ませた鎖を胸元にたぐり寄せた。
 板の縁に手をかけて静かに上半身を滑り落とすと、空中で回転して床に飛び降りた。風の動く気配に顔を上げた男の一人が侵入者を発見して立ち上がろうとする。その喉元めがけて短刀ダガーを投げつけると、ウラッツェは腰から鎖を引き抜き、易々と両腕で振り回した。
 喉仏を貫かれた男が後ろに倒れ、仲間二人が腰を浮かせたところにウラッツェは襲いかかる。広がったマントが大鷲の翼のようだった。
 馴染みの暗器である鎖鞭グィガーが蛇のように男たちの首に巻き付き、彼らの呼吸を奪う。抵抗しようと鎖を掴む指先ごと男たちを後ろに引き倒し、腰帯に差してあった残りの短刀で喉を差し貫いた。
 その間わずか数拍といったところか。流れるような動作は踊っているかのような華麗さで、陰惨な所業を感じさせない鮮やかさだった。
「悪ぃな。も少し時間があったら騙くらかしてさらったんだがよ。ちぃとオレには時間がねぇんだ。苦しまないようにしてやっただけで勘弁してくれや」
 少しも詫びているようには感じられない口調で男たちを見おろした後、ウラッツェは柱に無造作に引っかかっている鍵とランプを取り上げた。
 頑丈な扉にかかった錠を手早く開け、彼は真っ暗闇の室内をランプで照らす。ボロ屑のような布の塊が部屋の片隅に丸まっているのが見えた。
 それ以外は天井から下がる手枷であるとか、鋭い針や刃を植え付けられた鞭や棍棒が壁にかけられていた。拷問特有の血の匂いが今はしないが、血生臭さを充分に感じ取れる部屋である。見ているだけでゾッとした。
 ボロ雑巾の塊に歩み寄り、ウラッツェはそっと布端を持ち上げる。ランプの明かりの中に見事な赤毛が浮かび上がった。
「ヨルッカ。おい、ヨルッカ。目を醒ませよ。……ヨルッカ!」
 目的の人物に間違いない。そう確信した途端、ウラッツェは被せられた布を引き剥がし、その下にある存在を確認した。青ざめた顔は痩け、手足は切り傷と痣だらけである。首筋には絞められた痕が認められた。
「ジン・ガズー……ッ!」
 ウラッツェはランプを掲げたのとは反対の手を石壁に叩きつけた。手の痛みすら感じられない。こみ上げてきた怒りの行き場がなかった。
 確かに傷には塗り薬が塗られ、血や埃で汚れていたであろう身体は拭かれている。弟はヨルッカの手当をしたのだ。あるいはこの場に連れてこられる前に、取引相手が手当をしたのか。どっちにしろふざけた奴らだ。
「帰ろうな、ヨルッカ。オレが連れていってやっからよ」
 ぐったりした身体を抱き起こし、羽織っていたマントですっぽりと覆い隠すと、ウラッツェは従姉の身体を軽々と抱き上げた。
「ケル・エルス。てめぇとてめぇの取引相手だけぁ、ぜってぇに赦さねぇぞ」
 以前より軽いヨルッカを身体をしっかりと支え、彼はうなり声を漏らした。
 その声が聞こえたわけではあるまい。が、ヨルッカがかすかに身じろぎした。それを察し、彼は気遣わしげにフードの中を覗き込む。
「……ウラッ、ツェ? ど……して、ここに?」
 ざらついた声は男か女か判らなかった。声すら枯らすほど泣き叫んだのだろうか。それとも薬でも盛られて喉を潰されたのか。
「喋るな、ヨルッカ。すぐにキハルダのとこに連れていってやる。それまで大人しくしてろ。いや、眠ってろ。次に起きたら安全な場所だぜ」
「ダメ。なんで、来たの。……あたいのこと、ほうっておいて」
「阿呆。放っとけるかよ。いいから黙ってろ。こっから抜け出すまでは見つかりたくねぇからな、いい子にしとけや」
 弱々しく抵抗するヨルッカをものともせず、ウラッツェは出入り口を押し開け、足音を忍ばせて建物の外へ出た。日が暮れて視界が利きにくいこともあるが、周囲に人の気配はない。これなら簡単に逃げ出せるはずだ。
 建物のすぐ傍らにある高い塀の傍らに張り付く灌木類の陰まで移動し、ウラッツェはいったんヨルッカを下ろす。唇を尖らせてチィチィと夜鳴き鳥の真似をすると、外から同じ鳴き声が返ってきた。
「ウラッツェ。あたいを、置いていって。一緒に、行けない、よ。あたい、掟を破ったんだ。あんたを、裏切ったんだ、からさ」
「バカなこといってんじゃねぇよ。助けに来たってのに置いていけるか」
 痛みがあるのだろう。顔をしかめながら抵抗を試みるヨルッカを抱き寄せ、彼は辺りの気配に注意を払った。ここで見つかるわけにはいかない。
「だって。あたいは、本当に裏切って……」
「黙ってろ。言い訳ならここを出てからどんだけでも聞いてやらぁ」
 どれほども経たないうちに闇の向こうからウラッツェを呼ぶ声が聞こえた。キハルダと遊民の男一人が姿を現し、手招きをする。
「裏口は確保してあるよ。さ、早いところ引き上げよう。こんな辛気くさい場所にいつまでもいるこたぁないんだからね」
「こいつを頼む。オレは見張りの始末をしてから追いつくからよ」
 ウラッツェは男に従姉を託した。短刀や鎖鞭を回収しなければ。異母弟は傷跡から悟るだろうが、証拠をご丁寧に残してやる必要はないのだ。
 ヨルッカが彼を呼んだが振り向かない。いや、振り向けなかった。
 戻りかかったウラッツェをキハルダが鋭い声で制する。
「待ちな、ウラッツェ! お前さんの得物はそのままにしておけとさ。オルトワ姐さんの指示に従ってもらうよ」
 何を言い出すのかと怪訝な顔で振り向けば、こちらの疑念を無視してキハルダたちは移動し始めていた。彼が呼び止める隙を与えない行動は不愉快だが、押し問答をしても意味がないことをウラッツェは長年の経験から知っていた。
「何する気だ。オレの得物は特注品で安くはねぇ。姐御には弁償してもらうぜ」
「自分で交渉するんだね。こちらに因縁つけられても困るってもんだ」
 素っ気ないキハルダの態度が腑に落ちない。だが、どのみち異母弟との喧嘩は始まっている。得物を置いてきたのは威嚇になるかもしれなかった。
 侵入したときは塀を乗り越えてきたので、裏口の具合がどうなっているのかは不安なところである。しかしキハルダは要領よく人払いをしたようで、呆気ないほど簡単に敷地の外に出ることができた。
「罠にはまっていくみてぇにアッサリと片付いたな。なんだか薄気味悪いぜ」
「オルトワ姐さんのお陰さ。あちらさんはこれほど早く嗅ぎつけられるとは思ってなかったんだろう。でも油断は禁物さね。……さぁ、こっちだよ」
 キハルダに手招きされて進んでいく。塀伝いにしばらく歩くと、用意した馬車が暗闇の中で大人しく止まっていた。神殿や僧院が建ち並ぶ一画には不格好な馬だが、聖界と取引のある商工人の持ち物だと見えなくもない。
 キハルダが夜鳴き鳥の真似をした。周囲からも同じ鳴き声が返る。彼女は満足そうに頷くと、辺りを探るように見回し、荷馬車へと乗り込んだ。
 ヨルッカを抱きかかえた男がそれに続く。次はウラッツェの番となったとき、夜道の向こうから人の怒鳴り声が響いてきた。追っ手だろうか。どちらにしろ荷馬車の中身を詮索されないように彼らの気を反らさなければならない。
「キハルダ、馬車を出せ。オレがあいつらを引きつけておく」
 だが囮になろうと申し出たウラッツェの頭をキハルダが容赦なく叩いた。
「バカ言ってンじゃない。サッサと乗りな。キハルダ姐さんを甘く見るんじゃないよ。こっちはお前さんに庇われるほど落ちぶれちゃいないんだ」
 キハルダの隣から男が腕を伸ばし、渋るウラッツェを荷台に引きずり上げる。大振りの木箱の一つに入るよう示された。抵抗して時間を潰すのも惜しい。ずらされた蓋の隙間から中に滑り込んだ。
 すでにそこには先客でヨルッカがうずくまっていた。大人二人を一緒に詰め込まれては息苦しい。が、今さら出ていけなかった。
 キハルダへの文句を口内でブツブツ呟いていると荷台が揺れた。馬車が動き出したのかと思ったがそうではない。荷台から誰かが降りただけのようだ。
「おい、そこの馬車、何をやっとるか!」
 誰何の怒鳴り声に身体が強張る。騒ぎになればすぐに飛び出して応戦しようと聞き耳を立てていると、キハルダの甘ったるい声が聞こえてきた。
「あらぁ、旦那がた。ちょうどいいわ。馬車の車輪の具合がおかしいんですよぅ。ちょっと見てもらえませんかね」
「お前たちは遊民だな。こんな時分にここで何をしておる。この地区はお前たちのような者がいて場所ではないぞ。よもや盗人ではあるまいな?」
 キハルダの媚びにもなびかず、男たち数人が荷馬車を取り囲む気配がする。見回りの警邏か、追っ手の一団か、まだ判らなかった。
「まぁ、大きな声を出さないで。これから行く先は内緒なんですからぁ」
「なんだと!? 行く先を言えぬとはますます怪しいではないか!」
 動じた様子も見せずキハルダが笑う。「ちょっとお耳を拝借」と女団長が男たちに歩み寄る足音がする。ウラッツェは腰帯に残る短刀に指先を滑らせた。
 会話は聞き取れないがキハルダと男たちの囁き声が夜の空気伝いに響く。短刀の柄を握る手に汗が浮かび、ウラッツェは息を潜めて耳を研ぎ澄ませた。
「お前たちの行き先は相判った。しかしこちらも役目がある。荷物の検分はさせてもらうぞ。そうでなければ放免することはかなわん」
「ようございますとも。でも時間もありませんし、急いでくださいませ」
 応じる男たちの声から険しさは消えたが危機は去っていない。二人が入る箱を開けられたら終わりだ。やはり一騒動を覚悟しなければならないのか。
 荷台に上がる男たちの足音を聞きながら、ウラッツェは帯から短刀を引き抜いた。その彼の腕にひんやりとした指が這い、かすれ声が彼の名を呼ぶ。
「ごめんね、ウラッツェ。あたいのせいで……」
 ヨルッカからはいつもの我が侭っぷりが消えていた。
「ばぁか、何言ってやがんでぃ。いつもの跳ねっ返りはどこいったよ」
 男たちが動き回る物音が続く中、ウラッツェは空いた腕で彼女を抱き寄せた。
「おい、なんだこれは!? お前たち、いったい何を……」
「それ以上は口にせぬのが己が身のため。枢機卿のご不興を買うだけですよ」
「脅し? その手には乗らん。箱に女など詰めて……うぉっ。何をするか!」
「いやぁん、なんであたいのこと振り払うのぉ?」
 聞き耳を立てていたウラッツェは唖然とした。他にも木箱があったが、そこに遊民の女が乗っていたらしい。キハルダが何をしようとしているのか察し、彼はマントにくるまっているヨルッカを隠すように包み直した。
「な、な、なんだ、なんなのだ、この女たちは! 説明は番所で……」
「おやめになったがよろしいよ、旦那がた。そんな真似したら首と胴が泣き別れ。枢機卿に献じる女に足止め喰らわせて、無事に済まそうってンですか」
 馬車を囲んでいるのは区画の見回りをしている警邏のようである。聖界の建物が集中するこの地区の役人だ。神官や坊主の裏の顔もよく知っている。清貧を貫くはずの僧侶が夜な夜な放蕩に耽ることも。
「本当に枢機卿に献じられるかどうか怪しいものだ。お前たちのような卑賤の輩をお側に召されるはずがなかろう」
「だったら、ご一緒にかの僧院までおいでなさいよ。すでに先触れの者は放っておりますからねぇ。旦那がたがどうしても同行したいと仰るのなら、あちらにお願いして僧院の敷地内に入れていただこうじゃありませんか」
 キハルダが話している間にも他の女たちがしなだれかかってくるのだろう。役人たちが困惑混じりの拒絶を繰り返す声があちこちから聞こえてきた。
「た、確かめさせてもらおう。お前たちの目的地まで同行する」
「まぁ、ありがたいお話で。こちらはただで護衛がついて願ったり叶ったりさ」
 悦に入ったキハルダの声がウラッツェの背筋に悪寒を走らせる。こういうときの彼女は容赦がないのだ。目的地に到着したとき、この役人たちの命運は尽きるのではないのか。だが疑惑を拭えなければ捕まるのはこちらだ。
 緊張するウラッツェの腰にヨルッカがしがみつき、か細い声を上げた。
「帰ってきてよぅ。大公家に、なんの未練があるのさ。巡検使なんか、やめて、あたいらのところに、帰ってきてよぉ」
 自分が何を口走っているのか気づいてはいまい。逆に普段の我が侭な放埒ぶりがなりを潜めている今、彼女は本音を口にしていると言ってもよかった。
「バカタレが。おめぇ、そんな理由でオレを売ったか。オレは帰れねぇのに」
 車輪が動き出す。ヨルッカの声は周囲の音に掻き消され、他の者に届くことはなかったが、その言葉は彼の中に鉛のような重みを持って落とされた。
 それほど移動はしていないだろう。車輪の音からどこかの敷地に入ったことが判った。キハルダが前方に声をかけると、馬車が再び動き出した。
「あぁ、旦那がたはそこにいてくださいよ。当直の人に荷物を確認してもらいますからね。その後でいくらでもお坊さんがたと話をしたらいい」
 周囲を取り囲んでいた足音が減った。警邏たちは足を止め、言うとおりにしているらしい。だが、ここはいったいどこなのだろう。
「ウラッツェ、出るんだよ! お前さんの出番だ。キリキリ働きな!」
 蓋がずらされ、否応なく引っぱり出されると、肌触りの良い法衣を押しつけられた。周囲を見回せば、太い梁と石に覆われた場所だった。
「お前さんは今から僧院の当直だよ。外の警邏どもと話をつけな」
「オレの役どころは判ったけどよ、ここはいったいどこなんでぃ」
「枢機卿のおわします偉大な寺院。それも黒耀樹家お抱えのご立派な建物さ」
 喉に苦いものがこみ上げてきた。それではここは、巡検使になる前に己が暮らしていたあの僧院なのか。黒耀樹家の表も裏も飲み込む、あの場所か。
 ウラッツェは法衣をまとうと裏庭で待っている警邏たちの元へと進み出た。
「役目ご苦労である。貴殿らの警護については枢機卿によく申し上げておこう」
 地面に平服せんばかりの男たちをやんわりと追い返し、ウラッツェは再び馬車まで戻ってきた。説明してもらわねば納得できない。どうして黒耀樹家縁の僧院になど潜り込めたのか。オルトワは何をやったのか。
 だが戻って眼にしたもので彼はすべてを察してしまった。こちらに向かって跪く者は叔父にして巡検使の同僚ジャスタ。わずかな時間でオルトワは黒耀樹家の巡検使と連絡を取り合い、敵の裏を掻く手だてを整えていたのだ。
「おかえりなさいませ、大公閣下。ご無事でようございました」
「あぁ。お前が一枚噛んでいたんだな。道理で手際よく事が進むと思った」
 抱きかかえて連れていかれるヨルッカを見送りながら、ウラッツェは胃の腑に落ちた重石に耐えるように歯を噛み締める。彼女を助け出すことはできたが、この後の彼女の処遇は決して温かではないことを彼は知っていた。
「バカな奴だよ、お前は。オレを手に入れようなんて思うとは──」
 ジャスタが上手く言いくるめたのだろう。僧院内の移動も咎められることはなく、彼らは別の馬車に乗り換えると夜の街をひた走ったのだった。