混沌と黎明の横顔

第08章:隻眼の神が見つめる 5

 修繕が終わった細工を手に、ジャムシードは案内係の後ろに従う。連れてこられた娼館の簡易工房は予想以上に充実しており、手間取ると思っていた細工物の直しは壊れる前と寸分違わぬ形で復活した。
 ここは軒を連ねる花楼の中でも特別裕福で格高の娼館に違いない。他楼の工房ならもっと難儀をしたはずだ。本業の細工師では今現在半端な身としては、正直言えば羨ましいくらいの設備である。
 もっとも、こういう高級楼には本来ならお抱えの修繕士と呼ばれる者が収まっているはずだ。それがいないということは、ごく最近に解雇されたか、通いでやってくる各職人が本業の片手間に仕事をしていると考えられる。
 工房の規模から察するに、以前は数名の修繕士を置いていたはずだ。それが一人もいないのだから、通い職人に仕事を依託する形態に変更したのだろう。腕の良い修繕士を雇う間がなかったのか、あるいはよほどの理由があるのか。その辺りのことまでは工房を見ただけでは判らないが。
 裏方の者が使う廊下や階段を進みながら、ジャムシードは手に収まる小箱を見おろした。収まっている装飾品は同じ細工師から見ても超一流品で、よほど名のある細工師が作った品に違いない。修理の最中も気が抜けなかった。
 だが久しぶりに細工物を触ってみて思う。自分はこの仕事が好きなのだと。
 偶然、師匠に連れられて覗いた工房で、自分の居場所になりそうなところだという単純な理由で見習いを始めたというのに、今では眼を閉じていても簡単な彫り細工ができるほどの腕になっている。
 人生など何が幸いするか判らないものだ。そう改めて思い至った。
「ジャムシードさん! あぁ、良かった。出来たんですね。早くこちらへ!」
 娼妓がいる部屋で待っていられなかったらしいノティナが、気ぜわしそうにこちらに向かって手招きする。物思いから覚めたジャムシードは彼女を安心させるように頷き、静かに微笑みを浮かべた。
 途端、離れていても娘の頬に朱が差したのが見える。苦笑いが浮かびそうになったが、彼はあえて口許を引き締め、示された部屋へと急いだ。
 細工物を手渡して終わり、というわけにはいかない。実物を直に確認してもらい、相手を納得させてこそ一流の細工師なのだ。
 芸術家肌の細工師は自作品にあれこれ注文をつける客を嫌う者もいる。が、ジャムシードは自分を職人だと認識していた。それも一流の。その程度の自負くらい持ち合わせていなくては細工師など続けていられない。
 髪結いの娘に続いて入室すると、彼はその場の視線を一身に浴びた。その強張った気配に僅かに怯む。こんなに張りつめた空気は久しぶりだった。
「お待たせしました、ディティエ。こちらの品物を確認してください」
 ノティナの呼びかけに反応したのは花飾りを結い髪にふんだんに挿した美女だった。この女が飾り細工の持ち主なのだろう。
 ジャムシードは小箱の蓋を開き、中身が見えるようにディティエの目の前に箱を差し出した。右肩に赤茶色の髪をたっぷりと垂らし、小箱を覗き込んだ女の右前髪が右眼を覆い隠している。少々変わった髪型だった。
 とは言っても、ノティナが結い上げる髪型自体が、普通とは一風変わった代物であることをジャムシードはよく知っている。多くの髪結いは左右対称の結い髪を得意とし、多少左右のバランスを欠いたところで大袈裟にはしないのだ。
 今、ディティエの髪はすべて右側でまとめられ、左側はアッサリとしたものである。逆に右側は花で飾られ、踊るように巻かれた髪がレースの如く女の顔の縁を覆っていた。まるで花籠に顔を埋めているかのようである。
「よぅ出来てるね。殿方との約束の時間に間に合わないかと心配したよ。お前さまは仕事が早い。ノティナが勧めるだけはあったわけだ」
 娼婦にしては上品な外見の女だが口調は荒んだものを感じた。たぶん産まれながらの奴隷ではなく、借金か何かの理由で娼館へ売られてきたのだろう。そういった者には以前の暮らしとの落差に心を壊していく者が多かった。
 腰を下ろした絹張りの椅子からこちらを見上げる瞳は鮮やかな藍色。その眼の奥には虚無が漂っていた。長い間見つめていれば、一緒に堕ちていってしまいそうな深い深い闇がある。そういう瞳を何度も見てきた。
「お前さま、名はなんと言うんだい? せっかく顔見知りになったんだ。今日のお代は後日の花代にしてあげよう」
 花代とはつまり娼婦を楼床へ呼ぶことを言う。金を払わない代わりに一晩の相手でチャラにしろと言うのだ。ここが高級楼だから言える傲慢さか。
 ジャムシードは掌中の箱を懐に引き寄せた。そして口の端をつり上げる。
「俺の名はジャムシードだ。だがお生憎様だな、姐さん。こっちは懐寂しい職人で、今は空腹を満たすための金がいるのさ。色事はまた今後だ。成金の客を捕まえたんだろう? ケチケチせずに払うものを払ってくれないかな」
「おやまぁ、随分じゃないか。この楼館で一番の娼妓を袖にしようってのかい」
「この楼一の娼妓かどうか俺は知らないんでね。初めての客からの報酬は金しか受け取らないことにしてるんだ。物で釣られちゃ師匠に顔向けできないな」
 背後でノティナがおろおろする気配がした。上客を失うかもしれないのだから気が気ではなかろう。それでも狼狽えきって割って入らないだけましか。
「そうかい、残念だね。お前さまとなら楽しい酒を楽しめたろうに。自腹を切ってこの楼に上がるには、お前さまの懐から相当な蓄えが消えちまうよ」
「分相応のところで遊ぶさ。高尚な場所に出入りすると身が縮んじまうからな」
 仕草だけは上品にコロコロとディティエが笑った。がしかし、眼許に笑みは浮かんでいない。自分の誘いに乗らない男を値踏みしているのだ。
 成り行きを見守る取り巻きの童女たちが慎重にやり取りを見守る。彼女たちは娼館での序列を気にして姐格の娼妓に媚びる様子が見て取れた。姐を持ち上げるべきか、無礼な男を非難すべきか、判断ができないのだろう。
「それなら、お前さまへのお代は大事な飾り細工に粗相をしでかした子に支払わせようかね。余計な時間を取られて迷惑したことだし」
 ジャムシードの視界の端で一人の童女が全身を硬直させた。身支度の手伝いをしている最中の不注意で細工物を壊してしまったのだろう。だが彼が請求しようとしていた修理代は彼女が弁償するには少々値が張りすぎる代金だ。
「そうだろう、アダラ。自分の不始末に決着つけなきゃならないよ。時間を無駄にしただけじゃなく、皆に気苦労までかけたんだからね」
 呼びかけられた少女は青ざめ、周囲に助けを求めるように視線を彷徨わせる。しかし最終的には姐娼妓に眼を戻し、慈悲を乞うように両手を揉み合わせた。
「姐さん、堪忍してください。あたしの稼ぎで細工物の直し代なんて……」
 助けに入れないこともない。が、ここでジャムシードが会話に割り込めば、ディティエの意地の悪さは更に増すはずだ。彼女は今回の騒ぎで迷惑をかけられ、誰かに八つ当たりしたいだけなのである。
「だったら、アダラ。この細工師の兄さんにお願いして代金をまけてもらうか、お前自身が質草になるしかないねぇ」
 娼館に住まう少女を質草になどしたらどんな目に遭わされることか。それが判っていながら怯える妹分をいびるとはどういう神経だろう。
 職人の厳しい徒弟制度の中で生きてきたジャムシードは強い違和感を覚えていた。舌打ちを飲み込み、彼は残忍な笑みを浮かべる女の顔を見遣る。
「いいのか? 早くしないと支度が間に合わないぞ。まったく、どこのお大尽か知らないが、気に入りの娼妓が贈り物を壊した程度でガタガタ言う度量の狭い輩の顔とやらを見てみたいもんだな」
 ジャムシードの嫌味に反応し、ディティエが眉をつり上げた。
「お前さま、口の利き方に気をつけるがいいよ。これからお逢いする御仁は、お前さま如きが逢えはしないよ。水姫公閣下のご親族にあたられる方だからね」
「なんだ、ラシュ・ナムル公の身内かよ。だったら仕方ないかもな。あの一族は大事な神都カルバが丸焼けになって随分と財産をなくしたらしいから。今頃は本家の大公閣下に泣きついて金の無心でもしてるんじゃないのか」
 ジャムシードの上着を背後から引っ張る者がいる。見なくてもそれがノティナだと判った。怒りの顔を紅潮させている娼妓の機嫌を損ねたくない。そう指先が訴えていた。彼とて面倒なことはご免なのだが……。
「そ、そんなことを口にして無事で済むと思っているのかい?」
 ディティエの瞳に浮かんだ恐怖をジャムシードは見逃さなかった。己の権勢を振りかざす者は他人が奮う強固な権力に弱い。こうやって彼が権力者に対して暴言を吐くだけで動揺するのがいい証拠だ。
「そんなこと俺にはどうでもいいんだよ。本当ならこっちは水姫公の聞いたこともない身内の仕事なんぞ受けてる暇はないんだ。職人仲間のノティナが頭を下げるから受けただけでな。大事な炎姫公の仕事を邪魔されて、あまつさえ内輪もめで金の支払いもされないとなっちゃぁ、それこそ大迷惑だよ。こっちは出るとこに出て白黒つけさえてもらってもいいんだぜ」
 顔の血の気が失せ、あからさまに顔を背けた女の横顔をジャムシードは冷めた眼で見つめる。結局、自分が太刀打ちできない存在を背後に感じれば関わり合いにはならない気だ。その程度の性根で大公家の身内と知り合いだと触れ回るなど、娼館に勤める者のやることではない。
 口の堅さが水商売での信用に繋がるのだ。それが守れない娼婦など、いずれは捨てられるのがオチだとなぜ判らないのか。愚かなことこの上ない。
「ノティナ。何をやってるのさ。早う髪飾りで最後の仕上げにかかっとくれ」
 逃げを打つ気の娼妓の態度にジャムシードから表情が消えた。完全に彼の目が据わってしまっていることに、女は気づいていない。ノティナが小箱を受け取って仕上げにかかると、ジャムシードはアダラへと歩み寄った。
「支払いはあんたと俺で話をつけろとさ。あんたを質草にするなら持ち主の楼主にも筋を通さないとな。楼主のところに案内してくれないか?」
 少女は真っ青になって周囲に助けを求める。姐娼妓の世話をする仲間の少女は、ジャムシードに非難の視線を向け、すぐにディティエを振り返った。
「お前さま、そんな勝手をしていいと思ってるのかい。たかが職人風情が楼館の女をどうこうする権利はないんだよ」
「権利はあるさ。修理代の支払いはこの娘なんだろう? それで充分だ。俺の雇い主に彼女を買ってもらうよ。その代金から修理代をいただいて、残りは楼主に渡さなきゃならないから話の筋を通しに行くんだ」
「何をバカなことを。楼主さまが職人と直接話をするはずがないよ」
 ディティエの傍らでノティナが気遣わしげにこちらを見ている。飾り細工を髪に挿す彼女の手つきは正確だ。しかし客の娼妓とジャムシードを交互に見遣る様子は不安がありありと浮かぶ。上客を失う可能性とともに、職人仲間が何か大変な目に遭いはしないかと心配しているのだ。
「バカなことかどうか試してみようか? 仕事をしたにも関わらず支払いを踏み倒されたとあっては、それこそ師匠に顔向けできないんでな」
 仕事の対価を貰うのは一人前の職人の当然の権利だ。それを侵害されて黙っていてはいけない。そう師匠に教えられてきた。
「支払いをしないなんて言ってないよ。お前さまの聞き分けが悪いから……」
 ディティエの声を遮るように入り口の扉が叩かれ、許可をする前に大きく開き始めた。こんな無礼な登場が許されるのは楼主と客しかいない。室内にいた者は全員、口をつぐんで新たな人物に視線を向けた。
「なんの騒ぎだね? 廊下にまで声が漏れてきているよ」
 飾り気はないが上質な衣装をまとった男が室内を見回す。娼妓や童女たちの態度から、ジャムシードはそれが楼主だとすぐに判った。こちらを見遣る娼妓の表情は勝ち誇っている。判りやすい女だ。これでよく娼妓が務まっている。
「支払いのことで少し……。そこの男が勝手を言うからたしなめていたのよ」
 いかにもしおらしい口調で返事をする女に楼主は頷き、取り巻きの少女たちや髪結いの娘に一人ひとり声をかけていった。
 最後にジャムシードへと向き直ると、彼は娼妓の期待するような叱責は口にせず、丁寧に腰を屈めていく。それは館を訪れる客に対する態度だった。
「奥の応接間でお客人とお連れ様がお待ちでございます。修繕が終わられたと聞きましたので、案内のためにまかり越しました。どうぞご同行を」
 ジャムシードも面食らったが、室内にいた他の者の表情はもっとすごかった。その中でもとりわけ、ディティエの顔は見物だと言ってもよかろう。
 呆気に取られた直後、彼女の顔色は上質な羊皮紙のように白くなった。己の持ち主である楼主が客として扱う人物に横柄な口を利いてしまったのである。下手をしたら首が飛ぶのではないかと恐れをなしていた。
「客人と連れって……いったい誰のことです? 俺がここにいることを知っている人間なんていないはずですが」
「客人は王宮の方です。お連れ様は可愛らしい方と凛々しい方のお二人。お心当たりがありませんか。お客人からそう言づかっておりますが?」
 ジャムシードより先にノティナが息を飲み、小さく悲鳴を上げる。彼女の驚きからジャムシード自身も連れが誰であるか思い至った。
 なぜジュペやガイアシュがここに連れてこられたのか。王宮からの客人というのも解せない。顔見知りでなければ子どもたちが一緒についてくるはずがなかった。ということは、王宮か役所で顔を合わせたことがある人物が客人か。
「判りました。同行します。ですが、修理代をいただかないことには引き上げられない。娼妓は付き人のこの少女が質草だと言っていますが、楼主殿はそれでよろしいですか? 問題なければ炎姫公のところへ連れていきますが」
 姿勢を正した楼主がジャムシードの傍らに立つ少女を目視し、横目でディティエを見遣った。表情からは何も読みとれない。
「厭だわ、冗談を真に受けて。ぬしさん、この人に言ってくださいな。娼館から女を連れ出すのに、そんな無粋な方法はないでしょうって」
 ジャムシードを見もせず、ディティエは持ち主である楼主の動向を見守った。男の一言で自分の世界がどう変わるか判らないのである。彼女としては自分に傷がつかないように立ち回ることで頭がいっぱいなのだ。
「確かにアダラを連れていかれては困ります。少々冗談の度が過ぎたようですね。修理代はこちらで用意しますので娘はご勘弁ください」
 ジャムシードとて本気で少女を連れ出す気などない。単にディティエの傲慢さにお灸を据えてやりたかっただけだ。支払うべきものが支払われ、騒ぎを丸く収めてくれるというのなら楼主の提案に喜んで乗ろうではないか。
「承知。では代金を受け取りがてら客人のところに行きましょうか」
 修理代のことはもちろんだが、ジュペたちが娼館に連れられてきていると思うと落ち着かなかった。早くここから連れ出さなくては。間違って砂漠の民に知られようものなら、どんな騒ぎが持ち上がることやら。
「すぐにご案内を。……ところで、ディティエ。支度ができたならノティナを連れてゆくぞ。ビーシャが彼女に用があると騒いでいるのでな。あちらへの案内はアダラに頼もう。お前、あちらにいるメイデとは同郷で仲が良かろう?」
 このままジャムシードが出ていけば、八つ当たりの標的になりそうなのは、彼を連れてきたノティナと細工修繕の原因を作ったアダラだ。
 それが楼主には判っていたのかもしれない。姐娼妓に意地悪をされた娘をサッサと引き離すやり方は卒がなかった。ジャムシードのように嫌味をまぶして突っかかっていかないだけ大人だとも言える。
「ノティナ。アダラに案内を頼む先の娘もきれいに仕立ててやっておくれ。ディティエが鈴蘭だとすれば、ビーシャはヒヤシンスだ。まったく違う二人の髪を結うのだから、さぞかし花飾りを作るにも甲斐があろう」
 二人の娘を送り出し、挨拶まわりに向かおうと準備の仕上げをするディティエをひとしきり褒めそやした後、楼主はおもむろにジャムシードに待たせた詫びを入れ、悠然とした足取りで応接間のある奥へと歩き出した。
「ノティナが今後、この館に出入りするのに気まずい思いをすることはありませんか? ディティエにはかなり不愉快な気分をさせたと思いますが」
「問題ありませんな。ディティエひとりがノティナの客ではありません。もしあれがつむじを曲げたら、他の女が諸手を挙げて彼女を部屋に招きます。その程度のことは察した上で、あなたも食ってかかっていったのでしょう?」
 楼主には何もかもお見通しらしい。となれば、問いかけの形を取ってはいるが、ジャムシードがノティナの出入りに支障がないよう釘を刺したことも承知しているに違いない。少し相手の掌上で踊らされている気分だった。
「炎姫家でのお仕事は一段落されたそうですな。あちらでのご奉公が終わったら、ガーベイ・ロッシュ殿のもとに戻られますのか?」
「なぜ俺がお師匠の弟子だということをご存じなのです?」
「ここは王都一の花が集う館。貴族の噂話が蜜の如くあちこちで溢れています」
 情報を制する者こそがすべてを握るのですよ、と囁く男の眼差しは鋭い。
「それにしても……随分と思い切ったことをなさいましたね。あそこまでしてノティナを遠ざける必要があるのですか?」
 ギクリ、と背筋が強張ったが、ジャムシードはそれを表情には表さなかった。
「なんのことですか? 俺は昔から少々短気なところがあるんです。彼女に関係なく、あの場では自分の言いたいことを言ったと思いますよ」
 以前からノティナが自分に興味を持ち、ごく個人的に親しくなろうとしている気配は感じ取っていたのである。職人仲間として逢うだけなら気にはしなかった。だが、それ以上踏み込んだ関係になる気は毛頭ない。
 今回のディティエの不愉快な態度はジャムシードにとっては渡りに船だった。ノティナが少しだけ自分に幻滅してくれたらいいのだけれど。
「あなたなら、やろうと思えば言葉を選んでやんわりとディティエを誘導できたはずです。あまり周囲から人を遠ざけられますな。人は人と関わらずに生きてはいけないのですから。断ち切った縁を繋ぎ直すのは苦労しますぞ」
 ジャムシードは小さく肩をすくめ、楼主の言葉をやり過ごした。それは不遜な態度に見えただろう。しかし、斜め前を歩く男は視界の隅でそれを見ていたにも関わらず、不快感を示すどころか微苦笑を浮かべたのだった。
「本来のあなたと上っ面のあなたは違うということにしておきましょう。でないと、ご自分を取り戻していない状況でもてはやされて困ったことになる。ここにいる娘たちまであなたに色目を使って大変そうですからな」
 再び背筋が強張り、ジャムシードは苦々しい思いを噛み殺すのに苦労した。どうして楼主はなんでも見通せるのだろう。ファレスに感情を御するようたしなめられて以来、人と関わることに以前より臆病になった。
 昔から本当の意味で他人に心開くことは少なかったが、今では人当たりの良い外面ばかりが注目され、中身に注意を向けてくる者は減る一方である。自分がそう仕向けているからに他ならないが、感情を御しきれない今、他人と大きな波風を立てたくなくて逃げを打っている悪循環だった。
「娼妓たちが俺に興味を持つのは飾り細工師だからでしょう。自惚れてなどいませんよ。その程度の分別は持ち合わせていますから安心してください」
 男は何度も頷き、ジャムシードの言い分に深く共感しているように振る舞っている。だが、実際にどう思っているのかは判らなかった。修理代のために楼主の部屋に立ち寄り、二人はその先にある応接間へと急いだ。