混沌と黎明の横顔

第10章:とぐろ巻く刻《とき》の声 1

 魔術を作り出すために必要な力は二つある。一つは初動の力。もう一つは維持の力だ。魔術によってどちらに力を割くかが変わる。動的な魔術には初動の力を、静的な魔術には維持の力を多く必要とした。
 つまり守りの力とは維持力がなければ崩壊するものなのである。攻撃力を必要とする魔術が初動でどれほどの念を込められるかで威力が変わるように、岩のように固い防御には集中力とそれを維持する精神力がいるのだ。
 この結界はあとどれほど保つだろう。感情を揺らさないよう集中し、平静を保つ限りは継続してくれるはずなのだが、自分にも自信はなかった。
「そうやって隠れていても意味はない。もう時間の問題だってことさ。なぁ、そうだろう? そろそろ疲れが見えるころだ。どれほども保たねぇよ」
 嘲る声から逃れるように、さらに奥へ奥へと身をひそめた。蒼い闇は薄氷のように陰影を揺らめかせ、今にも砕け散ってしまいそうな危うさを秘めている。
 あぁ、その通り。時間の問題だろう。だが、そうはいっても今ここで彼の前に身を投げ出すわけにはいかなかった。
「どうして頑なに拒絶するんだよ。元々は同じ核の原料から作られた者同士だろうに。バラバラに作り出されたとはいえ、最終的には一つにまとまるのが本来のあるべき姿なんじゃないのか?」
 耳を傾ければ安易な方向に流されてしまいそうになる。だから聴覚を塞いでやり過ごすしかないのだ。それにも少々疲れが見えてきているが。
「お前だけで頑張っていたってどうにもならねぇんだぞ。いいのか? この結界を木っ端微塵にするためにジャムシードに揺さぶりをかけるぞ」
 聞くな。耳を傾けるな。そう念じても思念の声は否応なく脳髄に飛び込んできた。苛立ちが湧き上がりそうになる。急いでそれも無に返した。
「なぁ、狩人ファレス。契約に縛られるってのはどんな気分だ?」
 ひっきりなしに聞こえてくる声が少しずつ小さくなる。ようやく諦めたらしいが、完全に声が聞こえなくなるまで油断はできなかった。
「束縛されるなんてまっぴらだ。そんなものに縛られ続けてるなんて正気だとは思えないな。サッサと解放されたほうがいいじゃないか。そうすれば、お前もジャムシードも随分と楽に生きられるんじゃないのか?」
 さも親切そうに語りかけてくる声がいっそう小さくなる。もう少しだ。あと少しで声は消える。そうしたらしばらくの間は休息できるのだ。
「ずっとだんまりを続ける気か。呆れた奴だな。いいさ、そこに籠もっていろよ。どうせ近いうちに出てこざるを得なくなる。そのとき、お前は否応なく俺に助けを求めるさ。そのときまで宿主を守っているがいい」
 随分と小声に聞こえる。結界の波動が強くなったのだ。周期的に訪れる結界膜の強弱は、元通りの強固なものへと移ろっている。次に膜が弱くなる時期まではうるさく騒ぐ輩の声を聞かなくて済むのだ。
「すっかり忘れているようだが、ジャムシードの精神力にも波があるんだぞ。お前が持つ魔力と呼応するようにな。変換期にはお前でも手が出せない。そこを突いたら、奴はどうなるんだろうなぁ?」
 ギクリと心臓が縮み上がる。いや精神体の今は心臓などないのだから、それは正しい言い方ではなかった。すくみ上がったのは心そのものだ。
「魔力が結界へ注がれている間、術者自身は無防備になる一瞬がある。それは同調している宿主にも影響を及ぼすはずだ。顕在意識には現れなくても無意識には感じ取れるものの中にお前以外の波動を混ぜることは容易いぞ。俺はもともとはジャムシードの一部なんだからな。お前でも防ぎようがないだろう?」
 ぞわぞわと背筋を這い登ってくる寒気に身震いする。いや身震いする身体などなかった。心に走った動揺が意識を激しく揺らしている。蒼い闇の揺らめきが大きくなった。相手にもそれは伝わっているだろう。
「あいつは悪夢を見るだろう。もちろん、これは事実と比喩の両方だ。眠りの中で藻掻き苦しみ、目覚めていても心を掻き乱される案件が絶えない。どこまで耐えられるかな? あいつに取って代わる日は近いんじゃないのか?」
 聞きたくもない囁き声が結界の蒼を揺らした。発せられる声音はどこまでも平然とし、しかし嗜虐に満ちた愉悦に歪んでいる。残酷さだけが突出した人格は宿主そのものを破壊するまで暴走を止めることはないのだ。
「そろそろ結界膜が元通りになる。お前の魔力は最大限に俺からお前を守るだろう。だが結界内でお前が無防備になるように、ジャムシード自身も隙ができるぞ。果たしてあいつを守ることができるのか、お手並み拝見とい──」
 プツリと声が途切れる。結界が元通りの機能を果たし始めたのだ。安堵してよいはずなのに、心に打ち込まれた楔はジワジワと不安を広げる。
 耐えられるのか、ジャムシードも、私も。どちらかが屈しても崩壊は始まる。まだ完全に調和していない今、相手の揺さぶりを防ぎ切る自信はなかった。
 よろよろとおぼつかない足取りで混じりけのない蒼い闇の奥を目指して歩く。それがどれほど危険な行為か判っていた。中心部に近づいてはならない。融合を早めるだけだ。だが調和を急ぐのなら距離は少しでも近いほうがいい。
 矛盾していた。宿主と融合してしまえば待っているのは完全な消失なのに。
「それでも私が残してやれるのはこんなものしかない。魔力を御すための経験と技術があれば、聖なる息子ル・オルグに屈することはないはずだ」
 青銀の光がぼんやりと光の襞を投げかけていた。まるで極北の空に広がる極光オーロラである。いや違う。これは極光そのものだ。この光こそ我ら一族の魔力の根源。気まぐれな造物主が残した残骸なのだから。
 なおも近づけば輝きは鋭さを増し、網膜の奥を焼かんばかりの強さを示す。これ以上近づいては駄目だ。本当に融合が加速する。
 だがしかし、歩みを止めることはどうしてもできなかった。
「もう充分だろう、リド・リトー。私は千年は生きた。もう、消え去ってもいいだろう。お前を追うことも許されないなら、消滅してしまったほうが──」
 動揺してはいけないのに。先ほどの声に揺さぶられている。自分が弱っている自覚は少し前からあったはずだというのに。
「頼む。解放してくれ。もうたくさんだ。私は生きすぎた」
 長老タルクが聞いたなら嘆き悲しむ。判っていてもどうしようもない。長老と自分とでは根本的な精神構造が違うのだ。何千年という星霜を生き抜けるような強靱な精神力などない。もともとが歪な命なのだ。
「リゲルドこそは私を解放してくれる者だと思っていたのに違っていた。であれば……。そうならば、ジャムシード。頼むから。私の持つものすべてお前にくれてやる。だから、私を何もかもから解放してくれ。私の主人であるお前にしかできない。解放の呪文を、早く私に与えてくれっ!」
 白銀の烈光を放つ光球が目の前で大きく膨れ上がった。まるで懇願に応えたかのように見える。眼を開けていられなくなり、彼は腕を翳して光を遮った。
 この光景や眼への刺激すら精神体が意識に判りやすいよう情報を変換しているだけに過ぎないというのに、彼は感じ取ったものに恐れおののいた。
 どれほど顔を背けていただろう。不意に光が元の強さに戻っていることに気づき、ファレスはそっと腕を下ろした。相変わらず白銀の光は鋭く、遠い蒼闇に向かって青銀の光波を放っているが、それはどこか暖かい。
 光の中心部を凝視し、ファレスは心底動揺した。足が萎えたようにその場に座り込み、茫然と目の前にあるものを見つめる。
「お前……。ジャムシード、お前は……。やはり、お前は──」
 声を繋ぐことができず、彼は這いずるように光へと近づいていった。
 チリチリと肌を突き刺す刺激を感じる。緩やかだった融合が早まろうとしているのだ。これ以上近づけば取り返しがつかない。
 判っている。判っているとも。それでも確かめずにはいられなかった。
 伸ばした手で中心部に起立するものに触れた。硬質で、しかし脆さを感じる。そこに存在するもの。この真白に輝く……
「サツキノの太刀だ──」
 指先を刃に滑らせ、ファレスは喘いだ。息をすると喉がグルグルと鳴る。自分がどれほど動揺しているか、この太刀の持ち主は知っているだろうか。
「生きて、いるのか。そこで生きているのか、サツキノ。お前、我らの血に呑み込まれたわけでは……。呑まれては、いなかったのだな」
 太刀が喋るはずもない。だが凛と起立する姿は存在を主張しているとしか思えなかった。その姿形は今にも壊れそうな硝子か水晶のように向こうの景色を透けて見せていたが。それでも幻ではなかった。
「私を救うと言ったな、サツキノ。それは今も有効なのか? そう言っているのか、お前は。そう思っていていいのか」
 喉が詰まり、声が震える。だが瞳には涙一滴浮かばない。この眼は涙を流せぬのだ。ファレスの黄金の眼球はそういう作りになっている。長老の幻体を借り受けても、この眼の特徴だけは消えなかった。
 呪詛の一種だ。強大な魔力と引き替えに、主人に縛りつけられた奴隷だという印を刻まれているのだ。この束縛の印が消える日はくるのか。
「ジャムシードの中にお前がいるのだな。いや、歴代の者の中にずっと存在していたに違いない。だからこそ、私は無意識のうちに後継者を指名することができたのだ。リド・リトーと、サツキノ、お前の気配を探って……」
 刃から手を離し、ファレスはきつく拳を握った。
「では、なおさら離れなくては。融合を進めるわけにはいかない。だが調和させて私のすべてをジャムシードに引き継がせなければならない。どうしたらいいのだ? どうやったらル・オルグを出し抜ける?」
 途方に暮れたように空を仰ぎ、ファレスは広がる蒼い闇と光の襞を見つめた。
只人ただびとであるジャムシードに我が一族の者と同等の魔力を御し、魔術を駆使することは不可能に近い。ル・オルグもそれを知っている。だからこそ守勢を貫く私に強気に出てくる。では攻勢に転じるには……?」
 仰ぎ見ていた視線がゆっくりと目の前の太刀へと戻る。今までの動揺が芝居であったかのように平静を取り戻した彼は研ぎ澄ました表情で刃を凝視した。
「お前が時を超えてもなお約束を守っているのなら、私もそれに応えねばならない。今ここで私たちが敗北するということは、この地を去ってでもル・オルグを捨て去ろうとしたリド・リトーの意志にも反する」
 太刀に手を伸ばし、しっかりと柄を握りしめると、ファレスは小さく気合いの声を発してそれを引き抜く。水晶よりも清らかな煌めきが優雅な軌跡を描き、殺傷するための道具であるはずの太刀に神秘さを与えた。
「最優先すべきなのは世界の均衡を保つことだ。その次はル・オルグを消滅させること。……そして、次がジャムシードの生存」
 太刀を目線まで持ち上げ、彼は虚空の何者かに太刀を与えるかのように捧げ持つ。その様子は神聖な儀式を行っているように見えた。
「すべての課題を乗り越えるには、やはりジャムシードが魔術を自在に操れなければならない。だが時間もなく、完全な制御が難しい術を覚えるとなれば、それが可能な者の力を譲り受けるのが手っ取り早い。だから……」
 刃の根元に唇を寄せ、ファレスはそれにそっと接吻を落とす。
「私は一度退こう。ジャムシードの意志が真剣に魔力を欲するそのときまで」
 顔を上げたファレスの表情は密やかな決意に満ちていた。神託を受けた聖人のように、あるいは戦いに向かう武人のように。
「望まぬ力を御しきれるものではない。しかし、自らが望んだ力ならばその威力は考え得る最大の効力を発揮するだろう。そのときこそ、彼は我々の絡まった糸を断ち切り、永いときに縛られてきた者たちを解放する」
 跪いた姿勢からゆっくりと立ち上がり、彼は太刀を右手で高々と掲げた。
「螺旋のごとく滞った刻を断ち切ろう。サツキノ、それがお前の描いた結末なのだろう? この永い星霜を超えて私に遣わした者は、まさに次の時代への“先触れの風”だと、そう確信してよいのだな」
 太刀は答えない。しかし、それは足許の光源に照らされて清楚に光り輝き、ファレスの出した結論を肯定しているように感じられた。




 異様な盛り上がりを見せているイコン族の男たちとは逆に、傍らに端座する男はひどく冷めた眼を騒ぎの中心に向けていた。
「お前の隠し事はいったいどれくらいあるんだ? 叩けばまだ出てくるだろ」
 身に覚えがありすぎて押し黙ったままのジャムシードは、静かに繕い物をしているイコン族の女たちの様子を見守るふりをして誤魔化すしかなかった。
 母親と再会したジュペは落ち着きを見せ、伯母と母に代わる代わる教えられながらおぼつかない手つきで手持ちの衣装の綻びを修復しているところである。場所が王都でなければ穏やかな光景であった。
「あいつらを止めなくていいのか? お前の弟にあることないこと吹き込むぞ」
 ジャムシードは男たちの輪をチラリと見遣り、小さく首を振る。
「今ここで止めたら余計に大騒ぎになるだけだ。もう少ししたら助けに行くよ」
「お前、自分が騒ぎに巻き込まれるのが厭なだけだろうが。サッサと助けに行ってやらないと、あの様子だと疲れ切ってへばるぞ」
「だったら、あんたが助けに行けよ、ソージン。俺は厭だね。イコン族のお祭り騒ぎを邪魔したら、もっと面倒なことになるんだぞ」
 イコン族の中心には困惑し切った弟の姿があった。人と顔を合わせることに慣れていないサキザードは、きっとイコン族に解放される頃には疲労困憊してしまうだろう。すまないとは思うが、彼らに見つかった以上は後の祭りだ。
 夕刻に仕事を切り上げ、約束のあったソージンと落ち合った後に他のイコン族も引き連れてタケトーの館へとやってきたところに出会い頭で見つかってしまったのである。身を隠す暇もなくモミクチャにされていた。
 後から出迎えに出てきたタケトーも眼を白黒させるほどの盛り上がりで、彼らを止めようにもどこから手をつけていいか判らない。
 彼らを御すことに慣れているハムネアが小さく首を振ったことから、ジャムシードもアッサリと匙を投げてしまった。こうなってしまったら落ち着くまでどうしようもないのだと、砂漠での経験が囁きかける。
 急に大所帯になり、館の調理人は今頃は夕食の準備に大わらわのはずだ。客人の部屋を整えるよう使用人に指示をしに出ていったタケトーがまだ戻ってこないところをみると、裏方は誰もがてんてこ舞いに違いない。
 急に押し掛けてきたことを、主人であるタケトーだけにでも謝罪しておかなければ。きっと使用人たちは増えた仕事にカリカリしているはずだ。
 チラリと横目で弟の様子を窺う。随分と狼狽えているが、まだ大丈夫そうだ。ソージンとタケトー二人と交わした約束を終えてから助けに行っても間に合うだろう。イコン族に邪険にされているのとは違うのだから。
「タケトーを知ってるって言ったよな、ソージン?」
「あぁ。おれが以前の旅で滞在した国の高官だ。こんなところに何をしにきたのやら。どうせろくなことではないだろうがな」
 やはり前に感じたようにタケトーは身分の高い人間だったらしい。が、残念ながら、そっけない口調のソージンの表情からどんな関係なのかは読みとれなかった。訊けば教えてくれるかもしれないが、どうも訊きづらかった。
「イコン族とは和解できたようだし、おれがジュペのことで手を貸してやる必要はなさそうだな。……あそこの女、片方は母親だろう?」
「そう。ジュペの母親と伯母だ。彼女たちにはまだジュペが襲われた件は話していない。他のイコン族の男たちにも。知っているのは部族長のジューザと元から一緒にいるガイアシュだけだ。だから……」
「おれが話をすることはない。だが、ジュペ自身から母親に漏れるだろうな。時間の問題だぞ。解決する気なら急げ」
「ジュペを襲った黒幕とあんたが情報を欲しがっている人物は一緒なんだろ。その情報はタケトーが握っている。警備のことを考えても、女たちを別々にしておくより一カ所に集めておいたほうがいい。そして、ジュペは王都に来てからこちら、ほとんどずっとこの館に世話になってる。一石二鳥だ」
「おれたち二人ともタケトーに用があるってわけだ。だが、話し合いは後回しになりそうだ。そろそろ助けに行ってやれ。あれはもう限界だぞ」
 ソージンが顎をしゃくった先では弟が顔を強張らせていた。イコン族は親しい者の身体には遠慮なく触る習慣がある。他人との接触にまだ慣れていない身にはきつすぎるようだった。ソージンの言う通り限界のようだ。
 ジャムシードは立ち上がると、弟の肩に腕を回して笑っているジューザに向かって歩いていった。ジューザなりの親愛の振る舞いだが、今の弟にとっては度の過ぎた行為である。少しは相手の様子を伺って欲しいものだ。
「ジューザ。さっきから何を話してるんだ。もしかして俺の悪口を弟に吹き込んで笑ってるんじゃないだろうな?」
「何を言う。お前が砂漠にいた頃の話をしてただけだ。不都合はあるまい!」
 ということは、記憶を失っていた頃のことを話していたのだ。それなら当時のジャムシードがどれほど不安定だったか覚えているだろうに、隣で身を縮めている弟の様子にはまったく気づいていない。
 出迎えのとき、弟は記憶を失っていることは伝えたのに、まったく思慮の外に放り出されてしまっているようだ。
 そういえば砂漠にいた頃も、具合が悪くなったジャムシードを真っ先に見つけるのはジューザたち男ではなくハムネアやナナイだったか。
「俺の話はもういいだろ。それより、そろそろ弟を返してくれ。頼みたい用事があるから、いつまでも世間話をしているわけにもいかないんだ。さぁ、サキザード。少し頼まれてくれないか?」
 男たちを掻き分けて手を伸ばすと、サキザードが飛びつくように腕にすがりついた。よほど困惑していたらしい。もう少し早く助けてやるべきだったか。
「タケトーさんを呼んできてくれないか。連れが話をしたいそうだから」
 不平を漏らすイコン族を適当にあしらい、ジャムシードがソージンを指した。
 特異な外見を持つ異邦人には親しみを感じないのだろう。イコン族の男たちは興味が失せたのか自分たちの世界へと戻っていった。
「疲れたろう? すまなかったな、すぐに助けてやれずに。タケトーさんへの伝言は急ぎじゃないから、この隙に奥で休んでおいで」
「でも。あの方も用があるから館に来たのでしょう? それに慣れないと……」
 弟は人の輪から抜け出してすぐに腕から手を放して自力で立っていたが、両手を握りしめる様子から察するにまだ緊張は抜けていないようだ。夕食まであの調子で絡まれぬよう、イコン族とは距離を置かせたほうがいいか。
「俺やジュペを出迎えるために顔を見せてくれたんだろ? 運悪く男たちに捕まっちまったけど、嬉しかったよ。今日は充分に頑張ったから休んでいいんだ。もし体調が戻ったのなら少しずつ話をしような?」
 素直に頷き、頼りない足取りで奥へ引っ込んでいく弟の背中が痛々しかった。記憶がない状態で他人の中で過ごすことは、周囲が感じている以上に孤独感や不安を感じるものである。少しずつ慣らしていくしかないのだ。
 元の席に戻ると、皮肉げに口の端をつり上げたソージンと視線が絡まった。
「虚弱なところはお前似か? 甘えさせるのはいいが過保護にしすぎるなよ」
「あの子は虚弱じゃない。記憶がなくて怯えてるだけだ。慣れればマシになる」
 ムッとしたジャムシードの態度にソージンは肩をすくめて口を閉ざす。
 それからどれほども経たずにタケトーが戸口に現れた。まだ夜は火を欠かせず、館の主人は暖炉を中心に人々がたむろする様子を見て満足げである。
 暖炉正面にイコン族の男たち、部屋の奥まった側に女たち、そして戸口に近い位置でジャムシードとソージンが陣取る図は、お互いの微妙な関係を如実に示しているだけのように思うのだが、彼なりの考えがあるのだろう。
「お待たせして申し訳ない。夕食にはもう少しかかりますので軽い食事と食前酒を用意させました。遠慮なく召し上がってください」
 主人の後から談話室に入ってきた使用人が手際よく人々の間を回って深杯ゴブレットと大皿、取り分け皿とを配っていく。最後にワイン樽が運び込まれ、ジュペ用に果汁水の壺が添えられた。
 これだけでも充分に食事として通用しそうな品々にイコン族は喜々として手を伸ばし、女たちも遠慮がちではあるが男たちに倣って飲み食いし始めた。
「ジャムシードさん、約束を守ってくださって感謝しますよ」
 目の前に座り込んだタケトーが愛想笑いを浮かべる。曖昧に返事を返すジャムシードの傍らでは、無表情なままのソージンが一人で杯をあおっていた。
「久方ぶりですね、ナバのハヤヒト。北の最果てまで行き着いたあなたが大陸中央部に戻ってきたという噂を聞いて飛んで来たんですよ」
「どうせろくでもない用だろうが。言ってみろ。聞くだけなら聞いてやる。後からおれもお前に訊きたいことがあるからな」
 横柄な口調でクッションにもたれたソージンの目つきは冷ややかである。いつも思うが、彼はどうしてこう相手の神経を逆撫でする態度を取るのだろう。
「商王の公主ティオ=ティラ様の婿殿をお迎えにあがりました」
 片膝をついて恭しく頭を下げる相手を一瞥し、白い異邦人はアッサリと横を向いて「断る」とにべなく返した。それでもタケトーは冷静である。
「そう仰るだろうと思いました。しかし、ご用件を推察するに交渉の余地くらいはあると踏んでいます。……ジョーガや故郷のこと、知りたいでしょう?」
 ソージンの顔つきが獰猛な獣の如く険しくなった。その変化を見つめるタケトーが「長期戦は覚悟してますし」とのんびりした態度で皿に手を伸ばす。
 結局、悪態をつくソージンとノホホンとしたタケトーを見比べ、場につき合う羽目になったジャムシードばかりが狼狽する軽食となったのだった。