混沌と黎明の横顔

第06章:岩窟の花精王 5

 細く扉を開き、薄暗い寝室内を確認した後、王子は薄日差す背後を振り返った。硬い表情は隠しようもなく、こちらを伺う相手に向ける視線も険しい。
「その男のところに案内してもらえるかな。僕が直接確認することにする」
 決して報告を軽んじているわけではなかった。事実、今目の前にいる姉は寝室で寝込んでしまっている。その現実を無視するわけにはいかないのだ。
「サルシャ・ヤウン殿下、今回は公式な訪問ではないと聞いております。慮外者と直接対決なさるのには少々問題があるのではありませんか?」
「この僧院の者が取り込まれていたのなら、公式だろうが非公式だろうが敵方に僕の行動は筒抜けだろう。今さら出方を気にしていても始まらない。むしろ暴挙に及んだ輩が始末されないうちにやるべきことがある」
 こちらの意を汲んでくれたのだろう。アイレンと名乗った女騎士は、瞬く間に王太子を僧院地下の牢獄に案内する手筈を整えてくれた。
「ここで姉と昔話をするたびにユニティアのことが話題に上がる。その折に君の名も聞き及んでいるよ。……今日はアジル・ハイラーの直弟子と話ができることを楽しみにしていたのに、とんだ初顔合わせになってしまったね」
「いえ。どのようなときであれ、お逢いできて光栄に存じます。殿下の聡明ぶりはアルティーエ姫からよく聞かせていただいております」
「監視の眼をかいくぐって王宮の外に抜け出す算段をしたこととか?」
 双子が子どもの頃に引き起こした悪戯や悪巧みは、一部の宮廷人の間では語り種になっている。その話を姉から聞いたのだろうとヤウンには見当がついた。アイレンの人となりもアルティーエを通じてではあるが聞き及んでいる。
 男だと紹介されても遜色ない大柄な体格と厳しい表情が、前を歩く女騎士を修練中の修士僧の如く清廉な存在に見せていた。多くの騎士のように肩をそびやかして歩くのではなく、泰然とした構えが彼女の底の深さを伺わせる。
 気負いを感じない、いや存在の重厚さとは正反対の静けさがアイレンという人間の気質をよく表していた。例えることの出来ぬ不思議な存在である。
 内側には戦奴ドール時代の荒々しさを隠していように、それを感じさせない奥深さはヤウンには非常に興味深かった。姉が呼び出してまで話をしたいという気持ちが少し判った気がする。
「足許が暗いので気をつけてください。ご不快でなければ腕をお貸しします」
 松明たいまつの明かりだけでは心許ない闇が二人に覆い被さってきた。
「不快? 毛嫌いしている相手ならともかく、どうして君を不快に思うことがあるの。僕に余計な遠慮はしないで欲しいな」
「失礼しました。では、お手を。こういう地下ではよくあることですが、床は平坦に見えても意外に波打っています。思わぬところで足を取られますので」
 地下は比較的清潔に保たれているが、どうしても換気が追いつかずにカビ臭い。ヤウンは素直に手を伸ばし、女にしては逞しいアイレンの腕にすがった。
「こんな辛気くさい場所に閉じこめられているとなると、相手の男はさぞかし機嫌が悪いだろうね。しかも神殿の貴種ともなれば不満たらたらだよ」
「自業自得でございましょう。あやつに絹の織物で作った牢獄を要求する権利などございません。殿下、ご存分に処断を下されますよう」
 判ってるよ、と囁き返し、ヤウンは松明が照らす先を見遣る。人が二人並ぶのがやっとという地下廊を進んでいくと鉄製の扉が姿を現した。
 扉の前には目深にフードを被った僧兵が佇んでいる。松明が近づくまで暗闇だったはずの場所で見張り役をしているところを見ると、魔人ガダグィーンだろうと予想できた。
「このような場所に何用であるか。名を名乗られよ」
 落ち着いた男の声は闇を恐れる様子がない。顔を上げずに問う姿は不気味だが、魔人の存在に慣れている王子には男の個性のひとつとしか映らなかった。
 たぶん元から視力に頼らぬ生活をしている者に違いない。魔人の中には魔力の弊害から身体のどこかに欠損がある者もいた。視覚や聴覚、声帯を失ってはいてもそれを補ってあまりある魔力を持っているのである。
 もちろん、それに付随する社会的責任を王国は要求しているのだが。
「我が名はアイレン。炎姫騎士団の一員だ。こちらは王太子サルシャ・ヤウン殿下にあらせられる。奥の囚人を直々に尋問されることを望まれている」
 見張りの僧兵がようやく顔を上げ、見えぬ瞳を虚空に彷徨わせた。
「この眼は光を映しません。よって御身が確かに我が国の王子であるか判断つきかねます。無礼とは思いますが、幾つか質問に答えていただきたい」
 僧兵はそう前置きし、簡単な質問を投げかけてくる。それに答えながらヤウンは首を捻った。王宮にいる者であれば知っているような質問ばかりである。これでは王太子個人を特定できないではないか。
 では最後に、そう言うと、男はヤウンの耳元に口を寄せて囁きかけた。
「囚人の尋問は無意味です。向こうはあなたの登場を待っていますが」
 息を飲む王子の眼前で僧兵は唇に指を立てる。沈黙の合図に隣のアイレンも怪訝そうに眉をひそめた。だが黙って二人を見比べるだけで口出しはしない。
 驚きが引いた後、ヤウンは相手の言いたいことをおぼろげに悟った。敵は姉の評判を落としただけでは満足していなのだろう。しかし、敵やこの僧兵双方の思惑の深いところまでは読み切れなかった。何をしようとしているのか。
 王太子の困惑にかまわず、見張りの男は元通りの姿勢に戻った。そして毅然とした声でヤウンとアイレンの二人に言い放つ。
「王太子と断定出来かねます。通すわけにはいきません。どうしても通ると仰るなら、上階の上司か僧院にいる責任者をお連れくださいますよう」
 頑迷とも取れる声音が廊下のあちこちに反響していくと、牢の奥から扉を叩く音が乱入してきた。扉の奥に更に扉があり、その奥に囚人は押し込まれているらしい。貴人に対して無礼だと叫んでいた。が、声が割れて聞き取りづらい。
 フードの奥で僧兵が口許を弛めて声もなく笑っていた。松明の下で見る微笑みは狂気じみて見えたが、光映さぬ瞳は澄み、強い意志を感じさせる。
「どうぞ。上の階へ行ってください。ここにいる必要はありません」
 尚も牢からはわめき声が聞こえてきた。それまでは人の気配すら感じさせなかったのに、ここにきて異様なほど存在を主張する様子が滑稽ですらある。
「判った。ごり押しして僧院との関係を悪くする気はないからね。僕もこちらの騎士も戻ることにしよう。必要とあれば許可を取って通してもらうよ」
 無理を通せば牢の囚人と話はできるはずだ。ここに来るよう手配をしたアイレンの手順が間違っていたとも思えない。わざわざ王太子がここに現れ、囚人と話をすることなく去っていく、という筋書きに何か作為があるのだ。
 ヤウンはアイレンを促して来た道を逆に辿る。背後からは囚人の叫びが石壁を伝う蛇のように響いてきた。反響は耳障りで、耳を覆いたいくらいである。
 地上階に出ると、予想通りそこには僧侶がひとり待ちかまえていた。王子は彼に微笑みかけ、顎をしゃくって上階を指し示す。
「この茶番劇について、きちんと説明してもらえる場所に案内してよ」
 畏まりまして、と頭を垂れる僧侶の表情からは一連の流れの意味を汲み取ることはできない。この寸劇を演出した者に問うしかないようだった。
「さぁ、アイレン。僕の意向に逆らう首魁しゅかいの顔を見に行こうか」
 階段を昇って長い廊下を何度も曲がり、渡り廊下を越えた先、ようやく辿り着いた場所は施設に隣接する僧院の事務室にあたる部屋であった。背後に従うアイレンが周囲に気を配っている気配が背中から伝わってくる。
「お待ちしておりました、サルシャ・ヤウン殿下。今回のことは大変申し訳なく思っております。こちらの落ち度を責められても仕方がないことでした」
 どうぞこちらへ、と促す部屋の主はかなり年を取った僧侶だった。他にも数名の修士僧が事務仕事をしている。羊皮紙に何か書き込んだり、貴重な紙に古い巻物の内容を写したり、インクの匂いに囲まれた独特の雰囲気だった。
 案内の老僧は自力で立つのも難儀なのか、長い杖にすがって歩く背は丸まり気味である。一見しただけでは七十歳にも百歳にも見える外見だった。
 アイレンはといえば、室内が一望できる位置で睨みを利かせている。老いた僧への警戒ではなく事務机で仕事をしている数名の男たちが気になる様子だった。彼らに害意がないと判断できない以上、騎士として当然の措置である。
 雨期が終わろうとしている時期だがまだ肌寒かった。指先がかじかむような冷気こそ遠のいたが、風よけのために窓をピッチリと閉められた室内はランプで煌々と照らされて宵のただ中にあるような静けさである。
 事務の男たちが書き物をする羽根ペンの擦れる音と衣擦れ、そして呼吸音とストーブの薪が燃える音が異様な大きさで空間を占拠していた。
「怪我で僧兵団から退団してより僧兵の相談役のようなことをしております。この部屋も僧兵団の記録簿を記したり、諸々の雑務のために使われているのですよ。ここにいる者は口の固い者ばかりですからご安心を」
 王子がストーブが設けられた一画に案内され、質素だが頑丈な椅子に腰を落ち着けると、茶器を携えた男が音もなく部屋に入ってきた。
 その男の顔を見て、ヤウンは内心で驚きの声を上げた。先ほど地下で見張りをしていた男にそっくりである。すぐに自分と姉のように双子か年の近い兄弟なのだと判断したが、先回りでもされた気分だった。
「気づかれましたか。この者は先にお逢いした見張り兵の双子の弟です。兄は生まれつき視覚がありません。そして、弟は生まれつき聴覚を持っていません。強い魔力を持つが故の弊害とでも言いましょうか」
 ストーブにかけられていたやかんから茶器に湯を注ぎ、淡々と香茶を淹れる男の横顔は世界から遮断されているかのように静謐である。
 ヤウンはまじまじと男の姿を見遣った。が、すぐに己の不躾な視線を恥じ、老僧へと視線を転じた。近しくもない者をあからさまに注視するなど品がないにもほどがある。王侯貴族にとっては下司な行為だった。
「僕に地下牢の間近まで足を運ばせながら追い返した真意は? 随分とばかにした行為だ。よほど含むところでもあるのかと疑わざるを得ないな」
 無駄な世間話などする気はない。僧侶が僧院に属する双子を紹介したとて、今のヤウンには関係なかった。それよりも振り回されたことに対する申し開きを聞くのが先である。それを言動で示して見せた。
「まことに申し訳ない。拙僧の一存で行いましたことで、他の者にはお咎めなきようお願いします。……が、かの行為を後悔はしておりません」
 熱い湯気を立てて茶器が目の前の小卓に置かれる。両掌でそれを包み、ヤウンは陶器の温もりにホッとした。指先が温まると身体全体が温まった気がする。
「どんな思惑があって動いているのか聞いておく。納得のいく回答がなければ、僕は僕なりの処断を下すことになるが」
「もちろんです。ところで、殿下は魔人の能力で“感応力”という種類のものをご存じでしょうか? あるいは読心術などは?」
 茶器をから手を離し、膝の上で指をゆったりと組むと、ヤウンは居住まいを正して目の前の男を見据えた。茶を淹れてくれた男は老僧の背後に佇んでいる。
「読心術は魔力に関係ない。読心術の特徴は顔の表情や筋肉の動きによって相手の心の中を読みとることにある。が、対して魔人の持つ感応力は相手の感覚を共有してしまう能力だと記憶しているが。違ってるかな?」
「いえ、その通りで。読心術と感応力との違いをご存じであれば説明はすぐにつきます。ここにいる双子の片割れは兄と共に感応力を使うことができるのです。これは使い方によっては非常に有用なものになります」
 ヤウンは話の先を促した。双子を紹介したのにも意味があるということらしい。となれば、見張りに双子の兄が立っていた意味もこれまで思っていたものとは違ってきた。彼らの能力に関係していることになる。
「お互いが感応力を持っていると? それはどういうことになるのか?」
「彼らは言語に頼らぬ会話ができる、ということになります。しかも、多少の距離なら相手の姿が見えずとも問題なく会話が成り立ちます」
 背後で女騎士が驚きに息を飲んだ。しかし、王太子は無表情なままである。
「思念の声、か。魔人にはその手の能力者が多いのかな?」
 平静を保つ王子の態度が意外だったのか、老僧は皺に埋もれた眼をわずかに見張った。背後に佇む男は上司と王太子を交互に見比べているが、会話に割り込んでくる気配はない。むしろヤウンの出方を見極めている節があった。感応力を持っているなら王子本人の心の動きも読み取っているのかもしれない。
「驚きましたな。それもご存じでしたか。会話能力の有効性は兄弟間では可能ですが、他の者とは今のところ成立していません。また他の魔人の中で同じ能力を持っている者がいるかどうかは、残念ながら把握できておりません」
「離れていても会話できるということは、今も地下にいる兄と話ができる状態だということだな。つまり僕が地下に行った報告は兄本人からか」
「その通りで。ですから、階下まで迎えの者を寄越すこともできました。それでは殿下、ここまでの話だけで、あなたには兄にどんな命令を下したのかまで判っていらっしゃるのではありませんか?」
 王太子は殊更ゆっくりと茶器の香茶を口に含み、味わうように嚥下した。心が読まれているのなら、こんな間の保たせ方など無意味であろうが。
「僕の思考を読むことができるのなら彼に尋ねてみたらどうだ。僕が何をどこまで知っているのか、彼が一番よく判っているではないか?」
 初めて、ヤウンは他人を怖いと感じたかもしれなかった。
 バゼルダルン地方の僧兵テノイヤが己の感応力を封じようとしている意味を体感したと言ってもいい。彼が望まぬ感情の流入を恐れたように、他人に感情を読まれるという行為は丸裸で衆人の前に出るのに等しい心許なさを伴った。
 老僧が困ったように眉尻を下げ、苦笑いを浮かべる。
「殿下、彼らとて他人の心を明け透けに覗きたいわけではありません。知らぬが華、ということも世の中には多いのですから。彼らが感応力を制御するようになるまでに、どれほどの苦悩と忍耐を味わったか想像がつきますか?」
 肩に寄せていた杖を反対側の肩に乗せ替えると、老いた男は嘆息した。
「実の両親にすら疎まれる孤独や他人と関わる苦痛は計り知れません。本当なら彼らの能力を使わずとも解決できるに越したことはありませんが、今回のことは緊急事態と判断しての行為です。非常時以外に使いたいとは思いません」
 それは今現在の王子の内心も読まれていないということか。ヤウンは沈黙したまま佇む男を一瞥し、老僧の瞳の奥を覗き込んだ。
「すまなかった。僕は先手を打たれて動かれるのに慣れていない。特に今回は姉のこともある。自分では平静でいるつもりで、実際には怒りで先走りすぎて目先のことに惑わされていたようだ」
 老人のまなこが驚きに大きく見開かれる。声も出ない様子であった。王子が謝罪するなどとは予想もしていなかったのだろう。
「あなたが国王になったなら、この国はどう変わるのでしょうな」
「今日の平和を明日も信じられる国にする。道は険しいが」
 取りようによっては抽象的すぎる言葉であるにも関わらず、王子の前で老僧は頭を垂れた。それは神に祈る信者の姿である。
「サルシャ・ヤウン殿下、万歳。あなたが王にならずして誰がなるのでしょう」
 顔を上げた男は老いで衰えた瞳をしょぼつかせ、後ろに立つ部下を手招きした。音もなく傍らに跪く存在に、老僧は唇を大きく動かして語りかける。
「ヴィドク。お前が兄から伝えられた内容を殿下に報告しなさい」
 双子の片割れはヴィドクという名らしい。小さく頷き、王太子の前に跪いた男は緊張した表情で貴人が羽織る長衣の裾に触れた。相手の唇の動きで発言を読み取ることができるのだろう。ヴィドクは王子の許しを待っていた。
 ヤウンは膝の右手を持ち上げ、中指にはめた印章指輪を僧兵の目の前に翳す。
「接吻を許す。嘘偽りは命をもって贖うべし。汝の言葉ですべてを語れ」
 上着の裾から男の手が離れ、王子の細い指先を僧兵の節くれ立った指が包む。八芒星を象った指輪に口づけが落とされると、ヴィドクはぎこちない動きで後ろに下がり、老人の隣に跪いたまま口を開いた。
「オルドクとヴィドクが報告します、ヤウン殿下。天の神々の名にかけて真実を伝え、偽りには死をもって贖うことを誓います」
 聴覚がない者によくあることだが、男の発音には独特の癖がある。双子の兄とよく似た声はこもり、やや聞き取りづらかった。
 この報告を双子の兄──オルドクという名なのだろう、も聞いているらしい。顔立ちはそっくりだが性格は違うようで、王子の前でも堂々と話をした兄オルドクに対し、弟ヴィドクはうっすらと頬を染めて緊張を隠せずにいた。
「兄は我らの感応力を用い、地下の囚人の内心を探っております。彼は殿下と対峙したときに不安の種を植えようとしています」
 その発言にヤウンは顔をしかめる。が、横槍を入れずに報告に耳を傾けた。
「かの囚人は神殿の神官にあらず。そう装っているにすぎません。王女を辱める行為だけでなく、捕らえられた場合には殿下と取り引きすることを目論んでいる様子。直接逢うような危険は犯すべきではないかと思われます」
 一度口をつぐんだヴィドクが恐る恐るといった様子で王太子を見つめる。先ほどまで淡々と香茶を淹れていた男とは思えぬ怯えようだった。もしかしたら過去に他人の心を読んだことで痛い目に遭っているのかもしれない。
 王子が平静を保っているのを確認すると、僧兵は再び口を開いた。
「取引の材料は殿下のご母堂に関係します。かの囚人は国母さまの出自を汚すことで、亡き国王陛下が勅命を下された王妃陛下と王太子殿下の冊立を無効にする気でいます。公にされたくなければ、姉姫殿下を寄越せ、と」
「母上の出自を汚すなどと笑止千万。バゼルダルン公国の跡取り姫として生きてきた道をどう否定するというのか。愚かしいにもほどがある。奴は何をもって母上の出自に異論を唱える証拠とする気か?」
「王妃陛下の乳母であった女の証言を握っているようです」
 フン、と王太子が鼻を鳴らす。冷えた瞳を細め、薄く口の端をつり上げた表情は随分と意地の悪い表情であった。十代の若者には似つかわしくない悪辣な顔だと言ってもいい。が、そんな顔つきですらヤウンがやると絵になった。
「確かに僕が囚人と顔を合わせずにいる現状は僥倖だ。奴は僕の声こそ聞いたが顔は見ていない。王太子と逢ったという確証は得ていないのだから」
 緊張している僧兵と傍らに端座する老僧を等分に見遣り、王子は小さく頷く。彼らが機転を利かせてくれたお陰で、こちらは優位な立場で動けるのだ。
「礼を言う。これで先手を打って奴らに吠え面をかかせてやれる」
「咄嗟の策でございましたが役に立ったようで。しかし、お母上の乳母殿が捕らえられている可能性を考えると、有利とは言い切れないのでは?」
 ヤウンは口の端を更につり上げ、冷たい笑みを浮かべて見せる。
「姉は今日中に王宮へ連れて帰る。ここにいた痕跡を残さぬようにだ。王女はいなかった。そして襲撃事件も起こっていない。故に囚人も、存在はしない」
 王太子に言わんとすることを理解し、僧兵が怯んだ。老人は深いため息をつき、やるせなさそうに虚空を仰ぐ。
「心配はいらない。そちらで出来ぬというのなら出来る人物に頼む。さぁ、アイレン。奴に君の望み通りの懲罰を喰らわせてやろうか」
 ヤウンが背後を振り向くと、女騎士が仰々しい仕草で腰を屈めていた。それは王命を拝するが如き畏まった動作である。
「アイレン、君に王宮まで姉の護送を頼むよ。地下の囚人への懲罰は黒耀樹公子ケル・エルスに依頼しよう。彼の拷問を耐え抜いた者は未だかつて一人もいない。奴は死にきれずに苦しみのたうち回ることになるだろう」
 ゆっくりと立ち上がった王太子を仰ぎ見、老僧はもの悲しげに首を振った。
「闇に葬り去るおつもりですか。それではご母堂さまの出自に後ろ暗いところがあると認めるようなものですぞ。囚人への罰は当方で与えます故……」
 今度はヤウンが首を振る。施設側の面子もあろうが、偽物でも神殿の神官だと名乗る男を処罰するのは神殿の下位にある僧院では難しかった。
「母のことは心配ない。それより姉の身体に巣喰う魔力のことは判らないままだが、ここに置いておくのも限界だ。王宮の敷地内にある離宮で静養させる」
 元より時期を見て王宮に連れ戻すつもりだった。それが早まっただけのことである。母親の出自云々は関係なかった。が、老僧が言うように間が悪いことは確かである。そこを切り抜けるためにも黒耀樹公子の力が入り用だ。
「あの……ヤウン殿下。あの囚人は黒耀樹家の……」
 おずおずと会話に割って入ったヴィドクが気遣わしげに王子の顔を見上げる。それに微笑みかけ、ヤウンは小さく頷いた。
「判っている。あの男、黒耀樹の女怪に連なる者なのだろう? あの女狐の手先なら尚更ケル・エルスに尋問させよう。僕の命令通りに囚人を生かせたなら公子は無実だ。が、口を封じたなら、囚人と一蓮托生だよ」
 残酷なことを平然と口にする王太子に修士僧の表情が曇る。しかし、ヤウンにとっては同情している場合ではなかった。
「僕が乗ってきた馬車で姉を運ぶ。囚人の護送のほうも手筈を整えてくれ」
 強く要求する王子に気圧され、ヴィドクが上司と王子を交互に見比べている。老僧は諦めたのか、それとも納得尽くなのか、早口で部下に指示を出した。
 そんな微妙な空気の中、施設を訪ねてきた者がいると報告が入る。いったい誰が、と訝しむ修士僧や女騎士を制し、王子が穏やかに微笑んだ。
「問題ない。あらかじめ僕が呼んでおいた者だ。本来の目的は別物だったが」
 来訪者を姉の部屋に通すよう命じ、王太子はきびすを返す。自分も姉の部屋に向かうつもりだ。残された僧侶たちが不快に思うかもしれないが、今のヤウンには姉と母の名誉を守ることしか頭になかった。