混沌と黎明の横顔

第05章:微睡む樹神 5

 気もそぞろな状態で弟が眠る部屋を後にしたジャムシードは、ジュペが目を醒ましたことを知らされた。彼女の無事に安堵してへたり込んでいるガイアシュに代わり、ジャムシードを探し回ったオーレンから伝えられたのである。
 また、ジュペが予想よりも早く目覚めたように思ったのだが、実はジャムシードがサキザードの部屋で長時間を過ごしていただけだとも知らされた。
 その後のタケトーとのやり取りで、ジャムシードは自分が止まる宿舎にジュペを連れていくことは断念した。
 いかに炎姫公家の役人宿舎でも賊の侵入を完全に防ぐことはできない。ましてイコン族ともめ事を起こしている真っ最中だ。連れていけばジュペを好奇の目にさらすことになる。かといって街の宿屋など論外だ。
 幸いというかなんというか、タケトーが住まうこの館は彼が母国から連れてきた手練れが何人も居り、下手な商人の金倉よりも警備がしっかりしていた。もっとも、タケトーは初めからジュペも預かる気でいたに違いない。
 借りは作りたくないが作らざるを得なかった。それに弟も館に留まっているなら、ジュペに逢うときにサキザードにも逢うことができる。
 単純に都合が良い、と喜ぶ気にはならないが、あちらもこちらも気を揉んで右往左往している今、心配事が少しでも固まっていてくれたほうが頭を悩ませずに済む。今日はもう何も考えたくないくらい気疲れしていた。
 それでも疲れを顔に出さず、ジャムシードはガイアシュに捻挫を早く治すよう言い含めると、引き留めるジュペをなだめすかしてタケトーの館を後にした。同行させたオーレンも、館を出るとあからさまに胸を撫で下ろした。
「もー、今日は色々とありすぎて疲れちまったよ。おいら、こんなに疲れたのは警邏五人に街中を追いかけ回されて、一日中飲まず食わずだったとき以来だ」
「悪かった。こんなに引き留めておくつもりはなかったんだけどな。モス兄ぃには俺から謝っておく。それと、今後の連絡役のことも伝えておくから」
 オーレンにはこれからもタケトーの館や役人宿舎、果ては大公屋敷への使いも頼むことになっている。モスカイゼスの仕事のご用聞きを装って動いてもらうのだ。その断りも兄弟子に入れておかねばならない。
 それに炎姫公女にも説明が必要だった。イコン族の部族長の養女がさらわれかかったとなれば、炎姫家としても対処しなければならないことが出てくる。
 やらねばならないことは増える一方で、身体がいくつあっても足りなかった。
 ジュペをさらおうとした人物が何者で、どんな目的を持って動いているのか判らない。こうしている今も、彼らはジャムシードたちの後を尾行し、こちらの行動を探っているはずだ。大公家に関わりがある人間だと知って退いてくれればいいが、逆に荒っぽい行動に出る可能性も否定しきれない。
 足りない情報に苛立ちが募った。こんなとき自分がかつて属していた組織の情報収集力が欲しいと切実に思う。
 いや、その情報網を利用してはいけないわけではないのだ。ただ組織との接触を最低限に押さえている現在のジャムシードが使うことを躊躇っているだけで、上層部は彼が必要に迫られて組織を使っても文句は言うまい。
 たった独りで水姫公の追っ手から逃れなければならなかったとしたら、もしかしたら使っていたかもしれなかった。接点が増えれば増えるほど危険が増すことが判っていても、逃げるために必要な情報を得るために。
 今が使うべきときなのかもしれない。組織の存在を知らないオーレンは知らぬままモスカイゼスとの連絡役をこなしてくれる。さらにジャムシード自身が王太子と接点を持つのだから、王宮に入り込むことも可能なのだ。
 王都で黒の頭領として暗躍するイルーシェンと連絡を取り合おうと思えば取り合える。神都カルバでの工房の得意先客だと言えば誰も疑う者はいない。
 甘い蜜のような誘惑だった。自ら属していた場所への回帰は何よりも安心感がある。だが。一度頼れば、二度三度と甘えたくなるのだ。それが水姫公の疑念を呼び、探索の手を向けられるきっかけにもなるだろう。
 炎姫公女の庇護下に入り、王太子との接見の権利を得るほどの力があると周囲に認知された今でも、ラシュ・ナムル大公は虎視眈々とジャムシードの動きを見極め、隷属させようと狙っているに違いなかった。
 ……まだだ。まだ独りでやれる。安易に頼るわけにはいかないのだ。
「オーレン。先に炎姫公の公庁館に行ってからモス兄ぃのところに向かう。もう少しだけ付き合ってくれ。……そう厭そうな顔をするな」
 まだ面倒なことがあるのか、と渋い顔をした少年を促し、ジャムシードは王都でのタシュタン地藩の役所へと足を向けた。
 大広場はまだ人でごった返し、周囲の商館は人の出入りも激しい。その中で商人とは別種の人間が出入りが目立つ建物が役所関係だ。時おり小雨が降る中、タシュタン地藩公庁館は鮮やかな赤い垂れ幕で存在を示していた。
 公庁館に足を踏み入れようとしたジャムシードは、開け放たれた扉の陰から出てきた小柄な人物とぶつかりそうになってたたらを踏んだ。危うく相手を蹴り転がしそうになったが、すんでの所でそれは避けられた。
「ロ・ドンイルさん……? どうしたんですか、こんな場所で」
 福々しい頬をした東方人の男がぶつかった衝撃で尻餅をついた体勢のまま、首をねじってこちらを見上げている。顔をしかめているところをみると、打ちつけた尻がかなり痛むのだろう。
「ジャムシードさんじゃないですか。あいやぁ、お久しぶりでぇ。最近はタシュタンでご活躍だそうですねぇ。ハヤヒトさんともよく逢っているんですかぁ」
 チャザン訛りが激しいドンイルのポラスニア語は聞いていると脱力する。また、その口調のままで聞くソージンの正しい発音名は本当に彼が異邦人なのだと再認識させられ、今回の騒動に絡んでいることを否応なく思い出させた。
「えぇ、まぁ。俺はあまり役に立ってないけど公女様のお陰でなんとか」
「またまたぁ! 上流階級の奥方様の中には個人的に飾り細工の注文をされる方もいらっしゃるそうじゃありませんか。今や引く手あまたでしょう?」
 確かに個人的に依頼を受ける注文品はある。だが、それらを全部受けているわけではなかった。注文と称して暇潰しの話相手をさせようと、のらりくらりと注文を長引かせる人物も多い。その手合いの注文からはサッサと手を引いているのだから、実際の注文など数えるほどだった。
「言われるほど注文が入っているわけじゃありませんよ。地藩の仕事が最優先ですからね。それより大丈夫でしたか? 急いでいたから注意力が散漫になっていたようで。怪我をしてませんか?」
「大丈夫ねぇー。お尻の肉が厚いからね。それよりお急ぎなら早く奥へどうぞ。お仕事の邪魔をして申し訳なかったねぇ。また今度、ハヤヒトさんと一緒にお食事でもどうですか? 腕の良い細工師の品を紹介してくださいよぉ」
 奥へどうぞ、と言う割に仕事に繋げようと話を振ってくるドンイルにジャムシードは笑った。彼には同じ東方人でもタケトーとは違う逞しさを感じる。その態度はいかにも小市民で、タケトーのような強かさとは少し違った。
「そうですね。ソージンも誘って食事に行きましょうか。宿泊先を教えていただければ連絡を入れますよ。東方の珍しい話を聞かせてください」
 不意にひらめき、ジャムシードは男が寝泊まりする宿屋の場所を確認した。
 彼をダシにソージンを呼び出せば簡単にタケトーの話が出来る。危険を少しでも回避できるのだ。ドンイルには悪いが、この出逢いを利用させて貰おう。
 ニコニコと嬉しそうに愛想笑いをしている東方人の男と短い世間話を交わし、ジャムシードは公庁館の奥へ向かった。
 そういえばドンイルはなんの用事で役所に来たのだろう。用件は聞かずじまいだ。が、すぐに仕事を思い出し、ジャムシードはため息をついた。
「なぁ、ジャムシードぉ。おいらも一緒じゃないと駄目なのかー? もう顔は判ってるんだから、おいら独りで工房に帰っていてもいいだろ。お師匠にはおいらから前もって話しておくからさぁ」
 元スリ少年にとっての役所とは、お仕置きを受けるときに引っ立てられてくる場所という認識しかないのだろう。情けない顔で後込みしているオーレンの様子は捨てられた子犬のようだった。
「駄目だ。連絡役をこなすときの道順を教えていないから、帰るなら俺と一緒に帰るんだ。……そんな恨みがましい顔をしても駄目だぞ。ちゃんと仕事をこなせたら、それ相応の報酬は払ってやるから、仕事内容の覚悟はしておけ」
 これから何度も足を踏み入れるであろう役所に怖じ気づいている場合ではない。言外に込めた牽制が判ったのか、オーレンは渋々といった態度で後ろに従った。本当は逃げ出したいのを我慢している気配がありありと伝わってくる。
「ただいま戻りました。公女様は奥の執務室においでですか?」
 中央ホールの奥に設えられた受付に座る役人に声をかけると、相手は重々しい仕草で肯首する。地藩の威厳を守るために、必要以上に高圧的な物腰をする役人にも最近では慣れてしまった。いちいち気にしていられない。
「あぁ、これからしばらくの間、俺の遣いで出入りする子です。顔を憶えておいてもらえますか。公女様へ取り次いでいただくこともあるでしょうから」
 背後に隠れようとする少年の首根っこを引っ張り、ジャムシードは子猫を突き出すように前に連れ出した。声にならない悲鳴が聞こえたが、それを無視すると受付の役人ににこやかに微笑みかける。
 ここで卑屈な態度を取れば足許を見られるだけだ。オーレンに遣いを頼むのは当たり前のことなのだという態度を示せば、公女が絡む事柄に役人が口出ししてくることは少ない。これも地藩の仕事で覚えたことの一つだった。
「受付担当は私一人ではない。入館許可証を発行するから帰りに寄るように」
 よろしく、と返事をしながら、ジャムシードはオーレンを連れて奥に向かう。少年が「おいら、本当に大きな顔して役所に入れるんだね」と興奮気味に囁いてくるのに、そっと振り返り小さく頷いた。
「入館許可証があれば一人前の扱いを受ける。卑屈な態度は取るな。堂々と胸を張って公庁館に入ってこい。……俺の面目を潰すなよ」
 一瞬きょとんとしたオーレンだったが、面映ゆい表情を浮かべながらしっかりとした動作で頷いた。大人と子どもを行き来する年頃である。任された仕事への誇りと責任の重さに複雑な想いを噛み締めているのだろう。
「ジャムシード? 随分と遅かったのぅ。おや、オーレンも一緒か。もしやモスカイゼスのところで何かあったのか?」
 執務室から出てきたところだったらしく、炎姫公女が腕に書類を重ねた姿で廊下の奥に佇んでいた。書類など役人が運んでくれるであろうに、時折この公女は突拍子もないことをやってくれる。
「公女様、仕事の途中じゃないのか? 書類くらい執務室付きの秘書官に運ばせろよ。あんたが動き回ると公庁館中の役人が右往左往する騒ぎになるぞ」
「あぁ、これか。いや、その。普通の書類なら任せても良いのじゃが。これはわらわの私的な用事のための書類で公用ではないからのぅ」
 私生活でも書類を動かさなければ行動できない生活などジャムシードには想像できない。が、この数ヶ月で公女のがんじがらめの窮屈な生活を見てきただけに、口ごもる彼女を強く追及することは憚られた。
「それじゃあ、それが終わったら話をしてもいいかな。……あ、ジノン卿は執務室にいるのか? できれば、彼には聞かれたくはないんだけど」
「ジノン卿か? おらぬぞ。何やら仕事仲間から連絡が入ったとかで、どこかへ飛んでいってしまったわ。話は執務室で聞くから待っておれ」
 王太子と昼食を摂った後、公女とジノンは大公屋敷へ向かったはずだ。その後に仕事をしに二人して公庁館に来ているだろうと踏んでいたが、彼がいなくて幸いである。やはり公女の従兄を追い払うのは気が咎めるのだ。
 とはいえ、ジノンに今回の話を聞かれるのは面白くない。イコン族を連れてきた彼なら、事件の解決のために早々に少女を砂漠に帰せと忠告するだろう。実際にジューザの主張は法的には正しいのだ。ごり押ししているのはジャムシードのほうだし、誘拐騒ぎは穏やかならざる事態である。
 だが身の安全のためにはそれが最善であっても、ジューザとジュペの間に生じた亀裂が埋まらない今、彼女をイコン族の手に委ねる気にはならなかった。
 書記官たちがいる部屋に歩いていく公女の背を見送り、ジャムシードは小さくかぶりを振った。もしかしたら公女も同じ忠告を発するかもしれない。
出来れば炎姫家に知られることなく解決したいが、ジュペの存在を知られてしまっている以上、それは不可能なことだった。公女をどう説得しようか。
 オーレンを連れて執務室に足を踏み入れると、扉の開閉音に気づいた部屋付き侍従が控え室から顔を出した。軽く手を挙げて挨拶すると、慇懃な礼を取って引っ込んでいった。茶の準備でもしに行ったのだろう。
「なぁなぁ、ジャムシード。ジュペの母ちゃんとどうやって知り合ったのさ。ジュペに似てすんげぇ美人なんだろ? 言っちゃなんだけど……」
 好奇心を疼かせている少年の瞳はキラキラと輝いていた。それを横目で見遣り、ジャムシードは室内の片隅に置かれた長椅子に腰を落ち着けた。
「俺の顔じゃ釣り合わないって言いたいんだろ。俺が十五のとき、砂漠で死にかかっていたところをジューザに助けられたんだ。俺を診たのがジューザの妻ナナイで、彼女の助手をしていたジュペの母親が世話をしてくれたんだ」
 細かな部分は端折っているが大まかにいえば言葉通りだ。それでも兵役に出たことのない少年には充分に冒険譚らしい。長椅子の上に座り込み、こちらににじり寄りながら詳しい話を聞かせろと迫ってきた。
 オーレンを適当にいなしていると、侍従が茶道具を盆に乗せてやってきた。高価な茶器に硬直する少年を放っておき、ジャムシードは侍従から受け取った茶器を揺らして茶の香りを堪能した。やはり庶民が飲む香茶とは格が違う。
「なんで砂漠での話を誤魔化すんだよぅ。知られちゃまずいことでもあンの?」
 高級茶器の衝撃から立ち直ったオーレンがブツブツと不平を鳴らした。いつものジャムシードなら適度に話を合わせたろう。が、子どもでも判るほどのあからさまにはぐらかす様子に、少年は未練タラタラなまま諦めたのだった。
 程なくして執務室に戻ってきた公女が微妙な不穏さを漂わせる二人の気配に首を傾げる。物問いたげに眉をひそめる彼女の戸惑いすら無視し、ジャムシードはジュペたちが遭遇した事件のことを報告し始めた。
 砂漠での仔細はジャムシードの胸の内に収めておく事柄である。ましてジュペのこととなれば、彼の一存で軽々しく話題にできることではなかった。
 見慣れぬ東方人の襲撃を報告した途端、炎姫公女の顔色が変わり、険しい表情になる。今にも少女を砂漠に帰せと命じられるのではないかと内心ではひやひやしたが、公女はジャムシードの報告が終わるまで沈黙を守ってくれた。
「それで、お前は初対面の男を信用して娘を預けてきたと? その男が襲撃者とグルである可能性もあろうに。事件が解決するまでジュペは我が炎姫家で預かったほうが得策じゃと思うが、お前は本当のところどうしたいのじゃ」
「証拠はないけど、彼はジュペの件に関しては襲撃者と関わっていないと思う」
 ジャムシードの隣でオーレンが気遣わしげに二人を交互に見つめている。ジュペの事件に関してジャムシードは生き別れた弟のことを公女に報告していなかった。それに気づいた少年が困惑してやり取りを見守っている。
「ただでさえ、お前はイコン族との間にいざこざを起こしておるのじゃ。余計な第三者を介入させるような真似は感心せぬ。……だが、お前が預けてきたと言うのなら、その東方人を信用するしかあるまいのぅ」
 苦笑いを浮かべた公女が淹れられた香茶をゆっくりと味わい、嚥下した。
「実際のところ、我が家で預かっても揉めることには変わりがないのじゃ。父上からジュペのことで命令が下れば否応なく従わざるを得まい。ジューザとジュペの確執は根深そうでもあるし、容易く砂漠に帰れと命じるには忍びない」
 だが男の身辺調査はしておいたほうが良さそうじゃ、と呟きながら茶を飲み干す公女の様子を、ジャムシードは呆気に取られて見守った。
 頭ごなしに反対されるかと思っていたのに、こちらの我が侭を聞いてくれるというのか。しかも弟に関することは伏せたまま、片手落ちの報告をしているジャムシードの言い分を丸ごと信じると? 隠し事に感づいているだろうに。
「それで、連絡係にオーレンを寄越すと言うのであったのぅ。地藩校の計画は一段落ついておるし、お前が一時的に地藩の仕事から抜けても問題あるまい。イコン族との諍い、早々に解決するよう尽力することじゃな」
 何もかも事後報告だというのに、炎姫公女は不問にしてくれるらしい。鋭い美貌の上に柔らかな微笑みさえ浮かべていた。彼女は空いた茶器に新しい香茶を注ぎ、その茶器を目線まで掲げて見せる。
 こちらのやることに目を瞑っている気だ。泰然とした公女の仕草にそれを読みとり、ジャムシードの胸の奥がトクトクと震え出す。感謝の言葉を吐き出す代わりに、彼は公女の顔を真っ直ぐに見つめ、そっと頷いた。




 周囲は蒼に満ちていた。静謐でもの悲しく、絹織物の如く滑らかな蒼だった。
 ──哀れ、傀儡くぐつは操る糸の先を知らず。己の意志と偽られし、糸の震えに突き動かさるのみ。
 芝居がかった声がどこからともなく反響する。耳障りな思念の声にアインは身じろぎした。結界のムラを突いて飛び込んでくる声にいちいち翻弄されていては神経が保たない。が、無視しようにも不快感は募るばかりだった。
 ──あいつに教えてやったらどうだ。貴様の心積もりひとつで記憶の操作などわけないのだとな。それとも引きずり回れる奴を見て楽しむのが貴様の趣味なわけか? どっちにしろ、真実を知ったらどう思うことやら。
『黙れ、聖なる息子ル・オルグ。私はお前のご託を聞く気分ではないのだ。とっととここから失せろ』
 カラカラと嗤い声がこだまする。鼓膜を突き刺すその嘲弄を無視したかった。だが耳を覆ったとしても聞こえるであろう嘲りは、振り払おうとすればするほど神経の細部にまでまとわりついてくる。
 ──いつまでかくれんぼをしている気だ? どうせ俺に喰われる身だろうが。余計な手間をかけさせるなよ。サッサと楽になったほうがいいぞ。
『それこそいらぬ世話だ。お前の気まぐれに付き合うほど暇ではない』
 ──ハッハッ! ジャムシードが気づかぬよう意識を反らすので精一杯か。可哀相な操り人形だよ、あいつは。弟の記憶を封じているのが貴様だと気づきもしない。過去に自分が同じ目に遭っているってのにな!
『失せろ! お前が何度やってきても、この結界は崩れはしない!』
 一瞬落ちた沈黙の後、再び嘲りを含んだ忍び笑いが周囲を巡っていった。
 ──今はまだ結界は壊せない。だがジャムシードの信頼が揺らいだときはどうなる? 貴様は奴に多くを隠しすぎているんだぜ。くだらない一族の秘密とやらを守るため、さんざん利用してきた事実を奴が知ったなら……。
『黙れと言っている! サッサと自分の領分へ戻るがいい!』
 蒼の世界に一瞬だけ朝焼けのような朱が混じる。が、それもアッという間に蒼の微睡みに飲み込まれ、ゆらゆらとたゆたう波間の底に消えていった。
 ──愚か者め。狩人ファレスならそれらしく俺をはねつければいいものを。そんな有様だから出来損ないだと言われるんだ。
 潮が引くように気配が遠のく。それを感覚の隅で感じ、安堵の吐息をついた。
『ジャムシードに頼らねば今の私ではどうにもならん。……バチンよりも厄介な相手と渡り合うのだ。手段は選んでいられない』
 ゆうらりと立ち上がった影は小柄である。肩から滑り落ちた三つ編み髪が背を打った。肩越しにその気配を感じ、滑り落ちた長い黒髪を掴んだ手は褐色。かつてジャムシードがファレスと呼んだ者の姿ではなかった。
『ジャムシードの姿を借りるのもそろそろ限界か。本体は銀姫アジェンティアに連れ去られた以上、幻体を自力で作れぬ私では勝ち目はない』
 忌々しげに呟いた影はジャムシードにそっくりである。いや、砂漠で記憶を失ったあの頃の彼そのものだった。声だけがファレスのものである。それはジャムシードの身体に異形が乗り移ったような違和感を与えた。
『予測よりも早く次元の狭間から出てきた。しかも記憶を奪っても惹き合い、すぐさま再会を果たす始末。未知の核と対峙するにはまだ不安定だというのに』
 蒼い空間の中、彼はウロウロと歩き回る。顎に手を当てて考え込む姿は若いジャムシードが苛立っているようにしか見えなかった。
『アジェンティアが方針を変えなければ時間の余裕はあったのだ。今はどう転がるか判らん。アジェンティアより先にバチンを封印しなければ、ジャムシードの命は風前の灯火だ。そんなことになったら……』
 不意に口をつぐみ、アインは大きく身震いする。すがめられた眼は黄金を溶かし込んだ鏡のように光り、周囲の蒼を見回した。
『この気配は……。聖なる娘ル・ファレ、いやアンディーン。アジェンティアに捕獲されて魂の船に放り込まれたとばかり思っていたのに。まだ他にも気配が動いている者がいる。あれは……』
 イライラがさらにひどくなったようである。眉間に寄った皺は深く、引き結ばれた口許が小刻みに震えていた。
『どうあっても核を回収する、と? バチンの不始末を人間に尻拭いさせる気か。これ以上、下天を掻き回されてたまるか!』
 握りしめた拳も震えている。掌に食い込む指はひどく強張っていた。
『いかに私が不出来な狩人でも、蔑ろにされて黙ってはいないからな。長老方タルクス相手でも容赦はせんぞ』
 冴えた沈黙を守る蒼は答えを返さない。その静謐な空間のただ中で、アインは怒りに身体を震わせながら在らぬ彼方を睨み続けたのだった。