混沌と黎明の横顔

第07章:忘却に横たわる神 4

 隣を歩く小柄な存在と腕の中にいる小さな存在が僅かばかり萎縮しているのをジャムシードは敏感に感じ取っていた。
 ジューザとのやり取りを見た後で無邪気に笑っていられるほど、二つの存在は無知ではない。むしろ子どもにしては聡いところがあるジュペなどは、己が原因となっている父と伯父との不和に心を痛めているに違いなかった。
「ジュペ、何が食べたい? 昼食は外で食べるから好きなものを言ってごらん」
 抱きかかえられたまま少女が顔を上げ、ジャムシードの顔を見つめる。が、問いに答えず、助けを乞うように父親の隣を歩く少年へと視線を転じた。
「あの、ジャムシード。オレもジュペも最近食べ過ぎです。皆よくしてくれますが、普段から食べつけていないものばかりで。少し節制したほうがいいかも」
 少女の訴えをどう解釈したのか、ガイアシュが控えめに口を開いた。
「そうか……。確かにファタナ砂漠での食事量よりは多いだろうな」
 ジューザとの会話を聞いて、改めて自分たちの微妙な立場を考え直しているのだろう。食事が喉を通るような気分ではないに違いない。
 食事をする気がないのなら、どこか気晴らしができる場所に移動しようか。そう考えていたとき、ジャムシードを呼ぶ声が聞こえてきた。
 誰だろう。振り向くと、行き交う人の間から手を振って近づいてくる人影が見えた。一人の娘が髪に挿した花飾りを揺らしながら駆けてくる。ジャムシードはそれが職人仲間の少女であることを認めた。
「お久しぶりです、ジャムシードさん。向こうの辻から姿が見えたので……」
 娘は少し息を切らしている。よほど慌てて走ってきたのだろう。そう急がずとも逃げはしないのだが。この娘は知り合った頃から少々せっかちなところがあった。それを思いだし、ジャムシードは苦笑を漏らした。
「ノティナ、相変わらず忙しそうだな。女将さんたちは元気?」
「えぇ、私もお師匠さんも姉さんたちも相変わらず元気でやってます。ジャムシードさんこそ、最近はさっぱりお店に顔を見せてくれないですよね。モスカイゼスから聞きましたよ。お役所の仕事にかかりっきりだって!」
 ニコニコと笑っているが、娘の視線は抱きかかえているジュペとガイアシュの間を行き来している。二人がジャムシードとどういう関係なのか気になって仕方がない様子だった。モスカイゼスと話しはしても、最近のジャムシードの様子はあまり聞き出せてはいなかったらしい。
「これから昼食? それとも急ぎの仕事でも入った?」
 髪結いの店で働いているノティナだが、店だけが仕事場とは限らなかった。手ぶらで出掛けても、その場にあるもので相手の髪を結い上げて飾ることができるくらい腕前は確かな髪結い職人なのである。
「あ、そうなんです。これから歓楽街エルマイナのお得意さんのところで仕事が入っていて。あちらは道具も飾りも何もかも揃っているから助かりますけど、仕事の出来にはどこよりも厳しいから気合いが入ります」
 娘の視線はまだジュペの上を彷徨っていた。しかし、ジャムシードとの会話で僅かばかり意識が反らされ、自分の仕事のことを思い出したようだった。
「どの飾り職人でも“花”を飾るのは気を使うさ。あそこは権を競う意識が強いからな。でも半端な美意識の貴族に気に入られるよりいい。彼女たちの審美眼は本物だ。特に花館生まれの者の目利きはずば抜けてるし」
 立ち話をして仕事に遅れてはまずいだろう。ジャムシードは娘を促すと、都市の中でもっとも華美な地区へと足を向けた。
 歓楽街は毎日が祝日のように浮かれた街である。本来、子どもを連れていく機会はほとんどないのだが、今日くらいはいいだろう。
 立入禁止の場所に足を踏み入れなければ保護者同伴であちこちを見て回れる。娯楽が集中しているので移動の時間が取られないのもありがたい。
 午後からも仕事はあるが切羽詰まってはおらず、明日以降に回せた。今は何よりもジュペを優先させるべきだろう。気落ちしている少女の気晴らしになるかもしれない。その程度の気楽さでノティナと連れ立って歩き出したのだ。
「役所の仕事は大変じゃないですか? 意地が悪い人もいるって聞きますけど」
「そうでもないけどな。それに忙しくしていると余計なこと考える暇もないよ」
「確かに忙しいと深く考えてられないですね。特に慣れない仕事のときって、それで頭がいっぱいですもの。ジャムシードさん、ちゃんと食事してます? 忙しいからって抜いてるなんてことは……」
 昼食時に店にも入らずにいるから危ぶんでいるのだろうか。下から顔を覗き込んだノティナの顔は心配げであった。それに微笑み返し、首を振る。
「役所では食事の時間は貴重な打ち合わせの時間だから抜いたら仕事にならないよ。外回りの仕事も夕食のときに話し合いをする機会が多いしな」
「へぇー。でも落ち着いて食事できないですね。ずっと仕事仕事で」
 実はそのほうがありがたいのだ。が、それを詳しくノティナに話す必要はあるまい。考えたくないことを無理に頭から引っぱり出すことなどないのだ。
 ジャムシードは曖昧な笑みを浮かべ、娘と並んで歓楽街の奥へと進む。抱きかかえたままのジュペは黙りこくり、斜め後ろを歩くガイアシュも沈黙を守っていた。子どもたちの元気がないことにノティナも気づいているだろう。
 何があったのかを詮索したくてたまらないはずだ。娘の視線は時折、好奇心に満ちたままジュペや後ろのガイアシュへと引き寄せられている。
「ジャムシードさんたちは露天市のほうに行くんですよね?」
「あぁ、これから露天を冷やかして、それから仕事に戻る予定だよ」
 三人の関係を聞き出したくてたまらないのに、ノティナはそれを敢えて我慢しているのが隣を歩いているとよく判った。互いを紹介しないジャムシードの態度に非礼があるのだが、それをとやかく言わない配慮が助かる。
 ジュペたちを長期間この街に滞在させておくのはイコン族にとって良くないと判断しているジャムシードにとっては、余計な噂を立てられて子どもたちがあらぬ好奇の目で見られるような立場になることは避けたかった。
 他の女たちなら間違いなく開口一番に訊ねたはず。良く言えば親しみやすく、悪く言えば厚かましいのだ。あの大通りで出逢ったのがノティナで良かった。
「今日はここでお別れですね。またお店にも顔を出してくださいよ」
「手が空いたらね。俺じゃなくても、モス兄ぃが顔を出すから問題ないだろ」
 更に奥に進めば娼館が並ぶ通りへ向かう辻に出た。ここから左右に広がるのが通称“谷”と呼ばれる通りになる。ここから先は春をひさぐ場所。成年前の者が足を踏み入れることは原則禁止だった。
 通りの向こうは見える。だが行くことはできない。それ故に“谷”と呼ばれる通りで、そこから先の濃密な気配を僅かながら垣間見ることができる辻だ。
「モスカイゼスさんはあまり質問に答えてくれないから。ジャムシードさんなら他の街のこととか聞き易いんです。皆待ってますから、手が空いたら絶対に顔を見せてくださいね! それじゃ、遅れたらまずいんで行きます」
 娘の背が辻を渡って建物の陰に消えるまでジャムシードは見送った。その間もジュペは父親の首にしがみついたままである。九歳にしては小柄だが、幼児ではないので本当なら抱きかかえているのも限界に近かった。
「お父さんは女の人の知り合いがいっぱいいるのね」
 不機嫌さ丸出しの低い声が斜め上から聞こえる。首を捻って見上げれば、口を曲げたジュペが頬を膨らませていた。
「ジャムシード。こんなときによく暢気に見送りなんてできますね」
 背後からも不満たらたらな声が響く。身体ごと向き直ってみれば、ガイアシュもジト眼でこちらを睨んでいた。
「お前たち何を怒っているんだ? 俺は職人仲間と話をしていただけだろ」
「だったら大通りで別れたら良かったんです。なぜあの人をここまで送ってくる必要があるんですか。何か下心でもあるんじゃないんですか?」
 あぁ、そういうことか。二人が何に怒っているのかようやく気づいた。
「別に彼女を送ってきたわけじゃない。俺はこの辻に来たかったんだよ。ホラ、ここは端から端まで露天店が並んでいるんだ。朝市は日用品が主体だけど、ここだと装飾品や嗜好品が多くなる。こういう市を眺めるのもいいだろ?」
 ジュペを下ろすと、ジャムシードは二人の視線を通りの両端へ促した。
 辻商人が場所を借りて出店する市なので、紛い物や粗悪品が出回ることもある。だが驚くほど出来の良い品が安価に出てくることもあった。
 ジャムシード自身は見習いの頃から目利きの練習を兼ね、師匠や兄弟子に連れてきてもらったこともあり、こういう場所に足を踏み入れることに抵抗がない。しかし、都市に馴染んでいないジュペやガイアシュには異質な場所に映ったのだろう。この歓楽街は人の心を混乱させる独特の雰囲気があるのだ。
「ジュペも耳対ウィーテ足飾アシュテを自分で選べる歳だし、ガイアシュも懐剣を持てる歳になる。ここで目利きの練習をしてみたらいい」
 大広場に建つ商館やその系列の商店なら品質も確かな商品が並べられている。だがファタナ砂漠にやってくる商人は真贋ごちゃ混ぜの品を持ち込む貿易商崩れの者も多かったはずだ。そういう連中相手に偽物を掴まされたと食ってかかってものらりくらりとかわされて終わりである。
 自分の目さえ確かなら騙されることはないのだ。これから先の生活で、物の真贋を見分ける眼は二人には必要なことだろう。
「俺がついてるから遠慮なく選んでみろ。自分の目で本物を選べたら買ってやるよ。俺も子どもの頃によく露天商で練習させられたからな。お前たちも目利きの腕をあげておくほうがいいだろう?」
 二人の眼が明るく輝いた。それを認め、ジャムシードはそっと微笑んだ。
 大人の確執を子どもが気に病むことはない。憂さ晴らしをして無邪気に笑っていたらいいのだ。子ども時代などアッという間に過ぎ去ってしまう。
 表面だけを見ればジャムシードとジューザの言い争いは平行線を辿っているように見えるだろう。しかし、今日のジューザの様子から察するに、彼がジャムシードの本音に気づくのも間もなくだ。
 二人の背を押し、ジャムシードは露天店の一つを覗いた。
「さぁ、ガイアシュ。お前からだ。自分向きの短剣を見極めてみろ」
 懐剣にするなら小振りな品を選ぶ必要がある。刃の反り加減、柄の握り具合など自分の好みを見つけるのは初心者には難しいはずだ。が、ジュペの護衛を短期間ながらしていたせいか、ガイアシュは迷わず一つの品を手にした。
 掌で重さを計り、鞘から刃を払い、鋼や焼きの入り具合を睨む目つきだけなら一人前だった。柄のぐらつきを確認している少年の横で、ジュペが伸び上がるようにして並んだ短剣を見回している。退屈するかと思ったが、意外にも少女は興味深そうに鞘や柄の飾り物を検分していた。
「これ、一つ目の候補にしておきます。他にも店を回って色々と見たいから」
 他の品には見向きもせず、ガイアシュが最初に掴み取った短剣を差し出す。それを受け取り、ザッと眺めた後、ジャムシードは小さく頷いた。
「いい判断だ。だが他にも出来の良い品は並んでいるぞ。どうして最初に見たこれにしたいと思ったんだ? 他を見るのが面倒になったか?」
「それが一番華美すぎず、地味すぎないってのもあるけど。一目見てこれだと思ったんです。装飾で持つ短剣ではなく、でも自分のやるべきことを教えてくれる品だと思ったから。手にしたときの重さもしっくりきたし」
 随分と感覚的な選び方をしている。だが選んだ品は確かな品だった。見てくれだけ派手な品や実用一辺倒で味も素っ気もない品も並んでいる中で、これから自分が大切に使っていく品を選び取る眼は少年に備わっているようだ。
「お父さん。わたし、これが欲しい」
 会話に割り込み、ジュペが上着を引っ張る。指さす先を見て溜め息が出た。
「ジュペ。その短剣はお前には大きすぎる。持ち歩くには重いぞ」
 頬を膨らませて不満げな顔をする少女の頭を撫でたガイアシュが、件の短剣を取り上げた。しげしげとそれを眺めた後、ジュペの目の前に差し出す。九歳の子どもには不向きな短剣を、少女はしっかりと両手で受け止めて微笑んだ。
「ジュペ、どうしてその短剣が欲しいんだ? 両手で持つのでやっとだろう?」
 ジャムシードは身を屈めて短剣の意匠を眺めた。銀細工で覆われた柄の所々に石榴石ガーネットが留められた華やかなものである。単純に外見の美しさに惹かれたのだろうか。
「この模様、お母さんの二叉琴フーゴに彫ってあるのと一緒だから」
 思わず息を呑み、ジャムシードは改めて意匠を確認した。銀細工の具合ばかりに目を奪われていたが、そこには間違いなく星神ヤヌの花カリアスネが刻まれている。この短剣はポラスニアの婚礼で使われる品に違いない。
 ヤヌの民を自負するイコン族にとってカリアスネは他民族よりなじみ深い花だ。それを知っているからこそジャムシードはハムネアの二叉琴にあの花を彫る仕事を受けたのだが、今になってその注文の真意に気づかされた。
 薬草を扱う仕事を手伝っていたハムネアは王国内でのカリアスネの花言葉を知っている。赤朴ヌアバ樹の赤い面に彫られた花の意味は……。
 それ以上を考えるのが苦しすぎ、ジャムシードは少女の掌中にある短剣から目を反らした。姿勢を正し、あらぬ方角を向きながら小さく吐息を吐き出す。
「ジュペ。それは婚礼用のものだからお前には早すぎる品だ。他のにしなさい。どうしても花の紋様の品が欲しいなら、短剣ではなく髪飾りにするといい」
 母親の琴に彫られた紋様と同じ紋様を刻む剣を欲しがるジュペの心情は単純なものに違いなかった。だが、錐を打ち込まれたように胸が痛むジャムシードには、それは罪悪感を刺激する行為でしかない。
 父親の硬化した態度に気づいていない少女は不満げに口を尖らせていた。が、気配に敏感になっているガイアシュが幼い手から短剣を取り上げ、再び少女の滑らかな髪を撫でながら慰めの言葉を囁きかけた。
「ジュペ、これはいくらなんでも高価すぎると思うよ。ジャムシードの財布がスッカラカンになっちゃうぞ。他のものを探そう?」
「……うん。判った。他のを探す。でも、お母さんと一緒のがいい」
 まだカリアスネにこだわっている。ジュペに罪はない。判っていても、ジャムシードはすぐには微笑みかけることができず、引きつりそうになる頬を子どもたちに見せないようさりげなく隠すので精一杯だった。
 ハムネアはジュペほど素直ではない。本心と逆の言動を繰り返すことがある。それを失念し、気安く紋様を刻んでしまった。
 ポラスニアなら婚礼用の品は白木のアマン樹にカリアスネを彫る。単純に考えれば、ヌアバ樹の赤い木肌に彫られた星神花は“別れの慟哭”を意味した。
 だが、素直に自己の内心を吐露しないハムネアが、もしも逆の花言葉を込めて注文したのだとしたら、それはどういう意味を持つものになるのだろうか。最悪の事態が脳裏を過ぎり、背筋が凍った。
 なぜ、今この瞬間にこんな予感が過ぎったのか判らない。ジュペが母の持ち物に彫られた紋様のことを口にしただけなのに。
 大族長の跡取り息子の側妻としてサランティーにいる彼女の手許にカリアスネが彫られた品がある。別れの慟哭を意味する花が。何に対する慟哭か。花にまつわる神話を知る聡い者なら気づくかもしれない。
 夫であるクラングは気づいているだろうか。気づけば面白くはないに違いない。その意味に、誰も気づかなければいいのだが。
 ヒタヒタと忍び足で近づいてくる厭な予感に心が塞いだ。
 向こうの露天も覗くのだと騒ぐ子どもたちに引っ張られ、ジャムシードは足許をもつれさせながら店から店へと渡り歩く。その間も、砂漠でハムネアが琴の紋様を彫ってくれと言っていた瞬間へと記憶は舞い戻っていた。
 紋様彫りはジャムシードがオズモーに襲われる前に頼まれた。彼女の言葉に他意があったとは、普通なら思わない。イコン族になじみ深い花を彫って欲しいとねだっただけだと誰しもが思うはずだ。
 つい今し方まで、ジャムシード自身もそう思っていたのである。だが、短剣を愛おしそうに見つめるジュペの顔を見た途端、恐ろしい予感が脳裏を過ぎっていった。今はその考えから逃れられない有様である。
──ジャムシード。落ち着け。過去は過去。未来はまだ何も起こっていない。
 意識の最奥に居候する者に囁かれ、思考は迷宮の縁で立ち止まった。
『ファレス。俺はいったいどうしたっていうんだ。なんで急にこんなこと……』
──心を揺らすな。お前の思念は具現化しやすくなっている。聖なる息子ル・オルグは心の隙間につけ込む気だ。
 納得できる説明もなしに落ち着けるものか。反論しようと意識を内側に向けた。が、ガイアシュに腕を叩かれ、渋々と現実に引き戻される。
「あの人、戻ってきたよ。誰か探してるみたいだけど……」
 振り返れば、先ほど別れたノティナが人混みを掻き分ける姿が目に入った。
 キョロキョロと周囲を見回す横顔が、糸に引かれたようにこちらを振り返る。視線がぶつかった途端、娘の顔が安堵に崩れた。
「ジャ、ジャムシードさん! お願い。助けて下さい!」
 人にぶつかるのもかまわず、ノティナはバタバタと駆け寄ってくる。よく見れば、彼女の後ろから娼館の下男と思われる者もついてきていた。娘の忙しなさに引きずられるように男の足取りも宙に浮いているように見える。
「何があったんだ? 花館の楼主と衝突でもしたのか?」
「あの! その……ちょっとこちらへ。お願い、こっちに!」
 人前で話ができないということか。ノティナと下男はしきりとジャムシードの袖を引いた。腰にしがみついていたジュペが「うぅー」と小さなうなり声を漏らして抗議する。沈黙を守るガイアシュも剣呑な気配をまとっていた。
「ジュペ、こっちにおいで。ガイアシュ、お前も一緒に来い」
 押し問答をしていても埒があかない。子どもたちも一緒なのを下男は批判的な眼で見るが、ノティナはそんなことにかまっていられないようだった。
 未成年者が渡ってはならない“谷”の手前、娼館街の間際まで引っ張ってくると、もう一寸も待てぬと口を開いた。
飾り護符トゥルクルが壊されたんです。揃いの飾り櫛も。戯姫さんの大得意客から贈られた品で、今日はその品を身につけてご挨拶に上がることになってるんです。壊れたなんて言い訳は通用しません」
「旦那、お願いします。細工を直しておくんなさい。この通りです!」
 頭を下げる下男はノティナが逃げ出さないようについてきたのだろう。壊したのがノティナでなくても、贈り物の飾り細工が壊れたなどと吹聴でもされたら楼館の信用問題に発展することもあり得る。この街の口止めは厳格だ。
「飾り細工を元通りに直すとなったら簡単にはできないことも多い。俺に頼まれても完全に元通りになる可能性は低いぞ。細工をした職人本人に連絡は?」
「内密に連絡を取るのは無理です。贈り主お抱えの細工師なんですから。他の楼にも気づかれないようにしないと。ジャムシードさん、時間がないんです。お願い。ご迷惑なのは重々承知してます。でも、間に合わせたいんです!」
 腕に抱きかかえたジュペがもぞもぞと身動きする。そっと耳元で「お父さん」と呼びかけられ、ジャムシードはチラリと視線を動かした。
「ガイアシュと一緒に待ってるから行ってきて。おねえさん、困ってるよ?」
 その素直さがなんともやるせない。もっと我が侭を言いたい盛りだろうに。ジューザの姪だからか、それとも独り身で子を産んだハムネアを母に持つが故にか、ジュペには無邪気さと対を成すように従順すぎるところがあった。
 少女が反発したり我を通そうとしたりするときは、よほどのことなのである。だから、普段は周囲に子どもらしからぬ気を使うことばかりだ。無邪気さの仮面に隠れて気づかぬ者もいるが、それを知る者からしたら痛々しかった。
「ジュペ、お前が心配することじゃない。これは他人の問題だよ」
 ノティナが困っていることは判るが、他人の細工したものを直すのは手間がかかる。他人が直したと知れば不快に思う職人もいるのだ。ジャムシードは他の細工師と悶着を起こしたくはなかった。それに……。
「でも、お父さん。お母さんなら絶対助けに行くよ? 赤ん坊のいる女の人やお年寄りのいる隊で手が足りないと聞けば、絶対に手伝いに行くんだよ?」
 ノティナの話など聞かせなければ良かった。部族長の妹として部族を支えてきた母親を見て育ったのなら、こう言い出すことは判りきっていたのに。
 一瞬、胸に苛立ちが募ったが、ジャムシードは溜め息を押し殺してジュペを地面に下ろした。すぐさまガイアシュが近寄り、少女を守るように寄り添う。
 その姿をしばし眺め、ジャムシードは複雑な吐息を吐き出した。二人はこうやって砂漠を抜け、街道沿いを旅してきたのだろう。子どもながらに周囲に隙を見せないよう、自分たちを守るために。
 本来はノティナの懇願を断るべきなのだろう。他の職人との悶着も避けたいが、何よりもジュペをさらおうとした者どもの正体が掴めていない現状で、子どもだけで置いておくのが心配でならなかった。
 だがしかし、一緒に娼館にジュペを連れていけば、芳しからぬ評判がつく危険性もある。王都で彼女の不評が立つような真似は犯したくなかった。
「二人ともこの辻の付近から離れないように。できるだけ早く戻ってくるから」
 ジュペの眼を覗き込み、しっかりと言い聞かせる。ジャムシードは腰帯から短剣を鞘ごと引き抜き、懐から取り出した財布とともに少年に押しつけた。
 頼むぞ、と言い残し、ジャムシードは急かす下男に引っ張られるように楼館へ急ぐ。傍らを小走りに急ぐノティナが焦りと困惑を顔に浮かべていたが、その胸中の疑問や不安を取り除いてやるほどの気力はなかった。
 肩越しに振り返り、二人がいつも以上に小さく見えて胸がざわついた。