混沌と黎明の横顔

第08章:隻眼の神が見つめる 1

 人の波を切り裂くように進む馬車から見渡すと、この界隈は特に賑わっているのがよく判る。物見高い人々が興味深げにこちらを見る視線も感じ取れた。質素だが質の良い馬車に加え、窓から覗く己の容姿のせいだろう。
 人通りの激しい通りに差し掛かったとき、叫び声と混乱が耳に届いた。物が壊れる音がする。さらに、商売のための猥雑な呼び声ではなく、驚きや切羽詰まった感のある叫び声も聞こえてきた。もめ事が起こっているらしい。
「待て! その子から手を放せっ!」
 若い男の怒声が響いた。周囲の野次馬が巻き込まれ、罵り声をあげる。そんな状況をおぼろげに察することができた。
「どこでも騒ぎは持ち上がるものだな。すぐに収まればいいが」
 その喧噪を聞きながらソージンは己が座る座面の下に視線を走らせる。荷物入れになっているその場所に、今は本来の使用方法とは違うものが収められているのだ。これを無事に運び終わるまで騒ぎに巻き込まれたくはない。
 わらわらと人が逃げ惑い、馬車の進行方向にも溢れてきた。面倒なことになりそうな予感がする。外れて欲しい予感ほど当たるのはなぜだろう。
 そして、やはり厭な予感は当たったのである。人混みを掻き分けて飛び出してきた影を確認した途端、彼は外に飛び出して騒ぎの渦中に飛び込んでいた。
「見なければ良かったとは言わんが、預かり物を放り出してあいつはいったいどこで何をしてるんだ! くそっ。間に合うか?」
 本当なら人助けをしている場合ではないのだが……。そうも言ってはいられない状況だった。どのみち馬車は往来で立ち往生している。目立ちたくはないが、大立ち回りを演じることになりそうだった。
 人混みを縫うように走る彼の姿は人々の目には猛獣のように見えたのかもしれない。悲鳴をあげて転がる者や恐怖に身を強張らせる者、珍しい見世物でも始まったかのように傍観する者など色々だった。
 ソージンと同じ小柄な人物数名が、少女を肩に担ぎ上げて逃げようとしている。人さらいだ。そして、さらわれようとしている者をソージンはよく知っていた。いやよくは知らないが見覚えがありすぎた。
「自分の娘くらい自分で守れ、ジャムシードめ。まったく忌々しい!」
 逃走経路を遮る場所で反転し、彼は背負った太刀を一気に引き抜く。逃走する者たちも問答無用で得物をかまえ、邪魔する彼を倒そうと迫ってきた。
 背格好から判断できることは同じ東方人ということだけ。しかし走る姿や得物を手にする仕草からは多くの情報が得られた。
「おれと同じ体術を使う輩か。となると、チャザン国境付近の部族の生き残り。つまり……おれが探している獲物に繋がるっ」
 少女を担ぐ者の楯になるように剣を手にした者たちが飛びかかってくる。慣れた動きから彼らが日常的に修羅場を潜ってきていることが判った。
「そこそこ腕は立つか。……だが、遅い!」
 ソージンは最初に打ちかかってきた者の足許を払って地面に転がす。
 そして、仲間の身体に足を取られて動きが鈍った者たちの懐に飛び込んだ。
 一人目は太刀の柄で鳩尾を強打。
 二人目は剣を跳ね飛ばした勢いのまま空いた手で下顎を殴り飛ばした。
 初めに転がった者が立ち上がったとき、少女を担ぐ者が逃げ出した。逃がすものか。彼は太刀を逆手に構え、迷うことなく逃走者に放った。
 その間にも残りの一人が剣を振り下ろしてくる。
 間近を掠めた剣圧で皮膚がピリピリした。だが刃はまだ肌に触れていない。
「邪魔だ。おれを相手にするなら殺す気で来い!」
 再び振り下ろされた剣を腕ごと掴み、彼は逃れようと身を捻った相手を逆に追い詰めた。ねじ上げた腕があり得ない方向に曲がり、鈍い音が耳に届く。
 被ったシャーフの隙間から苦痛を訴える悲鳴が漏れたが、それを冷ややかに見おろしたまま、ソージンは己の太刀が働きの結末を確認した。
 背中に深々と突き立った太刀が墓標のようである。地面に投げ出された拍子に意識を取り戻したのか、少女がか弱い動きで藻掻いていた。
 そして、その幼い者を抱き起こそうと、成年間近の少年が跪いている姿を最後に認めた。足止めしている間に追いついたのだろう。
 地面に倒れている三人には目もくれず、ソージンは少女と少年の傍らに立った。事切れた襲撃者に一瞥もくれないところが彼の非情さを物語る。
「こんなところで何をしている! ジャムシードはいった何をしているんだ!」
 厳しい叱責の声に身を竦ませた少年だったが、少女を守るように立ち上がり、鋭い視線でソージンを睨み下ろした。
 だが少年が口を開く前に、騒ぎを聞きつけたらしい警邏が警告の声を発した。それを振り返り、彼は小さく舌打ちした。
 やはりもめ事に巻き込まれた。この落とし前は絶対につけさせねば。
 駆け寄った警邏が倒れている三人と骸を確認し、用心深く間合いを開けたままソージンに声をかけた。胡散臭い人物だが仕立ての良い武官の衣装を着込んでいるところから、捕らえてよいものかどうか判断できないのだろう。
 さらに言葉が通じなかったらどうしようか、という困惑がありありと透けて見える態度だった。この国の者は異国との貿易で得られる利益には貪欲なくせに、その文化や言語に対する敬意は希薄な者がかなりいる。
「人さらいだ。牢に入れておけ。後で王宮から遣いを寄越す」
 警邏たちはまず異質な外見の男がポラスニア語を流暢に喋っていることに驚き、次に王宮からの遣いと聞いてさらに驚いた。よもやこの異邦人が王宮の関係者だとは露ほども思い浮かべなかったに違いない。
 基本的に役人という人種は権威に弱い。法務に携わる警邏たちと一応は騎士に属するソージンとでは仕える部署が違うし、時には互いに反発することもある。だが王という存在の前ではそんな小さな諍いはかすんでしまう。
 王宮からの遣いという言葉は、そういった意味でも警邏たちに絶大な効果を与えた。無法者の烙印を押された犯罪者三人は縄で縛られ、命を落とした者は用意された荷車に乗せられ、警邏の管理する番所で検分されることになった。
 周囲には野次馬が幾重にも集まり、どんな奴らが捕まったのか、誰が関わり合いになっているのかと、興味津々な眼をして見守っている。
 その間にも警邏はソージンとガイアシュに事の次第を確認し、手早く仕事をこなしていった。卒のない仕事ぶりであったが、ソージンはそれを賞賛するような気分ではない。サッサと解放されたくてたまらなかった。
「では主人の仕事に戻ってもかまわんな? 後からこの子らの保護者も番所に顔を出す。それまではおれの保護下に置くぞ」
 警邏に子どもたちを託しても良かったのだろう。しかし倒した相手が相手だけに、ソージンは自ら二人にこれまでの状況を確認したくてたまらなかった。見つけた手がかりの一つを取りこぼしてなるものか。
 それに、不埒者らが四人だけとは限らなかった。番所に置いておいてもさらわれるかもしれない。ジャムシードがいない隙を狙っての犯行となれば、なおさら彼の手許に戻すまで目を離すわけにはいかなかった。
「二人とも、おれについてこい。……そんな顔をしても駄目だ。来るんだ!」
 眉をつり上げている少年の背中に怯えた表情の少女が貼り付いている。父親の知り合いとはいえ、異質な外見の男が恐ろしいのだろう。まして有無を言わせず怒鳴られれば、恐怖も倍増しようというものだ。
「オレたちは露天店のある通りで待っている約束なんです。だから一緒には行きません。助けていただいたことには感謝しますけど……」
 ソージンは一歩踏みだし、少年の目の前に立った。東方人の彼は少年とほぼ同身長である。渋い表情を作る若者の瞳を睨み、唸るように声を発した。
「拉致しようとした相手が四人だけだとどうして判る? 他に仲間がいたら、今度こそその娘はさらわれるぞ。そういうことは己の力量を省みて言うんだな」
 ザッと血の気が引いた少年の顔つきから、悪党に仲間がいることなど考えていなかったことが伺える。他にはいないと判断できるだけの材料があるのかもしれないが、ソージンの脅しは十二分に効果を上げたようだった。
「どうせ主人の用事は娼館の区画だ。お前たちも一緒に来い。あそこからならジャムシードがどこの館にいるか調べることもできる」
「春を売る場所にジュペを連れ込もうっていうんですか? 冗談じゃない。この子はそんな場所に出入りしていい娘じゃない!」
「娘の名誉を守りたい一心でその身や命を脅かす真似をしていいとでも思っているのか? この界隈に留まってビクビクしながら過ごすのと、おれの保護下に入って迎えが来るのを待つのとどっちが安全か考えろ」
 先ほどの大立ち回りの効果がまだ活きている。ガイアシュは視線を彷徨わせ、留まるべきか従うべきか決めかねているようだった。背にしがみつくジュペは少年の上着がしわになるほど強く布地を握りしめている。
 彼女にしても誘拐されるなど本意ではないのだ。かといって、目の前にいる人物に付き従うのが正しいのかどうか判断できずにいる。
「娼館でジュペの姿がさらされないようにしてもらえますか? それから、露天店で買うものがあります。それを買ってからなら……」
 考え込んでいたガイアシュの視線が戻ってきた。口許を引き締め、ソージンと向き合う少年の瞳は真剣である。
「いいだろう。買うものがあるなら急いでくれ。おれものんびりできん」
 遠目に馬車を確認したが、御者がこちらを気に掛けていた。いつまでも無駄話をするな、という気配がここまで伝わってくる。
 すぐに戻るからと言い置き、ガイアシュは少女を連れて露天店へと急いだ。二人の姿を見送ったソージンは馬車に戻る。御者が見張り役をしていたので心配はしていなかった。案の定、預かった“荷物”は無事である。
 袋の口を開くと、覚醒しかかった貧相な男の顔が覗いた。王太子からこの輩が何をやったのか聞いているだけに、どす黒い感情が沸き上がってきた。感情的になるのは御法度だが今は気が高ぶっていて抑えがきかない。
 ソージンは拳を握ると男の顔面を強打した。鼻血を噴いて昏倒した相手に鋭く舌打ちする。焼きが回ったものだ。人さらいの現場に遭遇しただけなのに。
「貴様を取り押さえた人物がおれではなかったことに感謝するんだな。もし現場におれがいたら、間違いなく八つ裂きにしていたぞ」
 道行く者がこちらを伺っている。ソージンは男を袋に押し込み、二人の姿を確認した。人混みに紛れて逃げるかと思ったが、そこまで愚かではないらしい。
「乗れ。窓から姿が見えないように伏せていろ。この辻にいる連中には姿を見られているが、娼館街に入ってからは人目につかないはずだ」
 ジュペは上質な馬車の内装に目を見張ったが、窓から姿を隠した姿勢でクスクスと笑いだした。ソージンには何が面白いのか判らないが。
「いつまで笑っているつもりだ。あまり声を立てると不審に思われるぞ」
 少年の膝に頭を乗せて伏せた少女は可愛らしいが、ソージンの心はそれで癒されそうもなかった。こみ上げる怒りで二人にも八つ当たりしそうである。原因は己の過去にあるのだ。この子らには関係ないというのに。
「ジャムシードがどの娼館にいるのか判るんですか? こうして見回してみてもかなりの数の建物がありますけど。行き違いになるなんてことには……」
 ジュペの頭を撫でながら少年が不安混じりに問いかけてくる。表情こそ気張ったものだったが、内心では狼狽えているに違いなかった。
「心配するな。行き違いになれば呼び戻す。それに奴が仕事に呼ばれた館となれば限られてくる。そこに遣いを出せばいいだけのことだ。すぐに見つかる」
 なぜ断言できるのか判らないのだろう。少年は眉をひそめて外の建物を見比べた。外見の造りに多少の差はあれど、彼には見分けなどつかないらしい。
「あいつは腕のいい細工師だ。突発の仕事とはいえ雇えるところは多くない」
 元々ジャムシードの腕は良かったが、炎姫家で働くようになって知名度が上がったのだ。それを本人が自覚しているかどうかは知らないが。
 ジャムシードと別れたときのいきさつを聞けば、お人好しにも他人のヘマの尻拭いをしに行ったという。それで娘を誘拐されかけていれば世話はない。
 が、その肝心の娘はといえば、ソージンが「阿呆か、あいつは」と父親の行為を一刀両断したのが気に入らないらしく、頬を膨らませて不満を漏らすのだ。
「お父さんは困ってる人を助けに行っただけだもん。阿呆じゃないの! だいたい、あなた、お父さんの悪口ばっかり言って失礼よ。お父さんに謝って!」
「ジ、ジュペッ! 身内以外の男と外で口をきいたらダメだって!」
 あぁ、そういう風習があるのか、とソージンは今までの娘の無口ぶりにようやく得心がいった。引っ込み思案だから他人と関わらないのかと思っていたが、砂漠の民の女は年齢に関係なく身内以外とは極力接触しないのが常らしい。
「だって! お父さんを悪く言うんだもの。ガイアシュは悔しくないの!?」
「いや、オレだってそれは……。でもな、父親の許しも得ないままで他の男と話をしたらダメなんだって。慎みを疑われたらジュペだって困るんだぞ」
 寝転がって姿を隠すことも忘れ、少女は頬を膨らませ続けた。眼の縁には涙すら浮かべている。ここまで父親を信奉できるとは、ある意味あっぱれだ。
「ジャムシードが阿呆なら娘のお前は愚か者だ。こういう事態を招いた一因はお前にもあると思わないのか? お前の信頼はあいつには重荷でしかないぞ」
「ちょ……っ! ジュペを侮辱する気ならオレだって黙ってませんよ!」
 攻撃の矛先が突如向けられ、愕然とする少女を庇うように少年が立ち上がりかける。しかし、ソージンはそれを片手で制すると、夜空のように黒々とした瞳を娘に固定し、決して優しくはない口調で話し始めた。
「今し方の話では、以前にもさらわれかかり、しかもその目的も不明、捕まってもいないのだったな。で、初めはあいつも仕事を断ったのに、それを娘の言葉でひるがえした。どうして危険を伴うような真似をしたか判らんか?」
 青ざめ、唇を震わせる少女に突きつけるには酷なことだろうか。だが現実を知っておくべきではないのか。今という時間は否応なく動いていくのだ。
「あいつには家族を守れなかった過去がある。それも一度ならずと、だ。娘のお前が頼めば、あいつは厭だと言えない。そういう性分だ。特に成り行き上とはいえ、砂漠でお前やお前の母親を見捨てるような行為をした後なだけにな」
 ジャムシードは父親であることにこだわりすぎている。自分とて人のことを言えた義理ではなかった。だからこそ、いっそう腹が立つのだろうか。
「今回、お前をさらおうとした輩が数名は捕まったが大元の人間はまだだ。トカゲのしっぽ切りになる恐れもある。あいつが平気な顔をしていても、お前のことは負担でしかない。あいつのためにならん。サッサと砂漠へ帰れ」
「オレたちのことに口出ししないでください。あなたには関係ない!」
 ボロボロと大粒の涙を流して俯く少女を庇い、少年が怒鳴った。それを片手でサラリとかわし、ソージンは小さく鼻を鳴らす。
「関係はある。これ以上あいつの負担を増やすな。お前たちを庇えば庇うほど、あいつは泥沼にはまっていくんだからな。炎姫公女が周囲を抑えているが、炎姫公がこの事態を知ればあいつは処罰されることになる」
 子ども相手に大人げないのは重々承知だ。ジャムシードが隠していることを断りもなく暴露しているのだから。だが誘拐事件まで起こっているとなれば、そうのんびりと構えてもいられないのだ。
「あいつの出した政策が頓挫すればタシュタンの貧困層の苦痛が長引く。有能な人材が他地藩に流れ、炎姫家の力が弱まれば王家と三大公家との力関係も崩れるだろう。となれば、おれの主人サルシャ・ヤウンにも悪影響が及ぶ」
 ジャムシードの娘がさらわれそうになったという事態が、何を示しているのかまだ判らない。背後に何が蠢いているのか見極めなければなるまい。ジャムシードは己だけで解決しようとしているらしいが、事は簡単ではないのだ。
「ジャムシードは炎姫家と王太子との間を繋ぐ微妙な位置にいる。他にも色々と複雑な関わり合いの中にいるしな。些末事に煩わされている場合ではない。周囲にどう扱われているか知らんが、子どもだからと甘えるな。お前やイコン族の存在はあいつの喉元に刃を突きつけているのと同じだ」
 二度もジュペを襲ったことから明確な目的があると推察できる。それがタシュタン地藩内部の陰謀ではないとは言い切れなかった。あるいは他の地藩で利益を貪る者が横槍を入れるために騒動を起こしているのか。
「だけどっ。だけど、お父さんはここに居ていいって言ったんだもの。心配しないでいいって。必ずなんとかするからって言ってくれたんだもの!」
 泣き崩れる少女を抱きしめ、少年が青ざめながらこちらを睨んでいた。
「ジュペはまだ子どもです。そんな厳しい言い方をしなくても……」
「だが部族長の姪で、今はその養女だ。己の存在がどういう影響を与えるか、常に考えておかねばならん立場にいる。子どもであって子どもではない」
「それでも! 言い方ってものがあるでしょう。わざわざ傷つける必要などないはずです。まして、あなたはジャムシードではないんです」
「ジャムシードが言わないから言うんだ。誰も教えていないのなら、誰かが教えてやる必要がある。知らぬから赦されると思うな。知らぬことこそが罪になることもあるのだと、その胸に刻んでおけ!」
 本当に八つ当たりだ。白を白、黒を黒として捉えていればいい子ども時代の純粋さを踏みにじっている己は何様なのだろう。だが、無邪気に父を慕い、周囲に甘えている少女の姿が無性に腹立たしかった。
 ドロドロと胸に湧き上がる熱の禍々しさの原因から目を背け、ソージンは馬車の外を流れていく景色に視線を向けた。華やかだが虚構に満ちた街の佇まいはどこか物悲しく、また白々しかった。
 何をやっているのだろうか。反論できずに唇を噛みしめる少年を視界の端に引っかけたまま、ソージンは自分が少年と同じ歳の頃のことを思い返した。
 早く大人になりたいと願いながら生きていたように思う。だが、大人であることの責任をよく判ってはいなかった。年齢で区分する成年ではなく、本当の意味で大人であることがどういうことか、理解してはいなかったのだ。
 今でも自分が一人前になったという気分はしない。体力も気力も故郷にいた頃よりも遙かに強くなった。それでも、あの日、かつて自分の人生を狂わせたあの一日に立ち戻れば、同じ過ちを繰り返してしまうであろう自分がいることを、ソージンは嫌と言うほど悟っていた。
 己が持つ力は人を傷つける。あの日がそうだったように、今も相手を力でねじ伏せるやり方は変わっていなかった。そのためにどれほどのものを失ったか思い知ったというのに、それでも未だに同じことしかできないのだ。
 泣きじゃくるジュペを抱き寄せたガイアシュの手に見事な意匠の短刀が握られていた。少女を守るために特別にあつらえたかのように、それは少年の手に馴染んでいた。不意に先ほど買い物があると言った少年の言葉を思い出した。
「買い物はその短剣か? 随分と大仰な意匠のものを選んだな」
 武器を手にすることで己が強くなった気になるものだ。それを心のよりどころにしたい少年の気持ちはソージンにも理解できる。だが、それは時に脆さに繋がることも知っていた。一度でも打ち砕かれたら立ち直れないほどに。
「……ジャムシードが、いい目利きをしたと、褒めてくれたんです」
 渋々といった態度だったが、少年は素直に受け答えをした。その瞳の奥に誇らしげな色が浮かんだことを、ソージンは見逃しはしない。
 娘にとって父親が絶対的な存在であるように、この少年にもジャムシードは重要な位置にいるのだ。父親と同等か、あるいは別の意味でそれ以上の。
「それを大切にするんだな。今のお前には不釣り合いな代物だが、いずれ品に釣り合うだけの腕前になるはずだ。ジャムシードが目利きをしたのなら、お前がそれに相応しい人間になれると保証したも同じだ」
 言葉がどんな慰めになるか判らない。が、少年は口許を引き締めて頷いた。
 馬車の速度が落ち、目的地に着いたことを知らせる。娼館街の中でも一際大きな建物の測道を通り、裏庭の馬場で馬車は車輪を止めた。
「お待ちしておりました。先に知らせを受け、準備は整っております」
 出迎えたのはなんと楼主自身である。初老に差し掛かった男の眼を見つめ返し、ソージンは目の前の人物が相応に修羅場を潜ってきたであろうことを推測した。予定外の少年と少女の姿を眼にしても動揺ひとつ見せない。
 突発的な出来事にも冷静に対処できる人物が支配する場所だからこそ、王太子はここに囚人を閉じこめるよう命じたに違いない。この男は信頼に値するのだろう。王家の後援を取り付けただけのことはあるのだ。
「今日、この街で貴人の贔屓筋に挨拶回りをする館はあるか? この子らの連れが急な仕事に入っているはずだが、その男を呼んできてもらいたい」
 子どもたちを先に馬車から降ろし、ソージンは荷物入れから大袋を引っぱり出して自ら肩に担いだ。己の身長よりも大きな荷物を容易く背負う姿にガイアシュやジュペは驚いた様子だったが、楼主は平然としたものである。
「その者の名をお訊きしてもよろしいでしょうか?」
「ジャムシードだ。噂が集まるこの街なら、よく知っているはずだと思うが?」
 楼主はしっかりと頷き、よく存じていますよ、と返した。
「彼なら当館の工房に。いつもなら昼寝をしている娘らが色めき立っておりますが、仕事が終わり次第お連れしましょう。彼は注文を逃して残念でしょうが」
 思わぬ偶然に子どもたちは唖然とした。なんという確率。まさかジャムシードが王家後援の場所にいようとは。つくづく彼は王族と関わる運命らしい。
 子らを促して建物内を進みながら、ソージンは広いようで狭い世間を皮肉るように口角に苦笑を浮かべたのだった。