混沌と黎明の横顔

第08章:隻眼の神が見つめる 4

 手足が重い。水の底、あるいは地の底へと堕ちていくようだった。
 あぁ、これは夢。雨期になると折に触れて見る、あの悪夢に引きずり込まれていこうとしているのだ。抗おうとしても、為す術もなく。
 ――できれば血をこの器に。だが無理なら最低でも髪を一束、持っておいで。
『それで願いが本当に叶うの? いったい、どうやって?』
 ――普通の男女がまぐわえば子どもは出来る。それを強制的に作ろうというのだえ。イデンシの根本から作るしか方法はあるまいて。
『イデンシ? それが作れたならば、必ず子どもが出来るのね?』
 ――卵を作って植え付けてやろう。苗床から芽吹くように促す時期もあらかじめ教えておこうぞ。しかし、それを無事に育てるのは女の役目だえ。
『判ったわ。必ず血か髪を用意するから絶対に成功させて。もう時間がないの』
 ――承知したえ。その代わり、約束した通りにしてもらうよ。
 こめかみをドクドクと血が流れていく音が聞こえた。すでに過ぎ去った時間にだけ存在する会話が、こうやって夢となって記憶の縁を引っ掻く。そのたびに自らの弱さを突きつけられ、恐怖と戦わねばならないのだ。
 ――男をしばらくの間眠らせておくのなら、この薬を酒に混ぜるがいいよ。切り傷に効く塗り薬も。気づかれぬよう注意することだえ。
 不思議な口調の老婆がニタリと口を歪める様子を、夢の中の己を通して見つめ続ける。いや、目を反らそうとしても反らせないのだ。
 後悔などしないと誓ったはず。事実、授かった子どもを愛おしむ気持ちに嘘はなかった。けれども、次の瞬間には胸の奥を焼く言葉が突き刺さる。
 ――わたくしは貴女様のお腹の御子の死を切に願っております。
 投げつけられた言葉のなんと残酷なことか。恨まれることは判っていたし、子どものことを教えたのは間違いだとも思った。それでも言わずにはいられなかったのは、女の意地か。それとも舞い上がっていた傲慢さの現れか。
 いつしか、夢は闇の奥深くに沈み、身動き一つできぬ牢獄に彼女を繋いだ。後戻りはできぬ。前へ前へと追い立て、疲れても休むことを許さぬ冷酷さで迫ってきた。これが罪を背負う代償か。死ぬまで甘んじて受けねばならぬのか。
『それでも。許されなくても、あの人の子どもが欲しかった……』
 もがけぬ身体を痙攣させ、責め苛まれる苦痛から逃れようと虚空を見上げた。
 助けはこない。来るはずがない。誰も知らぬ罪。これは己が背負う――
 急に身体が揺れ動き、シヴェラリアーナは呻き声を発した。耳元で侍女の呼ぶ声がする。昼食後にうたた寝をしていたのだと半分覚醒した頭で思い出した。
「妃陛下。楽奏士タクタイドのイルーシェンが参りました。如何致しましょう。ご気分が優れぬようでしたら退がらせましょうか?」
「大丈夫、通しなさい。うたた寝をしていただけよ。でも身なりを整えるから少し待たせてちょうだい」
 目覚めてしまえば悪夢の恐怖は遠ざかる。何を恐れることがあろうか。過去を知る者はいないに等しいのだ。もし真実に近づく者がいたとしても、確たる証拠は何も残っていない。唯一、すべてを知るあの老婆を除いては。
 シヴェラリアーナは侍女に手伝わせ、素早く身支度を整えた。完璧な装いをする彼女からうたた寝の悪夢を連想することは不可能である。
 王妃の応接室に楽奏士の長が案内されるまで僅かな時間があった。うたた寝をしていた寝椅子には寝室から持ち出した数冊の書物が放り出されている。そのうちの一冊を手に取り、彼女は表紙をそっと撫でさすった。
 久しぶりに寝室から持ち出してはみたが、結局は読み返すことがなかった詩集である。故郷から王都に来なければならないと決まったとき、この詩集だけは絶対に手放すまいと、真っ先に宝石箱の底にしまい込んだのだ。
 ゆっくりと表紙をめくり、その裏に手書きで記された文字を目で追った。
『公国の至宝、シヴェラリアーナ姫殿下へ
 殿下の忠実な騎士、リゲルドより』
 かつてはどんな賞賛よりも貴重な言葉だった。今となっては、この言葉にすがっていた自分の弱さを情けなく思うことのほうが多いが。
 ページを繰り、何度も読み返した詩編の幾つかを流し読みした。その途中、いつも必ず手を止めるページに差し掛かる。その箇所を開いた瞬間、彼女は違和感に気づいた。あり得ない。あるはずのものがなかったのだ。
 別のページに挟んだかと更にページを繰るが、最後まで見ても失せ物はない。寝椅子の周囲に落ちているのかと見回しても、捜し物は見当たらなかった。
「そんな……。いったいどこへ? もしや寝室に落として……」
 シヴェラリアーナは探しに行こうとしたが、折悪しく、侍女に先導されてイルーシェンが入ってきてしまう。冷や汗が背筋を伝った。ドクドクと厭な音を立てて心臓が鼓動を打つ。彼女は青ざめた顔を隠すように俯いた。
「陛下、ご機嫌麗しゅう。急な来訪をお許し下さい。新しい曲が出来ましたので、是非とも陛下に聞いていただきたく馳せ参じました」
 物心つく前に奴隷となり、娼館で育った男は、貴族も舌を巻く滑らかな動きで腰を折る。産まれながらの貴族だと言われたら素直に信じてしまいそうなほど、動作が様になっていた。案内してきた侍女も一瞬見とれたほどである。
 二人は変化に気づいただろうか。動揺を必死に飲み込み、シヴェラリアーナはゆるゆると顔を上げた。こちらの機嫌を伺うイルーシェンからは何も読みとれない。侍女は己の本分を思い出したか、一礼して下がるところであった。
「相変わらず熱心ね。今度はどんな楽曲を完成させたの?」
 声の震えを懸念したが、双弦琴フィレリラを調整する男は気づいていない。侍女の姿が消えると、彼は琴を脇に抱えて近づいてきた。
「陛下、王太子殿下から急ぎの知らせが入りましたのでお知らせに……」
 寝椅子のすぐ脇に座り込み、イルーシェンはポロポロと琴を鳴らし出す。会話が外に聞かれないようにという配慮だ。
「アルティーエ姫が離宮に入られるそうです。侍女と護衛の女騎士が一緒だと。すぐには外部に漏れぬよう手筈を整えて欲しいそうです」
 シヴェラリアーナは寝椅子に寄りかかり、楽奏士長の顔を覗き込む。
「あの子は随分とあなたを信頼しているようね。いつの間に取り入ったの?」
「いいえ。王族と楽奏士の付き合いだけにございます。陛下に王太子殿下から直接知らせが入ったのでは周囲が騒がしくなると踏まれたのでしょう。王妃宮に平然と入り込めて王宮の事情に詳しく、口の固い者となれば――」
「王妃が親しくしている楽奏士が一番、というわけね。すぐに離宮とその周辺に手を入れましょう。近日中に息子の花嫁候補たちが押し寄せてくるのだから、あの区画を王妃がうろついていても怪しまれないでしょうしね」
 なぜ急に娘が王宮に戻ってくることになったのだろう。息子は詳しい事情をイルーシェンにも知らせなかったのだ。事前に計画を知らせがなかったことから考えるに、突発的な何かが起こったとしか思えない。
「あと、これは別件ですが。元老院の一部が慌ただしく動いています。彼らにとって不都合なことが起こったのかもしれません」
 これまでもイルーシェンは周囲の動きを知らせてきた。彼の情報は女官たちの噂話と同等の素早さである。そして、人づてでないだけに正確だ。
「あちらもこちらも大忙しね。離宮へは信用のおける侍女を寄越すけど、あなたは一緒に行って伝令をしてくれるかしら? すぐに王妃が離宮の見回りに行くには、元老院の動きが見極められない今では都合が悪いの」
「お望みのままに、陛下。ですが、元老院の動きを探るのは慎重に願います」
 娼館時代にも客たちを虜にしたであろう魅惑的な笑みを浮かべ、イルーシェンは優美な動きで腰を屈めた。指の先まで磨かれた動作は見事の一言に尽きる。前任の筆頭楽奏士を蹴落とした実力はきっと音楽の才だけではないはずだ。
 王妃は侍女の一人を呼び寄せ、離宮内部を整えるよう指示を出す。離宮に派遣する者は口の固い、信用の置ける者だけを厳選することも忘れなかった。
「イルーシェン。あなたもついていきなさい。離宮に置く楽器と奏士の選別のためには建物の実物を見ておく必要があるでしょう。必要なものがあれば言いなさい。……王太子の花嫁候補が暮らす区画のことですからね」
 侍女と共に楽奏士長が出ていくと、シヴェラリアーナは寝室へ駆け込んだ。床を見回しても目当てのものはない。苛立った足取りで書記机へと歩み寄った。
「ここにもない。どこにいったの。まさか、気づかぬうちに盗まれたりは……」
 忙しなく書記机の引き出しを調べ、書棚から書物を引き出して奥を覗き込んだ。だが棚を空っぽにしても失せ物は見つからない。
「どこに……。この部屋には侍女以外の者は出入りしていないというのに」
 膝の力が抜け、シヴェラリアーナはよろけて書記机にぶつかった。鳥の羽ばたきのようなけたたましい音を立てて書物が床に散らばる。
 拾い集めなければ。侍女が戻ってきてこの有様を見たら不審に思う。
 王妃は腰を屈め、厳めしい表紙の一冊を取り上げた。その拍子に古ぼけた紙片が床に舞い落ちたのが見えた。見覚えのある染みにハッと我に返り、彼女は取り上げた書物を放り出して紙片を鷲掴みにした。
 ホッとして全身から力が抜ける。どうしていつもの場所になかったのだ。
 紙片を落とした書物を改めて取り上げ、シヴェラリアーナは何気なく表紙をめくる。そこには断罪の天秤を片手にする調停神ダイナが描かれていた。これは王国と渡り合うための法律を勉強するために取り寄せた本だ。
「隻眼のダイナ。たった一つの眼は真実のみを映すという……」
 隻眼の女神は慈悲深くも冷徹な眼差しで天秤を見おろしている。罪の重さを計るその秤に自らが乗っている気がして、王妃は小さく背を震わせた。




 庶民で賑わう酒場ケストレイユの一画で数名の男たちが酒を呑みながら顔を突き合わせていた。昼食後の一服で、香茶の代わりに口当たりの軽い酒を呑んでいるようである。
「どう考えたっておかしいだろう。なんでジャムシードは貴族に雇われてる?」
「確かに水姫公の追及をかわすための目眩ましにしちゃ随分と目立ってるな」
「しかも堂々とモスカイゼスたちに逢ってるそうじゃないか。組織の人間と関わりを断つための破門じゃないのか?」
 潜められた声は周囲の喧噪に掻き消され、お互いの耳にしか届いていなかった。が、彼らは辺りをはばかり、いささか早口で会話している。
「いつの間にか僧院に入ってるしな。俗世と聖界を行き来できる僧侶になれば水姫公の追及をかわせるとでもいうのか?」
「まさか! 水姫公は神官の位も持っているんだぞ。僧院は神殿より立場が弱いんだ。神官の立場から物を言われたら抵抗は難しいだろう」
「だったら尚更、組織の人間と関わり合いになるのは慎重になって然るべきだ」
「なんのための黒の頭領だ? 貴族連中の疑惑の目を逸らすために動くのが頭領の役目だろうに。今のままでは注意を引きすぎてる」
 酒の肴の炒り豆や小麦粉焼きを噛み砕きながら彼らは不満を口にした。言葉の裏側には不安がこびりつき、この場にいない者への不審が強く滲んでいる。
「白の長老や司祭に強く進言すべきじゃないのか?」
「白の長老ガーベイ・ロッシュはジャムシードの師匠だぞ。オレたちの話になど耳を傾けるものか!」
「では司祭は? 彼なら公平に話を聞いてくれるはずだ」
「どうだろうな。ジャムシードの現状を黙認してるじゃないか。それに、あいつを黒の頭領に推したのは司祭本人だという噂もあるしな」
「では誰に話を振るんだ。一人のために組織を危険にさらされてはたまらん」
 彼らは口々に意見を出してはお互いの言葉の粗を突いた。まるで駆け出そうとしている足と止まろうとしている足を同時に操ろうとしているかのようだ。
「他にも不満を抱えている者はいるだろう。近いうちに開かれる集会の席で意見を出したらどうだ? 司祭たちの考えを直接聞きたい」
 一人の意見に他の面々が顔を見合わせる。反論は出ず、彼らは互いの瞳の奥に抱える不安を払拭してくれる存在への期待を見て取った。
「だったら、いったい誰が司祭たちに意見するんだ?」
 一番小柄で細い男がやや甲高い声を上げる。一瞬だけ周囲の人間の注意を引いたが、それもすぐに喧噪の中に紛れてしまった。
 ガッチリとした体格の男が口角をつり上げる。瞳に浮かんでいる侮蔑の色から相手を見下しているように見えた。
「オレが話をするさ。言い出した本人だしな。司祭たちがジャムシードのことを黙認して何も手を打たないというなら、オレたちだって考えなきゃならん」
「何を考えるって? ジル、お前だって組織に入っていることは家族にも秘密だろうが。下手に動き回れば周囲にいらぬ疑心を抱かせるだけだぞ」
「上の連中がやらない尻拭いをしなきゃならんってことだ。破門されてもジャムシードが組織と縁切りしない気なら、オレたちで排除する」
「だけど……。あいつは神都カルバ連の中で一番腕が立つんだぞ。そう簡単に排除できるのか?」
聖都ウクルタムの頭領イルーシェンとも懇意だ。王宮に上がり、頭領同士で情報を交換もできる。となると、まったく不利益というわけでも……」
 他の者が尻込みする様子を見回し、ジルと呼ばれた男が鼻を鳴らした。小馬鹿にされたと思ったか、他の男たちは口許をへの字を曲げてジルを睨む。
「組織ってのは川の流れと同じだ。滞れば澱み、水は腐る。溜まったヘドロやゴミは取り除くのが当たり前だろ。それとも、お前らは腐るに任せておくか?」
「オレたちだって悪化したものを放置しておきたくはない。だが司祭から答えが引き出せなかっただけで、いきなりあいつを排除ってのは……」
「手を出しあぐねている間に取り返しのつかないことになったらどうする。司祭や白の長老は昔からあいつには甘かった。あいつはつけあがってるんだ!」
 ジルの声音が鋭くなった。瞳には燃えるような熱が加わり、辺りを焼き尽くすかのような視線を向ける。その有様に他の男たちは困惑した。
 ある者は首をすくめ、ある者は嫌悪を露わにする。それがジルにも伝わった。苦々しげに舌打ちすると、彼は杯に残っていた酒を一気にあおる。そして懐から取り出した銅貨を五、六枚ほど卓に放り出した。
「どっちにしろ、次の集会のときにオレは司祭に問い質す。納得のいく返事がなければ、オレひとりだけでも動くからな」
 他の者が止める間もなく、ジルは勢いよく席を立つ。立ち去る彼の後ろ姿を、仲間たちは不安げに見送るしかなかった。
「ジルの奴、いったいどうしちまったんだ? 急に熱くなりやがって」
「さぁ? オレにはサッパリ。何か癇に障ることでも言ったかな」
「ジャムシードが破門されたってのに組織と関わっているって辺りで態度がおかしくなっただろ? あれだよ。あいつ、組織に入るためにかみさんと別れたって言うじゃないか。中途半端な奴が許せないんじゃねぇの?」
 納得できるような、どうも釈然としないような、妙な空気が仲間内に広がる。が、額を寄せて話をしていてもジルの心情が理解できるわけではなかった。
 彼らはすっかり諦め顔になっている。酒を呑む気分が殺がれてしまった。このまま卓を囲んでいても楽しくはない。お互いに白けた気分を抱えたまま、それぞれ席を立って、午後の仕事へと戻っていったのだった。

 一方のジルはといえば。胸に湧き上がった熱に突き動かされるように歩を進め、反対側から歩いてくる者を跳ね飛ばしそうな形相で仕事場へと向かっていた。彼の勢いに恐れをなし、歩行者が避けてくれているのが幸いである。
くそったれがジン・ガズー! どいつもこいつも判っちゃいない。オレがしっかりしなけりゃ、組織は終わりだ」
 ブツブツと小声で呟き、石畳の先を睨んで歩く姿は少し異様だ。心が囚われている状態でものを考えてもろくなことはない。しかし、それを指摘する者がいない今、ジルの表情はいやましに険しさを増していった。
「集会の席で問い質すので間に合うのか? 今にも水姫公の手の者がジャムシードに接触してきたなら、組織の連中はどうする気なんだ。クソッ! やっぱり早いところ手を打たないと危険じゃないか!」
 周囲に気を配らないで歩いていれば、いずれは障害物に当たる。ほとんど前方に集中していなかったジルは、とうとう歩いてきた者と派手にぶつかり、ガッチリした体格とは反対にあっけないほど地面に尻餅をついた。
「な、何すんだ! 怪我したらどうしてくれる。ちゃんと前を見てろ!」
 己の前方不注意など思いもしないほど自分の考えに浸っていた彼にとっては、落ち度は相手のほうにあると決定されている。さらに相手の顔を見上げたジルは、いっそう不機嫌になり、顔を歪めた。
「失礼しました。考え事をしていたものですから。……立てますか?」
 彼に手を差し伸べていたのは、仕立ての良い法衣をまとった僧侶だった。
 手助けなんかいらない、と相手を跳ねつけ、ジルは素早く立ち上がる。その間も視界の隅には相手の僧侶を置いていた。僧はフードを目深に被って表情を隠している。さらに片方の眼を前髪で覆い、胡散臭い気配がした。
「足首や手首を捻ってはいませんか? 具合が悪いようなところは?」
「ねぇよ。あんたにぶつかられて怪我するほど柔じゃないからな」
 じゃあな、と素っ気なく相手の言葉を振り切り、歩き出そうとしたジルだったが、じっとこちらを注視する僧の目つきが気になり、つい睨み返した。
「なんだよ。まさか因縁つけようってわけか? 坊さんが喧嘩ふっかけるたぁ、いい度胸だぜ。それとも腹の足しにもならない説教でもくださる気か?」
「いいえ。気になったのなら申し訳ありません。あなたを見ていると、少し前の自分を思い出すのです。悲しみを怒りにすり替えていた頃の自分に」
「悲しみ? ハンッ。オレのどこが悲しんでいるように見えるよ。無駄な説教なんざ聞きたくもねぇよ。サッサと行きたいところに行っちまえ」
「そうですね。説法など施すほど立派な身でもありません。ご気分を害したのでしたら謝ります。すみませんでした。どうぞお仕事に戻ってください」
 小さく目礼し、こちらに背を向けた僧侶の後ろ姿は聖界に身を置く者というよりは貴族の子弟といった高貴な雰囲気である。そして、どことなく寂しい陰のある背中には無理をして立っているような痛々しさがあった。
「お、おい! どうしてオレが悲しんでいるなんて思ったんだよ?」
 声をかける気はなかったのに、ジルは思わず僧侶を呼び止める。振り返った相手の顔立ちがやはり貴族的な雰囲気で、彼はすぐに自分の行動を後悔した。
「あなたの声には転んだことに対する苛立ち以外の怒りを感じました。どんな怒りにも原因があり、それは悲哀の裏返しです。それを悟るまで、私は自らが悲しんでいることを認められませんでした。あなたにも同じものを感じます」
「怒りの裏側が悲しみなわけがねぇだろ! オレは単に怒ってるだけだ」
 ふざけるな、と捨て台詞を吐き捨て、ジルは僧に背を向ける。呼び止めたことへの後悔がいっそう膨れ上がってきた。不愉快な思いをしただけではないか。
 そんな彼の背中にひっそりとした僧侶の声音が届けられた。
幸いの女神に称えあれインナ・デ・ヘステータ。あなたの苦痛がいつの日にか取り除かれますよう」
 ジルを見送る隻眼には、深い哀しみとも憐れみともつかぬ光が浮かんでいた。