混沌と黎明の横顔

第06章:岩窟の花精王 2

 少女を抱きかかえているジャムシードの姿が廊下の端に見えた。この数日ですっかり庁舎の名物になった光景である。フォレイアは午前中の仕事を終え、執務室から出て階段を降りたところで、父娘の姿を発見したのだった。
「仕事の手を抜いてもおらぬし、とやかく言うことではないのじゃが……」
 胸を塞ぐ鬱屈感に公女は顔をしかめる。あの二人を見ていると、なんとも言いようのない、モヤモヤした感じが喉元にせり上がってくるのだ。
 純粋に羨ましいと思っている自分の心の狭さに呆れてしまう。自分の記憶の中には、どこをどうひっくり返しても父とあんな風に過ごした過去はなかった。憶えている限り、父は微笑んでくれたことなどない。
 こちらの視線を感じたかのようにジャムシードが振り返った。視線を背け損なったフォレイアはぎこちない笑みを浮かべ、ジャムシードたちに手を振る。人見知りの激しい少女も公女に慣れたようで手を振り返してきた。
 ここですげなく立ち去るのも冷たい気がして、彼女は二人の側に歩み寄った。
「ジュペは今日もジャムシードと一緒か。待っている間、退屈しておらぬか?」
「ううん。みんな遊んでくれるから退屈じゃないわ。それにガイアシュもいるし。あ、そうだ。今日はね、厨房のおじさんがお菓子をくれたのよ。いっぱい貰ったから食べきれないの。公女様もおひとついかが?」
 手にした袋は少女の頭ほどもある大袋である。庁舎の食堂に勤める調理人が彼女のために作ってやったものだろう。ほんのりと甘い香りが漂っていた。
「そうか。では貰ってもかまわぬかのぅ。ちょうど甘い物が欲しかったのじゃ」
 初めてジャムシードがジュペを庁舎に連れてきた朝は用もないのに談話室の前を人が行き来して可愛らしい客人の観察で騒がしかった。数日経った今、父親が仕事中は談話室で遊んでいる少女を庁舎内で知らぬ者はいない。
 人見知りが激しいジュペであるが、ひとたび慣れてしまうと無防備なほど無邪気でまとわりついてきた。その姿はすっかり庁舎で定着し、渋面しか見たことのない役人の表情すら蕩けそうな有様である。
「そういえばガイアシュの姿が見えぬな。今日は一緒ではないのか?」
 ジュペがゴソゴソと菓子袋を漁っている姿を横目に、フォレイアは姿の見えぬ少年についてジャムシードに尋ねた。
「あぁ、ガイアシュなら書記官のところだろう。今日も読み書きを習ってるはずだ。覚えが早いらしいよ。庁舎に置いてある神書ももう読み終わるそうだ」
 真面目で利発な少年のことも庁舎の役人たちは気に入っているらしかった。特に故郷のタシュタン地藩に同い年の息子がいるという書記官の一人は、ガイアシュにかまいたくて仕方がないのだろう。
 少年はまったく文字が読めないわけではなかった。単に書物の少ない砂漠では読書という習慣がなかったに過ぎない。難しい言い回しや単語さえ教えてやれば、後は乾いた土が水を染み込ませるように知識を飲み込んでいくだろう。
「はい、公女様。これ美味しかったのよ。お昼ごはんのときに食べてね」
 調理人がジュペで甘くて、と困ったように話すジャムシードにしても、フォレイアから見れば娘に対しては甘い父親だ。仕事の合間には談話室に入り浸り、少女が不自由していないかと世話を焼いていると聞いている。
 また、そんな彼の姿を見て冷やかしている役人たちも似たようなものだ。少女が笑えば相好を崩し、ジャムシードがいないときには交代で彼女の遊び相手になっているのである。この数日、庁舎内は花が咲いたような賑わいだ。
「おい、ジャムシード。彼ら、また表に来ているぞ。どうするのかね」
 今日の受付を担当する役人が渋面を作って近づいてくる。「彼ら」と呼ばれる者たちのことも、すでに庁舎内では名物になっていた。
「そろそろ来る時刻だと思ってましたよ。俺が話すから仕事を続けてください」
 ジャムシードはジュペに先に食堂に行っているよう言い含めると、そっと腕から下ろした。不安げに父親を見つめるジュペの様子がまたいじらしく、この様子もあって庁舎の者は少女とその連れの少年を構い倒すのだ。
「ジャムシード。イコン族のことはお前に任せておるが、あまり刺激して揉めるでないぞ。今は黙認していても騒ぎになれば父上の耳に入れるはず。そうなっては事態を収拾するのは面倒になるばかりじゃ」
「判ってる。……でもな。ジューザが判ってないんだ。どうして俺がジュペを返さないのか、本当のところを理解していない。それさえ片づけば──」
 小声で話したつもりだったが、ジュペは不安を隠さず父親の腰にしがみつく。
 公女の立場に立てば王都にいつまでも少女を置いてはおけなかった。彼女を誘拐しようとした一味のこともある。今はジャムシードに一任しているが、時間が経つほどに彼のほうが不利な立場に追い込まれるのだ。
 言葉尻を濁して庁舎の表へ出ていくジャムシードの背中を見送るしかない。フォレイアは役人やジュペに気づかれぬよう嘆息した。
 ジャムシードがジューザに喧嘩をふっかけたのは、何か思うところがあったのだと踏んだのは間違いではなかろう。しかし、彼の真意を相手が悟るのにいかほど時間を要するか判らなかった。
 今は庁舎内の人間はジャムシード父娘に同情的だが、地藩主の炎姫公が動けば事態は変わる。形勢は逆転し、ジャムシードには懲罰が下されるだろう。
「ジュペ。わらわも食堂に行くところなのじゃ。一緒に行かぬか?」
 不安そうに菓子袋を抱え、廊下の向こうに消えた父親を求める少女は見る影もなくしょげ返っている。その様子に、フォレイアは自分の失言に気づいた。
 子どもとはいえ大人の会話の不穏さは理解できる。ジャムシードとフォレイアがかわした会話の気配から、厭なものを感じ取ったのだ。
「大丈夫じゃ、ジュペ。ジャムシードなら上手くやる。それよりも、食堂に先に行ってガイアシュとジャムシードの席を確保しておいてやったらどうじゃろうな。二人とも戻ってくる頃には腹ペコであろうよ」
 迂闊なことを言えぬからこそジャムシードは少女の前で言葉尻を濁したのだろう。そんなことすら配慮してやれぬほど、今の自分が他人に対して無頓着になっていることを思い知らされ、フォレイアの気分は沈みがちだった。
 だから、と言い訳できることではないが、ジュペがいきなり父親の後を追って走り出したのを、彼女は止めることができなかった。
「ジュペ! 待たぬか。ひとりで表に出てはならん! ジュペッ!」
 何事かと顔を出す受付係の脇をすり抜け、少女は庁舎の表に立つジャムシードに飛びついく。その後ろを追ってきたフォレイアの視界に、ジュペの姿を認めて俄に色めき立ったイコン族の面々が映った。
「ジュペ、やっぱりここにいたのだな。こちらに来なさい。お前やガイアシュのことは部族内でも問題にしないことにしたから、罰を受けることを気にしないでもいい。さぁ、ガイアシュはどこにいるのだ。呼んできなさい」
 ジューザが早口に語りかける。ジャムシードにしがみつく少女を今にも引き剥がして連れていきそうな勢いだ。フォレイアは自分の失態がジャムシードの足を引っ張ることになり、舌打ちしたい気分である。
「ジュペは渡さないと何度言わせれば気が済むんだ。二人のことを不問にしたくらいで事は収まらない。己のやるべきことを理解するまでここには来るな!」
 ジャムシードの一喝にイコン族の男たちの顔つきが気色ばんだ。
 それでは争いになる。そう思い一歩を踏み出したフォレイアだったが、ジューザの表情を見て立ち止まった。他の者と違い、彼は落ち着いて見える。
「これ以上どうしろと言うんだ、ジャムシード。子どもたちの起こした騒ぎは今なら他の部族には知られてはいないんだ。今戻れば二人の名誉に傷はつかないで済む。子どもたちの将来のことを考えてくれ」
「ジューザ、あんたはまだそんなことを言ってるのか……。俺との約束を反故にしておいて、ジュペの名誉も何もあったものじゃないだろうに。自分の矜持を守るために子どもや部族の名誉を引っぱり出すのはやめろ!」
「約束は守る。これからも養い親の役割は果たすし、不自由させる気もない。どうして判らないんだ。このままではジュペの帰る場所がなくなるんだぞ」
「帰る場所? そんなもの、あったのか? 自分の在るべき場所が存在しているなら、ジュペは俺のところになど来はしない。居場所がないから出てきたんじゃないか。それを理解していない以上、ジュペは渡さないと言ってるんだ!」
「だから騒ぎのことは不問にすると言ってるだろうが!」
「あんたは根本的なことを何も判っちゃいないんだ!」
 低めた声で言い争う二人の男の横顔は必死だった。どちらも譲る気はないらしい。殴り合いになる気配はないが、見ている側がハラハラするほど鋭い殺気が二人の周囲を取り巻いていた。フォレイアは思わず唇を噛みしめた。
「これでは決闘ビーダーンになるぞ。お互いに無事では済まん」
「あんたこそ妙な矜持は捨てろよ。まだ出来てもいない息子のことばかり気を揉んでないで、周囲の人間がどう思ってるか考えたらどうなんだ」
 この数日、庁舎前の一画はこんなことの繰り返しである。受付係りが噂する内容やフォレイア自身が見聞きしたことから判断するに、二人の男の主張はまったく擦れ違っていた。妥協点があるように見えながら見つけられずにいる。
「ジューザ。ジャムシード。二人ともしばし待て。人目を引いておる。話し合いをする気があるなら妾が預かる。続きは場所を移してからじゃ」
 腰に抱きつくジュペの泣き顔に気づいたジャムシードが娘を抱き上げ、なだめ始めた。それを複雑な表情でジューザが見守っている。お互いに少女の先行きのことを案じていることは間違いなかったが、思いは平行線のままだった。
 庁舎内にも外の騒ぎが伝わったのだろう。ガイアシュが戸口の前で成り行きを見守っていた。昼食時で人通りも多い。これ以上の注目は都合が悪かった。
「ジュペ、泣くんじゃない。俺もジューザも喧嘩をしてるわけではないんだ。ちょっとばかりジューザが分からず屋なだけだよ」
 ジャムシードが言って聞かせてもジュペはしがみついて離れようとしない。
「お父さん、わたしが側にいるのが邪魔なの? わたしが砂漠に行ったほうがいいの? だから、ジューザ伯父さんをわざと怒らせようとしてるの?」
 ジャムシードの唇の端が小さく痙攣したのをフォレイアは視界の端で認めた。
 ジュペが言った意味を公女は必死に考えたが、まったく判らない。少女を砂漠に帰そうというのなら蒼の部族長を怒らせてはまずいのではなかろうか。
 父娘の様子からは状況を察することができず、フォレイアはジューザへと眼を転じた。そして、そこにあった男の表情を確認して眼を丸くする。つい今し方までジャムシードと言い争っていたはずが、微苦笑を浮かべていたのだ。
「お前の交渉術はまだまだ駄目だな、ジャムシード。ジュペに感づかれる程度ではオレと対等に渡り合えはしないぞ」
 何がなんだか判らない。フォレイアが呆気に取られて他のイコン族の男たちを見渡せば、ある者は彼女と同じように唖然とし、ある者はニヤニヤと笑い、またある者は呆れた様子で天を仰いでいた。
 何が起こっているのだろう。どう対処しようか判断できずに立ち尽くしていると、フォレイアの耳に小さく舌打ちする音が聞こえた。振り返れば、ジャムシードが苦虫を噛み潰したような表情で少女の髪を撫でていた。
「ジュペが邪魔だとか思ったことはないよ。そんな風に心配しなくていいんだ」
 不意に顔を上げたジャムシードと視線が絡まる。が、それまでの表情を消した彼から内心の機微を読み取ることはできなかった。フォレイアが戸惑っているうちに、再びジューザと向き合ったジャムシードが口を開く。
「今の状態でジュペを渡す気はサラサラない。こればかりは譲れないぞ」
「だったらオレが理解できるよう説明してくれ。お前が何をしたいのかまったく判らん。こんな宙ぶらりんな状態はたくさんだ」
 ジューザが途方に暮れた様子で肩をすくめ、ため息混じりに懇願した。
「子どもの頃に大怪我をしたことがあっただろう。当時、部族の中で自分の居場所はあったか? 大人たちの庇護なくして生きていられたか? 自分にどれほどの力があったか憶えているか? どれほど苦い想いを噛み締めたかは?」
 あんたなら判るはずだ、そう言い捨てジャムシードはイコン族に背を向けた。
 ジューザの背後に控えるイコン族の何人かが呼び止めたが、庁舎に入っていく後ろ姿が振り返ることはない。むしろ部族長に遮られて引くしかなかった。
 フォレイアにはジャムシードが何を言いたいのか判らない。だが彼はジューザになら理解できると判断したのだ。相手からの返事を待たずに歩み去っていく背中に声をかけることができず、公女はただただ立ち尽くした。
「厭なことを思い出させる男だな。あんな無力な頃のことを思い出させてどうしろと言うんだ。だいたい、それがジュペとどう関係していると……」
 ブツブツと不満を漏らしていたジューザがふと口を閉ざす。何か思い当たったことがあったようだ。黙り込んで思案する彼の表情は真剣そのものである。
「約束……。オレたちが交わした約束は、確か……」
 周囲にいる者のことなどすっかり失念している部族長に代わってフォレイアに声をかけたのは、以前にガイアシュの父親だと名乗った男だった。
「公女様。申し訳ないが、今しばらくジュペとガイアシュを預けさせていただきます。ジューザの出方が決まり次第、こちらから連絡を差し上げるので話し合いの場を設けていただけますか? そう時間はかからないと思います」
 この男には今のやり取りが理解できているのだろうか。フォレイアには判らなかったことが、ジューザの中に訴えかけてくる何かが、見えているのだろうか。それを尋ねても答えが返されるとは思えなかった。
「判った。ここに連絡してもらえれば妾に報告がくる。話し合いの場にジャムシードたちを連れていくことを約束しよう」
 あれだけのやり取りで何かを見つけられる絆が、ジャムシードと男たちの間にあることが羨ましかった。いや、いっそ妬ましいと言ったほうが正しい。ジャムシードとジュペ、ジューザたちの間に自分は入っていけないのだ。
 理解を示しながらも、言い争いをしても壊れない彼らの関係から弾き出されている自分の立場があまりにも遠くに感じ、もの悲しさに苛まれる。
 考え込むジューザを引きずるように連れ去る男たちをフォレイアは見送った。春は確実に近づいているというのに、厳冬の荒野のまっただ中に立たされたような気分である。この凍えるような寂しさはなんだろう。
 自分など誰からも必要とされていないように思えた。寒々とした気持ちをを抱えたまま、公女は足取りも重く庁舎内へと入っていく。彼女を見おろす空もその心を映したかのようにどんよりと曇っていた。