混沌と黎明の横顔

第09章:夜月の眼《まなこ》 3

 馬車に揺られながら窓の外を眺めていたヤウンだったが、意識は前の座席に座る二人の僧兵へと向いていた。二人は神妙な顔をして座っている。王子が口を開けば、途端に緊張の度合いを深めるだろう。
 まるで奴隷だ。いや、奴隷を扱うが如き厳しさで育てられた結果がこれなのだと、肝に銘じなければならないのだ。王家が、あるいは上流階級者が、いや王国自体が魔人ガダグィーンを排除しようとした結果なのだと。
「ねぇ。いま、街にいる奴隷たちの身分を解放したらどうなるだろうか?」
 急に話を振られ、二人の僧侶は固まった。しかし王太子が窓の外を眺めたままであることで、真剣な議論ではないと踏んだらしい。それぞれがしばし考え込み、ポツポツと自分の考えを話し始めた。
「罪人として奴隷に落とされた者を解放するとなると色々と物議を醸すでしょうが、身売りの形で奴隷となった者にとっては嬉しいことでしょう。離ればなれになった家族が再びまとまるきっかけにはなるのでは?」
「そうだろうか? 身内に売られたとなれば戻る家もあるまい。私は解放するだけでは意味がないと思う。結局、また奴隷商人に捕まって売り飛ばされるだけではないのかな。奴隷は家具と同じだと思われている。彼らにも人の心があるのだということを世間に認知させねば同じことの繰り返しだろう」
「泣く泣く子どもを手放した親もいるはずだ。一律に決めつけることは出来ないだろう? だが確かに戻る家のない者もいる。解放された者たちが自立できるよう支援する機関が必要だ。衣食住に教育、あとは……」
 二人の会話は奴隷が解放された後のことに終始している。もちろん、それはヤウンが解放されたらどうなるだろうと問うたからだ。しかし、二人ともなぜ王子がそんな問いかけをしたかは訊ねない。彼らの意識は奴隷の未来を語りながら、その実、自分たち魔人の未来をも語っているのだ。
 本人たちは気づいてはいまい。無意識のうちに心のどこかで感じ取っている世間からの理不尽な扱いに反抗しているのだとは。
 つい熱心に話し込む双子の僧侶の会話を聞きながら、ヤウンは流れていく町並みの景色をじっくりと眺める。大きな商館の戸口で、羽振りの良い行商人の後ろで、家畜や道具のように唯々諾々と従う奴隷の姿が目に入った。
 今まで気にも留めなかった。王城でも最下層の洗濯場や屠殺場で働かされているはず。だが、子どもの頃でもそんな場所まで足を向けたことはなかった。
「特に生まれてからずっと奴隷であった者たちを教育するのは重要だ。彼らには相手と対等という感覚が生じにくい。しかし、それ以上に受け入れる側の意識の改革をしなくては溝が埋まるとは思えない」
「だったら、受け入れられやすい者から解放していくというのはどうだ。先だっても水姫公が戦奴ドールを貴族から買い取り、兵士として雇い直したろう?」
「荒れ地を開墾する目的で農奴を解放するというのは? それなら農村でいきなり奴隷が解放されて混乱することもない。もめ事も少ないだろう」
 二人の会話は先へと転がり、色々な形を取る。他人を語ることは同時に自分を語ることだ。彼らの声には今までの萎縮はなく、張りと艶が現れていた。
 ヤウンは思わず口許を緩める。そして会話に没頭する二人の気配を感じた。
 僧院でも仮定の話で激論を戦わせるのだろう。あるいは現実問題でも。奴隷のように発言権まで封じられていない分、彼らの意識には自由があった。
「身分の垣根を取り払って議論を戦わせてみるのもいいか。悪くないね」
 王子の呟きなど耳には届いていない。ますます没頭する会話に熱がこもった。
 彼らにも未来への希望があるのだと。そう信じられる。王国の犠牲にばかりはさせておけない。道がないのならば作ればいいのだ。
「政策のための諮問機関が欲しいな。上流階級者だけではなく、色んな分野の者が意見を言えるような。……どうやって作ろうか?」
 双子に触発されたようにヤウンの心も浮き立ってきた。これから先のことに希望を感じられるというのは幸先が良いではないか。
 大きく迫ってきた王城の敷地が目に入り、王太子は不敵な笑みを漏らした。
「必ず膿は出してやる。腐った果実は他の健全な果実まで腐敗させるからね」
 いつの間にか独り言が大きくなっていたらしい。何か問われたと勘違いした双子たちが会話を止めてこちらを伺っていた。
「なんでもないから気にしないで。君たちの意見は参考になったよ。これからの僕の政策に活用させてもらってもいいかな?」
 自分たちの意見が王子を動かすことなど不可能だと思っていたのだろう。二人は動揺し、まごついた表情になった。
「そのように大それたこと。殿下のお考えには到底及びませんよ」
 それを決めるのは王太子自身である。だが、それを言ったところで彼らは納得すまい。ヤウンは内心を押し隠し、迫ってきた王城を見上げて笑った。




 絶望や失意を感じたというのなら、それはそれで利用のし甲斐があろう。
 目の前でこちらを睨む黒炭の瞳を冷淡に見つめ、アジル・ハイラーは口許を歪めた。相手には判らないほど小さな動きである。
 動揺するかと思ったが、ジャムシードは意外なほど冷静に出した条件に耳を傾けた。何を考えているのか。まじまじと相手の顔を眺め、炎姫公は口角をつり上げた。うっすらと透けて見えるのは覚悟か。面白いではないか。
「その条件を呑まなかった場合、閣下はどうされるのですか?」
 すでに大公がどう動くか予想しているはずだ。それを敢えて確認してくる辺りに相手の姑息さを感じる。ここ最近、この男もこういう動きができるようになった。少し前までなら周囲に翻弄されて疲弊し切っていたろうに。
「お前を不問にすると言った手前、罰を公然と与える気はない。だがイコン族は別だ。たとえ他大公の出した許可証があろうと、タシュタンの民が領主の許可証もなく他地藩に出向くとは芳しいことではない。大族長に勧告を出す」
「女たちの旅は緊急事態です。少しの慈悲もいただけないのですか」
「女たちのことは理解した。部族の流行病では仕方あるまい。しかし子どもだけでの旅、しかも砂漠を出る許可もなしの旅などあってはならぬ。さらに部族長の権限が及ばぬ場所で放っておかれた状態であることもだ。青の部族長には部族民を抑える力がないと見なす。出すのはその勧告文だ」
 傍らの長椅子でフォレイアが息を呑む気配がした。この娘も大公が出した条件に失望しただろうか。であれば、今まで以上に距離を取ってくるだろう。それもまた良し、だ。顔を見るたびに苛立ちを募らせるよりマシである。
「判りました。閣下のお言いつけに従いましょう。……ですが、俺への条件は果たして褒賞なのでしょうか。それとも罰なのでしょうか」
 会話の最中も視線を反らすことなく、こちらの表情を伺うジャムシードの声は固かった。出した条件を呑むにはそれ相応の覚悟がいったはず。だが炎姫公に従うということが何を指すか、それを今後さらに思い知るだろう。
「皆、褒美だと思うだろう。大した出世だからな。だがしかし、お前がどう思うかは、私も知らぬ。他の者にも理解できまい。そして我が地藩にとって、お前がどう感じるかは重要ではない、とだけ言っておこう」
 僅かに細められた相手の瞳をアジル・ハイラーは淡々と見つめた。いささかでも怯んではならぬ。どちらもが内心でそう思いながら睨み合った。
「承知しました。では、俺が閣下のご命令を受ける代わりに、イコン族へのお咎めもなしということにしていただきます。よろしいですね?」
 確認する瞳には冷たい憤怒。それを心地よく感じ、炎姫公は鷹揚に頷いた。
「よかろう。お前が条件を呑むのなら恩赦の扱いでイコン族のことも大目にみよう。敢えて事を荒立てても、骨が折れるばかりで実益は少ないからな」
 他者から見れば別の選択もあろうが、ジャムシードに選択肢などなかったはず。そして、彼が今まで何をしてきたか予想できぬほど耄碌してはいないつもりだ。騙すか騙されるか、あるいは何を利用するかしないのか。謀りごとなら若造に負けるわけがなかった。こちらは何十年もそんな世界に生きている。
 であれば、相手の茶番劇に乗ってこちらも演じさせてもらうまでだ。厳格で融通の利かない、図々しさを押しつける大公という役割を。
 イコン族の者に事の次第を知らせに立ち去ったジャムシードを見送り、腰を浮かせたフォレイアが物問いたげにこちらを見ていた。言いたいことをハッキリと口にしない娘である。そういう戸惑いにも苛立った。
「サッサと仕事をしろ。茶の一杯でいつまで休んでおるつもりだ」
 残りの茶を一気に飲み干すと、アジル・ハイラーは娘を無視して立ち上がる。
「なぜですか、父上。彼の預かり期間は五年。それが半年でジューン島の……」
「預かりの身になった者が当主に従うのは当然だ。如何に王太子殿下のお声掛かりであろうと、あれは今我が臣下のひとりでしかない」
「ですが、ヤウン殿下の許可も得ずにあのようなことを命じてはっ!」
 移動したドルスターリが隣の部屋に待機する秘書官を追い払う声がする。父と娘の言い争いを聞かれないよう細心の注意を払っているのだ。
「殿下の許可を得ようとすれば横槍が入るだけだ。あの男の戸籍はタシュタンに移してはあるが、元々のハスハー地藩の戸籍に戻せと水姫公がせっついてきているのだからな。役付になったほうが戸籍の移動は難しい。となれば、王太子殿下のご意向に叶おう。事後承諾で納得していただく」
 炎姫公女預かりの身は安定しているようでそうではない。他大公から要請があれば配慮せねばならぬ。そんなことをいつまでも続けてはいられなかった。預かりの身から役付に、その安定感がこの娘には判らないのだろうか。
「ジャムシードの気持ちもお考えください。彼は好いた娘を亡くし……」
「それが何だというのだ。言ったはずだ。あれがどう感じるかは関係ないと」
 淡い色をした唇を噛みしめる娘を一瞥しただけで炎姫公は執務机に向かった。あらかた片づけられてはいたが、つい先ほどまで手をつけていたと思われる書類とその関連物が机の片隅に鎮座しているのが目に入る。
 手に取ってみれば、書類の内容は藩校に出仕する者たちの一覧だった。ということは、木箱の中は推薦状に違いない。
 開設が決定している藩校への出仕者の推薦状を今頃、と思うのは第三者の視点だからだ。確実に開設されることが決まったからこそ、工房主たちは自らの工房の利点を列挙して地藩の上層部に媚びを売りたいのである。
 人は己の欲望のためならいくらでも卑屈になるし、傲慢にもなるのだ。
 惰弱な心根に成り下がる者。立身出世のために冷酷になる者。
 多くの人間を見てきたアジル・ハイラーには木箱から漏れる臭気の澱みが見えるような気がした。それらを利用し、御し得なければ先の流行病から地藩を立て直すことなど不可能だったのだから。
 ふと気づければ、いつの間にかフォレイアが部屋から姿を消していた。
 官庁の仕事は執務室でするものだけではない。役人との打ち合わせや商人の査問など次から次ぎへと押し寄せてくるのが常だ。
 きっと執務室に居ずらくなり、他の仕事をしに出ていってしまったのだろう。
 書類に目を落とし、つらつらと出仕者の名を眺めながら大公は溜め息をつきそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。公の場所で弱気に繋がるような姿を見せるわけにはいかない。どうもあの娘が絡むと調子が悪くなって困る。
「閣下。少々手厳しすぎはしませんか?」
「ジャムシードにとっても悪い話ではあるまい。奴の足場を固めてやったのに、お前から手厳しいと批判されるとは心外だ」
「そうではありません。フォレイア姫に対する態度は役人や貴族に対するものよりも格段に厳しい気がします。このままで本当によろしいのですか?」
 そちらの話か。ハイラーは荒々しく吐息をつくと、鷹眼ようがんと恐れられる鋭い眼光をドルスターリに向けた。
「私があれをどう扱おうとお前に文句を言われる筋合いはない。サッサと書類を整理しろ。仕事は山のようにあるのだぞ」
「ユニティア姫とフォレイア姫との扱いに歴然とした差があるのを眼にしては、気にしないというわけにはいきませんよ」
 不機嫌さを滲ませた口調に炎姫公は片眉をつり上げた。いつもは父娘の会話の内容など聞き流してしまう男が、今日は珍しく食ってかかってくる。何かあったのだろうか。それとも、とうとう我慢の限界を超えたのか。
「同じ人間ではない以上、扱い方が変わるのは当然のことだ。今さらになって扱いがどうのこうのと文句を言うな。あれにはあれに相応しい扱いをする」
「娘を“あれ”と呼ぶ辺りに悪意を感じるのは私の気のせいですか? 敢えて娘ではなく奴隷か使用人のように接しているように見えますが」
 やはり気づいていたか。ドルスターリがこの機会に口を挟んでくるということは、他にも気づき始めている者が出てきているはずだ。
 しかし、だからといって娘の扱いを変えることも、彼らの疑念を肯定することも、今の彼にはできない。脆い崖の縁でたたらを踏んでいるような危うさを犯していると、他ならぬ自分自身だと承知していても。
「人の上に立つ者は用心深くなければならぬ。あれは少々抜けたところがある。厳しく指摘してやっと一人前だ。今のままが丁度良かろうよ」
「それが親心だと仰るのなら、子を亡くした今ですら、私は自分がどうしようもなく甘い父親だったと反省しなければなりませんね」
 流行病で妻子を亡くしたドルスターリの過去を思い返し、さすがにアジル・ハイラーも苦い思いがこみ上げてきた。長年に渡って巡検使の職に就いている男は流行病の時期も故郷の家を空け、巡検の旅をしていたのである。
 常日頃から一緒にいない後ろめたさもあり、妻子の我が侭や贅沢に呆れるほど寛容だったことを、今でもはっきりと覚えていた。
 それが結果として、甘えるばかりの妻子の生きる気力を奪ったかもしれぬと、ひどく落ち込んでいた時期もあったくらいである。公女に対して厳しい炎姫公の態度に、今まで鬱屈したものを抱えていても不思議はなかった。
「お前にはお前のやり方があり、私には私のやり方がある。お前の子は大公家の者ではなかったのだし、育て方が違っていて当然だろう」
「では、フォレイア姫を跡継ぎとして育てている、と?」
 炎姫公の瞳の温度が下がる。他人どころか自分の中にあるものすら凍らせて、彼はドルスターリの言葉を冷然と否定した。
「跡取りのことをお前に指図される覚えはない。出過ぎるな、ドルスターリ」
 相手の表情に不満が去来したが、大公はそれを無視して書類に眼を落とした。
 それ以上は口を挟まずドルスターリは秘書官の仕事に徹した。書記机の前で書類の仕分けや代筆をする部下の横顔は無表情である。内心では腹を立てていたとしても、彼がそれを表に出すような真似をしたことはなかった。
 アジル・ハイラーもしばらくは書類の決済に追われた。だが、頭は他ごとを考えてしまう。こういうときには慣れた仕事は向かないようだ。
 巡検使の局から回ってきた報告書の内容が頭の片隅に浮かんできた。現黒耀樹公ナスラ・ギュワメがまだ巡検使ウラッツェだった頃に上げた書類である。
 ファタナ砂漠での出来事を記した報告書は、ドルスターリからの報告書より詳しく、ジャムシードの行動の仔細も漏らさず記されていた。よもやジャムシードは自分の行動すべてを王族たちが報告を受けているとは知るまい。
 そこには青の部族長ジューザの妹ハムネアとその娘ジュペのことも記されていた。もちろん、朱のオズモーの悪巧みやその義理の弟と称した男へのジャムシードの暴挙も。大族長の息子クラングや各部族長、幹部の言動すらも。
 渦中にいる者たちには判らず、部外者だからこそ見えてくるものがあることを、アジル・ハイラーは経験から知っていた。
 初めは子どもの存在を否定したというジャムシードが、その後一転して母娘の側に寄り添っていた意味。身分の低い羊飼いを義理の弟にしてハムネアの婿に勧めたオズモーの真意。話し合いすら持たずに、その男を斬り殺し、処罰を唯々諾々と受け入れたジャムシードの行動の裏にある心理。
 そして、報告書の最後に私見として添えられたウラッツェの但し書き。
『ジュペがジャムシードの実の娘である確率は五分五分と思われる。』
 淡々と綴られた報告書の末尾に、とってつけたように添えられたこの一言。まるで一連の出来事のすべてがここに起因するとでも言うかの如き言葉だった。
「違う……。五分などではない。娘は間違いなく──」
「閣下、如何なさいました? 何か不備がありましたでしょうか」
 呻き声が耳に届いたらしく、ドルスターリが怪訝そうに眉をひそめて大公の様子を伺う。炎姫公は「なんでもない」と首を振り、書類を繰る指を止めて眼許を押さえた。それが眼の疲れを訴えるように見えたのだろう。有能な秘書官は「眼の疲れに利く香草茶を淹れさせましょう」と席を立った。
 砂漠に出向き、遅ればせながらも状況を見ていてなお、ドルスターリには見えなかったもの。それがアジル・ハイラーには見えていた。
 夕暮れ時になって灯された燭台やランプの明かりが執務室全体を黄金に染める。磨き込まれた机や椅子、壁に掛けられた絵画や真鍮の装飾品がほの暗い中で星の瞬きのように揺れ、輝いていた。
 庶民からみれば贅沢な部屋だろう。この一部屋だけで住居より数倍は広いという下層民や貧民が、王国には未だ多いのだ。しかし今の炎姫公にとっては飾られた豪奢な品々ですら乾いた心を潤すものではない。
「十全の確信で言える。娘はジャムシードの子ではない。殿下も水姫公もここまでの確信は持てぬだろう。だが、私には判る」
 口をつぐんだ途端、ランプの芯が油を吸い上げる鈍い音が聞こえた。先ほどまでも同じ音がしていたであろうに、水底のように静まり返った室内でその音は破鐘が鳴るように不快な音となり果てていた。
「なぜだ。どうして己の子でもない者にそこまで心血を注げるのだ。一生を呪縛されても守る、どんな価値をそこに見いだしたと……」
 ゆらゆらと腰をくねらせる女のように炎が瞬く。それを凝視していた眼に鈍痛が走った。本当に眼が疲れているらしい。灯火の下とはいえ、書類を長時間睨み続けるにはこの身は歳を取ったのだとでも訴えているつもりか。
 胸に沸き上がってきた苛立ちに喉が詰まった。叫び出したい衝動を必至に抑え、アジル・ハイラーは両拳を固く握りしめる。
「納得できる答えを貰ったのか。それとも利益を約束されたか。無償の行為などあり得ん。そこには必ず何か必然があるはずだ。人には判らない、奴だけの理屈が。……それが。それだけが、私には判らない」
 拳で眼許を覆い隠し、大公は机の上に肘をついた。思い悩む彼の姿を見おろすのは壁の絵画と真鍮製の仮面だけ。茫洋と彼方を見る描かれた横顔が、虚穴の瞳と口許が、嘲笑って見えるのは炎の悪戯であろうか。
 大通りの端を、小柄な少女に微笑みかけながら歩くジャムシードの姿を思い出した。なんの驕りも打算もない、ごく当たり前の父と娘に見えた。娘の出自の後ろ暗さなど微塵も感じさせない表情だった。
「何がお前を強くする? 私には、その強さが妬ましい」
 拳から顔を上げ、アジル・ハイラーは虚空を見上げた。朱茶色をした眼の奥底に揺れるのは不安か、嫉妬か。白皙の美貌は強張り、机の上で握りしめられた拳は彼の内心のさざ波を教えるかのように震えていた。