母親に手を引かれて出ていくジュペが戸口で振り返った。不安げな表情が浮かんでいる。ジャムシードが微笑みかけ、小さく頷くと、ようやく納得したのか、父親と伯父を残して殺風景な部屋を後にしたのだった。
「話とはなんだ? やはり炎姫公に何か言われたのではないのか?」
扉が閉まった途端、待ちかねたように口を開いたのはジューザだった。ジャムシードが執務室に行っている間、果たしてどれほど思い悩んでいたのだろう。
「大公閣下のことは問題ない。ハムネアの表向きの事情を話しておいたから。いくら大公閣下でも、今から青の部族の流行病が本当かどうかを調べに行かせるような暇はないさ。……それより、ハムネアが来たってことは――」
ジャムシードの視界から突然、ジューザの姿が消えた。
「すまん! お前の言う通りだ。自分のことしか考えてなかったのは……」
「ジューザ。やめてくれ。今すぐ立たなきゃ、俺はこの部屋から出ていくぞ」
床に額をこすりつけ、主人に許しを乞う奴隷のように卑屈な姿勢を保つ男の姿に、ジャムシードは顔も口調も強張らせる。こんなことをさせるために喧嘩をふっかけたわけではないのだ。
「しかしだな。部族長としてのけじめが……」
「いいから立て! 今すぐにだ! けじめをつけるなら他の方法にしてくれ!」
青の部族長に土下座をさせたとイコン族に知られでもしたら後が大変である。公の場でジューザを糾弾したのは、確かに部族長としての責任を問いたかったからだが、威厳をかなぐり捨ててまで謝罪しろと要求するためではないのだ。
しぶしぶといった表情で立ち上がったジューザの頬に指を突きつけ、ジャムシードは思いっきり眉間に皺を寄せて見せる。
「その頬、赤くなってる。他の奴らは気づいてないけど、ちゃんと冷やしておけよな。妹に張り飛ばされたなんて知れたら兄の権威が地に墜ちるぞ」
そうだ。ジャムシードが謝罪を受ける謂われはないのだ。ジューザが本当に謝罪せねばならぬのはジュペとハムネアなのだから。彼女たちの気持ちを踏みにじるような真似をしてしまった謝罪はきちんとしてもらわなければ。
「大切な話があるんだ、ジューザ。心して聞いてくれ。場合によっては、俺に謝罪するどころか殴り倒したくなるような話だけど」
苦い表情のジャムシードに引きずられるようにジューザの顔が険しくなった。
「ジュペを、あるいはイコン族の娘を狙っている者たちがいる、この街に」
「どういうことだ! なんで今まで黙ってた!」
今まで見たこともないほどジューザの眦がつり上がる。咄嗟に伸びた腕がジャムシードを捕らえ、胸ぐらを激しく揺さぶった。
だが、それでは自分の欲しい答えが貰えないと気づいたのだろう。唐突に揺さぶっていた手を離し、苛立ちのこもった眼を向けたまま押し黙った。
「俺に逢う少し前、東方人の男たちに一度狙われた。今日の昼頃にも。今回は手下の何人かを捕まえて番所に預けている。けれど、肝心の黒幕はまだ捕まっていない状態で油断はできないんだ」
「どうして教えなかった!? ジュペはイコン族の娘だ。我々には知る権利が充分にあるはずだぞ。お前の勝手な判断で事を進めるな!」
「午前中までのジューザに教えていたら、ジュペの安全を最優先して砂漠へ強制的に連行しただろう? 今回の問題はうやむやにされるじゃないか。あのままジュペたちを連れ戻していたら、ナナイはどうなったと思う? ハムネアがどう感じるか想像したことはあったのか?」
気まずい表情を作り、ジューザが視線を反らす。湧き上がった罪悪感は当分の間、青の部族長を責め苛むことになるだろう。
こんな指摘の仕方をすれば落ち込むであろうことは判っていた。しかし現状を伝えるとなれば、やはり今までのジューザの対応を指摘せざるを得ない。
「全部片付いてから砂漠に帰してやりたかったけど、もうその時間はない。部族に戻るまで気を抜かないでくれ。いや、戻ってからも注意を怠らないで欲しい。もちろん調べは続けて、必ず片が付いたことを知らせにやるから……」
「どこのどいつがジュペを狙うんだ。なんの目的で!」
低い鋭い声でジューザが口を挟んだ。説明の途中で食いつくほど、頭に血が上っている。今にも外に走り出て暴れそうなほど苛立っていた。
「黒幕の顔も、目的がなんなのかも判らない。ただハッキリしていることがある。奴らは命を狙っているわけではなく、身柄を押さえたいんだ。奴隷として売る気なのか、人質としてなのか、目的は捕らえた者を尋問して……」
「尋問には立ち会わせろ! 厭とは言わせないぞ。当然の権利。それに、この事態はお前一人が動いて解決できるようなことじゃないだろうが」
なだめても逆効果だろう。だからこそ午前中の時点で話さなかったのだ。激情に駆られたイコン族は人の話をまったく聞かなくなるのだから。部族長として信頼されているジューザですらこれだ。他の者には絶対に話せない。
そう思うと、思い込みは強いがガイアシュは冷静な性格なのだ。間もなく十五になる年齢にしてはジュペをよく守った。これから経験を積んでいけば、部族の中でも指折りの戦士に成長していくだろう。
「王太子殿下にはバレたよ。その代わりに調査に協力していただけるそうだ。今度は腕のいい東方人の助っ人もいる。それに今までだって協力者はいたさ。最初から黒幕の名前は判っているんだ。顔が判らないだけで」
「どこの誰だ、その黒幕ってのは。名前が判っているなら、サッサと乗り込んでぶちのめしてやればいいじゃないか」
言っていいものかどうか、ジャムシードは一瞬迷った。後先考えずに飛び出していくのではないかという危惧が頭の隅をかすめたのである。だがしかし、言わないで砂漠に帰すことは不可能なのだと自分に言い聞かせた。
「シギナ国のジョーガ、と言うらしい。誰も顔を見たことが……ジューザ?」
「ジョーガ、だと? 本当に間違いなく、ジョーガか!?」
見る間に目の前の顔が強張り、青ざめたのを、ジャムシードは訝しく見守る。何か知っているのだろうか。でなければ、こんな反応はしない。
「嘘を言ってどうするんだ。ジュペを襲った奴らはジョーガの傘下に入っている部族の者だそうだ。東方人の友人にも確認したから間違いない。ジューザはジョーガという奴を知っているのか?」
「顔は知らん。だが、サランティーで使者には逢った。炎姫公を通さずに直接イコン族と荷の取引をしたいと言ってきた。貿易商だとかぬかしてな。大族長は貢ぎ物に気をよくしたが、クラングが胡散臭いとはねつけたんだ。もしや、その腹いせにイコン族の子どもをさらって国外に売ろうとしているのか?」
血の気が引いたジューザの様子から、ジャムシードは彼が何を案じ、恐れているのかをおおよそ察してしまった。それはジャムシード自身もジュペが襲われた当初に抱いた不安の一部と同じものである。
ジュペの問題は部族内で収めたい事柄だ。だがイコン族の娘が襲われたとなればイコン族全体の問題になってしまう。なぜジュペが王都にいなければならなかったのか、その理由が取り沙汰されることになるのだ。
ジューザが我知らず犯してしまった失敗のために、妻ナナイやジュペとの間に確執が生まれたとなれば、部族内で不信が生じかねない。さらにハムネアが王都に出向いた意味が今までとは違った捉え方をされてしまうのだ。
そして、クラングとの盟約を破り、ハムネアとジュペはジャムシードに接触してしまった。それが知れたらジューザは部族長の力量そのものを問われる。
ようやく混乱から脱した青の部族が、またしても蜂の巣をつついたような騒ぎの中に放り込まれることになるのだ。そんな事態は避けねばならない。
「相手が何を望んでいるのか知らない。だけど用心するに越したことはない。砂漠への帰途はジュペだけではなくハムネアとナナイにも気を配ってくれ。力のない者を拐かすのは常套手段だからな」
考え込んでいたジューザがハッと我に返って顔を上げた。
彼自身が部族長の地位を追われれば、妻ナナイの立場は転落してしまう。これまでも子どもを産んでいない彼女の立場は厳しかったはずだ。
それもあって、オズモーの悪意から逃れ、子どもが産める可能性が出てきた今、ジューザは跡取り息子を産め、と躍起になってナナイに迫っていたのだから。それが妻や姪を追い詰めたことにも気づかずに、であったが。
「ジョーガを捕まえるのなら部族長が動かないでどうする。お前だけに任せてはおけん。この街で決着をつけてから帰る」
「無茶を言わないでくれ、ジューザ! 砂漠に帰ればハムネアはサランティーで保護されるし、部族中の眼がナナイやジュペを見張っていてくれる。だけど、この王都では彼女たちを守る者の人数など知れているんだぞ」
「砂漠に戻ってもジョーガが捕まるまで怯えて暮らさなければならない。同じことだ。禍根は早めに、確実に、断つ。幸い、ハムネアとナナイは薬草を仕入れてから帰るという大義名分がある。その間に片づければいいことだ」
容易いことのように言ってくれる。相手の顔も判らず、捕らえた手下もどの程度のことを知っているか判らないというのに。ジョーガを捕らえることは容易ではないのだ。それはソージンに話を聞いてよく判った。
「ジューザ。いくらなんでも短期間で解決するとは……」
「止めても無駄だ。お前が駄目だと言っても勝手にやらせてもらうぞ」
あぁ、本当に。強く思い込んだからイコン族は他人の話を聞こうとしない。こうなってしまったらジューザは梃子でも動かないだろう。
ジャムシードは頭を抱えたくなったが、そんなことをしても何も解決しないことは誰よりもよく判っていた。今さら説得も無意味だ。
「ハムネアとナナイには知らせるなよ。怯えさせるだけだからな」
口ではハムネアとナナイと二人の名を口にしているが、実際にジューザが心配しているのはナナイだけだ。部族長を任されるだけの力量がありながら、彼は妻のことになるとまるで別人になり果てる。
「ジュペは自分が襲われたことをハムネアに話すかもしれないぞ。いや、確実に話をするだろうな。ハムネアを通じてナナイに伝わるのも時間の問題だ。王都に留まる気なら耳に入れずにおくことは不可能だよ、ジューザ」
「しかし、ナナイが知れば心労で倒れかねん。俺が目を離した短期間であんなにやつれてしまったんだ。これ以上の負担は……」
表情が暗くなったジューザの心配も判らないではなかった。ジャムシードもナナイと再会したときの顔色の悪さに驚いたほどである。
あのやつれ具合もあって、ジューザは己のしでかしたことがどれほど彼女を追い詰めたのか、やっと理解できたのだ。いや、今までも薄々は判っていただろう。だが、無視できないほどあからさまに目の前に突きつけられ、ようやく認めざるを得ないのだと納得させられたのだ。
「今のナナイにはハムネアがついてる。これまでだってナナイの不安や愚痴はハムネアが聞いてきたんだ。二人が一緒にいるなら大丈夫だと思うけどね」
ジャムシードの返答にジューザの眉が寄る。夫がいながら義理の妹に不安や愚痴をこぼすという妻の態度が気に入らないのだ。彼にとって今の発言は、頼りにされていないと言外に言われているようなものなのだろう。
「男たちの諍いを妻に逐一報告しはいないだろう? それと同じだよ。女たちの間にある不満や不安の多くは、女同士でなけりゃ判らない」
「なんで夫の俺よりお前のほうがナナイを理解してるんだ」
「砂漠で記憶をなくしていた間、俺の世話はハムネアとナナイがしてくれた。女たちの間にある感情の行き来はジューザより近くで感じられたのさ」
ジューザはそれでもなお不満げであったが、激怒した妹によほど何か言われたのだろう。ナナイのことで強くは出てこなかった。
「お前の言う協力者にも逢わせろよ。もちろん番所にも一緒に行くからな」
「だったら、俺が今いる館に一緒に来てくれ。ハムネアとナナイも一緒に。あそこなら襲撃者を退けることができるから」
青の部族長の顔色が変わる。言葉の裏にある危機感を読み取ったのだ。
「お前、本当に一人でやってきたんだな。だから官庁にジュペを伴って……」
「ガイアシュがジュペの面倒をよく見てくれた。俺は大したことはやってない」
ジャムシードは曖昧に微笑むと、小さく肩をすくめて見せる。
実際、一人で何もかも背負い込んできたわけではなかった。交換条件付きだがタケトーは襲撃者から子どもたちを守るために協力してくれたし、ジャムシード自身もジュペから極力目を離さないようにしていた。
東方人の情報は兄弟弟子を通じて盗賊団カラス・ファーンから買ってもいた。残念ながら、ジョーガに繋がる確実な情報は得られなかったのだが。
ジューザに知らせる気はなかったので、裏でこそこそ動き回ることになってしまったが、思いつく限りの手は打ってきたつもりだった。それを今さらジューザに言っても意味はない。この先のことを考えるほうが建設的なのだから。
さらに、これからは捕まえた手下の尋問もあるし、王太子やソージンの協力も得られる。今までよりも確実に打てる手が増えるはずだ。
「それより、ジューザ。ナナイとは話し合ったのか? また頭ごなしに命じるような真似をして喧嘩になってないだろうな」
後ろめたそうに首をすくめた後、ジューザがそっぽを向いた。この様子だとまだ話し合いは終わっていないようだ。が、今はハムネアもいることだし、落ち着くところに落ち着いてくれるだろう。
だが、ハムネアはいつまでもナナイの側にいるわけではないのだ。これから先はジューザとナナイの二人で解決していかなければならない。そこのところを理解してくれているのかが心配だった。
「ナナイにはちゃんと話をする。お前やハムネアには迷惑をかけた」
「俺のことはいいよ。だけどハムネアとジュペには筋を通してくれ。特に今回、ジュペはひどく傷ついている」
判った、と返事をしながら、ジューザがそわそわと部屋の外の気配を気にし始めた。近くにナナイがいる以上、ジューザの関心を一所に留めておくことは不可能である。もうすでに意識は妻のところに行ってしまっていた。
「今日の仕事は切り上げるから一緒に館に来てくれ。紹介したい者もいるし」
気もそぞろなジューザは生返事を返し、扉を開けると同時にキョロキョロと廊下を見渡してナナイの姿を探している。もう背後のジャムシードのことなど忘れているのではなかろうか。それほどの豹変ぶりである。
ジャムシードは呆れたようにジューザの背を見守りながら、彼に続いて夕刻の喧噪が満ちた廊下へと踏みだしたのだった。
浮き上がっては沈み、横たわっては流される。そんな繰り返しだった。意識は己の自由にならず、川の流れに翻弄される木の葉か石ころの如き有様。
それをどうこう思うことすらなく、薄闇の向こうにチラチラと見える蒼い人影を追いかけ、腕を伸ばしては藻掻くのだ。
これはいつまで続くのか。それは判らない。これまでにどれほどの時間を費やしたかも思い出せない。それほど長い時間だったということか。それとも、神々の午睡の中にのみ存在する夢人の一生のように、瞬きほどの時間でしかないというのだろうか。
だが懐かしい声に重なり、憎き仇の囁きが復讐へと駆り立てるのだけは、ぼやけた意識の下であっても思い出せた。
「憎い、憎い、憎い。なぜお前は存在する。あの御方は消えたのに」
声はかすれ、手足は強張っている。それがどんな理由でそうなったのか、あるいは元々そういう声と手足であったのかも、忘却の淵に沈んだ。
「許しはせぬ。お前を。いや、お前だけではない。お前が支えるものすべて」
声を出すと喉が苦しい。それほどの負荷をかけて言葉を紡ぐ意味があるのか。それもおぼろな記憶となっていた。いいや、声を出しているのなら意味があるのだろう。たぶん、初めはなんらかの意味を伴っていたはずだ。
「消し去ってやる。お前も、お前が守る者らも。何もかも。あの御方のために」
近づいたかと思うと遠ざかり、彼方にあるかと思うと傍らにいる。憎むべき存在を捕まえようと伸ばした手は、またもや空を切った。何度この虚しい感触を味わったことだろう。その数も思い出せぬ。
――あなたはわたしに勝てはしないの。永遠に。
「滅ぼしてやる。必ず。どれほどの時が経とうとも。あぁ、そうだとも。必ず」
断片的な記憶をつなぎ合わせ、憎悪の原因を見極めようと足掻いた。それさえ判れば、茫洋としたこの意識にも目的が備わろうに。どこまでも邪魔する霞んだ意識と壊れかかった記憶たちである。
――あなたはわたしを怒らせすぎたの。許さないのはわたしのほう!
「お前を滅ぼす。そう決めた。あの御方のためならば……」
――それは消えた者への忠義ではない。利己的な欲よ。あなたは欲そのもの。
「黙れ。黙れ、黙れ、黙れ! お前があの御方を滅ぼしたように……」
――わたしたちのどちらかが消滅するまで諍いは消えないわね、バチン!
脳髄を焼く鋭い痛みが走った。言い争いで増した憎しみが身体の芯を燃やし尽くしたかのような激しさである。一瞬ではあったが、呼吸すら止まった。
くらくらと回る世界が耳元で囁く。
憎め、憎め、憎め。仇をとらずして安息はない。
殺せ、殺せ、殺せ。流れた血がすべてを清める。
奪え、奪え、奪え。正当なる後継者を作るため。
絶望することすら忘れた。干涸らびた心を潤すのは憎き仇の血潮のみ。
「そうとも、アジェンティア。どちらかが消滅するまで戦いは続く」
激痛に丸まっていた手足をそろそろと伸ばし、彼女はゆっくりと立ち上がった。首筋や背が強張っている。随分と長い間、同じ姿勢でいたようだ。
「どうやら仕掛けておいた結界の半分は吹き飛んだようだね。幻体の一部が暴走している気配がする。アジェンティアにいいように振り回されているのか」
眩暈が収まった今、彼女ははっきりと目覚めた意識で周囲を見渡した。暗闇の中に土の匂いを感じる。どこかの地下か、あるいは……。
腕を高々と差し伸べ、低く呪文を唱えると、白い指先に青白い光が灯った。
照らし出された景色は岩、岩、岩の連続である。四方八方、どこを見ても岩だらけだ。丹念に探せば出入りできる場所があるのかもしれないが。
「ここは見覚えがある。確か神山の……。ということは――」
きびすを返すと、バチンは見分ける術すら思いつかない岩の壁を辿り始めた。その歩みは確固たる確信を持つ足取りである。
「やはりデラの子守部屋の中か。吹き飛ばされ、粉々に散らされても、最後にはここに戻ってきてしまう。どうやらアジェンティアもここに立ち寄っている。我が幻体の一部も。つまり何度転生しようと同じことの繰り返しだと?」
一人呟きながら指先は岩肌をなぞった。怜悧さが宿った声には苦々しいものが混じっている。それが後悔なのか嫌悪なのかは判らないが。
「さすがは花巫女の娘。完全にデラを結界から切り離して葬ったか。この周囲の我が結界はズタズタだね。個別に残る結界を使うしかなさそうだよ」
岩壁から離れ、バチンは闇の虚空を振り仰いだ。そこに仇がいるかのように。
「魔力をほとんど奪って勝った気でおるか、アジェンティア。だが簡単に消されはせぬ。飛び散った欠片を使えば、お前にとっては面倒なことを引き起こせるのだ。そちらが疲れ果てるまで、この下天を引っかき回してやろう」
掲げたままの片手に乗る光は彼女の白い顔をいっそう青白く輝かせていた。怒りをぶつけたとて返事が戻ってくるわけではない。判りきったことであったが、バチンは忌々しそうに歯軋りし、拳を固く握りしめた。
「まずはアジェンティアが欠片を回収してしまう前に、こちらの駒を集めておかねばなるまいよ。あれの心の臓にくさびを打ち込むのは最後の仕上げだ」
周囲を見回し、彼女はそこに何かを探す。だが、闇が広がる場所で何を見ようというのか。動きを止め、立ち尽くしたままバチンは溜め息を漏らした。
「輝かしい時代は去った。ここにはもう何も残ってはいない。羽毛のように軽やかな想い出も、苦い蜜のように忌々しい感情も。成長した赤ん坊が二度とゆりかごには戻らぬように、あの方もここへは戻られまい」
握った拳をほどき、彼女は前髪に隠れた眼許を掌で覆う。さらに深い闇が視界に広がったが、その暗闇すら彼女に安息をもたらしはしなかった。
「デラよ。お前は我が身の複製品にすぎぬ。それでも裏切り、あの核を育てたということは、お前もまたあの方を超えたかったのか? アジェンティアのように、あの方に成り代わって世界を支配したかったのか?」
片手で頬を撫でさすり、口許を覆い隠す。それを見守るのは光球だけだった。
「ゆりかごを失ったのなら新しい寝屋を作ればよい。守護者を作り、器を作り、そして、あの方を迎えればよいことだ」
手元に引き寄せた光を静かに見おろし、バチンは指の間から吐息を漏らす。
「デラよ、お前では力不足ぞ。アジェンティアもまた同じく。新しい寝屋で微睡む神は、やはりあの御方でなければならぬのだ。それでも戻られぬというのであれば、あの方の意志を継ぐ者が役につくべきではないか」
口許を隠していた手が闇の奥へと伸びた。そこに何を見いだしたか、バチンは唇をうっとりと微笑ませる。
「アジェンティアが消し去ったのはあの方の器にすぎぬ。器さえ作り出せば力の源は戻ってこられる。そうなれば、アジェンティアのような愚か者ではなく、あの方の眼に叶った者が世界を支えるべきではないか。世界の均衡を自在に操る、竜王人の新しい長として」
上手くやるとも、そう囁き、彼女は伸ばした腕を踊らせて虚空に見慣れぬ紋様を描いた。空間を歪ませる指の動きに同調し、風がひそひそと囁き始める。最後に鋭い一閃を描き切ると、バチンの姿は闇に溶けるように消えていった。
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