その扉が開かれ、室内に足を踏み込んだ瞬間に、ジャムシードは絶句して立ち尽くした。楼主の肩越しに見えた光景は想像もしていないものだった。
複数の視線にさらされて居心地悪い気分を味わったことなら何度もある。つい先ほども女たちの視線が矢のように突き刺さっていた。あれは少しだけ毒を含んだ視線。だが、ここで体感した居心地の悪さに勝る経験はなかった。
先ほどの視線は細工師として仕事をしていれば当たり前のように遭遇する種類のものである。それは仕事上の慣れで気に留めるほどのものではなかった。
ところが今目の前に広がるものはそうではない。それは客として花館に上がると眼にする光景によく似ていた。なぜジュペやガイアシュの姿がないのか。
「おや? 皆どうしてここにいるのだね? お前たちは休んでいる時間だろう」
「あらぁ、お館さまぁ。お客人を放っておくものではないでしょ。だから手の空いている皆でおもてなしをしていたところよ」
こちらを値踏みする女たちの視線がまとわりついて鬱陶しかった。意味深にクスクスと忍び笑いを漏らす赤い口唇や誘うように流れる視線の動きは、どうみても客の気を引くときに娼館の女たちが行う仕草のそれである。
「そうだったか。気を利かせてくれてありがとう。でもそろそろ部屋に引き取りなさい。少しでも休んでおかないと今夜の仕事に差し障るからね」
ジャムシードが愕然と立ち尽くしている斜め前で、楼主は平然とした口調で部屋に溢れる女たちに声を掛けていた。口振りから彼も娼婦たちがここに詰めかけていることを知らなかったことが伺える。
「そちらの人がお客人の待ち人ね。腕のいい飾り細工師ですって?」
「あたしも細工を頼みたいわ。いいでしょ、お館さま」
「ねぇ、得意な細工はなに? 今度、わたしも髪飾りを注文したいわ」
引きつる頬を押さえ、ジャムシードは女たちを見回した。この中にジュペが埋もれているかもしれない。しかし、なぜか幼い姿は視界に入らなかった。
どこにいるのだろう。早くジュペを見つけ、何があったのか問い質さなくてはならないのに。きっと恐ろしい目に遭ったに違いない。少女には刺激が強すぎる女たちの仕草をこれほど鬱陶しいと思ったことはなかった。
「あらまぁ、この人。見かけよりずっと逞しい体つきをしてるわ」
まとわりつく女の手が無遠慮に腕や胸元を撫でる。ジャムシードは振り払いたい苛立ちを抑えつけ、仕事のときに貼りつける作り物の微笑みを浮かべた。
「姐さん方、飾り細工の注文ならまた後日にでも頼むよ。今日は手が放せない用事が詰まってるんでね。ここには俺を待っている客人と連れがいると聞いてきたんだけど。その御仁たちはどこにおいでか知らないかい?」
「まぁ、あたしたちの注文は後回し? この街の女を差し置いて、いったいどこの娘の飾り細工を作ろうっていうの」
サッサとかわしてしまおうとするジャムシードの思惑が判るのだろう。女たちはこぞって、細工の注文をさせろ、でなければ遊んでいけ、と迫ってきた。
「生憎だが、姐さん方。俺のは野暮用ってわけじゃないんだ。そろそろ仕事に戻らないと、気難しいお役人方を怒らせちまうんでね」
身体を撫で回す手をやんわりと振り解き、ジャムシードは女たちの抵抗がもっとも厚い方向へと足を踏み出した。直感で、そちらの方向に何かあると読んだのである。そして、その読みは間違ってはいなかった。
「ジュペ? お前、その格好は……」
華やかなドレスの壁を掻き分けた先に、少女はちんまりと座っていた。滑らかな黒髪にはリボンが編み込まれ、頬には周囲の女たちのように白粉が塗りたくられている。うっすらと口紅まで差され、まるで小さな娼婦だ。
女たちが面白半分に飾ったのだろう。しかしジャムシードにとっては、それは度が過ぎたことだった。盛大に顔をしかめ、娘に足早に近寄る。
「なんてことをしてくれたんだ。サッサと髪を下ろし、化粧も落としてくれ」
女たちはクスクスと忍び笑いを漏らすだけ。いっこうにこちらの言葉に従う様子はなかった。むしろ怒るジャムシードを面白がるばかりである。
ジャムシードが険しい表情で女たちを睨んだ。と、そのときである。
クッションに埋もれるようにして座っていたジュペがしくしくと泣き出した。
「ジュペ? ジュペ、どうしたんだ? 何か厭なことをされたのか?」
レースとリボンで飾りたてられたジュペを抱き上げるが、少女はレースの袖に顔を埋めて泣きじゃくるばかりである。
「まぁ、怖いお父さんだこと。朴念仁もいいところだわ」
「せっかく可愛く着飾ったのに。一言も褒めてあげないなんて」
「こんなにきれいに仕上がったのにねぇ。何が気に入らないんだか」
女たちは口々に囃し立て、ジャムシードの鈍感さを詰った。もっとも、彼女らの表情は多分にからかいの色を強く見せていたが。
「ジュペ? お前、きれいに着飾りたかったのか? そんなことしなくたって、お前は充分に可愛いじゃないか」
「おと……お父さん、が。褒めてくれるって。だから、だからっ!」
キッとジャムシードは周囲の女たちを睨んだ。冗談じゃない。子どもを口車に乗せて何をする気だったのか。悪ふざけにしても質が悪すぎる。
「やだぁ。本気で怒ってるぅ。向こうの辻に子どもを放り出してきたくせにぃ」
わんわんと大声で泣き始めた少女は父親にしがみつき、そのせいでジャムシードの上着はぐっしょりと濡れてきた。落ち着かせようときつく抱きしめてやれば、彼女はいっそう強くしがみついて嗚咽を漏らす。
「俺の不注意を責めるなら俺自身に言え。子どもを騙すような真似をして悪さをするんじゃない! この子はあんたたちのようにスレてないんだ!」
ジュペたちを露天店の路地に置いてきてしまったのは確かに間違いだった。しかし、それを楯にして悪ふざけの言い訳にされてはたまらない。
怒鳴り声を聞き、女たちは悲鳴を上げた。が、それすらも面白がってふざけているようにしか見えない。ジャムシードは怒りに眦をつり上げた。
「楼主! ここの女たちはいったいどういう教育をしているんだ。相手の無知につけ込んでのだまし討ちが当たり前なのか!? だとしたら、俺はこれ以後のどんな仕事でも、この館の仕事だけは受けかねる!」
それまで沈黙を守り、成り行きを見守っていた楼主が小さく首を振りながら深い溜め息を漏らす。彼も女たちの行状に呆れ果てているのが判った。が、だからといってジャムシードの態度が軟化するわけではない。
「申し訳ない。このような不作法を働くとは――」
「ねぇ、その怒りは本物? 本当の本当に、本気で怒ってる?」
楼主の謝罪を遮り、ひとりの女が前に進み出た。上目遣いでなよやかな仕草は、一見すると媚びているように見える。だが、その実、目の前の人物を値踏みしてやろうと全身を舐めるように眺め回していた。
「お前たち、いい加減にしなさい。それ以上悪さをするなら罰を与えるぞ」
楼主の声にも苦いものが混じる。さすがに、こんな事態は普段ならあり得ないことなのだろうと、怒りで熱くなる頭でも理解できた。
「これ以上はないほど腹を立ててるね。あなたが女でなければ殴ってる」
吐き捨てるように返事をする。と、女の表情が見る間に綻んでいった。
こちらは怒りをぶつけたのに、なぜ女は笑っているのだろう。ジャムシードは理解できない相手の表情に面食らい、助けを求めて楼主へと視線を彷徨わせた。彼が戸惑っている間にも女は仲間たちを振り返って肩をすくめている。
「合格ですわ。どうやら賭けはあたくしたちの負けですわね」
何を賭けて勝負をしていたのか判らぬが、己が賭の対象にされていた不快感にジャムシードは眉間に皺を深く刻んだ。
次の瞬間、集まる女たちがさざ波のように動く。集団の中から覆布をまとう一人の女を吐き出した。新たに出現した人物はジャムシードの間近まで歩み寄る。そして、ゆったりと上半身を覆い隠す薄布を取り去った。
シミ一つない白磁の顔が現れる。その顔にジャムシードは驚き、一瞬呼吸を忘れた。彼は穴が空くほど相手の顔を凝視する。いや目を反らせなかった。
「アル、ティーエ、殿下? いや……いや、違う。まさか。ヤ、ヤウン殿下?」
「当たり。やっぱりね。君なら僕とアルティーエを見分けると思ったよ」
王太子がしゃくり上げるジュペに腕を差し伸べ、華やかに微笑みかける。
「ジュペ。すまないことをしたね。もう悪巧みは終わりだから機嫌を直してやってくれないかな。君の父親を悪く言う者はもういないよ」
当たり前の状況なら乙女も恥じらう魅惑的な微笑だが、今のジャムシードは混乱の極みにあり、王子の笑顔に魅入られている場合ではなかった。
「なん、ですか、そのお姿は。いったい、ここで何をしているんです!」
一見すると美少女にしか見えない王太子は、問い質されても可愛らしく首を傾げるばかり。さらに彼はジャムシードを制し、楼主を振り返った。
「娘たちに案内を頼んだばかりに騒ぎになってしまったね。悪かった。だが、彼女たちを叱らないでやってくれ。これは行き違いがあっただけのことだから」
「悪ふざけがすぎますな、殿下。ですが、その格好から察するに、よほどのことがあって隠密行動に出られている様子。今回は娘たちがそちらのお嬢さまに失礼を働いたようですし、そちら様のお顔も立てねばなりますまい。館の主の私の意向ではなく、お嬢さまのお心次第とさせていただきましょう」
サルシャ・ヤウンは楼主の言に苦笑いを口の端に浮かべる。が、すぐに気を取り直したように真面目な表情を作り、チラリとジャムシードを見上げた後、鼻水をすすり上げるジュペの顔を覗き込んだ。
「ジュペ。娘たちと僕は君に罰を与えられるそうだ。気が済むようにしなさい」
眼許を真っ赤に腫らしてはいるが、ようやくジュペは落ち着き始めていた。
だが王子の言葉に口ごもり、父親と王子、そしてこちらを伺う女たちをグルグルと見比べるばかりである。とうとう最後にはジャムシードの首にしがみつき、彼女は顔を上げなくなってしまった。
「困ったねぇ。罰を与える者からの指示がないと、彼女と僕がやったことへのけじめがつかないんだけど。……ジャムシード。君が代わりにやるかい?」
ジュペが罰を与えられないのであれば、その父親が代理をするしかない。王子はそれで帳尻を合わせたいのだろうが、ジャムシードは首を横に振った。
「ジュペが罰を与えないのならそれまでです。沈黙もまた罰のひとつですよ。それより、いい加減にこの子の格好を元に戻してもらえませんか? こんな格好では仕事場に連れて戻れませんからね」
小さく不満げに唸り、ヤウンが首を傾げる。しかし、結局は背後に集う女たちに声をかけ、少女の衣装を脱がせにかかった。
「殿下はドレスを脱がないのですか? なぜお一人でこの館に? 露天店の路地で二人に逢ったのならガイアシュはどこにいるのです」
わらわらと駆け寄ってきた女たちにジュペを預け、ジャムシードは王太子に向き直る。ところが、またしても片手で制せられ、沈黙を余儀なくされた。
「この後また客人が来る予定だから到着したら別室に案内して欲しい。間違っても女を近づけないように。……あぁ、危険な人物というわけではないよ」
辛抱強く待ちかまえていた楼主を手招きして指示を出す王子の横顔は余裕綽々としている。今まで蚊帳の外の扱いを受けていた楼主も平然としたものだった。イライラしながら待っているのはジャムシードだけである。
視界の隅では女たちが我先にとジュペに群がり、瞬く間に化粧を落とし、元の衣装に着替えさせていた。それすら楽しんでおり、彼女たちは少女に謝罪の言葉をかけながらも終始ケラケラと笑っている。
反省、などという単語とは無縁としか思えないあっけらかんとした空気だ。
王子の指示を実行すべく先に部屋を出ていった楼主に続いて、女たちもジュペの支度を終えると、王子に挨拶して出ていってしまった。今度こそまともに話をしてもらえるだろう。そう勢い込んで、ジャムシードは王子を睨んだ。
だがしかし、王太子は三度制すると、控えの間に通じる扉に声をかける。ジャムシードの苛立ちは頂点に達しようとしていた。
「いい加減にしてください! 先ほどから俺の質問には何も答えていただけませんが、質問してはいけないようなことをなさっているんですか!?」
今し方のジュペの件がまだジャムシードの中では尾を引いている。いつものように、仕方がない、と引き下がれる気分ではなかった。これでも最大限怒りを抑えているつもりである。野放しにしたら暴れ出しそうなほどなのだ。
「今から話をするよ。でも、僕ひとりから聞くよりも他の者からも聞きたいだろうと思ってね。それと、路地でジュペたちを見つけて保護したのは僕じゃない。だから、そのことも含めて彼らを呼び寄せているんだよ」
王太子は、父親の腰に腕を回してベッタリとしがみついている少女に微笑みかける。相手の怒りにもまるで動じない態度は、さすが次期国王と賞賛しても良かろうが、ジャムシードの苛立ちの緩和にはあまり役立たなかった。
「皆、もうジャムシードを悪くは言わなかっただろう? 賭けは君の勝ちだよ、ジュペ。だから賭けの報償の代わりに悪い大人に罰を与えるといい。少なくとも僕は、君に償いをするつもりだからね」
ジャムシードは背中に隠れようとする少女を見おろし、次いでヤウンを見遣る。賭けは女たちと王子の間ではなく、ジュペとの間のことだったのだ。
「どうして? なぜ俺を賭けの対象に、ジュペと女たちが……」
「お前が色街近辺の路地に娘を平気で放り出してくるような、いい加減な愛情しか示さない父親だと思われていたってことだ」
控えの間から姿を現したのはソージンと見知らぬ男二人だった。男たちの地味な袖無し上着は武官のものに酷似している。ということは僧院か神殿の兵に違いない。
「ソージン。あんたがジュペたちを助けてくれたのか。礼を言わないとならないな。……あれ? ガイアシュはどこに。ジュペと一緒にいたはずだぞ」
「あいつなら隣の部屋でへばってる。脂粉の匂いに酔ったようだな」
肩をすくめるソージンの傍らでは男二人が微妙な顔つきであらぬ方向を眺めていた。いや、一人は視点が定まっていない。その眼の動きに見覚えがあった。あれは亡き義妹アデレートと同じ。つまり彼は眼が見えぬのだ。
「ガイアシュを怒らないで。わたしから離れたのは気分が悪くなって……」
ジャムシードはジュペの頬をそっと掌で包み込む。きれいに化粧を落としてはいたが、まだ白粉の匂いが完全にはとれていなかった。
「判ってるよ、ジュペ。ここの女たちの化粧は濃いからな。砂漠の民には匂いがきつすぎるだろう。特にガイアシュは慣れていないだろうし。お前は気分を悪くしていないか? 白粉も紅も初めてだったろう?」
だが、心配するジャムシードの予想を大きく外れ、ジュペは後ろめたそうに上目遣いでジリジリと背中側へと回り込んでいく。
「あのね。あの……。お母さんのね、いつも使っていた道具をこっそり使ったことがあるの。あの、だから、その……。ごめんなさい。ごめんなさい」
気まずさに俯く少女の髪を撫でながら、ジャムシードは途方に暮れた。どう言えば彼女が傷つかずに済むのか判らない。母親の化粧道具を勝手に使ったことは良くないだろう。が、それをジャムシードが咎めていいものかどうか。
困惑しきりなジャムシードの傍らに、飄々とした足取りでヤウンが近づいた。無邪気な幼子のように無遠慮にジュペに腕を伸ばす。止める暇もなく、王子は俯いた彼女の顎を易々と持ち上げ、ニッコリと微笑んだ。
「君くらいの年齢の女の子ならよくやることさ。アルティーエも隠れてやっていたよ。気に病むことはない。お化粧は楽しかったでしょう?」
ヤウンとまともに視線を合わせたジュペは眼を丸々と見開き、顔を赤くしたが、王子の問いかけにいっそう頬を赤らめた。それが彼女の答えなのだろう。
ジャムシードはホッとしたような、先を越されたような、複雑な気分になり、なんとも言えない表情で二人の様子を伺った。
「王宮に帰ったら、君が使えるような化粧道具を作らせて届けさせるよ。それを今回のお詫びの品にしたいと思うんだけど、それでいいかな?」
ジュペはこぼれそうなほど大きく目を見開き、口をパクつかせる。熟したリンゴよりも赤くなった頬が、いつの間にか王子の白い手に包まれていた。申し出に唖然としていたジャムシードは我に返り、慌てて少女を引き寄せる。
「何を言い出すんですか。化粧道具なんてとんでもない。ジュペにはまだ早すぎます! 第一、砂漠では身の回りの品を男から贈られて受け取ったら……」
「そうか、砂漠では妻になる女性に日常で使う品を贈るのが習わしだったね」
優雅に首を傾げ、ジュペを伺うように流し見たヤウンが、それはそれは華やかな微笑みを浮かべ、少女の目の前に身を屈めた。
「だったら、なおさら僕のところへおいで。砂漠に帰らなくてもよくなるし、化粧道具だろうがドレスだろうが、なんでも気に入ったものを作ってあげるよ」
その瞬間、ジャムシードは口から魂が抜けそうな脱力感に襲われた。
「殿下! 冗談はやめてください。いくらなんでもジュペの歳で王宮に上がるなんてことを、イコン族が許すと思っているんですか!」
屈めていた腰を伸ばし、ヤウンが片眉をつり上げながら肩をすくめる。
「そうかな? 僕としては名案だと思ったんだけど。ジュペは砂漠に戻りたくないようだし、得体の知れない者たちからも守られる。そう思わないかい?」
ギクリと身体が強張る。ジャムシードはそれを隠そうとしたが、目の前でうっすらと眼を細めている王子の表情から、それが失敗に終わったことを察した。ジュペたちがここにいるという時点で予測すべきだったろう。
「どう? ジュペは僕のところに来るかい? 僕なら君を守ってあげられるよ」
呆気に取られてヤウンと父親のやり取りを見上げていた少女が、王子の呼びかけに小さく飛び上がる。二人を交互に見比べ、ジャムシードの苦々しい表情を眼にすると、彼女は慌ててその背中に隠れた。
「ごめんなさい、殿下。お父さんといます。お父さんと一緒がいいです」
再び泣き出しそうなその顔に、今度は王太子のほうが戸惑う。だが、すぐにいつもの華やいだ表情に戻ると、冗談めかした口調で肩をすくめた。
「残念。振られちゃったよ。ジャムシードの父親の威厳には及ばないらしいや。でも、ジュペ。君へのお詫びの品は受け取って欲しいな。それを受け取ったからって王宮に来いとは言わないから」
ジュペが王子の申し出に眼を瞬かせる。しかし、すぐに父親の背にしがみつき、小さく首を振った。まだ十に満たない少女に迫る決断にしては荷が重い。
「子どもを苛めるものではないな、ヤウン。どうしても詫びたいというのなら、砂漠の流儀に従ってやることだ。そのほうが娘も気楽だろうが」
それまでのやり取りを黙って見守っていたソージンが口を挟んだ。横目で彼を見遣り、ヤウンは小さく舌を出しながら苦笑を漏らす。
「判ったよ。そうしよう。それじゃ、砂漠の流儀をジャムシードに教えてもらおうかな。……ジュペ、しばらくジャムシードを借りるよ。仕事の話もあるし、君のことも話し合わなければならないからね」
父親の横顔を伺い、納得したらしい少女は、それでようやく頷いたのだった。
「ジュペ。ガイアシュの具合を見てやりなさい。俺は殿下と話をするから」
ジャムシードは覚悟を決め、控えの間へと少女の背を押した。
パタパタと駆けていくジュペの背を見守る。そうしている間に、ソージンの気配を傍らに感じた。無表情な彼からは内心を読めない。だが肌の表面をなぶっていく空気がいつもよりピリピリしていた。
「ありがとう、ソージン。あんたが子どもたちを保護してくれて助かった」
礼を言っても、相手は小さく唸るだけで了解したのかどうか判らない。どことなくソージンの不機嫌を感じ取り、ジャムシードは怯んだ。そんな彼の戸惑いを読み取ったかのように、背後からヤウンの声がかかる。
「ジャムシード。君もガイアシュの具合を確認したらいいよ。あぁ、ソージンは二人を保護したときの状況を簡単に説明してあげて。さっきからずっと気にしているようだからね。その間に僕たちはここを居心地よく整えておくよ。……オルドク、ヴィドク。手伝ってくれるよね?」
呼び寄せられた男たちが王子に歩み寄る姿を横目で見送り、ジャムシードは顎をしゃくってソージンを誘う。王太子との話し合いの前に、子どもたちが襲われたときの状況が聞けるのはありがたかった。
先に立って歩くソージンが扉の前に立ったとき、刺すような空気が大きく膨らむ。驚いたジャムシードが身構えた瞬間、白い肘が鳩尾に鋭く打ち込まれた。
目の前に火花が飛び散る。激痛に息を吐くことも吸うこともできなかった。膝をつかずに済んだのは、異常を察して咄嗟に重心を反らしたことと、肘を打ち込んだ直後に腰を支えたソージンの腕があったからである。
背後からヤウンが男たちに指示を出す声が聞こえてきた。彼らはこの状況に気づいていない。それほど巧みに、ソージンはこちらの身体を支えていた。
「ジュペを襲った男たちは東方人だ。しかも、おれのよく知る体術を使う部族。つまり、おれの仇の下で働く奴らだった。あいつらとお前がどういう関係か、後からじっくり話を聞かせてもらうぞ。……しらばっくれても無駄だからな」
襲撃者は予想通りの東方人だったか。しかし、ソージンの仇だとか、どの部族なのか、知るはずがない。どういう関係かなどこちらが聞きたいくらいだ。
だが、言い訳をしようにも声が出ない。ようやく息を継げるようになったが、反論を理路整然と吐き出せるほど回復していなかった。
引きずられるように扉をくぐりながら、ジャムシードは顎の下にあるソージンの黒い瞳に無言で訴える。がしかし、相手からは冷え冷えとした視線が返され、こちらの言い分に耳を傾ける気がないことを悟らざるを得なかった。
前へ 次へ もくじ