混沌と黎明の横顔

第07章:忘却に横たわる神 5

 フォレイアはジャムシードと子らが昼食に戻ってこないだろうと踏んでいた。
 厨房の料理人や役人の何人かは彼らが姿を見せないのでがっかりしていたが、庁舎前のやり取りを垣間見た者は、三人が食堂に現れないだろうことを炎姫公女と同じく予測していたようである。
 いつも通り仕事をこなしているようで、実は誰もがどこか上の空だった。
「父上に見つかったら厳罰ものじゃな。ジャムシードめ、ここをこんな腑抜けにした罪は重いぞ。帰ってきたらどうしてくれよう」
 フォレイアは執務室で決裁書類に署名する手を休めてぼやく。が、言葉の不穏さとは反対に、彼女も職員同様にうら寂しさを感じていた。外見が取っつきにくいので子どもに懐かれることは少ないが、公女は子どもが好きだった。
「早く戻ってくれば良いがのぅ。このままでは官庁内の仕事が滞りそうじゃ」
 この数日、利発な少年と無邪気な少女のお陰で食堂や休憩室は和やかな雰囲気に満たされ、庁舎内の厳めしさや硬直した気配が薄まっていた。
 強面で子ども嫌いを公言する役人ですら、ジュペがニッコリと微笑みかけると己の主張を引っ込め、休憩室に少女のご機嫌伺いのために顔を出すくらいである。イコン族の子らの威力は破壊的だ。子どもたちが砂漠に帰ってしまったら、ここはいったいどうなってしまうのだろうか。
「そのときはジャムシードに何らかの責任を取らせるか」
 子どもたちの行く末を案じ、また楽しみにしてるのは、今となってはジャムシードだけではないはずだ。都市の子どものようにすれたところがない砂漠の子らの純粋さは、堅苦しい官庁の役人すら魅了したようである。
 はたと我に返り、フォレイアは居住まいを正した。ぼんやりしている暇はないのに。だがしかし、数枚の書類を決済したところで彼女の仕事は中断された。役人が困惑した表情で面会を希望する者の存在を告げにきたのである。
 それが先ほどジャムシードとやり合ったイコン族であると聞けば、フォレイア自身も眉を顰めざるを得なかった。もしやジュペの問題を振ってくる気だろうか。だが退ける理由はなかった。面会を許すしかあるまい。
 フォレイアは執務机に散らばった書類をまとめた。彼女が書類を箱に収め終わると、案内人に連れられて面会人が入室してきた。てっきりジューザだけだと思っていた公女は、そこに登場した人物を眼にして小さく息を呑んだ。
 砂漠の外では滅多に見ることがない、イコン族の女が立っていたのである。
 眼許以外の全身を長布ジュラで覆い隠す女の姿はどこか神秘的だった。自分と同じ朱茶色の瞳だというのに、見たこともない不思議な色合いに見える。
 唖然とするフォレイアの耳に咳払いが聞こえた。それでようやく女の傍らにジューザが佇んでいることに気づく有様だった。
「ジューザ。いったい何を企んでおる。この者はいったい誰じゃ?」
 取り次ぎにきた役人の困惑の正体を知り、公女は渋面を作る。表舞台には出てこないはずのイコン族の女性を見れば混乱して当たり前だ。
「申し訳ない。我々が宿に戻ってみたら妹が妻と一緒におりまして。その、妹がどうしても公女様とお話がしたいと言ってききません。お時間が許せば相談に乗っていただけませんでしょうか。お忙しければ……」
「かまわぬわ。ジュペのことは早く解決せねば。ジャムシードがわらわの介入を喜ばぬので手出ししておらぬが、そろそろこちらも忍耐の限界じゃ」
 炎姫公の耳に入れぬよう公女の権限で官庁内には箝口令を布いていたが、人の口には戸を立てられぬ。いつ父の知るところとなってもおかしくない状態だった。解決の糸口に繋がりそうなことなら大歓迎である。
 執務室の一画には客人と話ができるよう椅子や机が設えられていた。ジューザとその連れをソファに案内し、フォレイアは廊下に顔を出して茶を用意するよう命じる。客人の向かいに座るまでの短い間に、彼女は二人を観察した。
「妻と妹と申したな。女だけで旅をして参ったのか?」
「まさか。いくらなんでも無謀すぎます。妻と妹は口実をつけて青の部族の剣士数名を護衛にして直接王都まで来たようです。大族長たちには流行病に効く薬を王都の薬商館まで買い付けに行くと言い残してきたそうですが……」
「青の部族に砂漠熱が流行していることにしてあります。ナナイが、兄の妻が助けを求めてきたので、私は部族の治療の手助けに出向いたことに。流行病が落ち着くまで他の部族は立ち入らないでしょう」
 会話に割り込んできた女の瞳は不躾なほどフォレイアを直視した。
 それにしても電光石火の早業だ。ジューザたちがタシュタン経由で旅してきたことを差し引いても、遅れることわずか数日でここまでやってくるとは。
「単刀直入に申し上げますわ、公女様。王国の法に触れるような真似はいたしませんから、如何なる結果になろうと我ら一族のことは無視してください」
 ギョッとして目を剥くフォレイアの目の前でジューザがあたふたしていた。
「それはタシュタンを統べる炎姫一族がイコン族に干渉することは好ましくないと言っておるのか? それとも特定の者を庇護あるいは排除する必要性があるが故に、第三者からの介入は目障りだと判断したか?」
「そんな……! 我々は炎姫公に逆らおうなどとは思っておりません」
 ジューザの顔から血の気が引き、長年放置された羊皮紙のように強張る。その隣に端座する女の眼は一瞬たりとも揺れなかった。さりとて怪訝そうに眼を細めて見返してくるわけでもない。まるで仮面劇の仮面のような眼差しだ。
 ジューザが権力者の機嫌を損ねることを恐れているのとは反対に、ジュペの母である女は己の言葉がどんな印象を与えるか知らずにいるとしか思えない。
「公女様はどちらだと思われます?」
 だがしかし、再び女の視線と眼が合い、フォレイアはそこに挑戦的な光を見た。何か知らないが、目の前の女は炎姫公女に敵愾心のようなものを抱いている気がする。こういう目つきに過去何度か遭遇したことを思い出した。
「二つの答えのうちどちらかであれば、炎姫家としては非常に不快なことじゃ。しかし、ファタナ砂漠との良好な関係を望む我が一族としては、どちらのものでもない回答を望む。……穏便に事態が収束することは我らの願いじゃ」
 フォレイアの発言に被さるように扉が叩かれ、入室を許可すると、官庁で働く従僕の一人が茶を乗せたワゴンを押して入ってきた。
 内心は好奇心ではちきれそうなのだろう。だが、従僕は己の仕事を実直にこなし、何事もなかったかのように退出した。
 それを待ちかねていたかのように女はジュラに手をかけ、頭部にまとわりつく布を払いのける。緩やかな黒髪の巻き毛が踊る様を、フォレイアはジッと見つめた。現れた顔はまさしく成長後のジュペを思わせる。
 これがジャムシードが妻にしようとしていた女か。そう思うと、奇妙な感慨のようなものが湧き上がってきた。平凡で人畜無害そうな男に見えるが、ジャムシードも他の男同様に見目良い女が好きなのかもしれぬ、と。
「私たちの利害は一致すると理解してよろしいのですか、公女様? それとも私の娘やジャムシードを巡って対立することになりますの?」
「タシュタンの役人とイコン族が揉めてはしこりが残る。それ故に今までは手出しを控えてきておる。その均衡を崩す気なら我らは介入もやむなしと考えておるのじゃ。イコン族内部で収めてもらえるのなら不干渉を貫こう」
 他人の言動に無頓着で己の望みにのみ忠実な女かと思ったが、目の前の人物はフォレイアが当初下した判断より利口な存在のようである。
 小賢しい知恵だけ持つ無知な女の振りをしてこちらの出方を伺い、改めて牽制のための釘を差してくるやり方は腹立たしいほど強引だが、作為的な行動を起こさない兄ジューザと良くも悪くも対照的な女だった。
「けっこうですわ。ではお互いに存在は黙殺するということで……」
 廊下で役人の何名かが制止する声が響く。今日は珍客が多い日のようだ。何事が起こったのかとフォレイアが腰を浮かせかかったとき乱暴に扉が開かれた。
「オレが従妹殿に逢うのになぜ許可がいるか! ふざけ……?」
 後ろに追いすがる者どもに怒鳴り散らす男を確認した途端、フォレイアは再び椅子に腰を下ろして溜め息をついていた。
「来客中じゃ、ジノン卿。少々不作法が過ぎるのではないか」
「イコン族のジューザが来ていると聞いたのでな。それなら同行してきたオレが一緒にいても問題はなかろうと思ったのだが……はて、その女は?」
 炎姫家もイコン族も互いへの干渉を控えると話をつけた途端にこれである。血縁であっても部外者に等しいジノンに詳しい説明をするつもりなどなかったのだ。が、説明せねば引きそうもないほど、不躾に三人を見比べていた。
 いつの間にかジューザの妹はジュラを目深に被り、顔が見えないように俯いている。夫以外の男には極力素顔を見せないイコン族の女の習慣だった。
「ジューザとその縁者の者だと聞いたところじゃ。彼女は街の薬商館で薬を買い求めるために王都に来ておる。その間の滞在許可を求めに官庁に足を運んだそうじゃ。それよりジノン卿こそ何用でここに……」
「炎姫公女を前にして被り物も取らぬとは不敬な。タシュタン地藩の民なら相応の敬意を払ったらどうなんだ。この国の法に照らせば……」
「ジノン卿。少しご相談したいことがある。すぐ終わるから廊下に出てもらえるか? 女性には聞かせづらい話なのでな」
 炎姫公女の言葉を遮って不満を漏らすジノンをジューザがさらに遮った。話に割り込まれて表情を歪めた男に青の部族長は素早く近づいていく。
 少し強引とも取れる態度で従兄が連れ出される様子を、フォレイアは苦々しい思いで見送った。連れ出されたときジノンの足許がふらついているのが見えたのである。どうやら彼は昼間から酔っぱらっているらしい。
「申し訳ない。他国に嫁いだ叔母の息子ゆえ、ここの因習に疎いのじゃ。悪気はない。たぶん今頃はジューザに習慣の違いを聞いておるであろう」
 言い訳がましいとは思ったが知らずにもめ事を起こそうとした者が従兄である以上、弁明はしなければなるまい。
「気にしてはおりません。でも彼が炎姫家の当主になるようであれば、我らイコン族の扱いがどういうものになるのか、今のことでよく理解しましたわ」
「ジノンが当主……? 彼は我が家の客分にすぎぬ。炎姫公が跡継ぎと認めぬ限りはなんびとと言えども、炎姫大公家の当主を継ぐことは叶わぬぞ」
 再びジュラをずらした女の表情は先ほどと同じく敵愾心に満ちていた。いったい何が気に入らぬのか。言葉に含まれる棘といい、冷たい眼差しといい、こちらを支配者の一族と判って挑発しているのならやりすぎだった。
「ですが、彼はそうは思ってはいないのでは? あなたと結婚すれば炎姫公の義理の息子になれますもの。大公ご自身の胸中はどうであれ、周囲は炎姫公の地位にもっとも近い者として扱うようになりますわ」
「ファタナ砂漠にそのような噂が流れておるのか? それとも王都に辿り着くまでの道程で見聞きした流言を耳にしたのか? 我が夫となる者は父アジル・ハイラーが決める。他者の戯れ言になど惑わされぬことじゃ」
「姉娘に駆け落ちされた大公に妹娘の夫を見つける力がありまして? 世間は子どもも御せぬ不甲斐なさを嘆いておりましょうね」
 フォレイアは目を見開き、奥歯をきつく噛み締めた。ここまで徹底的な悪意を向けられる理由はなんだ。目の前の女は何がしたいのか。
「父を侮辱することは許さぬ。炎姫公は適切な時期に適切な判断をする!」
「では炎姫公があなたの夫を選べぬということは、あなたご自身に問題があるのでしょう。炎姫家の一員としての責務を果たせぬ何かがあると……」
「黙れ! 妾は炎姫家での役目を果たしておる。何を根拠にそのようなっ」
 目の前の朱茶色の瞳が細められ、フォレイアを通り越したどこか遠くを見た。
「あなたが初めに止めたからよ。兄とジャムシードの言い争いを放っておけば良かったのだわ。そうすれば内輪もめで収められ、兄も自分の間違いにすぐに気づいたでしょうに。下手な仲裁などしてくれたお陰でこじれてしまった」
 王国の法とイコンの法の違いを知らぬのはあなたも同じだと囁かれ、公女は茫然とした。この事態を招いたのは彼女自身だと? 頭が混乱した。
「イコン族の男は体面や名誉、道義を重んじますわ。でも本音も忘れてるわけではないの。自分が二律背反に陥らぬよう体面を取り繕いつつ本音を押し通すやり方を無意識のうちにします。兄もごたぶんに漏れずしでかしましたわ。本人は無自覚だったようですが隠された本心は行動に現れますもの」
 会話の内容が理解できずフォレイアは混乱したまま首を傾げる。説明を求めたことは仕草で判ろうに女は鼻を鳴らしただけだった。教える気はないらしい。
 はっきりと言葉での説明を要求しようと公女が口を開きかかったとき、それまで廊下で話し合っていたらしき男たちが再び室内に戻ってきた。
 酔ってはいてもまだ正気を保っているジノンは、ばつが悪そうに女たちから視線を背けている。対してジューザのほうは妹がイコン族の女性としての貞淑さを保っているかどうかを不安げに観察している気配を漂わせていた。
 つい今し方までジュラを払いのけていたのに、公女の前に座る女は恐るべき早技で眼許以外を覆い隠して見せた。背後にある扉に常に注意を払っていたとしか思えない。外見からは想像できない計算高さだった。
「ジノン卿もお話があるだろうから我々は失礼することにしましょう。お忙しいときに妹のためにお時間を割いていただいて感謝しております。また近日中にでもお逢いできますか。……たぶん、お暇乞いの挨拶になりますが」
 ではジャムシードとの間の決着は明日にでもつけるということか。今までの膠着状態がそれほど簡単に解消できるものなのか疑問だったが、瞼を伏せながら抜け目なくこちらを視線で牽制する女ならやってのけるのだろう。
「いや。妾も貴重な話を聞かせてもらい有意義な時間であった。滞在許可証はすぐに発行できるように取り計らうゆえ、下の休憩室で待っておるがよい」
 動揺は完全には去っていなかった。が、人前で平静を装うことはできる。許可証発行の命令書を準備しながらフォレイアはイコン族の二人に退室を許した。
「変わった因習のある部族だな。あいつも自慢の妹なら見せびらかしてやればいいものを。あんな辛気くさい布で全身を覆い隠すなどどうかしている」
 特異な外見の二人が出ていくと、椅子に座り込んだジノンが不平を漏らす。
「イコン族の女性は他の地域よりも慎み深さが重んじられるのじゃ。あの土地の娘たちを誘惑しようものなら親兄弟に叩き殺されることになる。……ところで従兄殿。今日はいったい何用じゃ。酔漢に絡まれるのはまっぴらじゃが」
 命令書を素早く作り、公女は書記官を呼びつけるとその後の指示を出した。
 嫌味を織り交ぜたのが判ったのだろう。ジノンがしかめっ面になり、次いで手をつけていない客人の茶を飲み干した。少しは昼間から酒臭い息をしている現状を反省しているのかもしれない。
「久しぶりに不愉快な気分を洗い流すのに大酒を浴びたよ。……ったく。厭な相手と無理に食事などするものではないな。仕事だと割り切るにも限度がある」
「商談を失敗してやけ酒か。交渉ごとは一緒に仕事をしている男に任せてあるのではないのか? まさか仕事仲間と仲違いをしたから仲を取り持って欲しいなどとは言うまいな。そのようなことまで手助けはできぬぞ」
「まさかっ。キッショーボーと仲違いなどしてないぞ。今日の食事相手はオレ個人のことで逢っただけさ。それで……前に伯父貴の墓を詣でたいと頼んでおいただろう? 従妹殿の空いている日程を教えてもらおうと思ってな」
 あぁ、そのことか。フォレイアは今まですっかり失念していた過去の約束を思い出し、堅苦しく頷いた。忘れていたことは言わぬほうがいいだろう。
「官庁付きの秘書官が妾の日程を把握しておるはずじゃ。彼らと相談してもらえるか? たぶん僧院訪問という名目で調整できよう」
「なんだ、自分の日程をすべて憶えているわけではないのか」
 公女は苦笑を浮かべそうになり、すぐに表情を押し殺した。時間のやりくりに頭を悩ませていては仕事にならぬほど忙しいことを従兄に伝える必要はない。
「秘書官がいるのに使わぬ手はあるまい。彼らにも仕事は必要じゃ」
「まぁ、そういう考えもあるか。給料泥棒な気もするがな。それでは出来るだけ早い日取りで出向けるよう調整してもらおう。仕事中に邪魔したな」
 出ていこうとしたジノンが立ち止まり、振り返りながら問いかけてきた。
「今夜、一緒に食事でもどうだ? 時間が空いていれば、だが」
「すまぬな。今夜は貴族の何名かと予定があるのじゃ。またの機会にでも」
 残念だな、と言い残して男は出ていった。最初に室内に入ってきたときよりスッキリした表情をしてから酔いは醒めつつあるのだろう。
 人がいなくなるとフォレイアは深い溜め息をつき、椅子の背もたれに寄りかかった。先ほどのジューザの妹が向けてきた敵意が少し堪える。
 往来の真っ直中で喧嘩を始めそうだった男たちを止めたことは、王国内の法律を考えれば適切だった。だがあの女はそう思わなかったのである。
 滅入った気分を解したい。公女は息抜きのため階下に降りることにした。
 そっと扉を開けて滑り出ると、廊下の奥でジノンが秘書官と立ち話をしている姿が見える。熱心に話し込んでいて、こちらに気づいていないようだ。
 このまま階下に降りよう。フォレイアは足音を忍ばせて階段を降りていった。
 どこへ行くというわけではない。何も考えずに歩き回っているだけでも荒れた気分を落ち着けることはできるが、人目を引きたくはなかった。
 今の時間、役人たちがいない場所と言えば厨房が一番だろうか。昔からいる調理人に頼んでワインを一杯飲ませてもらい、彼らが夕方の軽食を作る様子を眺めているのも悪くない。子どもの頃から厨房は彼女の遊び場だったのだ。
 廊下を進んで食堂へと足を踏み入れる直前、フォレイアはハタと立ち止まった。話し声が聞こえる。しかも、それは逢ったばかりの人物のものだ。
 彼女は食堂内を覗き込み、そこにいる人物を確認する。てっきり休憩室にいるとばかり思っていたが、ジューザとその妹は人目のない食堂にいたのだ。
「いい加減に機嫌を直せ、ハムネア。お前らしくもない」
「機嫌を直せ? どの口が言うわけ。ジュペのことを頼んでおいたのにほったらかしにして。おまけにナナイにまであんな仕打ちをしておいて、機嫌を直せですって? 私を馬鹿にしているわけ!?」
「ほったらかしにしているつもりはなかったんだ。ナナイのことも。子どもが産めるかもしれないんだぞ。夫であれば少しでも協力してやりたいと思うのが当然じゃないか。それすらさせてもらえないというのか!」
「ナナイが子どもを産めるのならけっこうなことよ。産むなとは言っていないわ。これまで彼女は心ない言葉に散々打ちのめされてきたのだもの。だけど、それとジュペのこととは別よ。あの子が部族内でどういう立場に立たされていたか気づきもしなかったと言う気? そんな言い訳、私には通用しないわよ」
 口ごもったジューザを責める女の声は鞭打つが如く厳しい。言葉に刃の力があるなら、兄を切り刻んでしまうことだろう。
「ナナイは息子を産めという兄さんの言葉に追い詰められていたわ。眠っているジュペの枕元で愚痴をこぼすほどにね。眠ったふりをしていたあの子が、その言葉でどれほど傷ついたと思っているの! 私は許さないわよ、絶対に!」
「子どもの産むなら娘より息子のほうがナナイの立場が良くなると……」
「そうやって周囲に見栄を張った結果がこれ? それではジュペはいらない子だと周囲に言い放ったも同然じゃないの。何もかも兄さんのせいよ!」
 囁き声で罵る女は嵐のように激しかった。従順なはずのイコン族の女性にしては凄まじい。それともイコン族の女たちは幾つもの顔を持っているのか。
「暢気なものよね。公女様に仲裁してもらって自分の矜持が保たれたと思っているわけ? 他の誰が許したって私は許さないわよ。この償いはしてもらうわ。これから私がやることを考えたら、少々の償いでは済まないわよ」
「判ってる。お前が怒っている原因はよく判っているから……」
「判ってなんかいないわッ! よく私にこんな真似をさせたわね。私がどんな思いで引き受けると思っているのよ。兄さんが私の立場だったら許せたとでも言い訳するの? 私は、これから永遠にジャムシードを失うのよ!」
「ハムネア! お前は今、クラングの妻だ。ジャムシードのことで滅多なことを言うものじゃない。クラングの耳に入ったら抜き差しならない状態になる」
「兄さんが気にしているのは自分と部族の地位がイコンの中で貶められる危険性だけでしょう! なんのために私がクラングの元にいると思っているの。ジュペと部族を守るために、彼を見捨ててまでっ!」
「落ち着け、ハムネア。ジャムシードなら大丈夫だ。判ってくれる。今回のことも部族を守るために上手く立ち回ってくれているじゃないか」
「ジャムシードが守っているのは部族じゃないわっ。ジュペのためよ! そんなことも判らないの。部族長がきいて呆れるわ!」
 女の声が震えてきた。怒りよりも哀しみが勝ったその叫びには涙が混じっているようである。足が動かずフォレイアは息を潜めていた。
「泣くな、ハムネア。そんな顔をして泣かないでくれ。悪かった。俺が悪かったから。そんなに泣いたら覆布サーがグシャグシャになるじゃないか」
 フォレイアは「あっ」と小さく声を上げそうになったが、寸でのところでこらえた。頭部から覆う布だったのでジュラだと思い込んでいたが、貴人用のサーの変形であればイコンの女性がまとう布はサーと呼ぶべき品だった。
 何も判っていない、と叫ぶ女の声が甦り、フォレイアの心を突き刺す。こんな単純なことすら取り違えていたのだ。それを改めて突きつけられた。
「ジャムシードを忘れるなんてできない。……できないのに、忘れなければならないなんて。恨むわ、兄さん。ジュペから父親を取り上げたことも!」
 悲痛な声と押し殺した嗚咽が食堂を満たす。それを聞いていられず、フォレイアは逃げるように執務室へと駆け戻っていた。