混沌と黎明の横顔

第08章:隻眼の神が見つめる 3

 唖然とする目の前の女の顔を一瞥し、リウリシュはゆったりと立ち上がった。
 最近手に入れた気に入りの扇をゆるゆると振り、彼女は無遠慮に室内の装飾を検分していく。頭の中ではこれからの予定がめまぐるしく行き来した。
 この室内のどの装飾も気に入らない。甘ったるい色をした壁も白木の家具も、どれもこれもが安っぽかった。下々の使う質素な品に似たベッドで微睡む赤ん坊すら卑賤な輩のように見えてしまうではないか。
「あなたに任せきりにしたのは間違いだったようね。このような部屋に未来の黒耀樹公がいるものではないわ。わたくしのつてで職人を入れましょう。一刻も早く、この宮を改装させねばならないと思うわ」
「お、お義母さま……。あの、ご冗談でしょう? 今のお話は、まさか……」
「冗談なものですか。あなた、自分の息子を大公位に就けるのでしょう。だったら、わたくしの息子と再婚なさい。あのように下司な血の混じった男にワイト・ダイスの跡を継がせるわけにはいかないのよ。判っているでしょう?」
 飛び上がるような勢いで立ち上がった女が顔を紅潮させた。
「だからと言って、ケル・エルス卿と再婚など、どうかしていますわ!」
「何を言っているの。もうすぐあの子が黒耀樹公になるのよ。あなたは再び黒耀樹公妃となり、息子の将来を安泰なものにしなくてはならないわ。それとも、あなたはあの泥棒猫と乳繰りあって子どもでも成そうというの?」
「な、なんてことを! ナスラ・ギュワメ卿は息子に次期大公位を約束してくださっています。卿との関係を邪推なさらないで!」
「愚かな。あの男がそう簡単に大公位を手放すものですか。あちこちに女を作って遊び歩いているような輩ですよ。卑俗な女の子どもを自分の息子だとほざいて、自分の後釜に据えたらどうする気ですか。しっかりなさい。あなたはワイト・ダイスの息子を大公位に就ける義務があるのですよ」
 今後の地位の安泰のためにも、この女を二番目の息子の嫁にするのだ。
 必ずあの忌々しい継子を追い落としてやるが、それでも王家からの横槍が入らないとは言い切れない。赤ん坊を手許に確保し、その身辺を固めねば。
「ケル・エルス卿はなんと仰っているのですか。このような暴挙を許したと?」
「あの子はわたくしの息子ですよ。母親の希望を入れるに決まっています。あなたは何も憂うことなくあの子と再婚なさい。それで万事上手くゆきます」
 この女は何を迷っているのか。寡婦から元の地位に返り咲けるというのに。
「ケル・エルス卿は女性に興味がないはずですわ。それなのに婚姻などと……」
「確かにあの子は戯童フェデールなどとご大層な呼ばれ方をしている男妾を囲っています。ですが、婚姻は高貴なる者の義務です。あの子に否やがあろうはずがないでしょう。それに、男妾なら子を孕みませんからね。いらぬ心配の種がなくて良いでしょうよ」
「なんということを……。それでは馬の種付けと同じではありませんか!」
 リウリシュは小さく鼻を鳴らし、手にした扇でゆるゆると顔を仰いだ。
「我らの婚姻を馬に例えるとは何事ですか。これだから遊牧民を抱える国の女は下世話で困るわ。あなたのような女が妻ではワイト・ダイスもさぞ困惑したことでしょう。可哀相な子だこと。それに、子らの教育上も問題だわ」
「夫は関係ございませんでしょう! お義母さまの考えにはついていけません。これ以上お話をしても無意味ですわ。どうぞお引き取り下さい」
 扇で口許を覆い隠し、リウリシュは半眼になって目の前の女をめ付けた。物わかりの悪い女にはほとほと疲れる。やはり自分がしっかりせねば、黒耀樹家は立ちゆかぬのだ。
 静かな睨み合いの途中、小さな足音とともに軽やかな笑い声が室内に響く。先触れもせずに誰がきたのかと振り返ってみれば、亡くなった長男の面差しを受け継いだ少女が両手いっぱいに花を抱えて駆け込んできたところだった。
「おかあさま! ほら、見て見て。雨期最後のお花よ! 今朝、庭師に頼んでおいた、の──……お、おばあさま?」
 草露と泥にまみれた姿にリウリシュは顔をしかめ、震え上がる。
「なんというはしたない姿ですか。しかも取るに足らない花如きを抱えて走り回るとは。黒耀樹公女ともあろう者がみっともない。野猿のように小汚いなりでいるなど言語道断ですよ。教育係は何をしているのです。サッサと着替えさせなさい。あぁ、それと。そのように貧相な花を飾るのではありません。大公家の屋敷に飾るに相応しい花は別にあるでしょうに」
 愕然とした表情で祖母の言葉を聞いていた少女が眼に涙を浮かべ、母親の顔色を伺った。その姿すら卑屈に見えて、リウリシュは苛立った。
「なんですか、その態度は。下々のような振る舞いはおやめなさい」
「お義母さま、子どものやることに口を挟まないでください。リディアルナは間違ってはいません。汚れなど洗えば済むことです」
「何が洗えば済む、ですか! 大公家の者が泥まみれになるなど、これほど惨めなことがありますか。使用人との関係にはけじめをつけさせなさい。妙な噂を立てられでもしたらどうするの。娘の純潔に傷をつける気ですか!」
 長男の妻だった女を振り返り、リウリシュは忌々しげに反論し始めた。
「だいたい、この子の習い事はどうしたのです。庭で獣のように転げ回っている暇があったら、刺繍か双弦琴フィレリラでも覚えさせなさい。王宮に出入りする貴族の娘なら誰もが覚えていて当然の習い事ですよ!」
 徐々に声が大きくなる。その鋭さに反応したか、ベッドに寝かされていた赤ん坊がぐずりだした。そして、すぐに火がついたように泣き出したのである。
「あぁ、騒々しい。乳母がいるでしょう。サッサと泣きやませなさい。まさか大公家の妃だった者が息子に乳母もつけていないわけではないでしょう。こんなちゃちな子ども部屋でも、乳母を入れられないほど狭くはないはずですよ」
 だが、リウリシュの望む通りにはならなかった。赤ん坊を抱き上げた嫁は小さな声で子守唄を歌いながら、少女の傍らへと近づいていく。乳母を呼ぶでもなく、娘をたしなめるでもなく、茫洋とした笑みを浮かべるばかりだった。
「リディアルナ、そのお花は皆にも分けてあげましょうね。ここには一束だけで充分よ。食堂や居間にも活けてくれるよう、家政婦にお願いしてきてくれるかしら? それが終わったら着替えて、あなたの弟に挨拶してくれる?」
 はい、お母さま、とか細い声で返事をした少女が、飛び込んできたときと同じ勢いで駆け出していった後ろ姿を、うんざりした気分で見送った。
「あなたは大公家の品格というものが判っていないようですね。子どもの頃に品性のなんたるかを学ばせずにいるとは何事です。このままではあの子は粗野な振る舞いしかできない娘になってしまいますよ」
「リディアルナは貴族として振る舞うべきときとそうではないときのことをきちんと区別できる子どもです。ご心配なのは判りますが、頭ごなしに子どものやることを否定なさらないでください。娘が傷つきます」
 この女はまったく判っていない。格式を重んじ、規律を身につけるのに早すぎるということはないのだ。馬鹿な真似をする子どもの行動を許していたのでは、結局は子どものためにならないというのに。
「教育係を新しい者と代えましょう。あなたには任せておけないわ。子守り役もいないようだし、ほとほとあなたには呆れました」
「いいえ。子どもたちの教育係は代えませんし、わたしもケル・エルス卿と再婚することはありません。お義母さまのお考えに沿うような形はとれないと思います。ですから、どうぞお引き取り下さい」
 頑固な表情で言い返す女をリウリシュは精一杯睨んだ。たいした力もないくせに逆らうとは。こんな強情な女を長男の嫁に決めた夫は絶対に間違っていた。生きていたときだけでなく亡くなってからも夫は問題ばかり起こす。
「今日のところは帰りましょう。ですが、また改めて話をしに来ますよ。あなたには夫が必要だし、子どもは正式な父親に庇護されるべきです。仮初めに、いい加減な男の庇護を受けるなど言語道断です」
 相手の反応を確認することなくきびすを返し、リウリシュは部屋を出た。前室に待たせておいた侍女が主人の背後に影のように付き従う。その足音を背中で確認し、彼女は必要以上に背を伸ばして自分の住む館へと急いだ。
 手にした扇を握り潰してしまいそうなほど怒りがこみ上げてくる。義理の母親に逆らうような女を嫁として認める気はなかった。なんて目障りな女だろうか。いずれ時期を見て僧院にでも押し込んでしまわなければ。
 幾棟もある大公屋敷の建物のうちでリウリシュが住んでいる館ほど壮麗なものはあるまい。彼女の望み通りに建てられたのだ。この場所こそが彼女の居場所であり、王の権勢に負けぬ力が奮えるところである。
 建物同士を繋ぐ回廊の角でリウリシュは仄かな花の香りを嗅いだ。甘い芳香が過去を喚起させる。それが彼女の表情を弛めた。
 早咲きの薔薇の芳香。この品種を作り出した男はもういない。屈託なく笑う顔や植え替える薔薇樹を運ぶ逞しい体つきも、もうおぼろげな記憶の中でしか見ることができないのだ。耳の奥に残る声音もよく思い出せない。
 リウリシュは緩んでいた歩調を早め、館の廊下を通り過ぎると気に入りの庭へと降りた。侍女が着替えを勧めるている。が、彼女は一人で散策を始めた。
 薔薇園の入り口を通りすぎ、石畳の道を進みながら物思いに耽る。まだ蕾すらつけていない薔薇が多い中で、その品種だけ芳しい香りを漂わせて存在感を主張していた。曖昧な記憶がチクチクと胸に刺さる。
 甘みの中に凛とした気品を感じさせるこの薔薇が、リウリシュは殊の外好きだった。いや、今でも好きだが、かつての自分ほどではない。過去は封じてしまった。思い出してはいけないこととして、忘れてしまうのだ。
 指先で花弁を弾けば、ゆらゆらと花は揺れ、いっそう強い芳香を周囲に撒き散らす。濃密さを増した空気を吸い込み、リウリシュは微笑もうとした。だがしかし、それは失敗に終わる。結果は口許が歪に引きつっただけだった。
「大公と庭師、比べるべくもないでしょう。なぜお前は選ばせようとしたの。愚かな真似などしなければ、わたくしが変わることもなかったでしょうに」
 再び爪の先で花弁の縁をなぞる。そうやっているうちに、茫洋としているはずの記憶の底から小さな囁き声が聞こえてきた。
『奥方様、なぜそのように寂しげに微笑まれるのですか? あなたはもっと幸せになってもいいはずの方ですよ』
「えぇ、そうね。幸せになるわ。夫はもめ事ばかり起こす達人だったのだもの。わたくし自身が動かねば何も変わらなかったのよ」
 周囲で密度を増していく薫風を払いのけるようにリウリシュは扇を動かす。立ち上がった風の勢いに結い上げた髪の後れ毛がたなびいた。
『あなたの夫が不幸を運んでくるというのなら、別の誰かに幸を求めて何が悪いというのですか。それを罪と呼ぶのなら、誰もが罪人となりましょう』
「その通りよ。でも誰を選ぶか、それをわたくしに委ねたのはお前でしょう。選択肢は最初からないの。すでに決まっていたのよ」
 指先が器用に扇を閉じる。そして固く握りしめると、彼女は空いた片手を一番美しく咲き誇っている薔薇の花に伸ばした。
 風にそよぐ花弁を愛撫するように滑らかに伸ばされた指が、そっと花のうてなをつまむ。乳白色の雪花石膏アラバスターを思わせる指が巧みな動きで花を摘んだ。
 指先に浮かんだ花冠の揺らめきはどこまでも危うい。落ちそうで落ちない動きを楽しむように、リウリシュはうっすらと口許に笑みを湛えた。
「故国から連れてきた乳母に見つかるまでは上手くやってきたのに。お前はどうして余計な欲を持ったりしたの。本当に、大公と庭師を天秤にかけられるとでも思っていたのかしら。だとしたら、なんと無知で愚かな――」
 薔薇園の入り口でリウリシュを呼ぶ侍女の声がする。彼女に逢いたがっている者がいるらしい。慇懃な従者の声は物思いから覚めた頭に痛く響いた。
 やってきた者はどうせ金の無心かごますりの輩であろう。だが、用件くらいは聞いておこうか。追い返すか手駒にするかは逢ってから決めればいいことだ。
 来訪者を応接室で待たせておくよう返事をすると、リウリシュは指先に乗っていた花冠を掌に転がした。ほろりとこぼれた一枚の花弁が風に舞う。それを眼で追いかけたが、風の狭間に紛れ、アッという間に見失ってしまった。
『なぜ!? あの方はあなたを幸せにはしてくれないでしょう。どうして……』
 舞い散る花弁を視線で探ったが見つからない。後れ毛が首筋にまとわりつくのが鬱陶しく、リウリシュは瞼を伏せ、首を振りながら後ろ髪を撫で上げた。花塊に頬を寄せ、そっと芳香を吸い込むと、おぼろげな記憶が鮮明になった。
「わたくしは大公妃。賤しい身分の者と手を取り合って生きていくわけにはいかないのよ。やらねばならぬ使命は死ぬまでつきまとうのだから。お前にもそのことがよく判っていたら、あのようなことをせずとも済んだものを」
 指全体を使って花冠を握り潰す。潰れた花弁が指の間から覗き、強い芳香を撒き散らした。まるでこちらを非難しているかのような香りの奔流に彼女は顔をしかめたが、すぐに平素の顔つきに戻った。
「この薔薇を見るたびに思い出す。お前の骸は良い養分になっているようね」
 指に絡む花弁を風に撒き、リウリシュは再び後れ毛を撫でつけた。
「乳母も亡くなり、今では屋敷内にわたくしたちのことを知る者はいないも同然。それでも、お前のことを覚えているわ。夫が葬られた霊廟に共に横たわるまで、わたくしはこの場所の秘密を呑み込んでいましょう」
 掌にはまだ薔薇の芳香が絡みついている。風の愛撫だけでは消えそうもなかった。雨期の天水でも洗い流せないかもしれない。
「……だからもう、わたくしを赦しなさい。わたくしたちの罪は、決して日の当たる場所で明らかにされることはないのですから」
 この芳香は見えざる罪の香。誰が断罪せずとも己自身が知っている。だが、夫を裏切ったことに一部の後悔もなかった。失意から始まった罪はいつしか復讐へと形を変え、しかし心の隙間を埋めてはくれないことを知る。
 リウリシュは扇を開き、ゆるゆると蠢かせながら口許を覆い隠した。
 薔薇園の入り口に侍女の姿が見える。主人を来訪者の待つ部屋に案内するために待っているのだ。それがひどく煩わしく感じるのはなぜだろう。
「生きている限り、お前はわたくしの中にいるのだわ。そうでしょう?」
 ひっそりと囁き、リウリシュはきびすを返す。その背に追いすがるように薔薇香が迫ったが、彼女は振り返るどころか足を止めることすらしなかった。