アイレンは河港から真っ直ぐに王城付近の神殿群に向かって歩いていた。炎姫公アジル・ハイラーの戦奴から直属騎士に召し上げられて以来、確実に人々の視線の色合いが違っている。
以前の彼女なら賭闘場の常連客から酒をおごろうと声をかけられた。だが騎士の平服に身を包んで歩く彼女に酒宴へと誘う声はない。あるのは庶民との間に出来た見えない壁越しに見られる恐怖と羨望の眼だけだった。
正貴族ではなくとも、準貴族である騎士は市井の人々には充分に上流階級に属する者なのである。殺生与奪を握る相手に親しく交わろうとする者は少ないものだ。まして以前は奴隷の身だった者であれば、蔑んだ眼を向けられる。
内心では苦々しい思いを噛み締めていた。が、何年にも渡って感じる違和感にも馴染んできている。慣れる、という動物的習慣は神からの恩寵なのか。
慣れ、という単語に、本日の目的を思い出す。急な呼び出しはここ最近では慣れたものだった。むしろ度重なる呼び出しは予測の範囲内である。
呼び出しがあるたびに炎姫公に許可を取るのだが、大公はあまり良い顔をしないのもはやり予想済みだ。異様なほど自分に執着を見せる男の真意を計りかね、アイレンはため息混じりの吐息を吐き出すばかりである。
窮屈でたまらなかった。騎士であることも、訳も分からず炎姫公に縛り付けられることも。それでも逃げ出せないのは奴隷であった頃に教え込まれた絶対服従の誓いのためか。それとも別の感情が作用しているのか。
言い表せない徒労感と孤独。それをヒシヒシと感じるからこそ、アイレンは呼び出しを受ければ、こうして王都に足を向ける。ささやかな炎姫公への意趣返しであり、呼び出した相手への敬意からだった。
王家直属の僧院の屋根が神殿群の隙間から覗いている。あの僧院が運営する施設に収容されている少女の孤独に、自分は同情しているのだ。おこがましくも、世間と自分自身との乖離に悩んでいる彼女の寂しさが判る。
他人から見れば少女の気まぐれな行いだろうが、呼ばれた意味を知る者にとっては発作を伴う病に付き合う気分である。王女という身分に縛られ、その役割を果たせと迫られながら、無力感に苛まれているはずだ。
その心の隙間を埋めるため、かつて自身の……いや弟の教育係であったユニティア姫をよく知る人間と話をしたいのだろう。心おきなく過去のぬるま湯に浸らせてもらえる相手なら誰でもいいのだ。
他の貴族に知れたら軟弱だと誹られるだろうが、アイレンなら責めはしない。むしろ無用の地位に困惑している彼女だからこそ王女の内心を理解できた。
泣きたいような微笑みたいような、心は複雑な色模様を描いている。自分自身を制御しているようで出来ていなかった。何度も瞑想して落ち着こうとしても落ち着けない。アイレンもまた、王女と逢うことで自身を癒しているのだ。
主人の許可を得てやってきた王都は、相変わらずの活況だった。傷ついた少女のことなど市井の人々の記憶に残りはしない。もちろん、天堂に召された女のことなど、噂話で知っていても実際の姿など思い出しもしないだろう。
アイレンが死のうと世界は変わらない。何人かは涙するだろうが、それも歳月の波に押し流されて忘却の淵へ沈んでいくのだ。人の世は常に動き、また同じ場所へと戻ってくる。個々人の喜びも哀しみも関係なく……。
巣喰う虚無に押し潰されたら終わりだ。何度もその暗闇から這い上がってきたではないか。この重圧を跳ね除けてきたからこそ、聞くもおぞましき異名を賛辞として浴びる戦奴として生き残ってきたのだ。
ここまで生きてきたからには己の足跡を残したいと思うのはおかしいか。戦奴としての栄達を極めようとした寸前でその道は断たれた。では今の自分でできる最上の道を目指すのは間違っているか。いいや、そんなことはない。
アイレンという人間にしかできぬことをやろうというのだ。この世に生を受けてより、我が身はひとつ。この証を残して何が悪いか。
黙々と歩むうちに目的の建物が見えてきた。固く閉ざされた大門扉の脇にある潜り戸をそっと叩く。密やかな衣擦れの音の後、覗き窓から男の眼が覗いた。
「お呼び立てしておいて申し訳ないが、王女のところに客人が見えておるのだ。今しばらくお待ちいただけまいか。その後にお通ししよう」
王女の部屋に向かう前にいつも通される控え室に案内され、窓際の椅子に腰を落ち着けたところでそう伝えられた。
「客人はよほど王女と親しい方か? こちらの面会を取り下げようか?」
「いや、それが初めておいでになる方だが強引に王女に逢われてな。一応話は聞くと王女が仰るのでそのままに。話が終わったら早々に帰られよう」
アイレンは眉をひそめ、胸に沸き上がった不快感に唇を噛みしめた。なんだろう。妙に心の奥底がざわめく。苛立ちがじわじわと押し寄せてきた。
「その客人には悪いが、こちらが先約だ。お引き取り願おうか」
僧兵の表情が曇る。後ろめたさを伴った困惑が読みとれた。
「他言して良いかどうか判らぬが、客人が元老院関係の人物のようだぞ。それでも追い立てると言われるか? もめてしまうと厄介な相手だ」
アイレンは眉間に小さく皺を寄せ、口許をへの字に曲げる。王家と元老院の不仲は今に始まったことではなかった。元老院に関わる人間を容易く招き入れてしまうとは王家直属の僧院施設にしては弱腰な対応である。
不快感が増した。暗に脅しているつもりだろうか。どうあっても王女と訪問者を引き離しておかねばならぬ。そう頭の奥で警告が鳴り響いていた。
「客人はひとりか? どのような風体の者か? 何か言っていたか?」
突っ込んだ質問に僧兵は戸惑いをいっそう露わにする。
「客人はひとりだ。風体は中肉中背で、フードを目深に被っていたので容貌は判らぬ。首から下げた飾り細工に元老院が発行する神籍免許印が彫られていたのでその関係と判っただけで、王女の面会を求めるばかりだった」
手足の末端から這い登るおぞけに鳥肌が立った。まるで虫が這っているようなむず痒さである。なんとも言いようのない嫌悪感だった。
「すぐに案内を。こちらは王女と約束があるのだ。悠長に待っている気はない」
強引さでは引けをとらないだろう。客人同士が鉢合わせるなど上流階級者にとっては慎みのない行為だが、感じ取った異変を無視するわけにはいかなかった。ここで引き下がれば後から更に面倒が起きそうな予感がする。
渋々といった態度の僧兵を急かし、アイレンは廊下を急いだ。案内の男が強硬な態度に出れば、殴り倒してでも進むつもりだったが。
「客人と姫はこちらの部屋の奥においでになる。込み入った話があると……」
アイレンは男の足を払って引き倒すと、その頸動脈に短刀を突きつけた。
「もう少しましな嘘をついたらどうだ。王女はこの部屋にはおいでになるまいが。人の気配も読めぬ者が騎士など務まると思っているのか?」
質素を旨とする僧院施設でも王族が使う部屋となれば特別な仕様になる。貴人の部屋の多くは控え室の奥に実際に使う部屋が設けられているものだ。
案内役も控え室の奥間に王女がいると伝えたかったのだろう。が、廊下と控え室を隔てた扉、さらに奥部屋へ繋がる扉の二重の間隔があったとて、アイレンの感覚を誤魔化すことはできなかった。
「貴様にはしばらく眠っていてもらおう。王女を助けるのが先だからな」
腕を鋭く一閃し、男の延髄を一撃すると、アイレンは男の腰帯を解いて手足を縛めていく。意識を失った男の身体は重かったが、案内されるはずだった部屋に引きずり込み、暖炉の鉄柵と後ろ手に縛った帯とをしっかり結びつけた。
「この建物での王女の行動範囲はそう広くない。部屋と中庭、それと食堂を行き来するくらいか。となると、見知らぬ客人と話をする気なら中庭、か」
奥部屋への扉を乱暴に開けると、やはりそこに人影はない。案内役の男はこの部屋に彼女を閉じこめておく気だったに違いない。
きびすを返して廊下に出ると、彼女は廊下を曲がり、突き当たりにある王女の部屋へ向かった。足音は最小限に抑え、扉の前で立ち止まると室内の気配を探る。予想通り人の気配がなかった。やはり王女は中庭にいる。
廊下を逆走し、曲がった廊下の反対側へ駆け出すと、アイレンは以前に王女に案内された中庭へと飛び出した。近くに王女の姿ない。
中庭とはいえ、広々とした庭には常緑樹の木立があり、見通しは快適ではなかった。もうしばらくしたら芽吹きの季節で草花が生い茂るだろうが、今は早咲きの野草が大地に張り付いてだけである。
「アルティーエ姫っ! どこにおいでですか! 返事をしてください!」
実際に返事があるかどうかは疑問だ。もし王女が誘拐されでもしていたら中庭とてもぬけの殻であろう。しかし、案内役の僧兵の微妙な態度から察するに、この建物から王女を盗み出すのは難しいはずだ。
ガサガサと遠くで茂みが蠢く物音がする。アイレンは咄嗟にそちらに向かって駆け出した。手にした短刀を袖口に隠し持ち、人の気配を素早く探る。
「アルティーエ姫! どこです! 姫っ!」
こちらの呼びかけに驚き、姫と一緒にいる者が逃げ出したら儲けものだ。あるいは第三者の存在で凶行に出るのを防げているのなら……。
何度も呼びかけながら茂みの動きに眼を凝らした。先ほどまで感じたざわめきが静まり、物音ひとつしない。彼女は呼びかける声を止め、周囲の気配に集中するためにそっと瞼を伏せた。
右か。いや、違う。もう少し先だ。不快な気配が足先からビリビリと伝わってくる。息を潜めて、こちらが行き過ぎるのを待っている気配がする。下司な輩の気配を読み違えるはずがなかった。ケダモノどもの邪気に吐き気がする。
アイレンは鋭く眼を見開くと、自身が直感的に感じ取った方角に跳躍した。
客人は一人だと言ったが実際には二人の男がいた。王女の細い身体に馬乗りになっている男と腕を押さえつけている男の二人である。
引き裂かれた衣類を口許に押し込まれ、王女は気を失っていた。男たちの思惑は見え透いている。たまに人が行き交う中庭でも、茂みの陰に隠れてしまえば問題ないと思ったのだろう。呆れ果てた浅慮ぶりだった。
「おい、あいつをなんとかしろ。そのためにお前を連れてきたのだぞ!」
馬乗りになっている男が忌々しげに舌打ちすると、連れに向かって声を荒げる。こちらが主犯ということか。ゆらりと立ち上がった男は上背があり、一目見て凶状持ちだと知れる歪んだ光を瞳に浮かべていた。
アイレンがいようが男には暴行を止める気はない。連れが邪魔者を葬ってくれると確信していた。事実、大柄な男は体格に似合わぬ素早さで襲いかかってくる。戦い慣れていない者ならアッという間に倒されていたはずだ。
相手の大男に劣らぬ素早さで攻撃をかわすと、アイレンはすり抜けざまに腕を振り上げ、袖口から飛び出した切っ先で相手の喉笛を掻き切った。大量に噴き上がる血飛沫を無視し、彼女は主犯の男の眼許に短刀をちらつかせる。
「その薄汚い手を放せ。二度と陽の光が拝めぬよう目玉をくりぬくぞ」
あまりにもあっさりと連れが殺され、男は唖然としていた。が、王女の上からどこうとしない。フードの陰から覗く瞳に狡賢い光が浮かんだ。
「お前、この小娘が呼び寄せた騎士か。ではこの印章の意味を知っているだろうな。我が輩に手を出して一族が無事でいられ……おぶっ!?」
アイレンは男のこめかみを短刀の柄頭で殴りつける。怒りに歪みそうになる口許を引き締め、地面に転がった男の脇腹を蹴り上げた。
「元老院発行の神籍免許印か? それがどうした? 貴様のような輩がいるから女の一人歩きもできぬような世の中になるのだ。去勢してやるから、その小汚い一物を出してみろ! さぁっ!」
「ちょっと待て! お、お前! この免許印の意味が本当に判っておるのか!」
彼女の殺気にズリズリと後ずさる男の表情が強張る。権威になびかぬ輩を相手にしたことがないのだろう。狼狽え、及び腰になる姿は滑稽だった。
更にアイレンが一歩を踏み出したとき、傍らで意識を失っている王女が身じろぎする気配が伝わる。覚醒しかかっているのだ。ハッとして振り向くと、自由になったことにも気づかず、王女は抵抗するように藻掻いていた。
王女の名を呼び、彼女に駆け寄ろうとしたアイレンは慌ただしい気配を感じ、男のほうを振り向いた。転がるように逃げる後ろ姿が見える。このままでは取り逃がしてしまう。そうなれば、王女の純潔を証明する者がいなくなる。
アイレンは咄嗟に掌中の短刀を男に向かって投げた。彼女の狙いを外れることなく、切っ先は男の太股裏に突き刺さる。音階をはずした絶叫が周囲に響き渡ったが、それにかまうことなくアイレンは王女の身体を抱き上げた。
「アルティーエ姫、お気を確かに。アイレンです。もう大丈夫ですよ。姫!」
何度か呼びかけるうちに朦朧としていた王女の意識がハッキリしてきた。が、アイレンの顔を確認した途端、ワッと激しく泣き崩れてしまった。
「ハッハッ! 愚か者め。王女の純潔は我が輩がいただいたわ。ご無事も何もあるものか。お前の苦労も水の泡よ!」
激痛が襲っているであろう太股を庇いながら男が上擦った笑い声を漏らす。アイレンはこの襲撃者がすでに目的の大半を達したことを悟った。本当に王女の純潔を奪う必要などない。歪んだ風評さえ立てば良かったのだ。
先ほどの叫びが聞こえたのだろう。建物から数名の修士僧が飛び出してくるのが視界の端に映った。彼らは喉笛を掻き切られて死んでいる男に驚いて足の動きが緩んだが、すぐに王女の異変を察して駆けてくる。
「何事ですか。いったいこれは……うわっ!?」
「王女を救士に診せてくれ。私はこのウスノロと話がある」
アイレンはむせび泣く王女を修士に押しつけた。ガタガタと震えている細い身体を手放すのは不安であったが、目の前でヘラヘラと笑っている男をこのままにしておく気は毛頭ない。始末をつけておかねばならなかった。
「おい、お前ら。この騎士を縛り上げろ。我が輩に怪我を負わせたのだぞ。それから、この怪我の治療ができる腕の良い救士を寄越せ。この施設なら魔人がいるだろう? 治癒魔術とやらを受けてやろうではないか」
アイレンは肩越しに振り返り、修士僧たちに顎をしゃくる。早く行け、と示すと、何度か振り返りながらも王女を連れて建物内へ入っていった。
「お、おい? どうした? なぜ我が輩を置いていく! 早く、この不埒者を縛って牢に繋げ! おい、戻ってこないか! このぼんくら僧侶が!」
喚き散らす男の目の前に立ち、アイレンは冷然と見おろす。自身の権力を信じて疑わない神経に反吐が出そうだった。
「一度だけ選択する機会をやろう。王女の純潔を証明して監獄に堕されるか、それとも今この場で私にジワジワと絞め殺されるか、だ」
パックリと口を開き、眼を大きく見開いた男の表情はマヌケそのものである。
「な、なにを……。我が輩を監獄に送るだと? 殺すだと? お前はいったい何者のつもりだ。我が輩は免許印を持つ神官だぞ。判っているのか!」
「先ほども言ったが、免許印がどうした? 貴様の未来は二つに一つだ。さぁ、選ぶがいい。次期国王の怒りが解けるまで監獄に繋がれるか、今すぐに本物の獄界へ堕ちるか。どちらを選んでも苦痛が伴うことは間違いないがな」
「ふ、ふざけるなっ。我が輩は元老院に身を置く大貴族の出身ぞ。お前のような素性の知れぬ騎士風情に裁かれる覚えはないわ!」
アイレンは腰を屈め、男の太股裏に突き立つ短刀に手をかけた。間近で覗き込んだ男の瞳に動揺と恐怖が見える。暴力で他人をねじ伏せるのが当たり前だった者にとって、自分が反対側の人間になることなどあり得ないことだろう。
「選ばぬのなら、こちらの判断で選択を決定する。かまわないな?」
相手の瞳に映り込んだ自分の顔が笑っていた。もちろん、少女たちが浮かべる華やいだ微笑みではない。その表情は作り物の仮面のように笑みだけが刻まれながら、まったく微笑んでいるように感じられない笑顔であった。
「や、やめろ。我が輩の後ろ盾に逆らって生きていけると思うのか。そんなことをしたら中央貴族全部を敵に回すことに……」
「だから? それがどうした?」
奴隷の身分から騎士に引きずり上げられたときも自分の意志など無視された。この男の言いなりになろうが逆らおうが、この後に男へ下される裁きにアイレンの意向が正直に反映されることなどないのである。
となれば、自分が相応と思える処罰を男に加えねば気が済まなかった。
「貴様が死ねば名誉くらいは守ってやる。それとも不名誉を被って生きるか?」
握った柄を乱暴にひねる。だくだくと流れ出る血の生暖かさと失われている体内の熱を感じたか、男の顔からさらに血の気が引いた。瞳は恐怖に見開かれたまま。太股の痛みで萎えた気力は戻らぬらしく、まともに抵抗もしない。
「た、助けてくれ。頼む。殺さないで、くれ……」
アイレンは浮かべていた笑みを崩さず、声だけは冷然と「否」と言い放った。引き抜いた刃についた血を舌で舐め上げ、彼女はいっそう壮絶な笑みを刻む。
「貴様ごとき虫けら一匹、命乞いすることすらおこがましい。刃で制裁を加えることすら無駄だ。顎を砕き、手足の関節をねじ曲げ、その血が流れ尽くすまで見物させてもらおうか。血を抜かれる首なし鶏のようにくたばるがいい」
こんなことを言われたのは生まれて初めてだろう。眦が裂けるほど瞳を見開き、ゼンマイ人形のようにガクガクと身体を揺らし始めた。
男は傷から噴き出す血を止めようと傷口を押さえるが、己の血など見たこともなければ触れたこともあるまい。生々しい熱を持った赤い液体と鉄錆の匂いに酔ったかのように上半身を折って倒れ込んだ。
「フン。痛みと恐怖で気を失ったか。所詮、門閥貴族の飼い犬。他愛もない。大した性根もなく大それたことをした償いは高いぞ。獄中でそれを思い知れ」
アイレンは腰を屈め、男がまとうマントの裾を細く引き裂いて止血を始めた。背後から衣擦れの音が近づく。男の治療のために救士が飛んできたのだ。
「アイレン卿! お怪我はありませんか」
彼女が自分は怪我などしていないと答えると、救士はすぐに男の太股から溢れ出た血の量を確認し、掌をかざして治癒魔術を施した。
僧院の救士が貴賤で治療を差別することはない。が、貴族に関わりがある場所では色々な思惑が絡み、彼らの思慮など無視されることも多かった。今回でも尋ねたいことは山ほどあっても治療を最優先して無駄口を叩かない。
「王女は落ち着かれたか? 世話係に女性をつけてもらえただろうか?」
本当は男に襲われた王女を僧侶に預けたくはなかったが、目の前の男の始末に気を取られて細かな配慮を欠いた。王女が怯えていなければ良いが。
「大丈夫ですよ。鎮静効果のある香を焚き、眠くなる薬湯を差し上げました。でも、姫についていてもらえますか。実は間もなく王太子殿下がお越しになるのです。あなたから事の次第をお話いただきたいのですよ」
サルシャ・ヤウン王子がやってくると聞いて、アイレンは少なからず驚いた。今までこの施設内で王太子と顔を合わせたことはない。
「急なお渡りなのか? 王女の不調を理由にお断りすることは……」
「突然のお越しなのは事実ですが、不調などを理由にしたら見舞いをすると言われるのがオチですよ。あの御方は少々強引なところがおありですから」
困ったように眉を寄せ、苦笑いを浮かべる救士の表情が面映ゆかった。何のてらいもなく無防備な姿を見せられることに、彼女は慣れていないのである。
「その男、目を離さぬように監視をつけてくれ。自殺する勇気もなかろうが万が一ということがある。それに口封じをされるようなことになると面倒だ」
一瞬だけ跳ね上がった心臓はすぐに落ち着きを取り戻した。思わず視線を反らして淡々と指示を出したことも、動揺を悟らせない役割を果たしただろう。
相手からの了承を聞き取り、アイレンは王女の部屋へときびすを返した。視界の端に冷たい骸が飛び込んできたが、それに対して彼女が僅かでも動揺することはない。慣れに近い感覚に我ながら苦笑を禁じ得なかった。
「なるほど。“皆殺しのアイレン”とはよく言った。確かに、殺す気で向き合った相手を仕留め損なったことはないな。……だからか。殺意や悪意を持たぬ者に私は弱すぎる。炎姫公を超えられぬのは、そのせいか?」
誰に聞かせるともなく呟き、アイレンは建物の入り口をくぐる。来た道を逆に辿って王女の部屋に到着すると軽武装の僧兵二人が見張りに立っていた。
「狼藉者を手引きした奴も監視下に置いたぞ。それと、我らのような強面の男が側にいては姫も気が休まるまい。室内の監視はアイレン卿にお願いしたい」
彼女は顔をしかめて頷く。気絶させた案内係の男のことをすっかり忘れていた。見張りからの簡単な説明によれば、同僚の男は脅されていたらしい。それが真実かどうかは調べてみなければ判らないが。
滑らかな動きで扉を開けた彼女は、控えの間に詰める修女見習いの娘に会釈を送った。見張り役の僧侶が娘に声を掛け、王女に変わりがないことを確認する。アイレンは彼らが見守る中、奥部屋へと足を踏み入れた。
「王太子殿下が到着されたら、アルティーエ姫はご気分が優れないとお伝えしておいてくれ。説明はこちらでしよう。おおっぴらにできる話でもないしな」
承知した、と請け合う男の声を背に、彼女は踏み込んだ部屋を見渡した。
親しい客人が来たときに使われる応接間の奥、衝立で隠すように頑丈な扉が見える。あの扉奥が王女が休む寝室のはずだ。応接間に人影がないところを見ると、王女は薬湯が効いて眠っているのだろう。
奥の扉を薄く開いて寝室内を確認すると、天蓋幕の内に人影が滲んで見えた。
王女が目を醒ましたときにどんな反応をするか心配である。ただでさえ先の戦で心が擦り切れるような思いをしているのだ。元老院が何を企んでいるか知らないが、このように姑息で卑怯な真似は許せない。
改めて怒りがぶり返し、アイレンは扉の取っ手をきつく握りしめた。
前へ 次へ もくじ