混沌と黎明の横顔

第09章:夜月の眼《まなこ》 2

 夕方近くになってもジャムシードは戻ってこない。
 昼を過ぎても帰らないので訝しんでいたが、花館で急な仕事が入ったとの知らせを受け、一応は納得してはいた。それでも彼の戻りは遅すぎる。
 いや、遅いと強く感じるのは、階下にいるイコン族の存在を気にしている己の感情のせいだ。気にしなければいい。なのに意識はそちらに引っ張られる。
 一度は兄と宿屋に戻ったジャムシードの元妻が、再び官庁へと舞い戻ってきていた。しかも、今度は青の部族長ジューザとその妻女まで引き連れて。
 タシュタン地藩の民であるからには、すげなく追い返すわけにもいかず、フォレイアは苦々しい思いを飲み込んで仕事をしているところだった。
 役人はイコン族の存在に気もそぞろである。今日ほど仕事にならない一日はなかっただろう。それもまた炎姫公女を苛立たせる原因だった。
「あのバカ者めが。いったいなんの仕事を入れたのだ。サッサと戻ってこぬか。こっちの身にもなれ。色街にジュペを連れていったことがイコン族に知られでもしたら、ここはとんでもない修羅場になるではないか」
 仕事に身が入らずとも一応は働いている役人が手渡す書類に眼を通しながら、フォレイアは悪態をつき続ける。そうでもしていないと、今すぐにでも仕事を放り出して娼館に怒鳴り込みにいきそうだった。
 怒りをやる気に転化したお陰で彼女の仕事は順調である。書類の山を低くしていく様は鬼気迫るものがあり、かなり壮絶だった。
 公女の苛立ちを感じ取った役人たちは腫れ物に触れるがごとき慎重さで、彼女の動向を伺っている。それすらフォレイアの怒りを煽った。公女のご機嫌伺いをしている暇があったら溜まっていく仕事を片づけろ、と。
「フォレイア姫、こちらが藩校に出仕する細工師の一覧表になります。各工房主の推薦状はこちらの木箱に。最後に許可証がございますので、確認後にお印をいただきとうございます。書類が出来次第、大公閣下にお回ししますので」
 秘書官から回された書類を手に、フォレイアはふと顔を上げた。階下で何か聞こえた気がする。弛緩していた官庁内の空気が一気に張りつめた。
 もしやジャムシードが戻り、イコン族と鉢合わせたか。だとしたら大変だ。イコン族の女が何をする気か知らないが、この建物内で騒ぎを起こされては迷惑千万である。仲裁のためにも、ここは止めに行かねばなるまい。
 フォレイアは秘書官に外の喧噪の原因を調べに行かせた。
「騒ぎが次々に押し寄せてくるのぅ。気ぜわしくて仕事がはかどらぬわ」
 炎姫公女はぼやきながら開け放った窓に歩み寄る。今日の弛緩した空気が彼女にも影響を与えているのか、ひどく身体の疲れを感じた。
 雨期の冬場は日が落ち始めるのも早い。曇天であることも手伝い、すでに外は黄昏の色を映していた。天空を覆う雲間からは昼間の残光に溶ける薄い色の月が見え隠れする。若い娘の眉のように細く優美な月だった。
「今夜は猫眼の月魂つきしろであったか。月神の横顔が正面を向く日はまだまだ先になるのう」
 月神ミューサの神獣は猫に似ていると神話書に記されている。この神獣は悪戯好きでも知られていた。昼の光の中で見える月は、眷属の悪意なき悪ふざけに騙されて昼天に顔を出した女神の姿とされている。
 さらに、神獣はなぜか主人である女神の姿をうっすらと隠す雲が好きで、雨期の曇天の日、夕方から西空に浮かぶ三日月が中天で雲間から顔を覗かせている様を指して、猫眼の月魂と呼ぶようになった。
 また、猫眼の月魂には別の謂われもある。
 この神獣は秘密を嗅ぎつける名人であった。集めた秘密を主人に見せびらかすために、夜だけでなく昼間も女神を引っぱり出そうとするので、夕方や夜明けの頃に猫眼形の月が空に浮かぶのだとも言う。
 それ故に、夜の月と昼の月には別々の意味があるとされていた。闇に浮かぶ白き月には“密やかな約束”という言葉が、昼の空に浮かぶ薄い月には“秘密の露呈”という言葉がそれぞれ贈られているのである。
「父上に隠し事をしている今のわらわたちは夜月の加護を信じねばなるまいな。昼間の月に眼をつけられては面倒なことになる」
 イコン族の女から投げつけられた言葉が胸をひりつかせた。ジャムシードとジューザの諍いに公女が仲裁に入らずば、今頃問題は解決していたと言う。善意が混乱を深めたと罵られては、さしものフォレイアも落ち込んだ。
「イコン族の細かな習慣を理解していなかったことが災いしたか」
 ジャムシードは炎姫公女の仲裁をどう思っただろうか。あの女のように迷惑なことと受け止めているのだろうか。それとも無知ゆえのことと諦めたか。
「フォレイア姫! 大変です。お父上が……。炎姫公がお出ましにっ」
 物思いを破る秘書官の声とその内容に、フォレイアは全身を硬直させた。
「……父上はイコン族の者のことをお知りになられたのか?」
 階下のざわめきが炎姫公と砂漠の民が鉢合わせたものであったなら、イコン族は非常にまずい立場に追い込まれることになる。
 大公が許可した者以外の民が王都のタシュタン地藩官庁にいるのだ。もしこの件で炎姫公の抗議文が砂漠の大族長の元に届けば、ジューザはもちろん、クラングの何番目かの妻に収まっている彼の妹も無事では済むまい。
「いえ。今は階下の者にお声をかけて頂いております。イコン族の者たちは食堂のほうにおりますので、まだ閣下は気づいておられません。如何致しましょう。彼らを厨房の勝手口から連れ出しますか?」
「そうじゃな。そのように手配しよう。父上が厨房の者にお声をかけるとなれば、夕食作りで忙しい調理人が手を止めずに済むよう、御自ら厨房に足を運ばれるじゃろう。食堂にイコン族がいたのでは言い逃れはできまい」
 炎姫公を早々に二階の執務室に案内せねば。フォレイアは秘書官と一緒に廊下に出ると、手すりからホールを見おろした。別に秘書官の言葉を疑ったわけではない。そこには父の姿があった。周囲には役人たちが群がる。
 公女は秘書官に目配せし、別の裏階段から階下に降りるよう指示した。そして自分自身は注目を集めるため、中央階段を堂々とした足取りで降りていく。
「急なお出ましに驚きました、父上。ここでは官吏の仕事が手に着きませんから、どうぞ上階の執務室へ。すぐに茶を運ばせます」
 自分と同じ色の瞳だというのに、大公の一瞥はフォレイアの背筋に冷や汗を伝わせた。いつものことである。父の視線に温もりはなかった。姉には愛おしげな瞳を向けていたのに、なぜ自分は愛されないのだろう。
 父親と対峙するたび、鳩尾には氷の塊のような冷たさが宿った。それが不安や嫉妬からくるものだという自覚はある。負の感情を消せぬものかと思い悩む日々は今もなお続いていた。いつまで耐えればいいのだろう。
「庁内が随分とたるんでおる。お前が監督してなんという不始末か。情けない」
「面目次第もございません。精進してご期待に添えるように致します。どうぞ、上階へ。……誰ぞ。大公閣下の茶を執務室に運ばせよ!」
 彼女の声に、秘書官が厨房へと飛んでいった。これで予定通りである。
「伯父上! 急に王都においでになるとは、いったいどうしたんですか!」
 背中に届いた男の声に、フォレイアは身を強張らせ、頬を引きつらせた。
「ジノン、ここで何をしておる。官庁は用もなく出入りして良い場所ではないぞ。物見遊山なら他でやれ」
 冷淡極まりない炎姫公の態度にもめげず、ジノンは笑って肩をすくめる。
「先祖縁の場所を訪ねてみようかと思いましてね。タシュタン地藩や王都にある神殿や僧院の一覧を作ってもらっていたもので、すっかり遅くなってしまいましたよ。ホラ、この通り。これさえ出来れば、今日のところは用済みです。伯父上の気を散らす前に退散させていただきますよ」
 手の中の羊皮紙をヒラヒラと振り回し、フォレイアの隣に立った男は不敵な笑みを口許に刻んでいた。今この官庁内にいる者なら多少なりとも怯むであろう炎姫公のひと睨みにも、まったく恐れ入った様子を見せない。
 パラキスト王国貴族を父に持ち、その容姿を色濃く受け継いでいるジノンではあるが、切れ長の眼許が伯父のアジル・ハイラーに似通っていた。もしかしたら肝が据わっているところも似ているのかもしれない。
「用が済んだのなら帰れ。酒呑みの相手をしていられるほど暇ではない」
 昼食時にジノンが酒を呑みすぎたことを、炎姫公は見抜いたようだ。近寄れば酒の匂いで判るだろうが、歩み寄ってくる足取りや顔色だけで判断できるとは、恐るべき観察眼である。フォレイアは背筋に冷や汗が伝うのを感じた。
「これ以上、嫌われる前においとまするとしましょう。炎姫の朱を身にまとわぬばかりに毛嫌いされたのではたまりませんからな。まったくもって、今日ほどイコン族が羨ましいと思ったことはありませんよ」
 苦笑いを漏らしながらジノンが大公の脇をすり抜ける。その背を見送りながら、炎姫公女は甥の言葉にアジル・ハイラーが反応しないことを祈った。
「イコン族を羨む前に己の性根を鍛え直してこい。血縁であるという理由だけで炎姫家の禄を食めると思うな。仕事は自分で探すものだ」
 背中で大公の言葉を受け止め、ジノンは「仰せの通りに」と慇懃な口調で返事をする。フォレイアは出かかった溜め息を飲み込んだ。従兄は気分を害しているであろうが、それをなだめる余裕は彼女にもない。
 いつの間にか役人たちは潮が引くようにいなくなり、ホールには父と娘だけが残された。先に立って歩き出した大公の背後に従い、公女は胸を撫で下ろす。どうやら父は食堂や厨房で働く者には声をかけないようだ。
 だがしかし、彼女が安堵するのは早すぎたのである。
 二人の後を追うようにして香茶が運ばれてきた。使用人が下がり、机の上の書類を片づけていた秘書官も隣の事務室に退く。執務室に取り残されたフォレイアは、窓の外を眺める父の背を息を詰めて見守った。
「では、そろそろ報告してもらおうか。ここで、いったい何を隠しておる?」
 振り返った大公の眼光の鋭さに、公女はすくみ上がる。無表情で執務室に入った父は使用人や部下が下がるまで一言も口を開こうとしなかった。何かあるだろうとは思っていたが、いきなり核心を突いてこようとは。
「あの、父上……。今回はどうして王都へ? 何か急用がおありなのでは?」
「王太子殿下からそろそろ政務に身を入れろと叱責されては、漫然と海都ゲランで過ごすわけにもいくまいが。早々に出てきて良かったようだな。お前たちがろくでもない悪巧みを企てているのを阻止できそうだ」
 はぐらかすことなど許されぬのだ。炎姫公に目を付けられ、それから逃れた者はいない。床に縫いつけられたように動かせぬ足が震えた。その震えが全身に広がるのを防ごうと、フォレイアは右手で左肘をきつく握る。
「父上、我らは何も悪巧みなど企てては……」
「大公の姿を見た途端に眼を泳がせ、狼狽える役人が何も企てていないと言うか。私の眼は節穴ではないぞ。言えぬのなら言えるようにしてやろうか?」
 拷問にかけてでも聞き出す気だ。それを躊躇う炎姫公ではない。だが、ここでイコン族のことを口にすれば、どこまで咎が及ぶか判らなかった。何がなんでもしらばっくれねばならぬ。父が真相に辿り着かぬように。
「官吏たちは急なお出ましに驚き慌てただけでありましょう。後ろ暗いところなど何もございませぬ。父上の思い過ごしです」
 炎姫公の視線が剣呑な光を帯びた。叱責する怒声こそ響かないが、内心は不機嫌を囲って凄まじい嵐が吹き荒れていよう。娘でも容赦はしないのがアジル・ハイラーのやり方だ。どんな手段に出ることか……。
 フォレイアが過酷な責めを覚悟したとき、前触れもなく執務室の扉が叩かれ、返事も待たずに重い扉が開かれた。
「閣下、ご報告を。許可を与えていないイコン族の滞在者がおります」
 室内に入ってきた者と視線が合い、公女は口許を強張らせる。
 ドルスターリ! 炎姫公直下の巡検使の存在を忘れていた。大公の秘書官を務める彼が王都に随行していないはずがない。なんということだ!
 全身から音を立てて血が引いていく。炎姫公の秘書官は青ざめる公女をチラリと見ただけで、すぐに上司であるアジル・ハイラーへと向き直った。
「閣下が与えたイコン族の滞在者は男ばかりのはず。しかし、私が今この大通りで逢った砂漠の民には、明らかに女が混じっておりました。階下の審問室に通してありますが、閣下御自ら尋問なさいますか?」
 炎姫公の意向を先回りしたような手際の良さに、フォレイアは唇を噛みしめた。大公が直々に尋問するとなれば、イコン族は言い逃れなどできまい。
 アジル・ハイラーが冷えた視線を娘に向け、すぐに厳しい表情をドルスターリに向けた。すぐにでも大公の決断は下されるだろう。
 だが、炎姫公が口を開く前に廊下で鋭い足音が響き、それを押しとどめた。
 足音の主が開かれたままの扉に姿を現したとき、フォレイアは日向の匂いを嗅いだ気がして、ふと身体の緊張を解いた。冬場の貴重な晴れ間のように静かな日差しが頬をかすめたような穏やかな空気が場を満たす。
「お待たせしました、閣下。ご報告の続きをさせていただきます」
 フォレイアはぎこちなく首を巡らせ、戸口に立つジャムシードを振り返った。
 どんな顔をして相手を見たのだろう。ジャムシードの視線と自分のものが絡まり、彼の表情に気遣わしげな色が一瞬過ぎったのを見て、ようやく己の表情がひどく強張り、悪くなっているだろうことに思い至った。
「仕事を中座して申し訳ありません、公女さま。無事に仕事仲間からの依頼を済ませることができました。改めて御礼を……」
 軽く腰を折り、公女に向かって会釈をしたジャムシードが、なんの躊躇いもなく炎姫公の前に進み出る。彼は大公の出現に驚いていないのだろうか。
「官庁での仕事を放棄し、イコン族の子どもと戯れるのがお前の仕事か。滞在許可を捏造している節があるが、イコン族もグルか?」
「いいえ。彼女たちのことは俺も驚きましたが、閣下の意向に背くようなはありません。二人の女はまじない師の代わりに緊急の用で王都に来ております。お疑いなら、彼女たちが持つ水姫公のハスハー地藩通過証をご覧ください」
 炎姫公の瞳が細められた。表情を殺した大公の内心を読むことは不可能である。が、フォレイアは大公の片方の口角がゆっくりと持ち上がるのを見た。
 父が面白がっている。何を感じたか知らないが、ジャムシードの態度の何かが炎姫公の心の琴線に触れたことは確かだ。
「そもそも、お前は急な仕事になぜイコン族の子どもを連れていった? 大通りを子ども二人を連れてトロトロと歩いている姿を見たときは呆れたぞ。仕事をいい加減にこなしているのではないのか」
「大元からお話をさせていただきます。せっかく厨房の者が淹れた香茶が冷めますよ。どうぞ腰を下ろしてください」
 この場にいる者全員が立ったままである。そんな険しい雰囲気に呑まれていたのだと、フォレイアはようやく気づいた。
 炎姫公は平然と肘掛け椅子に腰を落ち着け茶を啜る。それに倣い、公女も長椅子に腰を下ろした。まるで平時の官庁内の雰囲気を取り戻したように見える。
 だが、秘書官用の書記机の前に陣取ったドルスターリは直立不動の姿勢を崩さず、大公の傍らに跪いたジャムシードを無感情な眼で見おろしていた。大公の命令いかんでは、すぐにでも彼を拘束する気であろう。
「事の発端は俺の不始末にあります。砂漠での仕事を終えて帰途に着いたとき、娘とまともに別れを済ませきませんでした。母親が大族長の子息に嫁したこともあり、娘は寂しさのあまりに砂漠を飛び出してきたのです」
 根本的に話には嘘が含まれているではないか。フォレイアはジャムシードを睨みそうになり、慌てて茶器で口許を覆い隠した。
「子どもの発作的な家出を、青の部族長は風習に従って迎えに来たのです」
「迎えにきた割には子どもはのんびりと物見遊山か? しかも女たちのことはまだ説明していないな。緊急の用とはなんだ」
 炎姫公の眼は茶器の中で揺れる香茶の波紋を見つめたままである。しかし耳はしっかりとジャムシードの報告を聞き、その内容を吟味しているはずだ。少しでも綻びを見つければ、そこを突いてくるに違いない。
「これからお話します。今、階下で簡単に聞き取ってきた話ですが。青の部族長が出立した後、青の集落で流行病が発生したとのこと。急なことゆえ薬の在庫が足りず、貴重な材料を仕入れに王都にやってきたそうです」
 炎姫の朱と呼ばれる大公の朱茶けた瞳がジロリと跪く男を睨んだ。
「砂漠のまじない師は男のはず。なぜ女が買い付けになど来るのだ」
「階下にいる者は部族長の妻と妹です。妻女はまじない師の娘であるばかりでなく、その技量を余すことなく受け継いでおります。それから、部族長の妹はその助手として薬草の目利きをするために同行したのです」
 手にした茶器を傍らの卓に置くと、アジル・ハイラーは椅子に深く腰掛け、足を組んだ。さらに肘掛けに片肘を付き、物憂げに背もたれに寄りかかる。
 美丈夫で知られるタシュタン地藩の主の姿は一枚の宗教画のように静謐で重々しい空気を広げた。それはフォレイアが父親の姿に一瞬見惚れるほどに。
「青の部族長ジューザの妹といえば若長クラングに嫁した女だな? ということは、お前が娶るはずだった女で、家出したという娘の母親だ。砂漠を飛び出した幼子とその母親が一緒にいるとなると……こうは考えられないか?」
 跪いたまま顔を上げないジャムシードに公女は気を揉む。ここで失敗したら、イコン族だけでなく彼自身も命取りだ。判っているのだろうか。
「最初に飛び出してきたのが母と娘の二人で、夫となるはずだったお前を頼ってきたのでは? 砂漠から戻ったお前が呼び寄せたのかもしれない」
「父上! それは違います。そんなことは! 初めに王都にやってきたのは、確かに子ども二人でした。それは何人もの人間が眼にしております!」
 長椅子から飛び上がるように腰を浮かせ、フォレイアは思わず叫んでいた。勢い余って手にした茶器から香茶がこぼれる始末である。
「その浮ついた態度はなんだ。上に立つ者が軽薄な真似をすれば下の者がどう思うか判らぬか。まったく無自覚な奴よ」
 忌々しげに叱責した炎姫公の眼差しは冷え、声は鞭のように鋭かった。萎れた花のように俯き、公女が長椅子に沈む。香茶を飲む気も失せてしまった。
「お疑いならそれぞれが持つ滞在許可証と通行証をご確認ください。それでも納得いただけないのでしたら、黒耀樹公、水姫公のお二方にも確認を」
 大公が小さく鼻を鳴らすのをフォレイアは聞き取った。内心で面白くないと思っているのだろうか。それとも納得した印なのか。
 のろのろと顔を上げた彼女の目の前に父の横顔があった。炎姫公の視線の先には跪いたままのジャムシードの姿も。大公の口角が再び持ち上がったのを眼にし、公女は言いようのない焦燥感に包まれた。
「なぜ娘を手元に留め置いた? 迎えの者に引き渡すのが筋だろう。お前はすでに父親としての資格を失っている。砂漠での取り決めでそうあっただろうが」
「二親から愛されぬ子の気持ちほどつらいものはありません。母親に甘えられぬ娘に僅かばかりの猶予すらいただけないのですか? せめて数日だけでも父親と過ごした想い出があっても良いではありませんか」
 ようやくジャムシードが顔を上げる。真っ直ぐに炎姫公を見る視線に迷いはなかった。フォレイアは内心に渦巻く苛立ちに胸元を握りしめる。何がこんなに苦しいのか判らなかった。自分は何に焦り、怒りを感じているのだろう。
「一人前に親子の情を訴えるか。まだ僧籍を抜いておらぬ身で大それたことよ」
「あの子は俺が十六の年に産まれた子です。当時の俺は僧侶ではありません。それに、この身が聖界の片隅にあろうと父親の情まで捨ててはおりません」
「お前が持つ戸籍には婚姻の事実はない。女が勝手に産み落とした子であろうが。お前に父親の自覚があるのか? どう見ても、あの子どもはお前に似てはおらんぞ。女がそう主張しているだけの子を……」
 ザワリとジャムシードの周囲の空気が逆立った。黒炭の瞳に込められた熱は刺すように鋭く、いま彼に触れれば全身が黒焦げになりそうである。殺気立つ相手の雰囲気に鷹眼と称えられる豪腕の炎姫公も押し黙った。
「似ていないから父親ではないと仰いますか。あの子は俺を父と呼び、この街まで子どもだけで旅してくるほど慕っているのです。娘に対しての誹りや中傷、大公閣下の言葉とはいえ聞き捨てなりません」
 フォレイアは膝上の茶器が小さく震えていることに気づいた。カチカチというその音を聞くまで己の身体が震えていようとは考えもしなかった。
 ジャムシードの怒りが怖いのか? いや、そればかりではない気がする。
「砂漠ならともかく、この地で私生児の扱いは軽い。それはお前もよく知っていよう。ここにあの娘を留め置くこと自体が非常識だと思わぬか。お前は父親と慕われ、それに酔っているだけだ」
 自身の態度や感情を否定され、ジャムシードの目つきが険しくなった。だが彼は反論を口にせず、まだ言葉を続けそうな大公の出方を伺っている。
「早急に娘を砂漠に帰せ。お前ひとりのために官庁内が弛んでおる。このような事態は由々しきことだ。庁の監督者にも問題があったようだが……」
「公女さまは関係ありません。すでに先日、娘を早く帰すよう忠告を受けました。この事態は俺ひとりが招いたことです」
 違う。それは違う。だがフォレイアが止める暇もなく大公は断を下した。
「では罰を与えねばなるまい。風紀の乱れは根幹を揺るがす。とはいえ、藩校開設の功労者を処断すれば周囲が動揺しよう。近日中に娘を砂漠に帰すなら今回のことは不問とする。……但し、こちらからも条件があるがな」