混沌と黎明の横顔

第06章:岩窟の花精王 6

 緩やかに衣の裾が翻り、彼女は白い足先で岩屋に降り立った。
「さて、ここに出てきたことにバチンも気づいていると思うけど……。あまり追いつくのが遅いと磁場の歪みを修復しづらくなるのよね」
銀の娘アジェンティア、もう結界は解いてもいいのかしら?』
 頭の隅に響いた小さな声にアジェンティアは虚空を振り仰ぐ。視線を彷徨わせた後、一カ所にそれを固定すると闇の奥を透かし見るように眼を細めた。
「花精たち。まだここに留まっていてくれたのね。ありがとう。もう結界を張り続ける必要はないわ。そろそろ花の季節が始まるでしょう。あなたたちも本来の仕事に戻りなさい。彼女もあなたたちに逢えて本望だったでしょうし」
 言葉を紡ぎ終わると、アジェンティアは暗闇の最奥に視線を転じる。彼女の関心を引いた途端、奥部がうっすらと光り始めた。
「お疲れさま。彼女もこの岩屋の牢獄で最期の慰めを見つけたと思うわ。ホーマとの契約とはいえ、三百年もの年月を磁場を支えるために閉じこめられていたのだもの。……ル・オルグが終わらせなければ、今もそうだったかもね」
 ふとアジェンティアは腕に抱えたむつきを覗き込み、引きつった笑みをこぼす。泣きたいのか微笑みたいのか判らない表情だった。
「アイン。悪党を演じるのはけっこう辛いものね。その逆の、善人のフリをした悪党のほうが楽なのかしら? あなた、覚悟があってやっているの?」
 怒りを持続させるのは疲れるわ。そう呟きながら、彼女は再び鈍く輝く闇の奥を見つめた。白銀に輝く彼女と鈍い光だけが闇に浮かぶ。
「これで本当にさよならね、デラ。あなたの魂魄を喰らったル・オルグのことは必ず始末をつけるから、それまでは天堂の庭で休んでいなさい」
 徐々に輝きが薄れていった。存在したことすら信じられぬほどに光を呑み込む闇は深い。ただ独り佇み、アジェンティアは最後まで光源の消失を見届けた。
 ──アジェンティア! 繭で眠っていた者たちがッ!
 脳内に直接響く切羽詰まった叫びに、彼女は表情を引き締める。それまでの物悲しげな弱さは消え失せ、他者を睥睨する傲岸な瞳が輝いていた。
「ハイン、落ち着きなさい。あなたでも彼らを引き留めることはできないわ。そんなことはすでに想定済みよ。彼らの足跡だけ追ってちょうだい」
 声の質は柔らかいが、アジェンティアの口調は冷徹そのものである。聞いていたであろうハインが息を呑んで狼狽えた。
「繭から出ない者も多いはずよ。むしろ出ていく者の数は片手で数えられるほどしかいないのでしょう? だったら足跡を辿るのも難しくはないわ」
 ──出ていった者をどうする気なのだ? まさかバチンのように封じると?
「封じはしないわ。その逆。彼ら自身がどうなりたいかによるけど。安心しなさい。彼らはわたしたちに逆らいはしない。繭に留まっているのが限界なのよ。分裂を示唆したときから、彼らはこの機会を伺っていたに違いないわ」
 少しは動揺が落ち着いたのか、ハインの気配はざわめきを収めていく。それを敏感に感じ取り、アジェンティアは再び追跡の命令を出した。
 ──戻ってくる気はないのか、アジェンティア。逃げ回っている必要性などないではないか。バチンの本体は封じてある。幻影など放っておけ。
「幻体に振り回された現実を見なさい。彼女の残骸をすべて下天から取り除かねば、また同じようなことが起こるだけよ。三百年前、彼女を封じただけで満足していたしっぺ返しがこれ。もう甘い顔などしていられないわ」
 なおもごねるハインの言葉をはねつけ、アジェンティアはもはや完全に消えてしまった輝きの残像を探すように辺りを見回しす。渋々といった感じて引いていったハインの気配は殊更無視した。
「バチン。あなたが少しでも悔恨や憐憫という感情を持っていてくれたら、ここまで過酷なことをする必要はなかったわ。でも、あなたからその感情を奪ったのがわたしである以上、けじめはやはりわたしが着けるしかないのね」
 ヒョゥヒョゥと周囲の空気が鳴き始める。まるで夜鳴鳥の哀しい泣き声に似て、聞く者の気分を湿らせる陰気な風の動きだった。
 ──裏切り者め……。うぬらのせいで……。おのれ……。赦さぬ。
 呪詛を繰り返す声が彼女の思考に割って入る。悪意に満ち満ちたその叫びに巻き込まれたなら、確実に心が病んでしまうに違いなかった。
「ようやく追いついたわね。さぁ、バチン。……いえ、本体ではない以上、バチンの欠片とでも言うべきかしら。あなたを木っ端微塵にさせてもらうわ。そろそろ白き狩人ファレスのほうも結界を張る限界にきているようだから」
 ──主殺しの反逆者めが。うぬを屠って主人の贄としてくれるわ。
 アジェンティアの声に反応したバチンの声と思しき女の声が毒々しさを増す。憎悪に凝り固まった声音が作り出す風の動きが、白い身体を切り裂かんばかりにうねり始めた。腕のむつきをしっかり抱え、彼女は狂風の奥を透かし見る。
「今のあなたに何ができるというの。憎悪の残骸だけで動いている亡霊ではないの。そんな微弱な力でわたしをどうこうできると思って?」
 わざと相手を煽るように嘲り嗤うアジェンティアの声には邪気が満ちていた。あどけないほどに鮮やかな微笑みを浮かべる彼女を知る者が見たなら、その落差に同じ顔をした別人だと断じたに違いない。
 ──うぬらなど滅んでしまえ。主の期待を裏切った償いを……。
「お互い、何を言っても平行線よ。あなたが主人の名誉を回復しようと躍起になっているように、わたしは母の名誉を回復しただけ。どう足掻いても交わることにない意見だわ。花と氷、それぞれの巫女に上下などないのだもの」
 アジェンティアの目の前で闇が赤黒い光を放ち始めた。歪んだ空間の一部が裂け、奥の異空間から漏れた光である。得体の知れない気配が漂っていた。
「さぁ、出ていらっしゃい。わたしを贄にすると言うのなら、出てこなければ倒せないのよ。それとも、あなたは口先だけで何もできないのかしら」
 光がアジェンティアの顔を赤く染める。その輝きに照らされた彼女はジンですら逃げだす冷酷な表情で異空間を見つめていた。
 ──貴様さえいなければ……。あの方の理想は……。
「意識が混濁した状態でよく追ってきたわ。でも、その残骸はわたしの眼を盗んで何世代もの人の身体を渡り歩いた弊害というわけね。元々の己を見失っていては、本体に吸収されることもできないでしょうよ」
 アジェンティアはむつきを左腕で支え、右手を高々と掲げる。白い掌を虚空に翳し、口腔で小さく呪文を唱えだした。
 ──お前など滅んでしまえ。生み出されたことが間違いだったのだ。
 歪みから人影がにじみ出る。ゆらゆらと揺れる白っぽい影が光を切り取った。こちらの闇へと一歩を踏み出す相手に向け、アジェンティアは微笑む。
「ここにおいで。支配の王錫が欲しいのでしょう? ほら、この手の中にあるわ。あなたの手で奪い返してみなさい」
 人影の輪郭がハッキリとしてきた。それに向けられる彼女の白い顔はやはり凍てついた笑みでしかない。だというのに、邪悪なその微笑みですら美しいと思えるのはどうしてだろう。彼女の何に目を奪われるというのか。
「わたしたちは傀儡くぐつの身。どこまでも糸が命じるままに動くしかない囚われの身。それを忘れていた償いはしなくてはね」
 掌上に青白い光が灯った。それが見る間に白銀の煌めきを放ち、鋭い閃光と共に剣へと変じる。清楚でぬめるような光を宿しながら、波炎の紋様を刻む刃は凄まじい殺気を放っていた。
 女の細腕に握られた剣は飾り物のようにすら見える。だが、アジェンティアが易々とそれを振り回せば、空気すら容易く切り裂く風切り音がこだました。
 歪みから抜け出した人影が更に輪郭をクッキリと浮き上がらせる。
 見る者がいたなら、向き合う彼女とその人影が恐ろしく似通っていることに気づいたはずだ。片方は白銀の髪、もう片方は少しくすんだ灰銀の髪。アジェンティアの瞳は暗緑色であったが、バチンの瞳は流れる髪に隠れて見えない。
 磨き抜かれた大理石のように白い肌の中、紅も引かぬのに濡れたように光る口唇が薔薇の花びらのように鮮やかに闇に浮き出ていた。
 姉妹だと言われたなら難なく受け入れているだろう。それほど外見が似通っていた。が、決定的に違うところがある。
 まとう雰囲気はアジェンティアが無邪気さを全身で体言しているというのに、バチンのほうは鬱屈としたものを溜め込む陰気さを発していた。
 ──花巫女の力を継ぎながら主人の座を奪うとは。反逆の巫女め。お前にあの方の地位を継ぐ権利も資格もないわ。
「仮初めの声帯も作れぬほど幻体を維持する魔力を失っているようね。あなたの執念深さには感心するけど、残骸を撒き散らして暴れ回る悪癖には閉口するわ。放っておくには始末が悪すぎるのよ」
 バチンが白い腕を伸ばして迫ってくる。おぼつかない足取りで、その様子を見たアジェンティアはあからさまにため息をついた。
「そんな有様でわたしを追いかけてきていたの。道理でちっとも追いつかないはずね。本体でもないのに器を酷使するからよ。本当に後先考えない人ね」
 ズルズルと足を引きずり、バチンが赤い唇を歪める。苦痛に悶えているように見えるが、罵り恨む声は憎悪にまみれ、聞く者に不快感を与えた。
 ──母親同様に主人を裏切る不届き者が。貴様さえいなければ……。
「母の心を弄んだ報いを受けただけでしょう。あの人に同情していてはきりがないわ。あなたのように心酔する者の気が知れない」
 ──滅びよ。うぬのような者は存在を消されるが当然……。
 アジェンティアが形の良い唇の端をつり上げる。再び邪悪な笑みが刻まれた。
「渡り歩いた自我の影響でボロボロになっているあなたに何ができるの。わたしの身体に指一本触れることができないわ」
 輝く剣を青眼に構え、彼女は切っ先へと鋭く息を吹きつける。鋼を道筋に走り抜ける息吹が、剣の先から放たれる頃には風刃となりバチンを襲った。
 乱れ飛ぶ風の凶刃に身体を切り刻まれ、バチンの歩みが止まる。が、それも一瞬のことで、再びおぼつかない足取りでアジェンティアへと近づいてきた。執念だけがこの異形の女を突き動かしているらしい。
「哀れ。……あの人とのことがなければ、あなたも有能な巫女で終われたのね」
 青眼の構えを解き、アジェンティアは剣をくるりくるりと回転させた。身体の横で出来上がった大車輪が辺りの空気を呑み込んで渦を作る。
「ここはかつてのわたしたちの実験室。あなたの幻の墓場にはちょうどいいわ。妄執はいつか終わるものよ。いい加減にくだらぬ野望など忘れなさい」
 ──お前さえ……いなければ……。
「こちらの声さえ届かないところにいるようね。もはや幽鬼と同じ。己が作り出した合成獣と同類になり果てたのね。本当に愚かな人」
 逆巻く白銀の髪がアジェンティアの頬を打った。風の渦は辺りのものを弾き飛ばし、触れた瞬間に粉微塵に粉砕していく。ビリビリと震える空気が獣のうなり声のように響き渡った。バチンはといえば風圧に阻まれ先に進めない。
「さぁ、バチン。これで終わりにしましょう。花巫女の娘、花精の王が猛き風に命じる。“滅せよバルバーダ!”」
 ゴゥンッ、と風が雄叫びを上げた。切っ先がバチンに向けられると、風渦のあぎとが正面に立つ異形を噛み砕かんばかりに大きく開かれた。
 獲物に向かって飛びかかる肉食獣のように渦はバチンを頭から呑み込む。虚ろな思念の声しか発しない異形ではあるが、渦に巻き込まれて肉片へと変じていく姿は直視できぬ凄惨さであった。
 それを眉一つ動かさず凝視していたアジェンティアの眼がカッと見開かれる。
『や、めて。彼女を、殺しては駄目』
「花精!? 持ち場に戻ったのではなかったの? バチンから離れなさい。あなたまで巻き込まれて粉々になるわよ!」
『駄目。鏡のしゅを解いてから。でないと、駄目。アジェンティア、止めて。お願い。早く』
 アジェンティアの手にした剣が引かれ、今まで回転させていた方向とは反対に切っ先が一回転する。冷たい煌めきを放っていた刃が消え、彼女の身長を悠に超える錫杖へとその姿を変じた。その間、瞬きほどの時間であろうか。
「花巫女の娘、花精の王が命じる。“ルーミ。汝の時空を止めよイータ・バルヴァ!”」
 ピンと張りつめた空気が凍りついた。風渦の中心で藻掻くバチンは廃墟となった神殿に飾られた塑像のように固まり、動きを止めている。崩れたはずの肉片はどこにも見当たらず、生々しいはずの傷跡はなぜか石となっていた。
「このまま石化させ摩滅させてはいけないと。そう言うのね、花精。鏡の呪など使って何をしようというの。それに、いったい誰と……」
 不意に口をつぐみ、アジェンティアは眉をつり上げた。
「まさか……。新しい核、あれに……? 己の回復力が追いつかないときは核の回復力で再生されるよう呪をかけたというの?」
 固まったままのバチンの足許で白い固まりが蠢く。床に広がり、ざわざわと揺れながらアジェンティアの側へと近づいてきた。
『ひとつじゃ、ないわ。接触した核の、ほとんどに呪を、かけてる。彼女の器に、その痕跡が残ってる。調べて。できるだけ、詳しく』
 錫杖をきつく握り、アジェンティアは沈黙したバチンを睨む。抑えようのない怒りが彼女の周囲に揺らめき立っていた。今その身体に触れたなら、間違いなくひどい火傷を負いそうである。それほど彼女の怒りは強かった。
「どこまでも己に都合がいいように世界を変えたいのね。核を操るだけではなく、その殺生与奪まで握っていなければ気が済まないの? やはり、あなたに関わった核はすべて始末するしかないようだわ」
 唇を噛みしめ、アジェンティアはむつきの中を覗き込む。自ら口にした言葉を後悔しているのか、それとも心にしかと決意を刻むためにか、細められた瞳の奥には痛みに耐える苦痛が見て取れた。
「アンディーンに回収を急がせなければならなくなったわ。それに、繭の中に眠る者たちを退避させなければ。欠片とはいえ、バチンの影響が核に及ばないよう繭で封印しておかないと、下天は乱れるばかりだわね」
 細腕が静かに錫杖を持ち上げ、勢いよく岩へと叩きつける。銀環がけたたましい音を響かせると、バチンの周囲で逆巻き蠢く風の奔流が弾け飛んだ。
 力任せに錫杖を叩きつけたのだろう。杖の先は岩にめり込んでいた。微かに腕が震えているのは錫杖を強く握りしめすぎたからか、それとも怒りのためか。
 アジェンティアは虚空を仰ぎ、そこにいる者に向かって声を張り上げた。
「皆、そこから退きなさい。今から罪人を封じます!」
 ざわり、と闇が揺れる。鳴動する暗黒の奥津城から這い出てくる気配があった。蠢き悶える者どもが不満をぶつぶつと呟く。
 ――罪人など、下天に放り出してしまえ。
 ――我らの眠りを、妨げるほどの罪か。
 ――閉じこめるより、滅ぼせばいい。
 宵闇に響く潮騒のように寄せては返す囁きは耳障りだ。それがアジェンティアの苛立ちをさらに募らせたらしい。錫杖を握りしめる指先が常よりもなお白くなって闇の中にクッキリと浮き上がった。
「お黙り! 三百年前に下天に放逐した結果がこれよ。滅ぼせるものなら、今すぐにでも滅ぼしているわ! 今ここでバチンを消滅させたなら、あなたがたが回帰するための居場所すら吹っ飛ぶわよ。それでも眠っていられて?」
 世界を変えるというバチンの意志は予想以上に固いようである。幻体と呪いの残骸だけでも人の世界に与えた影響は計り知れなかった。このまま放置していれば、また三百年前のように人は魔を狩ろうするだろう。
 ポラスニアを建国した男が魔人族ガダグィーンと呼んだ種族を狩ったように。人ならざる者たちの血脈を根絶やしにする争いが持ち上がるのだ。
「ようやくデラと引き替えに繭に眠る一族を守ったというのに。その守られた者たちが、我らを駆逐しようとする者たちとの間に不和を撒き散らすの? なんのためにデラは結界の人柱となったの。なんのためにサツキノは次世代を担う子を育てようとして命を落としたの。なんのために……」
『アジェンティア、アジェンティア。嘆かないで。あなたが今まで時間稼ぎをしている間にも、下天で狩人ファレスたちは歪みを正そうとしてる』
 奥歯を噛み締め、アジェンティアは腕の中のむつきを見おろす。小刻みに震える唇や頬は血の気を失って青ざめていた。
「この子を死なせたくないわ。生きることに倦み果てているのでしょうけど、もう一度身体を作り替えることができれば、まっとうに生きられるのに」
 呻くように漏らした声は震え、彼女の動揺の大きさを物語る。
 ――手足も眼も口もない肉だんごをかね? そのような出来損ない、早く輪廻に流してしまえ。
 ――だがファレスとしての魔力は強い。これが結界を安定させるもっとも理想的な魔力者の姿では?
 ――それくらいは役立ってもらわねば。我らの刑罰の担い手なのだぞ。
 好き勝手に騒ぐ者どもの声を遮る金属音が岩屋にこだました。白い腕が銀の錫杖を振り、囁くような思念の声を掻き消していく。
「今ここで魔力の強弱や一族の裁き司の力量について議論する気はないのよ。バチンの思念は我々の滅びへと向いているわ。同時に人間たちへの憎悪も。均衡を保っている世界を壊したいと望む彼女を止めなければならないの」
 ――しかし、付き巫女バチンは我らの代弁者。彼女を滅ぼさず封印するに留めると決めたのは、アジェンティア、そなた自身ではないか。
 ――だから三百年前に言ったのだ。サッサと滅ぼしてしまえと。
 ――滅ぼすなどと。もっと穏やかに解決する方法があるのでは?
 それぞれが勝手に意見を出し合い、堂々巡りの議論を続けていた。その間にもアジェンティアは苛立ちを募らせ、錫杖を握りしめる手に力を込め続ける。
 ――罪を犯した者はファレスが裁き、それに見合った刑罰を加えるのが習わしだろうが。
 ――そうだ。そのファレスは何をしている。職務怠慢ではないか。
 ――滅ぼすにしろ、封じるにしろ、我らが手を下す必要性はあるまい。彼に任せておけばいいではないか。
「白きファレスも朱きファレスも、それぞれの主人とともに下天の安定を図っているわ。わたしたちもこちらの世界の安定を図らずして、どうして今の世で生き残れるというの。一族の者の大半は身体がこの星に馴染まない。である以上、我らが生き抜くための選択肢は多くはないのよ」
 自らの手を汚すことを嫌悪する一族の者らの態度に、アジェンティアは憤然と反論を繰り広げた。が、返ってくる反応はどれも満足できるものではない。言葉に出さずとも不平不満をにじませる気配が、空気を伝って漂ってきた。
 ――いい加減にせぬか、諸君らは。アジェンティアも少し落ち着け。
長老タルク。あなた、そこにいたの。てっきり繭から出ていった者を追いかけていったとばかり思っていたわ」
 追っていったさ、と疲れたため息が聞こえた後、すぐに空間がざわついた。瞬きほどの間もなく、バチンのすぐ真横に真っ白な人影が姿を現した。
「繭を出ていった者たちは逃げるでもなく、この辺りを漂っている。ただの散策に逐一監視の眼など光らせてはおけんよ」
 綿毛のように揺れる髪を掻き上げ、白い人影は石化途中の人物を見遣った。
「バチン……。憎しみからは負債しか生まれぬものを。どこで我々は歯車を狂わせてしまったのだろうな。時守ですら時間は巻き戻せぬが、戻れるものなら誤った時代に立ち戻って初めからやり直したい」
 物悲しく呟く影にアジェンティアが呼びかける。
「繭に彼女を閉じこめておこうと思うの。だから皆を説得しないと……」
「止めておいたほうがいい。変化を嫌う者たちは耳を貸すまい。バチンの残骸は本体と一緒に封じておくほうがいいだろう。もはや転落は避けられぬ以上、決着をつけるのはファレスの力に頼らざるを得ない」
「そんな! ル・オルグを抑えるのに精一杯なのよ。この子にファレスの力を奮わせたら核の融合がますます進んでしまうわ。そうなればル・オルグを留めておくことは不可能よ。命という命を貪り喰らう者が野に放たれる!」
 綿毛の髪が揺れた。首を振ったのだと、かろうじて判る小さな動作である。
「朱きファレスは健在だ。あれに裁き司になってもらおう。白きファレスは導き手になるだけで充分だろう? ファレスも世代交代が始まっている」
「この子を殺すなと言いながら、今になってファレスの座から追い落とすの?」
「ファレスから退いたとて、この子が死ぬわけではない。むしろ器を新しく作り替えたなら、ファレスになどならずに生きて欲しいくらいだ」
 むつきを強く掻き抱き、アジェンティアがジリジリと後ずさった。
「狩人の核を抜いたらお払い箱。あの子はそう捉えるわ。わたしたちはファレスとして生み出してしまったのだもの。それ以外の生き方など出来はしないわ」
「それをこれから教えていけばいい。別の生き方もあるのだと……」
「それが出来れば、三百年前にやってるわ。出来ないからこそ、この子はル・オルグの核を追いかけ続けてきたのでしょう!」
 アジェンティア、と白い影が呼んだ。だが、その声を無視すると、彼女は身を翻して暗闇の奥へと姿を消す。追いすがろうと腕を伸ばした影はバチンのことを思いだして踏みとどまると、嘆息しながら立ち尽くしていた。