手の中の羊皮紙をまじまじと見つめ、男は怒りのあまりに歯軋りを起こした。
「なんたることだ。娘がよりによって王城にいるだと? ポラスニアでもっとも手を出しづらい場所ではないか。えぇい、いったいどうして……」
小刻みに震える身体を抑えることは不可能である。赤黒く染まった顔は魔物のように猛々しかった。目の前で畏まる従僕は首をすくめ、主人の激怒の雷が己の上に落ちてこないことをひたすら祈った。
「青水晶と引き合うと思えばこそ、娘の先行きを案じてはいても手出しはせぬままでおったものを。探し出してみればこの始末! なんたることだ!」
なぜ、どうして、と繰り返す男の身体は激情で膨れ上がり、普段ですら肥満のため大きくせり出した腹は、敵を威嚇するウシガエルのようである。
「連れ戻すのだ! なんとしても。王宮に間者を放て! すでに王都には潜り込んでおろう。なんとしても、ポラスニアの王宮から連れ戻すのだ!」
飛び上がった従僕の態度すら苛立ちの対象だ。しかし、男が手近な小物を投げつけるよりも早く、従僕は部屋から逃げ出していた。
「どいつもこいつも! なぜだ。どうして娘は逃げもせず、青水晶を探しもせず、敵国の真っ直中に向かおうとしておる。もしや、青水晶はポラスニアの王家が保管しておるのか? いや、そんな噂はついぞ聞かぬわ」
興奮しすぎて息が切れる。美食がたたっての肥満体には過度な激情は負担でしかないのだが、それすら頭に血が上って忘れ果てていた。
「ポラスニアの王家……いや、王族の誰かが青水晶を持っているのかもしれない。いいや、持っておらずとも娘を取り戻さねば。王宮に混乱を起こし、その騒ぎの隙をついて……。どんな混乱がよいか。やはり王族の暗殺か。それとも聞くに耐えぬほどの醜聞がよいか……」
ブツブツと独り言を呟き、報告書を繰り返し読みながら、男は握った拳を机の表面に押しつける。勢いよく殴りつけるよりも、拳をジワジワと押しつけていくほうがこみ上げてくる怒りを抑えられたのだ。
従僕が飛び出していった扉は半開きのままである。薄暗い廊下の先からバタバタと駆けてくる足音が聞こえてきた。
「閣下、お嬢様を取り戻す算段をせよと命じられたそうですが……」
「そうだ。娘がポラスニアの王城に入ったらしいと知らせがあった。刺客を放ち、かの国の王族を暗殺せよ。その混乱に乗じて娘を奪還するのだ!」
部下が息を呑む。その様子にいっそう苛立ちが募った。
「何を驚くことがある! あの国には数年前から煮え湯を飲まされてばかりではないか。今度はこちらが国の要人の命綱を握ってやるのだ!」
「は、はい! ご命令通りに。すぐに王宮に潜り込んだ者へ指示を出します」
もっと早くこうしてやれば良かったのだ。数年前の敗戦では賠償金を支払い、数ヶ月前の戦とも呼べぬ戦のことでも揉め続けている相手国である。国力の差がありすぎて今までは我慢してきたが、もうそれも限界だった。
「あれほどの大国だ。要人の誰かが殺されたとて、どの周辺国の手の者に殺されたのか、すぐには判断できまい。その間に娘を取り戻す。そうだとも、もう我慢するものか。今すぐに娘を取り戻すのだ。魔力を補うためと思えばこそ敵国に寄越したものを、奴らに娘を盗られるためではないわ!」
「では閣下、今こそ魔人とやらを使われるのですね? 彼らなら足跡を残さず……」
「そうだとも。王宮に潜入させた者に手引きさせよ。懐深くに入り込んで、奴らの飼い犬に手を噛ませてやろうではないか」
勢い込んで部屋を出ていく部下の背に押し殺された興奮が見える。それは自分の中の怒りがそう見せるのか、それとも部下自身の今までの鬱屈が表に出ようとしているからなのか。いや、そのどちらも、かもしれなかった。
「ポラスニアめ。いつまでも大国の座にあぐらを掻いていられると思うな。いずれは蹴落としてやる。……だが、まずは娘を取り戻さねば。それからだ」
握りしめていた羊皮紙を放り出すと、男は懐から鍵を取り出して引き出しの鍵穴に差し込んだ。乾いた音を立てて鍵が開き、彼は引き出しの奥から目的のものを引っぱり出す。それはいつも秘かに眺めている陶板絵だった。
「娘の力を安定させるには青水晶がいるというのに。もっとも可能性の高かった場所には結界とやらが張ってあって兵を差し向けても破ることは叶わなんだ。どうしたらよいと思う? どこに行けば青水晶が手に入る?」
陶板絵の美女の白頬をそっと撫でながら、男は苦しげに溜め息をつく。
「魔力の強い者は青水晶に惹かれると言うが、あの娘はその本当の価値を知らぬ。きっと体よく利用されているに違いない。青水晶の可能性などまったく知らぬであろう者どもの、下らぬ物欲のために……」
男は狂気じみた眼を語らぬ絵の女に向け、見えぬ敵を呪詛し続けたのだった。
オルトワは閉ざしていた眼を片方だけ開け、膝の上に飛び乗った小さな黒い塊を見おろした。ナォン、と甘え鳴く子猫は遊んで欲しそうに尻尾を立て、キラキラと輝く瞳で女元締めの様子を伺う。
「おチビちゃん、お前さんは本当に邪魔をする天才だねぇ。気が散っておちおち瞑想もしていられないよ。……もう玩具に飽きちまったのかい? だったら、ユーゼをからかって遊んでいたらいいさ」
彼女は手が空かない言い訳に、猫が苦手な男のところへ子猫を追い立てた。
「困ったことだねぇ。どれだけ探ってもヨルッカの気配が希薄だ。生きているにしても、この分だとろくな目に遭ってはいないだろうよ」
しぶしぶ部屋から出ていこうと背を向けた子猫の背に、話しかけるともなしに話をする。愚痴のようなものだった。誰かが返事をしてくれるなどとは露ほども思ってはいない。その程度のものだったのだ。
「随分と手間取っているらしいな……」
かすれた声が耳元で聞こえる。ハッとして振り向けば、陰々と寂しく輝く光の球がオルトワの左の肩先で揺れていた。
「いつの間に……。えらく突飛な登場じゃないか、ファーン」
「記録者オルトワでも油断するか。俺の眷属を寄越してくれたのはいいが、呼ばれてすぐに下天に戻れるだけの力がないのでな。意識だけを切り取って飛ばしている。もう少ししたら本体ごと移動できるだろう」
出ていこうとした子猫が得体の知れない光源に興味を示す。己の獲物にならぬものかと、低く構えた姿勢からゆらゆらとした動きを眼で追っていた。
「早いところ戻ってきとくれよ。竜王人の動きはお前さんじゃないと読み切れないよ。それにこっちも手一杯なんでねぇ」
「俺の眷属をそちらにやる。連絡係として使うがいい。それにしても、オルトワが手間取るとはどんな案件だ? ヨルッカが消えたのか?」
「拉致されたんだけど、どこの誰にさらわれたのかが判らない。あの子は砂漠で何かとんでもないヘマをやらかしたようだし、心配してるところさ」
光の球が沈黙し、何かを思案している様子を見せる。揺れ動いていた光が止まった途端、オルトワの足許から子猫が飛び上がった。前脚の爪で光を引っ掻こうとするのだが、爪は空を切るばかりである。
「おチビちゃん……。本当にお前さんは邪魔をする天才だねぇ」
呆れたように溜め息をつく女元締めの声など耳にもくれず、子猫は静止した光をどうにかして捕まえてやろうと爪を伸ばした。
だがしかし、どれだけ飛びかかったところで望みのものを手に入れることなどできようはずがない。小さな狩猟者はそれが無益な跳躍とも知らず、己の本能に従ってひたすら獲物を狙い続けていた。
「親猫は賢かったが、この子猫は阿呆だな。もう少し知恵をつけさせろ」
「大きなお世話だよ、ファーン。お前さんの眷属と一緒にしないどくれ。あれは並の猫の倍以上は生きてる化け猫じゃあないか」
「確かに生きている年数は多いが、あれは子猫の頃から賢い。少なくとも、益もない狩りをするようなことはなかったな」
オルトワは不機嫌そうに唇をねじ曲げ、鼻息も荒くそっぽを向いた。可愛がっている猫を阿呆呼ばわりされては嬉しいはずがない。ふてくされた気分で、相手を無視することに決めた元締めの耳元で溜め息が聞こえた。
「ガキっぽい。飼い猫は飼い主に似るってことだな」
ギヌロ、とオルトワが光の球を睨みつけたとき、部屋の外で声が上がった。不快感は収まらないが、呼び声の調子は深刻で追い返すことは躊躇われる。
「キハルダかい? かまわないから入っといで。どうせ誰もいないよ」
ファーンの存在は公私ともに無視することに決め、オルトワは足許で飛び跳ねている子猫を拾い上げた。彼女が上着に縫いつけた玉飾りをちらつかせ、子猫の関心を惹きつけていると、青ざめたキハルダが近づいてくる。
「オルトワ姐さん。ヨルッカが……。あの子の居場所が判ったよ」
猫を見おろしていた視線を上げ、女元締めは眼をすがめた。
「どうやら芳しくない場所にいるようだね。遠慮せずに言ってごらん。お前さんをそんなに落ち込ませるたぁ、よっぽどのことなんだろう?」
膝から力が抜けたように目の前で座り込むと、キハルダは途方に暮れた眼をしてオルトワとその腕に抱かれている子猫を見上げてくる。
「連れていかれた。連れていかれちまったンだよ、あの子。水姫家縁の神殿に閉じこめられていたんだ。そこから連れ出されて、今度は黒耀樹家の……」
オルトワは目を剥き、きつく歯を食いしばった。キハルダは動揺が激しいようで、説明する言葉は支離滅裂気味である。しかし彼女が言いたかったことは、しっかりと女元締めに伝わっていた。
「ラシュ・ナムルめ。権勢が衰えぬよう手駒を贈ったに、よくもやってくれた」
姐さん、と呼びかけられ、オルトワは我に返った。
「水姫公がこちらの仁義を無視してくれたのはよく判ったよ。それで、ヨルッカは黒耀樹家の手に落ちたのかい?」
「まだ公子と逢ってはいないよ。配下の者が連行するために神殿で監禁してる」
「聖界を利用されたんじゃあ遊民といえども迂闊には手が出せないねぇ。腐れ神官や破戒僧ならなんとかなろうが、監禁してるような場所の聖職者となれば大公家直参の者が多かろうよ。どうやって救出したもんかね」
腕に抱いた子猫の狭い額を指先でグリグリと撫で回し、オルトワは眉間に深い皺を寄せる。まるで身体の痛みに耐えているようだった。
「姐さん、無茶だよ。末端の神殿や僧院なら遊民の付け入る隙もあるだろうけど、よりによって大公家直下の神殿に閉じこめられてるんだ。どうやっても助け出せやしないよ。水姫家の神殿から連れ出されたからヨルッカを見つけられただけで、そうでなけりゃ今でも行方知れずのままだったんだから」
「だからと言って捨て置けないだろう。……おや? また誰か来たね」
忙しない足取りで部屋に近づく複数の足音が聞こえる。その持ち主たちは、元締めの許可を得ることもなく部屋に乱入してきた。
「オルトワの姐御。ヨルッカの奴が黒耀樹家の公子の手に……おっ! キハルダじゃねぇか。お前、ちょうどいいところに。お前ンところのヨルッカが……」
「黒耀樹家の神殿に監禁されてるってンだろ。お前さんの情報は一足遅いんだよ、ユーゼ。いい歳して、少しは落ち着いたらどうだい」
「るせぇ。早く知らせようと飛んできたんだ。……あ、そうそ。その知らせを持ってきたのが黒耀樹家当主直々だってンで、一緒に連れてきたんだった」
ユーゼの背後から出てきたのは、引きずり回されて辟易している金褐色の髪を持つ男だった。暗緑色の瞳は不機嫌そうに見える。が、それは表面的なことだけで、実際のところは瞳に浮かぶ不安を隠そうと必死なだけだった。
「おやまぁ、随分と久しぶりじゃないか、ウラッツェ。いや、今はナスラ・ギュワメ様か。大公様御自らお出ましとはもったいないこと。ここは卑賤の遊民らしく上座をお譲りしたほうがいいかい?」
「嫌味は勘弁してくれ、姐御。それよりオレにもヨルッカの情報をくれないか」
キハルダがピリピリした視線を男たちに向け、元締めが苦笑いを浮かべた。
「少し落ち着きな、キハルダ。……さてさて、黒耀樹公直々のお願いだがね。情報には金がかかる。ヨルッカのお代はいかほどいただけるので?」
子猫は飼い主の腕を降り、部屋の隅に置かれた自分の寝床へと歩いていく。それを眼で追いながら女の横顔は損得勘定を始めた計算高さが伺えた。
「ゲェッ! 姐御、こいつから金取るのか? そりゃあ、あんまりじゃねぇかよ。こいつの母親はあのエイリアだぞ。フィオナの幼なじみの息子からむしり取るたぁ、遊民の仁義はどこいっちまったんだよ」
「お黙り。その男はもうエイリアの息子じゃないんだよ。今となっては、立派なクラウダ・ヌーンの息子さ。昔のよしみで気ままな出入りを許しちゃいるが、都合良く利用されるだけってのはごめんだね」
お前さんもそこンとこ理解してからものを頼みな、とウラッツェに向けてぞんざいに言い放ち、オルトワは小さくあくびをする。
「あんたがヨルッカを影になんかするから、あの子はとんでもない目に遭わなきゃならなくなったんじゃないか。どうせ今回のことにはあんたも一枚噛んでるんだろ。こちらの様子伺いになんか来るんじゃないよ!」
「落ち着けと言ってるじゃないか、キハルダ。この坊ちゃんは何にも知りゃしないさ。つんけんと当たり散らしたところで無駄骨だよ」
ウラッツェに食ってかかるキハルダをなだめ、元締めは突っ立ったままの男二人を見上げた。座る許可を与えていないのだから当然だが、図体のでかい者が立っているのは威圧感があっていただけない。
顎をしゃくって場を指し示すと、男たちはホッとした様子で腰を下ろした。
「金はそちらの言い値を払う。他にも便宜を図れることがあれば……」
「交渉が下手になったもんだねぇ、ウラッツェ。最初から相手の土俵に上がってどうすンだい。も少しおつむを使わなくちゃ大公なんてやってられないよ」
あぁ、ばかばかしい。と吐き捨てて、オルトワはひらひらと手を振った。
「あの子はお前さんの実家の者が気安く出入りできる神殿地下牢に捕らえられてるよ。助け出す気ならサッサと動くんだね。こちらはアルド公国に早馬を出すから、国境を越えるときに便宜を図りな。それから、今回のヨルッカの件はお前さんに任せよう。ヘマをしたのはあの子のほうだ。けじめをつけるんだね」
「姐さん! こいつに丸投げするなんてひどいよ!」
目を丸くするウラッツェとは反対に、キハルダは目尻をつり上げて怒鳴った。
「黙ンな、キハルダ! 我々ではヨルッカを救い出せないことは明白だろう。それに事と次第によっちゃあ、助けたところで救えやしないんだよ。判ってンだろうね? あの子が下手を打った内容が真実なら……」
ギロリとキハルダを睨んだオルトワの視線は猛々しいばかりである。だが凄まじい形相とはうらはらに、その声音はひどく沈痛な色を帯びていた。何かを察したのだろう。キハルダが唇を噛みしめ、俯いた。
「姐御、あいつはいったい何をやらかしたんだ? 貴族連中の間ではオレが巡検使だったことをバラしたとしか伝わってない。そんな程度で……」
「お前さんの正体を砂漠の民に明かしちまったことは確かさ。それだけでも問題は大きかろうに。お前さんも暢気だねぇ」
女元締めは脇に置いたクッションに寄りかかり、口許をへの字に曲げる。だが、すぐに口を開くと、話の続きを始めた。
「正体をバラしたのが不可抗力なら少しは救われる。だがね、あの子はわざとやっちまったんだよ。今まではキハルダの報告を聞いてはいても半信半疑だったが、水姫公に捕らえられたとなれば事は大きくなる一方だろうよ」
「おい、本当かよ、キハルダ。そんな話は今初めて聞いたぜ?」
今まで黙っていたユーゼが俯いている女を見遣る。呼ばれてノロノロと首を上げたキハルダは恨みがましくオルトワを見上げた後、相手に視線を巡らせた。
「ヨルッカがイコン族のクラングに情報を売り渡したんだよ。あの子の言葉は真実かと問われて、保証すると、遊民は真実の情報を売るから信用されるんだと言ってやったんだ。……だけど、あの子の売り物が何かなんて知らなかった。知っていたら売り渡す前に止めただろうに」
「後の祭りだねぇ。ヨルッカの軽率な売買のお陰で、遊民全体が王族の足を引っ張っていると思われているってわけさ。実際、水姫公のところに怒鳴り込めば、そうねじ伏せられるだけだろうし。あのいけ好かない坊ちゃんは遊民全体が裏切ったなどとは思っていないくせに、揚げ足を取りたいんだろうよ」
話を聞くうちに眉間に皺を寄せ、ウラッツェは小さく呻いた。
「どうりで貴族連中がオレに突っかかってくるはずだ。オレと遊民を同一視して、王族を、ひいては王国を裏切ったと詰っていたわけか。判っちゃいたが、奴らにとってのオレは大公じゃなくって遊民のままなんだな」
「嫡子と庶子の差は大きいのさ。特に貴族の間ではね。本当に忌々しい」
ヨルッカを捕らえた相手が判明し、オルトワにはこの出来事の筋書きが読めたのだろう。ウラッツェへの嫌味は彼女なりの王族の血への八つ当たりか。
「さて、それじゃあ。こっちも動かなきゃね。……ユーゼ。ボゥッとしてないで、アルドに戻ってファルクを呼んできな」
「ウゲッ! なんでまた兄貴を! あそこに戻るのはご免だぜ。鬱陶しいレイゼンと顔を合わせるなんてまっぴらだからな」
「お前さんの都合なんぞ聞いてないよ。覚悟を決めるんだね。さぁ、トットと支度して出立しな。グズグズしていると尻に火をつけてやるよ!」
オルトワの声が厳しさを増す。それを察した子猫が丸まっていた寝床から首をもたげ、何が起ころうとしているのかと興味深げに眺めていた。
「い、や、だ。絶対に行かないからな。あそこに戻るくらいならここで虐げられる毎日を送るほうが数千倍はマシってもんだぜ」
「フィユーゼ・マイダルリーガ。ここで下僕として暮らしたいのかい」
ユーゼが両耳を手で押さえ、苦虫を噛み潰したような表情になる。
「その女みたいな名で呼ぶんじゃねぇ! オレの名はユーゼ。ただのユーゼだ」
「そんなに自分の名が嫌いなら、この名付け親が名を取り上げてやろう。だがね、一度奪われた名を取り戻すことはできないよ。お前さんは名無しとして生きていく自信はあるのかい? えぇ? どうなんだい、フィユーゼ」
「姐さん、いくらなんでも名を奪っちゃまずいよ。ユーゼが厭だって言ってるんだから、他の奴を遣いに出したらいいじゃないか」
キハルダが助け船を出すが、オルトワは首を横に振り、ゆっくりと左腕を持ち上げると、両耳を塞いだままの男に向かって真っ直ぐ伸ばした。
「言霊の王よ、我が声を聞け。授けし名を消し、風泊の輩を生むべし。汝の加護を反れたる者に──……ちょいと、おチビちゃん。邪魔するんじゃないよ」
蒼白な表情のユーゼに視線を集中していた女元締めは、膝の上に飛び乗った子猫に気を逸らされ、詠唱していた呪文を引っ込めた。
「ほんっとうに、お前さんは邪魔をする天才だねぇ。困った子だよ」
オルトワの視線が外れた途端、ユーゼが転がるように部屋を飛び出す。慌てふためく足音が遠ざかるのを確認し、元締めは小さく溜め息をついた。
「子どもの遣いよりも始末が悪いよ。いつまで経っても半人前なんだから」
キハルダとウラッツェは微妙な顔で視線を交わし、二人同時に肩をすくめた。
「さぁさ、動ける者が動くんだよ! ウラッツェ、お前さんにヨルッカのことを任せる以上、きっちりとけじめだけはつけなきゃなんないよ。判ってるね?」
じゃれつく猫を指先でいなしながら、オルトワは下座に座る男を流し見る。何か言い返してくるかと思ったウラッツェは、難しい顔をして元締めの言葉に頷き返してくるだけだった。どうも調子が狂ってしまう。
「それから、キハルダ。お前さんはウラッツェについていきな。こいつがキッチリと仕事をやり遂げるまで、お前さんが監視をするんだからね」
しおれ気味だったキハルダは俄然眼を輝かせ、邪悪ささえ感じさせる笑みを浮かべてウラッツェを横目で睨みつけた。妹分を心配するあまりに暴挙にでなければいいが。キハルダがどう出るか、それもまた神の差配の一つか。
二人それぞれの様子をつぶさに観察し終わると、オルトワは片手を振って二人を部屋から追い出した。こちらにはまだ用事が残っている。
「ユーゼにお灸を据えないのか? あの悪たれぶりではろくな死に方はせんぞ」
「いいんだよ。あの子だったら、いざって時にはまともに動けるさ。少々の駄々をこねる癖さえ直せば、ファルクの片腕として働けるようにもなる」
いつの間にか、また左肩の上辺りに光球が揺らめき始めた。今度は子猫も興味を示さず、オルトワの腕の中で微睡んでいる。
「子猫も学んだ。ユーゼも学ぶか。我々のように成長を止めた者には羨ましいことだな。……なぁ、そう思わないか、記録者」
「ちょいと。間違えないでもらいたいね。オルトワは成長を止めたわけじゃないよ。単に記憶を次世代に引き継いでいくだけさ」
気持ちよさそうにうたた寝する子猫の背を撫でながら、オルトワは三人が座っていた辺りをぼんやりと眺めた。記憶の残滓がそこに漂っている気がする。
「自我と他人の記憶を曖昧にするなよ。記憶を引き継ぐ代償は安くはない」
「心配性だねぇ、ファーンは。ところで、青水晶を異形憑きの坊やにくれてやっただろう。あれ、大丈夫かい。水晶同士が惹き合うはずだけど」
「惹きつけ合うのは事実だ。しかし、そこからどう関わり合うかは個人の問題。きっかけがどうであれ、関係を築く意志は本人次第なのだから」
揺れる光を横目にオルトワは頷いた。確かに人間関係の構築は、多くは本人の意識次第。それでも危惧を抱くのは名付け子が関係している懸案だからか。
互いの近況を報告し合いながら、オルトワは沸き上がる不安を飲み込んだ。
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