忌々しげな舌打ちをアジェンティアは内心で笑いながら聞いていた。
「まずはわたしが先取ね」
「まだお前の勝ちとは決まっておらぬ。たかがあれしきのことでいい気になるな。あれは運が良かっただけのことだえ」
「どうかしらね。運の善し悪しも実力のうちではないのかしら」
掌に乗せた黄金の棒を器用に転がして指先まで運ぶと、彼女は目の前の人物に見せつけるようにクルクルと棒を回転させる。
「人の抵抗を甘くみるもではないわ。あなたはいつも詰めが甘い」
「黙りや! お前にとやかく言われたくはないわえ。まだ勝負は始まったばかりではないか。最後に笑うのはこちらだえ!」
「どうかしらねぇ。希望を持つのは勝手だけど。バチン、あなたは少し短慮だわ。相手の策を読んでいるつもりで乗せられているわね」
苛立つ相手の手元に広がる駒の数はこちらよりひとつ少なかった。そして、相手の手から消えた駒はこちらの懐にある。局の始まりとしてはまずまずといったところだった。この後の展開がどうなるか、面白いではないか。
「奇襲が得意なあなたでも読み切れない手があるのよ。今までもそれで最後の将を取りこぼしているでしょうに。少しは学習しなさいな」
「そうやって余裕綽々としていられるのも今のうちだえ」
バチンは盤の空白を埋めよとばかりに新たな駒に手を伸ばした。
賽子を振りながらその様子を眺めていたアジェンティアは、盤全体の配置を視界の端で確認し、溜め息をつきそうになる口を引き締める。
打つ手は何百通りもあるが、それをどう予測するかは己の経験がものを言うのだ。心理戦と算術を駆使した戦いは本物の戦いに比べれば可愛いものである。
『あなたは勝てないのよ、バチン。もしわたしに勝てるというのなら、それは本当に奇跡というしかないわね。それを今から思い知るがいいわ』
亡き父と何度この盤で手合わせしただろうか。鮮やかに駒を動かす男の指先は一瞬の迷いもなかった。己が持つこの忌まわしき瞳と同じ色の眼で盤上を見据える顔には、娘の次の手を完全に予測している余裕が感じられたものだ。
『今までを振り返っても、我が父に勝る打ち手はあの人しかいなかった。その人物に勝ったわたしが、あなたに敗北するわけにはいかないのよ』
バチンの陣形を眺め、彼女は微笑みすら浮かべて自身の駒に指を伸ばした。
ゆるゆると更けていこうとする夜の中で、彼は鈍い痛みを訴える頭を抱えてベッドに丸まっていた。人と関わるだけで不調を叫ぶ己の脆弱な身体が厭わしい。なぜこうも情けないのだ。
ドクドクとこめかみを流れる血が疼く。こういう痛みは眠っても治らないことを最近の経験から学んだ。己の意識が強張っていることから起こる頭痛は、余計なことを考えずに別のものに意識を集中させればいい。
そう理解して、少なくともそれを実践してきた。身体を動かす単純な作業はそれにうってつけである。閉じこもっているのも治りを遅くするのだということも判ってきていた。だから、今は身体を動かすべきなのである。
だがしかし、内側へ内側へと降りていく己の意識を引き戻す術を知らなかった。いつもなら身体を動かしさえすれば良かったのに、動き回ること自体が億劫で、ベッドに丸まっているのもやっとな気分である。
誰も助けてはくれない。今、階下では客人をもてなす食事が始まっているはずだ。館の主人は座の雰囲気を和ませようと腐心しているだろうし、客人やそれらの者を連れてきた人物も取りなしに必死だろう。
このまま独りで消えていくのではないか。そんな愚かしい考えすら脳裏の浮かぶほど、心にはどんよりと重苦しい雲が垂れ込めていた。良くない兆候だと頭では判っていても、気持ちは少しも抵抗を試みない。
沈み込んでいく心すら鬱陶しく、億劫な気分に拍車をかけた。
あぁ、本当にこのまま消えてしまうのだろうか。もしかしたら、そのほうがいいのではないか。己が何者かすら記憶から抜け落ちている有様なのだから。
陰鬱な思いを抱え、彼は横たわったまま掌をこめかみに当てた。
普通ならほんわかと温みを感じるはずのこめかみが、今は冷え冷えとした寒気を感じている。指先どころか掌まで冷えているのだ。まるで生きたまま死んでいこうとしているかのようである。
「消えてしまえば、いい。楽になれる。そうだ、このまま消えて……」
密やかに扉を叩く音が聞こえた。うっかりしていれば聞き逃してしまいそうなほど小さな音である。だが彼は音を無視した。誰何の声すら面倒なのである。誰かが訪ねてきても迎え入れる気はなかった。
再び扉が叩かれる。今度はもう少しだけ音が大きくなった。それも無視していると、木製の扉が軋んだ音を立てながら開いていった。
暖炉からの弱い光が入り口に立つ影を浮き上がらせる。それが男だということはその体格からすぐに確認できた。だが誰なのかまでは判らない。眠っていると思ったのか、足音を響かせぬよう歩調に気を遣っているのを感じた。
枕元に屈み込み、こちらの様子を窺う男の気配が読み取れる。声をかけるタイミングを逸して、彼は眠ったふりをしてやり過ごした。
男は掛け布団の端を直している。気づかないうちに乱れてしまっていたようだ。枕に頭を押しつけ、耳を塞ぐようにしている手に男の指先が重なる。そっと掌を持ち上げられ、寝具の中に収められた。
掛け布団の隙間から風が入らぬよう具合を見る相手の気配はどこか押し殺したものである。張りつめた空気が痛いほどだった。
「眠っているときくらいは苦しまないで欲しいのにな。そうもいかないか」
独り言を囁く声が聞こえ、それでようやく男の正体が判った。
「サキザード。お前は記憶を取り戻したいと思っているんだろうな。でも俺は出来ることなら思い出して欲しくはないよ。……思い出せば、お前はきっと俺を憎む。それを平然と受け止めることは、俺には難しい」
ベッドの端に腰を下ろし、男は小さな溜め息をつく。サキザードの頬に貼りついた髪を払いのける指は微かに震えていた。
「だけど苦痛を取り除くには記憶を取り戻すのが一番なんだ。自分の過去を思い出せば他人に怯えることもない。俺がかつてそうだった。だから、俺はこれからお前を失う覚悟をしなけりゃならないんだ」
サキザードは身を固くして男の声に耳を傾けた。温かいはずの寝床が薄ら寒く感じるのは気のせいだろうか。
「赤ん坊のお前を他人に託すことになったのは俺のせいだ。俺がいなければ母さんはお前を手放すことはしなかっただろうに。母親が必要な時期に、その肝心の母親の愛情をお前から奪った償いはしなければならない」
こめかみを滑っていく指先が乱れた髪を梳り、耳の形をなぞっていった。
「だけど、その償いの方法が見つからない。俺の差し出すものはお前にとっては迷惑でしかないようだし、お前が一番欲しがっている俺の命は今はやるわけにはいかない。……どうしたら、お前の苦痛を和らげてやれるのかな」
再び溜め息が聞こえる。サキザードは気づかれないように薄目を開け、頭上にある男の顔を見上げた。闇に物憂げな表情が浮かんでいる。
「償いなどと言えば、お前はきっと嫌悪を示す。お前にとって、俺は仇でしかないんだから。だけれども、その事実を受け入れるには俺は弱すぎるんだ」
相手の独白を聞き続けることに罪悪感を感じた。だが聞くまいとそれを制止するには、語られる言葉に惹きつけられすぎている。記憶を失う前、果たして二人の間には何が起こったのだろうか。それがひどく気になった。
「記憶が戻って欲しいと思うのと同じくらい、このまま戻らずにいてくれと願う自分がいる。……なんて卑怯なんだろうな。お前は苦しんでいるのに」
知らぬままでいたほうが良かったのだろうか。この独白は聞くべきではなかったのだろうか。いや、それでも聞きたい、知りたい、と欲する感情には逆らいづらいものがあった。卑怯と言うのであれば己も同じくらい卑怯であろう。
「なぁ、サキザード。俺とお前は再会してはいけなかったのかな」
ゆっくりと髪を梳っていた指が止まり、そっと離れていった。身じろぎする気配が伝わり、動いた空気が男が立ち上がったことを知らせる。
「これ以上お前を巻き込まないためにも、離れるべきなのかもしれない。それが出来るかどうかは自信がないけど」
足音が遠ざかっていく。サキザードは寝具の隙間から男の背で揺れる三つ編み髪を見送った。扉の前で男の歩みが止まり、ふと暖炉のほうを振り向いた。おぼろな光の中に浮かび上がった横顔は、ひどく哀しげに見える。
呼び止めてみようか。今なら眼を醒ましたふりをして呼び止められる。だがしかし、男をこの場に留めて何を話すつもりなのか。兄弟とはいっても共通の会話があるわけではないのだ。気詰まりになることは間違いない。
あるいは、帰宅した彼を出迎えたときに訊こうと思っていた、両親の話くらいならできるだろうか。共通の話題を作るための会話の糸口に。
いや、たぶん父母の話を聞いたところで気詰まり感は消えまい。記憶がないということ以上に、思い出したとて両親のことは元から知らないことだ。それでも訊こうと思っていた先刻の自分の勇気が今は信じがたい。
僅かな逡巡の間に男は扉を開き、薄く開いた隙間から滑るように出ていってしまった。ホッとしたような、寂しいような、なんとも言えない感情が胸中にわだかまっている。それを振り払うように、サキザードは身を起こした。
「吾が側にいることで、あなたをそんなにも苦しめているのですか? つらいのですか?」
声に出して問いかけてはみたが、当然のことながら返事が返ることはない。口に出して言うことで、己の中にある感情を探っているのだ。
「仇とはなんですか? あなたは再会する以前の吾を知っているのですか?」
囁くような声を舌の上で転がす。返らぬ答えを想像し、サキザードはブルリと背を震わせた。望んでいたはずの過去の記憶を取り戻すことが恐ろしい。知ってしまえば、何かが確実に変わる予感があった。
「あなたに肉親の情など感じない。だから、吾と似た顔で、似た声で、そんな哀しそうにしないで欲しい。あなたを慰める言葉を持たぬ吾が惨めです」
兄弟だというだけで親しみを感じるだろう、などという希望は今までも持てないでいた。もしかしたら、それは仇だという相手のことを無意識に知っていて、心の奥底で拒絶しているからかもしれない。
「離れていくというのなら止めません。元々が別の道を歩いてきていたのなら、記憶のあるなしに関わらず、吾たちの道は交わるはずもない」
口に出して相手を拒絶してみた。それはごく普通に言葉にしたつもりであった。だが不思議なことに、知らぬはずの相手を拒絶しようとすればするほど、なぜか心は空虚になり、寒々とした感覚に支配される。
「記憶がなくても生きていけます。あなたに同情されるくらいなら、吾は一人でいるほうがいい。……あなたに判りますか、この気持ちが」
判らぬであろう。あるいは判っていても、あんな風に哀しげな顔をするのだろうか。だとしたら、対等ではない関係などいらない。兄弟というだけで庇護される対象と見られるなどまっぴらだった。
「今はまだ、あなたを兄と呼ぶことはできません。あるいは、これから先もそう呼ぶことは不可能なのかもしれませんね。吾たちは仇同士のようですから」
暖炉からの熱で室内はほどよく暖かいはずである。それなのに、背筋がゾクゾクと冷えていった。手足の先の冷えも収まらない。
「吾は一人だ。これまでも、これからも、ずっと、ずっと……」
いつの間にか頭の鈍痛は引いていた。しかし、サキザードはそれに気づかぬまま暖炉に揺れるささやかな炎を見つめていた。
「以前の吾があなたのことをどう思っていようと──」
言葉の途中で口をつぐみ、小さく頭を振る。声に出しても詮無いと気づいた。急に疲れを感じ、彼は眼許を掌で覆いながら溜め息をついたのだった。
「サキザード殿は休んでおいででしたか?」
廊下の奥から姿を現した人物に声をかけられ、ジャムシードは小さく頷いた。
「えぇ。よく寝付いていましたから、食事に誘うのはやめました」
館の主人が眼を細めてジャムシードの背後に視線を滑らせる。温厚な表情からは先ほどまで連れのソージンと丁々発止のやり取りを繰り広げていた人物とは思えなかった。今でも先刻の二人を思い出すとげんなりしてくるが。
「そうですね。眠りが浅いようですから休めるときに休んでおいたほうがいいでしょう。特に今日のお客人は賑やかな方々ばかりで、彼のように神経が細やかな方には疲れる面々でしょうからね」
「すみません、急に連れてきてしまって。ジュペを市街地の宿に連れていかれたのでは警備の点が心配で。ソージンと引き合わせる約束もあって、簡単な先触れだけで連れてきたのは性急でした」
「なに、かまいませんよ。むしろ大勢いたほうが食事は楽しいですからね。私は賑やかなほうが好きなんです。故郷でも家族は揃って食卓を囲んでおりましたし、我が一族は親戚中が一つ屋根の下に暮らす大所帯ですから」
小さく肩をすくめて笑う顔からは異国の要人とは思えぬ気安さがあった。しかし、微笑みの下に舌先三寸で相手を籠絡しようとする老獪な一面もあるのだと知った今は、その笑顔が別の生き物のようにも感じられる。
「タケトーさんの親戚というと兄弟や従兄弟ですか? その人たちも一緒に暮らしているとなると、随分と大きな家で生活しているんですね」
一緒に並んで歩きながら、ジャムシードは何気なくタケトーの故郷のことに話の水を向けた。弟のことをあれこれ言われたり、ソージンとの話し合いに巻き込まれるような目に遭うのは避けたいところである。
「えぇ。祖父の代から屋敷を拡張し続けているので、今ではもう迷路のような有様ですよ。客人が迷子になることなどしょっちゅうで。あんなむちゃくちゃな建造物もどうかと思いますが、さりとて建て直すのもおおごとですから」
「面白そうな建物ですね。俺が子どもの頃に住んでいた家も宿屋を改造したものでしたから親子三人で暮らすには広すぎて迷路のようでしたが」
「使用人は置かなかったのですか? 屋敷の手入れは大変でしょうに」
首を傾げるようにしてこちらを見上げるタケトーの瞳には純粋に驚きが浮かんでいた。彼の脳裏にはいったいどれほどの大きさの館が建っているのだろう。
「宿屋を改造したといっても、この館より小さな建物ですよ。母が一人で掃除をして回る姿を思い出す限り、それほど大きくはなかったんだと思います」
「あるいは、あなた方のお母上がとんでもなく有能な女性か、ですよ。小さいとはいえ宿屋並の家を主婦一人で切り盛りするのは手間も暇もかかります」
今度はジャムシードが小さく肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「よく働く人だったことは確かです。でも幼い子どもの感覚で推し量るのは難しいですよ。子どもにとっての母親は神にも等しい偉大な人間ですからね」
「その点に関しては諸手を挙げて賛成します。この歳になっても母親には頭が上がりません。今もきっと一族の中でしゃかりきになって働いてますよ」
二人は顔を見合わせ、同時に噴き出した。廊下の先には目的の部屋の扉が見えている。それを見遣りながら、ジャムシードは昔を懐かしむように呟いた。
「お元気な方なんですね。俺たちの母親は数年前に病で亡くなっていますから羨ましいですよ。親孝行らしいことなど何もできなかった」
「親孝行したいときには親はなし、と言います。ですが、少なくともあなたは最大の親孝行はしておいでだ。親より先に死ななかったのですから。私などあちこち遠くに出掛けていますからね。客地で頓死するかもしれませんよ」
タケトーの言葉に対し、ジャムシードは曖昧な笑みで応えた。
「ジャムシードさん。亡くなったお母上のためにも弟さんから離れてはいけませんよ。生きていればこそ、これから先のことを大切にしなければ」
心中に刺さった小さな針の痛みにジャムシードの顔が強張る。
記憶を取り戻したなら弟との関係は最悪なものになるだろう。それが判っていても今まで決心がつかず離れずにいた。ようやく距離を置く覚悟をしよう決めた矢先に、なんという忠告であろうか。
「あなたは彼から離れる気だったのでしょう?」
背に氷を放り込まれた気分だった。決定的な言葉に震えが走る。誰にも気づかれていないと思っていたのに、どうしてタケトーには判ったのだろう。
「あなたと弟さんが生き別れた理由は訊きません。ですが、今このときにあなたが犯そうとしている過ちを見過ごすわけにはいきませんね。過去はいざ知らず、今のあなたが自らの意志でサキザードさんの手を放したなら、これから先にあなた方の未来はまったくなくなってしまうのですよ」
「あなたは過去を何もご存じない。だから簡単に言うんです。俺たちは……」
廊下の先の扉から白い人影が視界に飛び込んできた。ソージンが二人を見つけ、何の気負いもない足取りで近づいてくる。
「弟を呼びに行ったんじゃ……おい、どうした? ひどい顔色だぞ」
眉間に深い皺を刻み、ソージンがジロリと傍らに立つタケトーを睨んだ。
「タケトー。お前、ジャムシードに何を言ったんだ? こいつがこんな顔つきをしているときはロクなことを考えてないんだが」
「さぁ? 私は特に何も。弟さんの体調がなかなか戻らないですからね。兄上としては心配なのでしょうよ。それより、あなたこそどうしました? もしや出しておいた酒がなくなったのですか?」
タケトーが咄嗟に嘘をついたことで、ジャムシードは胸を撫で下ろした。
弟がいることを知られただけでも心配なのである。きっとソージンが城に戻れば王太子がサキザードのことを知るのは時間の問題だ。弟を王都より遠方の僧院にやる手筈が整うまで、こちらのやることに口出しされたくない。
王侯貴族の争いに巻き込まれるのは自分ひとりでたくさんだ。ましてサキザードが反逆者ヒューダー・カーランの手下となって王国に弓引いた一味であることを突き止められるわけにはいかない。
ソージンが首にまとわりついた髪を払いのけながら、不機嫌そうな声を出した。どうやら面白くないことが食堂で起こっているらしい。
「酒だけじゃないぞ。あの勢いだと料理がなくなるのも時間の問題だな。お前、大食いがおれだけだと舐めてかかっていただろう? ここの食糧庫の在庫を減らすことに腐心している人間は大勢いるってことだ」
「えぇ? イコン族の面々はそんなに大食漢なんですか? それは困った。すぐに調理人に料理の追加を作るよう命じてきます。食卓の上が空になる前に料理が完成すればいいんですがね。……それではちょっと失礼しますよ」
慌てて館の奥へと歩み去るタケトーの背を見送り、ジャムシードは唇の裏側を軽く噛んだ。歯を食いしばるほどではないが、気持ちを落ち着かせるにはちょうど良い痛みである。なんとしても弟を王国から守らねばならないのだ。
「まさかとは思うが、弟と喧嘩でもしたのか? 本当にひどい顔だぞ」
いったい全体、自分はどんな顔をしているのだろう。他人がすぐに察するほどの顔色だからこそ、タケトーに内心を読まれてしまったのだろうか。
「弟は眠ってるよ。俺がひとりで心配してるだけさ。まったく弱いもんだな」
タケトーの発言に口裏を合わせながら、ジャムシードは己の弱さを認める言葉をぽつりと呟いた。弱音を吐いている場合ではない。だが、下手な慰めの言葉をかけてこないソージン相手だからこそ吐き出せる言葉だった。
「誰でも弱みはある。お前は少し過剰だと思うがな。……なんだ、その顔は。まるでおれが弱点の一つもない化け物だとでも思っていたような表情だな」
いやまったくその通り。ソージンに弱みなどあるはずがないと思っていた。
そんな彼の前だからこそ弱さをさらけ出しても恥とは思わなかったのである。それが自分の甘えだったかもしれないのだ。驚くなというほうが無理だろう。
「すまない。俺は勝手にソージンは完璧だと思い込んでいた」
「フン。おれの態度は偉そうに見えるらしいからな。他人からの誤解は初めてじゃない、気にするな。同情されないだけ気楽でいい」
一瞬、忌々しそうに眦がつり上がったが、すぐにいつも通りのふてぶてしい顔つきに戻ったソージンが口角をつり上げて笑った。
「おれのことを勝手に誤解していたことを詫びる気があるなら、今度の酒場の飲み代はお前持ちだ。チャザン産の汐酒を一樽分でチャラにしてやる」
人差し指をビシリと突きつけられ、ジャムシードは顔を引きつらせる。示された条件は少々笑えない額の飲み代だった。
「どこの酒場でおごらせる気だよ、あんた。チャザン産の汐酒っていったら、この国では超高級品だぞ。俺を破産させるつもりか?」
「よく言う。炎姫家お抱えの高給取りが。副業で細工の注文も受けてるんだろ」
「受けてないよ! 細工の仕事をする暇なんかあるもんか。それに俺の仕事は炎姫公の気まぐれな出来高払いで明日の保証なんぞこれっぽっちもないんだよ」
偉そうに腕を組んでふんぞり返るソージンに喰ってかかるうち、ジャムシードの胸につかえていた重苦しい想いは意識の上からは消えていた。
それがソージンの狙いだということはすぐに気づいた。他愛のないやり取りで、それとなく気遣ってくれているのだ。そんなソージンにすら話せない秘密を抱える自分がひどく傲慢な存在に思えた。
だが、敢えて乗せてもらおう。弟を守るほうが優先される。
連れ立って食堂へと戻りながら、ジャムシードは見えぬ神々に秘かに祈った。
弟を守ることができるのは自分だけである。そのために必要な力をどうか授けて欲しい、と。それがどれだけ身勝手な願いであっても、今はそう願う以外のことを思いつかなかったのである。
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