混沌と黎明の横顔

第07章:忘却に横たわる神 2

 奥の室内を覗き込む細い背中を見守りながら、ヤウンは息を詰める。亜麻色の頭が揺れ、ふっくらとした頬や目尻が垂れ気味な瞳が見えた途端、喘ぐようにため息を吐き出した。思った以上に緊張していたことを自覚する。
 眉を寄せ、唇を噛みしめながら涙を浮かべる娘に向け、王太子は柔らかく微笑んだ。いや、本人は笑ったつもりだったが表情は引きつりがちである。
「少し前、僕もそうやって部屋を覗いていたよ。腹が立って、情けなくて、何も考えられないくらいで。平然と立っていられるのが不思議だった」
「わたくし、このような時にお逢いしてもよろしかったのでしょうか。姫さまも殿下も顔を合わせづらいのでは?」
「君が来てくれて助かったよ、エスティラナ。僕ひとりではアルティーエを連れて帰れない。他人の耳目に触れることなく離宮に連れていかなければならないんだ。王城に詳しくて姉が信用を置いている人物は君の他にいない」
「もったいないことです、殿下。侍女として至らぬことばかりですのに、わたくしには過分なお言葉ですわ。ご期待に添うよう、これからも精進します」
 控えめに腰を折り、ヤウンの言葉を承諾した意志を示しながらも、俯くエスティラナの表情は曇りがちだった。
「アルティーエを驚かそうと思って君の到着時間を僕とはずらしたのだけど、それが今回は幸いした。これからすぐに僕の乗ってきた馬車に乗り換え、姉を連れて離宮に向かって欲しい。護衛は炎姫家の騎士アイレンをつけるから」
 顔を上げたエスティラナと視線が交わる。揺れる紫苑色の瞳には深い動揺の色があった。同じ女性として姉に降りかかった災厄に心を痛める気配を感じる。
「離宮は……確か後宮の外れにある、あの宮殿のことですか?」
「そうだよ。後宮の一画に連なるから貴族でもおいそれとは入り込めない。後宮の人間の中でも厳選した者だけが足を踏み入れることができる場所だからね」
「ですが、あの場所に立ち入るにはわたくしの身分では問題が起きます。後宮で働くにも差し障りがあると問題視されましたし」
 ヤウンは小さく頷き、畏まったままの姿勢でいる娘に歩み寄った。立ち上がるよう指先で促し、彼は紫苑の瞳の奥を覗き込む。逸らしようがないほどしっかりと視線で相手の眼を固定し、王太子は真剣な面持ちで口を開いた。
「その件について、君に頼みたいことがある。僕の指示する通りに動いてもらえるかな。君が離宮に入るための身分は僕のほうでどうにかする」
 こちらの言葉に聞き入る娘は真剣そのもの。生真面目な表情に魅入り、王子はさらに相手の瞳の奥底を覗き込んだ。彼女の心の在りかを探るかのように。
「姫さまや殿下にご迷惑をおかけするようなことになりませんか? わたくしは貴族とは名ばかりの庶出の女でございます。お二方の名誉に傷……!?」
 ヤウンは両掌でエスティラナの頬を包み込んだ。同年代の若者に比べて背の低い彼よりも彼女は拳半分ほど小さい。
「僕の妃選びが始まることは聞いているね。侍女や使用人を引き連れて女たちが後宮に押し掛けてくる。君にはそのどさくさに紛れ込んでもらう」
 息を呑む彼女に王太子は微笑みを向ける。だがエスティラナは彼の笑顔にも安心することはなく、むしろ途方に暮れた様子でヤウンの顔を見つめた。
「離宮は後宮の中でも特に出入りの制限が厳しい場所。多人数に紛れても誤魔化しきれません。姫さまには他の者をつけていただいたほうが無難ですわ」
 頬を包む王子の指先にそっと触れ、エスティラナは難なく緩やかな拘束から逃れた。僅かな距離を保ち、彼女は再び優雅な仕草で腰を折る。庶出と言うが、彼女が努力の末に貴族の振る舞いを身につけたことをヤウンは知っていた。
「その辺りは抜かりはない。君には新しい身分を与える。後宮の規則も見直すし、これまでのやり方は通用しないよ」
 自身の容姿がどれほどの威力を持つか理解している。が、目の前の娘には予測を外されっ放しだ。今の微笑みや拘束も彼女にはあっさりと逃げられる。
「今日のところは王宮内にある神殿に寄って、そこで母上の名をお借りして離宮に入ることになるけど。その後は他の貴族連中が君の身分をどうこう言えないようにしておく。ラーナ、君が心配するようなことにはならないよ」
 姉が修練を行った神殿から強引に王宮に連れ帰ってからこちら、彼女にヤウンの魅力はほとんど通じていない。アルティーエにもバカにされる始末だ。
「殿下、わたくしのような者に気安く愛称で呼びかけられるのは……」
「アルティだって君を“エスト”と呼んでる。僕が自分で決めた愛称で君を呼んで何が悪いの。他の侍女だって愛称で呼ぶこともあるじゃないか」
「でしたらアルティーエ様と同じ愛称で呼んでください。特別な愛称など……」
「厭だよ。僕はラーナの愛称を気に入ってる。誰もが呼ぶ愛称などいらない」
 押し黙ったエスティラナの表情は俯いているので見えない。しかし、耳まで赤くなった後に彼女の頬が青ざめたのを、ヤウンは見逃しはしなかった。
「他の侍女連中に何か言われたね。君はアルティのお気に入りだし、やっかみも多い。……ねぇ、ラーナ。君自身はどうなの。この愛称は嫌いかい?」
 エスティラナ自身はいつも何でもない風を装ってやり過ごしているが、貴族出身者が多い侍女たちの間では嫌がらせもあるらしい。
 これまではアルティーエが察して息抜きをさせていたが、主人が不在ではそうもいかなかった。王女がいない今こそとばかりに嫌がらせされたに違いない。己の忙しさに気を取られ、気づいてやれなかったことが悔やまれた。
「ラーナ、僕の質問に答えて。君は気に入らないの?」
「申し訳ございません。殿下の過分なお心遣いにはいつも感謝して……」
「そうじゃない。それでは僕の質問に答えたことにはならないよ」
 これでは駄々をこねる子どもである。しかし、姉のことでピリピリしている今、答えをはぐらかす彼女への苛立ちを抑えることはできなかった。
 ヤウンは腰を折り俯いたままのエスティラナに腕を伸ばす。もう少しで指先が細い肩にかかろうとしたとき、背後の扉を叩く音が鼓膜を震わせた。
「ヤウン。こちらの用意はできたぞ。王女の支度を急げ」
 王子が腕を引くのと娘が弾かれたように顔を上げるのは同時であった。互いの視線が交わると気まずげに反らし、控えの前室からの声を振り返る。
「もう少し待ってもらって。アルティーエの着替えが終わり次第、アイレンを呼ぶから。囚人のほうはどうなった?」
 扉に歩み寄りながらヤウンは喉にこみ上げてきた苦い思いを飲み込んだ。気が急いていたお陰で、エスティラナに当たり散らすような真似をした。彼女は何も悪くないのに。詰るような口調を彼女はどう思っただろう。
「ぬかりなく。手足の指一本動かせぬよう縛り上げ、猿ぐつわを噛ませたからどこへでも連れていけるぞ。先に出立するか?」
「そうだね。君が同行してくれるなら囚人を奪われる心配もないだろう。歓楽街エルマイナに王家後見の花館があるから、一時的にそこに監禁しておく。今から場所を説明するよ」
 扉を開ける寸前、王太子は後ろを振り返ってみた。そこにはすでに姉の侍女の姿はなく、固く閉ざされた奥部屋の扉が立ちはだかるばかり。それがヤウン自身を閉め出すエスティラナからの返事のような気がした。
「僕はいったい何やってるんだ。急いては事を仕損じるだけだと知ってるのに」
 知っているということと、理解して実行できることは違うのだ。自分自身では老獪な元老院の貴族や他の三大公と渡り合っているつもりで、まだ脆いほど幼稚な部分があることをこういうときに思い知らされる。
 落ち込みを振り切るように頭を振り、王子は開いた扉の隙間から滑り出た。目の前に真っ白なソージンの顔が覗く。部屋の片隅にはアイレンが控えていた。
「どうやら取り込み中だったようだな」
 確認というよりは断定に近いソージンの問いかけに面食らい、ヤウンは相手の意を推し量ろうと何度も瞬きを繰り返した。
「表情が険しい。中の女と何かやりあったのでなければあり得ん表情だ。言い争いになったか、泣き出されたか。あるいは……派手に振られたか?」
 察しがよすぎるのも良し悪しである。グサリと突き刺さったソージンの問いに王子は苦笑いを浮かべた。どれもこれも肯定したくない。
「君には遠慮ってものがないんだね。少し放っておいて欲しいよ」
「なんだ。本当に振られたのか。本気なら早めに修復しておかんと取り返しがつかないことになるぞ。火遊びには向かん女のようだからな」
「……あのね、ソージン。いくら僕でも怒るよ?」
 じと目で睨むと相手は片眉をつり上げ、口の端だけで笑った。こちらの反応を面白がっている節が見え、さすがにヤウンもムッとする。しかし、怒りをぶつける前にソージンの表情が引き締まった。
「不本意なことでとやかく言われると腹が立つだろう? これからは少し考えて喋ることだな。でなければ、おれも相応の報復をさせてもらうぞ」
 返事に詰まり、ヤウンは口をすぼめる。聡い王子は相手の言い分を瞬時に悟った。ソージンにとって不本意なことと言えばフォレイアのこと以外にない。事あるごとに彼女の伴侶にと勧めるヤウンの態度が気に入らないのだ。
 同じ室内でアイレンがこちらを伺っている今、下手なことは言えない。それを見越して、ここでしっぺ返しを喰らわせるソージンのやり方はえげつなかった。いや、それだけ今までのことで腹に据えかねていたのだろう。
 返答に窮してヤウンは恨みがましい視線をソージンに向けた。
 否と答えれば彼は更に追い打ちをかけてくるだろうし、応と答えれば今後は炎姫家と関わりを持つよう言えなくなる。炎姫公直下の騎士アイレンに事の次第を悟らぬようにやり取りするには、これは微妙な問題であった。
 ソージンには王太子に対する遠慮などない。異邦人の彼にはこの国や王太子に忠誠を誓う根拠がないのだ。契約で成り立つ関係。それを改めて意識した。
「お取り込み中のところを申し訳ありませんが、囚人の乗る馬車の出立を遅らせるわけにはいきません。急がないと神殿や元老院に嗅ぎつけられます」
 控えめにかけられたアイレンの声に救われた。明確な返事をする前に打ち切られた会話は宙ぶらりんのままである。消えたわけではないが、今ここで早急に解決させるべき内容ではないことは確かだった。
 ソージンにしても厳格に返事を求めたわけではないのだろう。あっさりと表情を改めると、自分がやるべき仕事に意識を向け直した。
 ヤウンは手際よく歓楽街までの道順を指示し、入り口の番所で見せる王家の簡易手形と手紙を書き上げる。本来の部屋主の持ち物である薔薇香の蝋を拝借して手形と手紙に蝋封を施すと、自分の指輪に彫られた印章を押しつけた。
 蝋印には王家を示す八芒星と王子の名の由来である羅針盤が重なり合って浮き出ている。それを確認し、ヤウンはソージンに手形を差し出した。
「花館の地下に牢がある。そこに入れるように指示してあるから、君はそこまでを確認したら王宮に戻ってきて。他にもやってもらいことがあるから」
「尾行されている可能性を考えると、おれが見張りについていたほうがよくはないか? 囚人を奪われでもしたら後の祭りだろう」
「大丈夫だよ。もし尾行されていても問題ない。囚人が奪われる心配より殺される心配のほうが先だよ。とは言っても、その対策も考えてあるし。花館の連中は機転が利くし頭もいい。おいそれと捕らえ人を殺されはしないさ」
 悠然と構える王太子の態度に納得したのか、ソージンは承知と呟きながら小さく頷いた。簡素な承諾の姿勢がいかにも彼らしい。
 きびすを返したソージンがふと立ち止まり、肩越しに振り返った。
「ヤウン。戻ったときに返事を聞くからな。逃げるなよ」
 そう言い捨てると、流れるような動作で部屋を出ていく。その背を見送り、王子は浅く息を吐いた。各地を転々とする彼にかかれば自分もまだヒヨッコか。
 が、すぐに頭を切り替え、元通りの威厳ある表情を取り戻した。
 ソージンに釘を刺された以上、彼を使って炎姫家を影響下に置く道は閉ざされた。他の方法を考えねば。残りの大公家との均衡も気がかりだ。
 ヤウンは忙しく頭を働かせたが、ふと視線を感じてアイレンを振り返った。
「待たせてすまないね、アイレン。眠っている人間の着替えは手間取るんだ。もう少しで準備できるから。アルティーエとエスティラナを頼むよ」
「承知しております。必ずお二人を無事に目的地までお送りしますのでご安心ください。……ところで、殿下はこの後どうされます。馬車は二台とも帰してしまいます。ここには馬車と言っても荷馬車くらいしかありませんが」
 それならもう考えてある。だが、目論見のすべてをアイレンに教える必要はあるまい。むしろ彼女にも知らせないほうが良いと王子は判断した。
「僕なら大丈夫だよ。ここの僧兵に送ってもらうから」
 王太子に護衛がつかないなどあり得ない。普通なら。僧兵に送ってもらうとヤウンが言えば、アイレンが強く意見することは不可能に近かった。
「ところで。アイレンがジャムシードの剣術を教えているんだよね。近頃の彼は顔つきが変わってきているけど、そろそろ修業は終わりなのかな?」
「いえ、最後までは到達しておりません。今現在、ジャムシードはワイト・ダイスとナスラ・ギュワメ両名と同じ位置にいます。彼らが修業の最後まで望まなかったように、未だ答えを見つけられずにいるようです」
「そう……。よほど厳しいのだろうね。護身用に習い始めた剣術だ。極めようと思うかどうかは本人次第だね。タシュタン地藩での仕事も大詰めを迎えることだし、今は仕事と剣術の両立が難しいのかもしれない」
 その通りでしょう、と同意を示すアイレンの表情は深山の奥深くで水を湛える泉のように静かで、淡々とした態度が崩れることはない。大公から受け継いだ剣術が己の代で途絶えても致し方ないと覚悟しているのだろうか。もったいないことだが、弟子入りしてくる者がいなければ継承の道は絶えるのだ。
「そのジャムシードの仕事は順調なようだね。フォレイアと一緒によく働いている。炎姫公もこれでようやく肩の荷が下りるんじゃないかな。地藩の税の減免措置期間が切れる前に将来の人材確保と税収入を確保できるんだから」
「どうでしょう。閣下の内心は伺い知れません。が、確かに地藩の人材不足は解消されるでしょうし、貧民が減ることで税収は上がる見通しです。これまで頓挫してばかりだった政策が軌道に乗ったのは僥倖ですね」
「王国としても助かるよ。疫病後の減免措置でタシュタンからの税収は激減してるのに、ここにきてハスハー地藩でも同じく減免措置を施さねばならない事態なんだから。タシュタン地藩が持ち直さなければ国威そのものに響くよ」
 ジャムシードに授けた策は疫病流行後のタシュタン地藩で何度か取り上げられて頓挫した政策を改良したものである。
 当時は壮健な男女ですら疫病の猛威に命を落とす状況だった。疫病で領民が疲弊し、公的な援助を必要としていた数年間は人手を必要としたことから日雇いの職があったが、それが打ち切られた後は貧富の差は拡大している。
 今、タシュタンで幅を利かせているのは、他の地藩や他国から入り込んだ貿易商と彼らと手を組んでいる一部の役人と商館主、耕し手のいなくなった土地を買い叩き、高い代金で農夫に貸し付けている大地主だ。
 領民であれば収入に応じた税収を見込め、技能や才能も次世代に繋いでいける。ところが、他の地藩や他国の貿易商では関税や間接収入の税を取り立てるのが精々で、税の基盤となっている収入税は他に持っていかれてしまう。
 明瞭な戸籍制度のあるポラスニア王国では移住に厳しい審査があり、気軽に他国や他地藩から移住を許可できない。さらに地藩の外から持ち込まれた物資を売りさばく貿易商の躍進で工人や農民は著しく勤労意欲を損なっていた。
 地藩建て直しの時期に貿易商と商館との繋がりを強めた結果、地場産業の空洞化を招いたタシュタンの各都市では多くの工房が廃業に追い込まれ、農民が土地を捨てて逃げ出してしまったのである。
 職人がおらずとも、農民がおらずとも、物資は絶えず他から入ってくる。商人とその係累ばかりが肥え太り、産業を支えていた労働者が職を失い、貧民と化して都市の周辺にしがみつくように生き延びているのが現状だった。
「国庫を解放するにも限度があるからね。これでタシュタンの産業が盛り返してくれたら、次世代を担う者たちにも希望が出てくるだろう。だから、最後の仕上げまでジャムシードには頑張ってもらわないと」
「表だっては動けませんが、炎姫公も陰で援助しているようです。殿下が期待される通りの結果になりましょう。初めこそ部外者扱いだったジャムシードですが、今では地藩の役人や工人、商人の中でもよく知られる存在です」
 アイレンの言う内容もヤウンの思惑のひとつである。ジャムシードは元々はハスハー地藩に戸籍がある。それを移すとなるとタシュタン地藩での実績が必要になってくるのだ。今回の仕事の成果でそれは容易くなるだろう。
「アイレンも知り合いの富裕民にジャムシードを紹介してくれたんだよね。彼から聞いてるよ。随分と無理をさせたんじゃないかな」
「そのようなことは……。顔を貸すくらいでタシュタンの利益になるのでしたら、紹介状でもなんでもいくらでも書きます」
「それが出来ない貴族も多い。炎姫公が君を男爵位に取り立てたのは正解だ」
 恐れ入ります、と受け答える女騎士の表情はやはり淡々として変わらない。どれほどのことがあれば彼女の内心に波風を立てられるのか。ヤウンはアイレンのシナモン色をした顔を興味深げに見つめた。
 が、すぐに視線を反らすと、今後の国やタシュタン地藩のことを考えた。
 タシュタンで人材を確保しようと政策を出しても、利権を守ろうとする工人組合や商人組合からの突き上げで事は難航し、貿易商からの賄賂を懐にした貴族が行政からの協力要請を無視して頓挫するのが当たり前になっている。
 そこを突き崩すには外部から入り込んだ者のほうが自由に動けるものだ。そう判断したヤウンがジャムシードに授けた策は図に当たった。
 ジャムシードならやれる、と判断したのは彼のコネを思いついたからだった。皮肉なことに、義賊“黒の隠者カラス・ファーン”に属していた過去は大いに利用できる。
 工人であった彼の周辺にいる者の中に必ず同じ工人がいるはずだ。如何にジャムシードが盗賊団を抜けたとしても援助しようとする者が出てくる。彼のために口利きするだけでなく直接的に協力することも考えられた。
 盗賊団の者たちにジャムシードと接触する口実を与える良い機会でもある。今後、ヤウンが国王として立つとき、その存在がどう影響しようとも存在を把握してさえいえれば対処の方法はいくらでもあるのだ。
 ふと、ヤウンはおよそ半年前の船旅を思い出す。大河レダンを下っているとき、街道を席巻していたジャミ盗賊団の襲撃を受けた。あの盗人たちとてかつては農夫や工人として真面目に働いていたことがあっただろう。
 食い詰めタシュタン地藩を捨てた者のなれの果てがあんな有様では、国の為政者として立つ瀬がないではないか。円滑に国を動かし、領民に安寧を約束できなければ、王族はその役目を果たしていると言えないのだから。
 藩校を開校し、貧民窟で無為な日々を送っている者たちを再教育する。もちろん希望者にも門戸を開く予定だ。講師には現役の職人を雇い、最新の技能を伝授する。課程を修了した者にはタシュタン地藩で職を斡旋すれば住民を確保できるのだ。既存の工房に職を得るばかりでなく、独立させてもいい。
 講師になった職人の技術が盗まれると危惧する向きもあるが、講師は一人ではないのだ。何人もの人間が最先端の技術を出し合えば、そこには相乗効果でさらに革新的な技術が生まれる可能性も出てくる。
 人は集まれば競争の心理が働き、より優れたものを作り上げようとするものだ。講師になった者はさらに最先端の技術を得、最新の技能を身につけた者を雇えた工房も同じく最先端の技術を手に入れる。
 そうやって威勢を取り戻した地場産業を地元の商館や貿易商が無視することはあり得なかった。タシュタン地藩内の経済は少しずつでも上向くだろう。
 この例が成功すれば、農業の分野でも応用が利くはずだ。となれば、今回の戦で農村部に打撃を受けたハスハー地藩でも細かな点を調整して使えるだろう。
 いや、元々が騎士の士官学校や神殿の神学校を元にしての発想だ。安定した質の者を送り出してきた仕組みを今まで他の分野に応用してこなかったほうがおかしいのである。これからは大いに活用していかなければ。
 水姫公がルネレー公国で裏工作しているとはいえ、ハスハーの受けた打撃を取り戻すには何年もかかるに違いない。ラシュ・ナムル大公もタシュタン地藩での試みを興味深く見守っているはずだ。なんとしても成功させたかった。
 考え込んでいる間にどれほどの時間が経ったのだろう。ヤウンは明かり取りの窓から注ぐ薄日を仰ぎ見、うっすらと目を細めた。
「そろそろアルティーエの準備も整ったかな。様子を見てくるから待ってて」
 本来なら騎士のアイレンに王太子がこのように気さくな態度で接するのは望ましくない。だが形式張った礼儀に頓着しない彼女の寛容さに甘え、つい緩んだ口調で語りかけてしまっていた。
 姉とアイレンが懇意にしていることを免罪符に、これは許してもらうことにしよう。彼女の主人アジル・ハイラーもとやかくは言うまい。
 再び主室の扉をくぐり、ヤウンは寝室のほうを伺った。奥から小さな物音が聞こえる。リスのように動き回るエスティラナを想像し、思わず口許が緩んだ。
 悪い夢を見たのだと、忘れてしまえと、そう姉に言えたならどれほどいいだろう。だが、彼女は忘れはしないだろう。忘却に逃げる前に乗り越えようとするはずだ。ワイト・ダイスの死に顔を背けることなく向き合ったように。
 扉が開き、姉の侍女が姿を現した。着替えが終わったことを告げる彼女にヤウンは小さく頷く。そして、意を決して女騎士を呼ばわったのだった。