混沌と黎明の横顔

第07章:忘却に横たわる神 3

 峻烈な森の匂いに身を浸し、リーヴァ・セラは宿主となっている毛獣バウを寝かしつけた。この猛獣が起きていると好奇心丸出しで、集中力が散漫になってしまうのである。
 ──まったく。あの主人は何をこんなに苛立っているのか。
 先ほどから仮初めの主であるサルシャ・ヤウンの意識が大きく揺れ動いていた。いつもいつもヘラリと笑いながら飄々と人の間を通り抜けていく人の子が、崖の上で今にも転がり落ちそうな石のように頼りないとはどうもおかしい。
 じっと目を閉じ、少し離れたところにいる存在に集中した。目が回る。クラクラするくらいヤウンは動揺している。……動揺? あの脳天気な人の子が動揺するとは何事が起こったのか。いつも一緒にいる白いのはどうしたのだ。
 寝かしつけた獣がウニャウニャと寝言を呟く。どうやら夢の中で広野を駆け回っているらしかった。前脚や後ろ脚、肩や背筋が時折痙攣している。
 ──あぁ、鬱陶しい! 少しは静かに眠れんのか、こいつは!
 リーヴァ・セラは癇癪を起こし、宿主から意識を外した。久しぶりに虚空に浮遊し、幻体であれば凝っているはずもない肩をコキコキと鳴らす仕草をする。どうにも実体があったころの癖が抜けずにいた。
「直接見たほうが早いか。いや待てよ。この格好で漂って見つかったら大騒ぎか。そんなことになったらマーヴェから説教を喰らうだけだ。……面倒だが次元をずらしてから移動したほうが良さそうだ」
 独り言の癖など本来はなかったのに、ここ最近の退屈と孤独でブツブツと呟くのが当たり前になっている。端から見たら頭がいかれていると思われそうだ。そう思うと、この事態を招いた環境に悪態をつきたくなる。
「どうして我がサルシャ・ヤウンに気遣いなどせねばならんのだ。あの白いのは役立たずか。それとも人の手に余る事態だとでも言うのか」
 文句を言っているのか、心配しているのか。自分自身でも判っていないに違いない。リーヴァ・セラは不満を漏らしながら褐色の腕を高々と掲げると、虚空の一点を睨みつけて鋭く呪文を放った。
「“解除サウィート”」
 褐色の肌が大気に溶け、炎を思わせる緋の髪が燃え上がった。鞠の如く固まった炎がグルグルと回転して勢いを増す。溶岩のように熱を放つ炎が鋭い光芒を発すると光の中心に竜の影が踊り、次の瞬間には炎ごと跡形もなく消えた。




 皮膜が覆ったように見える眼下の景色を、リーヴァ・セラはため息混じりに見おろした。この光景が嫌いなのだ。手を伸ばしても届かない。まるで自分だけ除け者にされたかの如く感じるのだから。
 下天にいる間は幻体でいなければならない。それが我が身を守ることになるのだ。しかし、幻体を解き、実体化するときに感じるこの虚しさがやりきれない。己自身も含め一族皆がこの大地から拒絶されているのを実感させられた。
「新第三世代と呼ばれる我ですらこれだ。繭に引っ込んでいる第二世代や旧第三世代からみれば、この大地は嫌悪の対象でしかないのも当然か」
 ユラリと尾を振り、風を切る翼を鋭く掻く。まだらに下界を切り取る雲の群に己の影が落ちた。凄まじい勢いで眼下の光景が後ろへと流れ去るが、身を翻せばすぐさま同じ場所へ戻ることができる。
 自らの翼の強さに自信はあるのだ。こうやってのびのびと翔ぶ機会が少ないだけで。今だけは自由だと切実に思う。だが、こうしている間でも下天の空間と身を一つにすることは叶わぬのがドルクの定めだった。
 この皮膜は次元の壁である。下天から己の姿は見えないはずだ。いや見えていても人間の脳は認識しない。そしてまた、この壁が己の身を守っていた。
 この皮膜なくして竜は飛翔できない。大昔、下天の風に焦がれて壁を突き破って飛ぼうとした者がいたらしい。が、その者の末路は無惨だったと聞いた。
 皮膜もまとわず飛翔すれば、過重な重力に翼は折られ、磁場に惹かれて大地に吸い寄せられる。超高度域から墜落しては、いかに竜とて助からぬ。
 この惑星ほしの重力は竜には合わないのだ。竜の巨躯を軽やかに浮かせ、鋭い滑空を可能にする大気はこの世界のどこを探してもないのである。
「この大地で誕生した我ですら皮膜を必要とする。第一世代がこの地に堕されたとき、果たしていかばかりの苦悩を味わったことだろう」
 幼い己の頭を撫でながら大地の広がりを見おろし、微笑みと共に竜の歴史を語る存在が今は遙か遠かった。声が聞きたくてたまらないのに、それは決して叶わぬ願いなのである。なぜ彼女は殺戮者から逃げなかったのだ。
「デラ。あなたを殺した男の末裔を名乗る者を主人としている我の不徳を呆れるか? 血の契約はあれが死ぬまで、解放の呪を紡がれるまで解けぬというに、我は己自身から契約を申し出てしまう愚か者だ」
 再び翼で大気を掻き、リーヴァ・セラは皮膜越しに眼下の街を見定めた。
「我を偽れば殺そうと思っていたのに、あれは無邪気なまま近寄る。我に殺められることなどあり得ないとでも考えているのか」
 口の中に苦みが広がり、リーヴァ・セラは顔をしかめる。苛立ちが募った。
 ゆっくりと旋回し、目的の場所を見定める。実体化すると感覚が明敏になるのはいいが、巨躯を持て余して小さな目標物を確定するのに苦労するのだ。
 幻体なら目的地まですぐ飛べただろう。が、己が次元の狭間から飛び出すのが下手な自覚があった。妙な場所に出現し、人に目撃されては面倒である。
 同族の気配なら読み違えることはないが、こと人間の気配など読む気もなく過ごしてきたので失敗する可能性が高すぎた。戦が終わり平穏のぬるま湯に浸りたいと思っている人の世に異形が出現しては大騒ぎになろう。
「皮膜をまとえるから実体化を選んだが、面倒でも下手でも幻体のほうが移動が早かったか? いや、今さらぼやいても後の祭りか……」
 出かかる溜め息を飲み込み、存在を主張する核の位置を確認すべく集中する。
 一番強く引きつけられるのが己の主人の核だ。契約という絆がある以上、否応なく引き寄せられる。その他にも核が存在しているのが感じ取れた。一つは太陽の如く凄まじい魔力を発する核。それが同族のマーヴェとその主人だ。
 その他にもう一つ、弱々しいが核の存在を確認できる。リーヴァ・セラは首を捻り、その核の存在をよく認識しようと意識を集中した。
「なんだ、こいつ。我々の持つ核と微妙に配列記号が異なるぞ。造物主が違うのか? 同じ系譜も見られるが、まったく違う部分も多い。まさか──」
 不意に口をつぐみ、周囲を見回す。なんだろう、一瞬背筋に寒気が走った。誰かに見られているような、なんとも居心地の悪い雰囲気である。
「気のせいか? いや、でも確かに何かの気配を感じた。……いったい何が?」
 旋回を続けているので、皮膜越しとはいえ風切り音と風圧で集中力は完全ではなかった。どこか落ち着ける場所に降りたほうが良いだろう。
 ゆったりと下降し、リーヴァ・セラは町中に建つ塔の天辺に舞い降りた。器用に尖塔の屋根に留まる姿を人間が見とがめることはない。つい先ほどまで己がいた王宮の森は竜の巨躯だと目の鼻の先だった。
「こんな短い距離ならやはり幻体で移動したほうが早かったな」
 ──そうでもないわ。実体化してくれたお陰で話しやすくて助かるもの。
 すぐ耳元で聞こえた声に仰天し、危うく尖塔から転がり落ちるところだった。
 ──あら、そんなにビックリした? いきなり襲ったりしないから大丈夫よ。
 慌てふためいて周囲を見回せば、次元の歪みがすぐ側に生じているではないか。いつの間に! まったく気配すら感じ取れなかったとはなんたる不覚。
 相手の不穏な発言の真意を探ろうと、リーヴァ・セラは歪みの奥を凝視した。
 ──デラの愛し子も随分と成長したのね。今のあなたを見たら彼女も喜ぶわ。
「何者ぞ。デラとどういう関わりがある?」
 ──わたし? あぁ、そうね。こうして直接逢うのは初めてだから知らないわね。わたしは“時守ときもり”。あるいは“番人”と名乗ったほうがあなたには判りやすいかしら。
 リーヴァ・セラは口を半開きにして歪みから響く思念の声に聞き入る。竜の強面で唖然とした表情を作るとかなりのマヌケ面なのだが、受けた衝撃を隠し通せるような余裕はまったくなかった。
「か、かかかか……界の、番人? 次元を渡って姿を消したのでは……?」
 ──そうね。ずっとそうしていられたら良かったのに。でも残念ながら、バチンの暴走を止めるために出てこざるを得なかったわ。
 色々な疑問が頭の中を行き来しているが、それを上手く言葉として表現できずにいる。訊ねたいこと、訴えたいこと、それらをどう伝えたらいいだろう。
 ──混乱してるわよね。訊きたいことも多いでしょう。マーヴェが否応なくあなたを叩き起こしてしまったんですものね。
「そうだ。マーヴェ! あれの融合を止めることはできないのか!?」
 ──難しいわ。それにすでに一体化が始まっていては……。
「まだ貼り付き始めたばかりだ! 一体化などしてはおらぬ!」
 あら、と歪みの奥から怪訝そうな声が響いた。僅かな間の後、番人の声は真剣味を数段増して、リーヴァ・セラに問いかけた。
 ──貼り付いてるのね? つまり、まだ溶け合ってはいない、と?
「今にも溶けそうな状態ではある。だがギリギリのところで融解は始まっていない。ここ最近、離れた場所からだったが毎日のように状況を観察していたのだ。間違いない。だからこそ最後の望みを……」
 ──素晴らしいわ! あなたはマーヴェが自分の後釜にと望んだだけはある。
 上機嫌な声に面食らったが、己の望むような言葉は返ってこない。リーヴァ・セラは鼻息を荒々しく吐き出した。
 ──あら、ごめんなさいね。実は、わたしはとうの昔に吸収が始まって一体化しつつあると思っていたの。マーヴェの持つ核を引きずり出すために宿主の命を奪う覚悟がいるかもしれないとも考えていたわ。
 背筋に悪寒が走り、歪みから響く明るい声を凝視する。今なんと言ったか?
「マーヴェの核を引きずり出す? 宿主の命……ジャムシードを殺すというか」
 ──その覚悟も必要かと思っていたの、あなたの話を聞くまでは。でも一体化が始まっていないならまだ間に合うかもしれないわね。
「どうやったらいい。マーヴェは我の説得になど耳を貸さん。このままジャムシードを守る結界を張り続けていたら間違いなく一体化してしまう」
 ──教えてあげてもいいわよ。
 リーヴァ・セラは躍り上がりそうになった。マーヴェを宿主から切り離せるなら主人核に吸収されてしまうこともなくなる。マーヴェの人格も守られる。
 だが、続いた番人の言葉に凝り固まった。
 ──マーヴェと狩人ファレスの核を切り離せばいいわ。核が問題なのであって、マーヴェ自身は無関係だもの。
「そ、そんなことをしたら。マーヴェの人格が……」
 ──書き直されるでしょうね。本体はわたしが預かっているし、すぐに蘇生は出来るから命の保証はするけども。
 あっけらかんとした声に眩暈を感じる。いったい番人はどんな顔をして言っているのだろう。人格が消えてしまっては生きている意味などあるのか。
「簡単に初期始動させられるから人格などどうでもいいと言うのか! 今までのマーヴェはどうなってもいいと!?」
 周囲を覆う皮膜がざわざわと波紋を広げた。自身の内心の苛立ちや動揺を表すかのような動きである。こんな風に怒りをぶつけたところで相手に伝わらなければ意味がないと判っていても、怒鳴らずにはいられなかった。
 ──あの子次第よ。何もかもなかったことにして終わらせようとしているのはあの子のほう。わたしは少しでも生き延びる手だてを提示したわ。
「まったく別人になって新しく生きろというわけか? それを望むとでも?」
 ──だから、あの子次第と言っているでしょう。核を持たずに、別の存在として同族の中に混じって生きていくのも悪くないのではなくって?
 マーヴェがマーヴェではなくなる。その現実にリーヴァ・セラは怯えた。
「ファレスとして生きてきたマーヴェを否定する気か!? 長老タルクをはじめ皆同じ意見なのか!」
 ──同じと言えば同じ。違うと言えば違うわね。マーヴェの器が無性体ユールクである事実を受け入れがたいと思っている者は多いわ。わたしはあなたも同じだと思っていたけど違うのかしら?
 反論できず口ごもると、番人はさらに言葉を続けた。
 ──わたしも長老もマーヴェに生き延びて欲しいと思っているわ。他の者はサッサと魂の船に乗ろうが、器を新しく取り替えようが、ユールクである事実さえなくなればどうでもいいようだけども。あなたはどちらなの?
 リーヴァ・セラは答えられず視線を周囲に彷徨わせる。そこに助け手がいるかのように。だが実際に助言を与える者はおらず、途方に暮れるばかりだった。
「我の核が抜かれるときも、そうやってどうでもいい事柄のように話をする気か? 裁き司など同族の者どもには邪魔なだけだろう」
 ──時守りの番犬、冷血な裁定者、おぞましき魔王……。
「やめろ! 聞きたくもない! 我を貶める気なら……」
 ──繭にいる者たちがファレスという存在を悪し様に罵るのは恐れからだわ。あなたたちの手には裁きの鎌が握られ、呆気なく同族の命を刈り取っていくのだもの。彼らにとって命を脅かす存在であれば目を背けたくもなるでしょう。
 そういう存在として位置づけた者が平然と語るか。罪を裁く者として作り上げながら、一族の者にどう思われるか考慮しなかったくせに。
 ──わたしの権力の一部をファレスに移した事実は消えない。一族がわたしに対して持つ恐怖はあなたやマーヴェに向けられた。それを謝罪する気はないわ。あのとき、わたしはそうせざるを得なかったのだし。
「そして不要になったから消そうというわけか。まずはマーヴェを、そして次は我を。生まれた人格など一切考慮せず、そちらの勝手な都合で!」
 空間の歪みはゆっくりと回転していたが、動揺に乱れることはなかった。それがリーヴァ・セラの言葉を番人が肯定している気がしてならない。
 ──だから前もって先触れで伝えたはずよ。バチンの残骸を回収する傍ら、核の回収もすると。わたしは核を持つ者を滅ぼしたいわけではないわ。本来あるべき姿に戻したいだけ。わたしには核を始末する責任があるわ。
「そのためならマーヴェや我が狂おうが死のうが関係ないというわけか」
 そのとき、歪みが揺れて一本の錫杖が突き出した。白銀に輝く杖の先で揺れる銀環が水晶を打ち鳴らしたように涼やかな音を響かせる。
 続いて錫杖を支える白い腕が覗き、柔らかな衣装が流れる肩が飛び出した。滝のように流れる白銀の髪が風に舞い、滑らかなおとがいや薔薇の花びらを思わせる紅の唇が現れる。
 歪みから抜け出た女を見て、リーヴァ・セラは鋭く息を呑み、動揺した。逢いたいと望んだ存在、無条件の愛情を注がれた相手が目の前にいたのである。
「デ、デラ……?」
 自分はこんなにか弱い声しか出せなかっただろうか。そこには人の子の剣で串刺しにされ、息絶えたはずの同族の女が紅い唇に微笑みを湛えて立っていた。その現実が信じられない。恋しさが募るあまり幻でも見ているのか。
「やはり似ているかしら。同じ始祖を持つ者同士、遺伝子の影響は免れ得ないようね。バチンにもデラにも、わたしは似すぎているようだわ」
 女は左腕に小さなおくるみを抱えていた。いったいどこの赤子を抱いているのか、リーヴァ・セラには見当もつかないが。
 ジッと相手を見つめ、リーヴァ・セラは複雑な吐息をついた。養い親とは別人だと理解した一瞬、己の中に渦巻いた感情を言葉にすることは難しい。
「わたしの母ならもっと二人に似ていたでしょう。生憎とわたしは父親譲りの瞳と母親譲りの異能のためにこのような容姿に生まれてきたけども」
 両腕がふさがっているので、女は上半身をくねらせ、首を振って顔にかかる前髪を払いのけた。初めやや切れ長の瞳は伏せられていたが、払われた髪の間から白い顔が覗くと、ゆっくりと閉ざされた瞼が開かれた。
 巨躯を折り曲げ、その瞳を覗き込んだリーヴァ・セラは再び凝固する。
「それは……! 魔の瞳イヴンアージャ!」
 燻した銀の睫毛に縁取られた瞳は何もかもを飲み込む暗緑色の沼のようである。見る者を捕らえて放さぬ光が瞳の奥で蠢いていた。
「もうひとつあるわ。よくご覧なさい」
 促され、ギクシャクと魔の瞳から目を反らす。リーヴァ・セラは無意識のうちに女のなだらかな額に吸い寄せられた。そして、そのまま信じられぬものを見たかのように目を見開き、そこに現れた存在を凝視する。
「驚いた? 実物は初めてでしょうからね。これが現存する唯一のものよ」
 リーヴァ・セラは後ずさろうとしたが、己が座り込んでいる場所が狭い尖塔の屋根だと思いだし、逃げる場所はないかと周囲を見渡した。
「どうして逃げるの? 別にあなたに害をなそうというのではないわよ。先ほどまで罵っていた割には簡単に黙り込んでしまうのね」
 無邪気とさえいえる穏やかな声だったが、女を見るのも恐ろしげに竜は顔を背け続ける。見たが最後だと言わんばかりの態度だった。
「さぁ、これでなぜマーヴェやあなたがファレスの核を備えるに至ったか、少しは理解できたかしら。それとももっと説明が必要?」
 己が無防備な雛にでもなった気分である。竜の巨躯から見れば葦よりも頼りない外見の女であるのに、ここまで萎縮せざるを得ないのは、白い額に穿たれた禍々しき存在があればこそだった。
「顔を上げなさい。ファレスがそのようにびくついていてどうするの。さぁ、わたしのほうを向いて。……こちらを向くのよ、リーヴァ・セラ」
 今度こそ竜はブルブルと震えながら、身を小さくする。が、拒絶する心に逆らい、首はギシギシと女のほうへと向けられた。
 否応なく眼に飛び込んでくる細い姿を捉えるのが恐ろしい。リーヴァ・セラは石のように身体を強張らせ、少しでも距離を取ろうと身を反らした。
「わたしの力を永遠に野放しにしておくわけにはいかないの。下天や繭の監視があるから核を容認したけど、バチンの野望は果てがない。彼女の残骸の徹底的な排除を目的とするなら、わたしは核の存在も許すわけにはいかないわ」
 判るわね、とそよ風のように柔らかな声が囁く。だが肯定も否定もできず、リーヴァ・セラは見開いた瞳を女の額に向け続けた。
 己の虹彩のない黄金の瞳がファレスの力の源だと教えられたとき、その根源がどこからやってくるのかを聞いたのである。そして、抗えぬ存在があるとしたらそれはどういうものなのかも教えられていた。
「あの子を連れてきなさい。ファレスの核は主人核に取り込まれようとも、命は繋いでいけるのだから。わたしの言うことが聞けるわね、リーヴァ・セラ」
 返事をするものか。承諾したらマーヴェの意に染まぬ行動に出なければならなくなる。あぁ、それなのに……。竜の太い首はゆっくりと肯首していった。
 逆らえぬ。どう足掻いてもひれ伏すしかない。真の名を呼ばれ、しかもそれを紡ぐ者があれの持ち主では。心を切り刻んでいく苦痛に喉が鳴った。
 ──タスケテ。オネガイ。ダレカ、タスケテ。
 誰の声だろう。幼い泣き声が頭の中で響く。聞いたことのある声だ。誰が呼んでいるのだろうか。何を助けろというのか。
 目の前に迫る恐怖から逃げようと、リーヴァ・セラは頭の中に響く叫びにしがみついた。ここから離れたら自分が壊れてしまう。助けて、と泣いている幼子を包み込むように、両手足を使ってその悲嘆に抱きついた。
 ──オネガイ。でらヲタスケテ。ダレカ! タスケテヨ!
 ドクドクと心臓が早鐘のように打ち、こめかみの辺りでうるさく叫んでいる。
 あぁ、思い出した。あれは自分自身だ。仇を追ったはずがいつの間にか意識を失い、気がついたら繭の中にいた。同族に助けを求めた頃の自分がいる。
 だが助け手は来なかった。誰もがリーヴァ・セラの瞳を覗いた途端、飛び上がるように身を引き、恐ろしげに身震いして逃げていく。なぜ逃げるのか。
 今なら判る。皆、さぞかし恐ろしかったろう。有無を言わせず隷属させられる力を持つ眼の前には誰もが無力だ。己を支配する力を持つ存在に近寄りたいなどとは思うまい。罪を抱かずとも裁きを待つ気分にさせられるだけだ。
 ──ドウシテタスケテクレナイノ! ダレカ、タスケテ!
 視点が定まらぬほど目の前が揺れる。己が眩暈を起こしているのだと気づくまでにしばらくかかった。なぜこんなに弱っているのだろう。
 乱れていた息をゆっくりと整え、リーヴァ・セラはうずくまっていた場所から静かに首を持ち上げた。鈍い色の空の下、人間たちの街が活気に溢れて広がっている。広野へと流れ去る大河のうねる姿も見えた。
 それ以外ここには何もない。つい今し方まで傍らに存在していた者はどこへ行ったのだろう。見回しても歪み一つない空間が広がっているばかりだった。
 ホッと安堵の吐息をつき、全身の力を抜くと、改めて身震いが襲う。己の瞳と同じはずなのに、絶対的に違う魔力の圧力は思い出しても恐ろしかった。
神の眼サーガルアージャだ。縦に裂けたあのまなこは間違いなく……」
 心臓に杭を突き立てられた気がする。一族を睥睨する者、孤独な裁定者、魂を送る者。無垢な童女の如き振る舞いで他者を圧倒的な力でねじ伏せる存在に、ひれ伏したことを思い出した。心がどんよりと曇る。
 あの力の前では、身体は心を裏切り勝手に動く。暴かれた心は血を流すだけ。
 それは逃れられぬ縛鎖にまた一つ、己が繋がれたのだと悟った瞬間だった。