混沌と黎明の横顔

第05章:微睡む樹神 4

 炎姫公女とその従兄の後ろ姿を見送った後、サルシャ・ヤウンはのんびりと王宮の外回廊を囲う欄干に寄りかかった。
 昼食で他愛ない昔話やタシュタン地藩の近況などを交え、フォレイアの言動からアジル・ハイラーの意図を汲もうと腐心したので、神経がすり減っている。
 それでなくても王議会でのやり取りにうんざりしているのだ。彼女に悟られぬように炎姫公の動向を探るのは、疲れているときは特に骨が折れる。
「ソージン。あの男のこと、君ならどう見る?」
 今日はさらに疲労が深かった。炎姫公の甥ジノンの人となりを見極めようと、彼にも会話を仕掛けねばならなかったのである。傍目には気づかれなかったろうが、食事は機械的に済ませただけで味わうような気分ではなかった。
「おれの意見など聞いてどうする。あれはお前が見聞きした通りの男であって、おれが感じたものと一致させる必要などあるまい」
「君なら各国の特徴にも詳しいでしょ。ポラスニアに害を成す気か、それとも純粋にこの国に馴染もうとしているのか。どう見ているのかと思ってね」
「予想や想像は断定ではないことを忘れるなよ。……そうだな。あの男、かなりの野心家と見たが。商いをしているという割に武人の手癖が抜けていない」
 王太子から少し離れた欄干に歩み寄り、ソージンが階下の様子を眺める。表情の薄い彼の横顔からは、人臭さを感じるのは難しかった。
「商人になって十年とは経っていないと言っているが、あれは武人の手癖を抜く気などない輩と見て間違いないだろうな。軍を率いて戦う気なら、その先にあるのはこの国での名誉を伴った出世だ。おおかた伯父の後釜狙いだろう」
「なるほど、君もそう感じたわけだ。フォレイアは自分が狙われているなんて思いもしないようだけど、ジノンのあの口説き文句には注意したほうがいいね。うっかり聞き入れると、どこまでも踏み込んでくる図々しさがある」
「フォレイアが鈍いんだ。あいつは自分に向けられる他人の感情に疎すぎる」
 ヤウンは口の端だけで苦笑いを刻み、小さく頭を振った。
「そうじゃないよ。彼女は他人の感情を真摯に受け止めすぎるんだ。自分が父親に感心を持って欲しいと望むが故にね。他人を邪険にできない。好意も悪意も等しく受け取る。……自分がどれほど傷ついているか気づかぬままに、ね」
 彼女の長所は同時に致命的な短所である。そこを狙ってくる辺り、ジノンという男の抜け目のなさが伺えた。なんという厭な戦い方をする輩か。
「それを鈍いと言うんだ。他人への気遣いが出来ているように見えて、フォレイアの場合は二歩も三歩も引いている。その気後れが人との間に見えない溝を作っていることに気づかない限り、父親との関係も修復は望めんな」
「手厳しいね、ソージンは。彼女に何もかも押しつけないでよ。炎姫家の不協和音はフォレイアだけじゃなく、アジル・ハイラーにも責任はあるんだから」
 欄干にだらしなくもたれかかり、ヤウンは顎を上げて空を見上げた。曇天は相変わらずで、今日は午後も小雨が降ったり止んだりするのだろう。
「それにしても困ったね。ジャムシードを下につけたことで余計に摩擦が大きくなってる気がするよ。ジノンが現れなければ、もう少し緩やかに変化しただろうに大激震だ。黒耀樹家もゴタゴタしてるし、面倒なことばっかりだね」
 予定通りに進んでいかないことは想定内だ。王宮はそういう場所である。日常の細々した決まりにうるさく、それを違えることはないくせに、より良くしようという働きかけに対しては梃子でも動かない構えを見せるのだ。
 幼い頃から嫌というほど見てきている。幼児の無邪気な悪戯は罰せられるのに、大人の腹黒い陰謀は堂々と横行するのだ。
 己は美食に肥え太りながら、領民がつましい食事をする姿をみっともないと忌み嫌う。甘い追従に溺れ、そのくせ貴族の口から発せられるのは無慈悲な搾取を命じる言葉である。清廉さを嗤い、享楽に同調する輩のなんと多いことか。
 我が身の醜さに目を背けたツケは、いつか必ず支払わなければならぬのに。
「ヤウン。あの状態でおれがフォレイアに近づけば、さらに事態は収拾がつかなくなるぞ。それでも炎姫家の内情を探れというのか?」
「そうだよ。と言いたいところだけど、あまり性急に動くと気づかれそうだね。ジノンはこちらの動向を気にしているようだし、あからさまには近づけそうもないかな。……どう? 怪しまれずに探れそう?」
 ヤウンは姿勢を正すとソージンを振り返った。白い横顔は目立った変化を見せないが、短い沈黙が内心の逡巡を伺わせる。彼なりに迷いも戸惑いもあるということか。超然としている彼からは想像できない姿だった。
「ジャムシードにやらせるわけにはいかないのか? あいつのほうが不自然さがなくていいと思うが。……おれが動くと角が立つ」
「そう言うだろうと思ったよ。君、フォレイアに近づくの避けてるものねぇ。でも駄目だよ。これはジャムシードの動きも含めて探ってもらうんだから」
 小さく舌打ちする音が聞こえた。表情に乏しいが、苛立っているらしい。
 炎姫公女から寄せられる好意は彼にとって重荷でしかなかろう。それを知っていて、いや知っているからこそ、炎姫家に関わらせようとしているのだ。
 あわよくば炎姫家の婿に収まってくれ、とヤウンが思っていることなど端からお見通しで、それでも主人に従わねばならないのだから、ソージンにしてみたら舌打ちのひとつやふたつも打ちたくなろう。
「フォレイアにはできるだけ優しくしてあげてよ。あぁ、会話の糸口にジャムシードを使ったらいい。僕の護衛をしながらだから報告の機会は多いだろうけど、急ぎのときはナスラ・ギュワメを介してでもいいからね」
「……どいつもこいつも。まったく。喰えない奴だな、お前も」
 ソージンが誰と比較しているのかは知らない。たぶん今までに渡り歩いてきた国々での出来事を思い出しての発言だろう。だが他人とどう比べられようと、サルシャ・ヤウンという人間のやることは己自身が決めるのだ。
「褒め言葉として受け取っておくよ。君をへこませられる誰かさんと勝負してみたいものだね。きっとすごく話が合うと思うんだけど」
 今度こそ苦虫を噛み潰したように顔を歪め、ソージンが曇天を物憂げに見上げる。いずれの過去を思い出しているのか知らないが、あまり心楽しいものではないことは確実だ。もしかしたら故郷のことかもしれない。
「ソージン。フォレイアのこと頼むよ」
 からかいも混じっての言葉だった。しかし、彼の横顔を過ぎった暗い翳りに、ヤウンはこのとき初めて自分の言動に躊躇を覚えたのである。
「おれに任せておくと泣くことになるだけだ。良いことなど何もない」
 いつものように仕方のない主人だとぼやきながら、黙々と命令に従っている彼ではなかった。まるでこの先に起こることを確信しているかのような口振りである。ヤウンは沸き上がった黒い不安に後ずさりそうだった。
「ソージン。君が過去に捕らわれているなんて珍しいね」
「おれだって二十年以上生きているんだ。後悔や失望なら何度でもしたさ」
 欄干から離れたソージンは、稽古をしてくると言い残して歩き出した。その背が常になく強張っているように感じたのは気のせいだったろうか。
 王太子は視界の端に現れた黒い雲に一抹の不安を覚えつつ、白い背が回廊の向こうに消えるのを黙って見送ったのだった。




 緩やかな上下を繰り返す寝具の動きを、ジャムシードは黙って見おろした。
 タケトーはこの部屋から去り、ここにはジャムシードと弟しか残されていない。明かり取りの窓すら締め切った室内で燭台の炎に照らされて眠るサキザードの顔はやつれているようにしか見えなかった。
 タケトーから弟は鎮静効果のある眠り薬を飲んでいると聞いている。だが薄暗い中で見る寝顔はどこか苦しげで、安眠とはほど遠いように思えた。
「サキザード。お前、本当に何もかも忘れてしまったのか?」
 忘れたまま生きていって欲しいと思う。と同時に、思い出さねばならないと過去の記憶が囁いていた。かつて、自分も一時的に記憶をなくしたことがある。あのときの不安な気持ちを、今は弟が味わっているのだ。
「俺はどうしたらいいんだろうな。お前は俺を殺したいほど憎んでいるのに、俺はそれでもお前と関わろうとしている。記憶が戻れば、お前はまた俺の命を狙うだろうに。……どうしたいいか判らないよ」
 ベッドの傍らに置かれた椅子に腰を落ち着け、ジャムシードはサキザードの顔をマジマジと見つめる。八歳年下の弟は本当に自分によく似ていた。それは同時に父リゲルドにも似ていることを示している。
「父さんだったら、迷うことなく自分の望みを言えるんだろうけど」
 父と約束したことを守れたためしがあっただろうか。近所でも有名な悪童ぶりを発揮していたときも、己の悪戯が原因で幼年士官学校への入学が遅れた。騎士となるには不的確だと父に判断されたと、当時は勘違いしたものだ。
 父が戦に行く前、母のことを頼むと約束したというのに、奴隷に落とされた後も臨月の母に庇われこそすれ、守るどころではなかった。無力な息子の様子を死んだ父はどう見ているだろうか。
「お前に、父さんや母さんのことを話さなければならないな。お前自身の自分がどこから来たのかを知る権利を奪うことは、いくら俺でも許されない。だけど、まだ迷っている。本当に話をしていいんだろうかと」
 記憶がないまま己の過去に関する情報を教え、それがサキザードの記憶の中で整合性を得られなかった場合、彼はどうなってしまうのだろう。古い記憶と新しい記憶が混乱して、さらに深刻な状態になってしまうかもしれないのだ。
「お前が生きていてくれて嬉しいのに、俺はお前の記憶が甦らないことを祈ってしまうほど愚かだ。ぬるま湯に浸かって生きることを願ってしまう」
 今でも産まれたばかりの弟が泣き叫ぶ声を思い出せる。
 母がジャムシードを選び、弟を里子に出すと決めたあの夜。責め立てるような弟の泣き声にも応えてやる勇気はなかった。あのときの自分には、母の元を離れ、独りで生きていく孤独は耐えられなかったのである。
 母は母なりに最善の道を選んだのだ。その決断を覆せるのは自分しかいなかったのに、産まれた赤子を捨てさせる選択をさせてしまった。母を頼むと言い残して逝った父との約束を守ることが出来なかった。
「俺がやっていることは、今さらなんだろうな。お前はたった独りで生きてきたってのに。兄だと呼んでもらおうなんて愚かなことなんだろうな」
 ジャムシードは力なく背を丸め、口の端を引きつらせた。言葉では殊勝なことを言っても、実際の自分の心情は厚かましい限りである。サキザードのことを思えば、彼の前から姿を消すべきなのだ。
 記憶が戻れば憎しみを募らせるだけだし、思い出さねば血の繋がった兄弟だというのにぎこちない関係を強いることになる。これまでの償いなどジャムシードの自己満足に過ぎず、サキザードにしてみれば捨てられたり拾われたり、己の意志とは無関係な状況に振り回されるばかりなのだ。
 頭を抱え、ジャムシードは呻いた。そうすると、いっそう背が丸まった。
「どうしたらいいんだ? 俺にはお前を手放すなんて出来そうもない」
 深い罪悪感と血の繋がった家族への憧憬が、胸の奥でグルグルと渦を巻いて荒れ狂っている。都合の悪いことには目を瞑ってしまえと囁く、内心のあざとい声に彼はすでに心奪われかけていた。
 記憶は戻らないかもしれない。だったら、ずっと家族でいられるのだ。父を戦で失い、母を病で亡くした。父の故郷に身内はいるが、両親が名前を決めてまで誕生を待ち望んでいた家族は弟だけである。
「母さんはお前の代わりにアデラに一心に愛情を注いでいたんだ。今ここに母さんがいたら、お前を手放しはしないはずだ。だったら……」
 己に言い聞かせ、ジャムシードは首を振り続けた。言葉と身体はバラバラだ。
「神よ。我が神ヤヌよ。答えをください。俺がやろうとしていることは正しいのですか? それとも人として間違っているのですか?」
 獲物を貪り喰らう獣のように、心に食い込む感情は勢い良く闇に染まっている気がする。抵抗など嵐の前の塵よりもか弱かった。




 遙か遠くから聞こえる絶叫に耳をそばだて、彼女はうっすらと笑った。冷徹なほど澄んだ瞳を緩く細め、自身が駆けてきた背後を振り返る。
「ばかね。あなたはわたしに追いつけないのに。自分の尻尾を追いかけていることに気づきなさいよ。わたしが駆けていく姿に焦るがいいわ」
 腕の中にあるむつきを抱え直すと、彼女はのんびりと歩き出した。産まれたばかりの我が子をあやすようにむつきを揺する姿は母性の塊のようである。しかし、腕の中を覗く横顔は母親の眼差しというより学者のものだった。
「アイン。結界を張り続けるために随分と無理をしているようね。本体にまで影響が出てきているわ。……バチンが残した彼女自身の残骸の回収、もっと早めたほうがいいかもしれないわね」
 僅かに口を尖らせ、靄のかかった頭上を睨んだ女はゆっくりと瞬きをすると、人の耳には聞き取れない奇妙な音を唇から発した。白くたゆたう靄が彼女の白い身体を溶かそうとするかのようにまとわりついていく。
「ここにきなさい、アンディーン。お前にやってもらうことが増えたわ」
 小さな渦が巻き起こり、白い闇の中で蒼い光が生じた。ゆらゆらと震える光の中にさらに深い蒼影が浮かぶ。ひらひらと動くそれは、蒼い蝶だった。
 ――アジェンティア。なんのご用?
「バチンの回収は進んでいる? あといくつ残っているかしら?」
 世間話でもしているかのような口調であったが、蒼い蝶を見つめるアジェンティアの瞳は強弓から放たれた矢のように鋭い。
 ――王国内にあるものはほぼ回収し終わったわ。あとは周辺国の残骸と、核の回収が残っているだけ。それで全部だと思うけど。
「そう。では周辺国のものは後回しにして核の回収を優先してちょうだい。王国に張り巡らされたバチンの結界が緩んだお陰で、核の力が増しているようだから。このままだと暴走をくい止められないかもしれないし」
 事務的な口調の報告に同じく事務的に応じ、アジェンティアはむつきの中を覗き込んだ。どこまでも怜悧な瞳の色が、その一瞬だけ翳る。
 ――核の回収は最後ではないの? 周辺国の残骸も侮れないと思うけど。
「そちらは繭の中にいる者にやらせるわ。あなたは核の回収をしなさい」
 ――繭の結界を解くわけ? そんなことしたら、バチンに……。
長老たちタルクスの力を見くびらないことよ、アンディーン」
 僅かな沈黙の後、蝶から発せられる気配が震えた。
 ――白き長老だけではなく、他の長老も繭から出すというの? ただでさえ下天にはマーヴェとターナがいるというのに、これ以上のドルクの増加は大地の崩壊を招くわ。
「崩壊などさせないわよ。薄い大気でしか生きられない第二世代の者たちを全員解放するわけではないの。短時間ずつ少数で行動させるだけ。それでも重力の歪みが出そうな箇所は白き長老と狩人ファレスに任せるけど」
 蝶の羽根が忙しなく揺れる。動揺が如実に現れたその動きが、蝶に変じたアンディーンの困惑ぶりをハッキリと示していた。
 ――繭を開くたびにバチンに機会を与えるのに? それでも長老たちを手伝わせるというの。それならニックスと一緒に繭を飛び出した意義は……。
「あなたとニックスが繭を破って逃げ出した意義? 簡単よ。繭の中で他の仲間を煽動して欲しくなかったから見逃しただけ。バチンの介入で少々下天で暴れすぎたけど、あなたの起こした騒ぎなどすぐに収拾をつけたでしょ」
 蒼い羽根が激しく震える。受けた衝撃の大きさはいかばかりであっただろう。
 ――つまり……。時守の掌で転がされていただけだったのね。
「人の心を操るのが得手なのはあなただけではないということよ。白き長老もわたしも、長い年月をかけて人の歴史の隙間に結界を張り巡らせてきたわ。怪異な現象のことなど人はすぐに忘れる。あなたたちの暗躍などいずれお伽噺の世界に仲間入り。バチンの残骸が回収し終わったら無に還るわ」
 むつきを揺らし、柔らかな口調で相手の言葉に応じているが、やはりアジェンティアの瞳は冷酷な刃をまとっていた。語られる内容も素っ気なく、また聞く相手によっては容赦がない。聞かされるアンディーンが味わう屈辱を知ってなお、この冷たい仕打ちを向けているのだろうか。
 ――あなたの思惑通りというわけね。ニックスも、あなたの掌で弄ばれ、転生の環の中に放り込まれたと……。
「永遠に繭に閉じこめられることを望まなかったのはあなたたちのほうでしょう。繭の外に出るという意味をよく吟味したかしら? あなたたちは実験なのよ。これから先の我が一族がこの星で生きていくための、ね」
 冷え冷えとした空気がアジェンティアの周囲を流れ、蝶の羽根を打ち据えるように吹き去っていく。蒼い羽根の震えは最高潮に達していた。
 ――あなたなんか大っ嫌い! いつか自分のやったことへの報いを受けるがいい。そのときはニックスと二人、転生の環の中から笑ってあげるわ!
 悲鳴に似た怒声が響き渡り、蝶が藻掻くように渦の中心で暴れる。それを氷の眼差しで見つめる女の横顔は、相変わらず観察者のものだった。
「最高の褒め言葉として受け取っておくわ。あなたたちが巻き起こした騒動も今回は良い実験になったし、特別に転生の環を早めておいてあげましょうか?」
 場の空気全体が硬直する。蝶も藻掻きは痙攣したような動きに変わり、苦痛にのたうち回っているようにしか見えなかった。
 ――ニックスに手出ししないで! 彼に何かしたら許さないから!
「では彼の転生に追いつけるよう、早々に仕事を始めなさい。グズグズしていると彼の転生が終わってしまうわよ。永遠に追いつけない追いかけっこをする気ならいいけど、関わり続けるなら時期をずらさないほうがいいわね」
 ――本当に、あなたの言いつけを守ったらニックスと一緒に魂の船に乗せてくれるのね? もうそれ以上は手出ししないのね?
「約束は守るわ。でも転生の環の動きはあなたの働き次第よ。逆らう気なら容赦はしないわ。バチンのように永劫の苦痛を味わいたくはないでしょう?」
 震えが落ち着くにつれ、蝶の動きは緩慢になっていく。力尽きて墜ちていくのも時間の問題ではないだろうか。それほど動作は鈍かった。
「裏切ってもいいのよ、アンディーン。何度でも裏切りなさい。その度に許してあげるわ。そして、己の無力さに押し潰される未来をご覧なさいな」
 長い沈黙が落ちる。薄い靄の闇は蝶と女の姿を今にも飲み込みそうだ。
 ――核を回収するなら、ターナとマーヴェの力を借りたいわ。
 アジェンティアの挑発をあえて無視し、アンディーンは淡々と話し始めた。それも想定内だったのだろう。女は口許に薄い笑みを浮かべた。
「かまわないわ。確実にわたしの手許に核を持ってくるのなら、ね」
 渦が回転を早め、蝶の姿を飲み込んでいく。アンディーンから返事はなかったが、アジェンティアは無言を了承と受け取った。
 すべてが元通りになると、彼女は浅いため息をつき、僅かに肩を落とした。
「今なら、少しだけあの人の気持ちが判るわ。わたしもあの人と同じ。憎しみで他人を支配する。……いつか破綻すると知っていながら」
 自嘲めいた声音だったが、むつきを覗き込む女の眼許は冬の終わりを告げる木漏れ日のように穏やかで、優しい色をしていた。