混沌と黎明の横顔

第05章:微睡む樹神 1

 思っていたよりも時間が過ぎてしまった。昼食の約束にはなんとか間に合うが、不安げにこちらを見上げる顔を思い出すと居ても立ってもいられない。慣れない街に見知らぬ人々の中、きっと寂しい思いをしているだろう。
 ジャムシードは王宮を飛び出す手前で黒耀樹公に呼び止められたときのことを思いだしながら、出来うる限り早足で歩いていた。
『てめぇ、いい加減にしやがれよ。いくらあの娘がお前を慕ってきたからって、助けてやれることとやれないことがあるんだぜ。今てめぇがやってることは自己満足だって気づけや。……ほどほどにしねぇと痛い目みるぜ』
 押しつけられた正式な滞在許可証は二枚。懐に入れたそれを上着の上から押さえ、彼は眉間を険しくする。助けを求められて放っておけないのだ。そういう性分をしているのだから仕方がない。あんな子どもを突き放せるものか。
 王太子の口利きで発行してもらったイコン族の子どもたちの滞在許可証はドロッギス地藩のものだ。上手く事を運んで砂漠に戻れるようにするつもりだったが、今のところはそうは問屋が卸さない事態に陥っている。
 どうしたものだろう。イコン族と揉めるのはタシュタン地藩に関わりがある者としては芳しくない。ジューザと角突き合わせた事実に怯えはないが、この先の立ち回りを間違えれば状況はさらにこじれることが予想できた。
「ジューザが自分がやってきたことに気づいてくれたら問題は解決するんだけど。……無理かな。あの人、ナナイのことになると見境ないから」
 出かかったため息を飲み込み、ジャムシードは人の流れをすり抜ける。
 神都カルバでも祭りや大市のときは似たような人出で、行き交う人を避けて歩くことなどは長年の都会暮らしの身には慣れたものだ。むしろ否応なく慣らされてしまうといったところが正解である。
 大通りから路地に入り、少し奥に進んだところでジャムシードは立ち止まった。視線の先が妙に騒がしい。
 広場でもないのに、なぜあれほど人が群れているのだろう。宿屋や酒場ケストレイユが建ち並ぶ一画であるから、昼間から酒を呑んだ輩が喧嘩でも始めたのか。いや、それでも妙だ。喧嘩なら囃し立てる声がするはず。
 何事だろう。出ていったときにはない喧噪に包まれた通りを見て妙な胸騒ぎに襲われる。人が集まっている辺りは自分の目的地でもあるのだ。これで気にならないほうがおかしいだろう。
 人の流れに逆らわずゆるゆると人だかりに近づけば、群がっているのは目的の宿屋の前だった。ここは典型的な宿屋兼業酒場イムケイリュで、堅実な営業を続けていると評判である。
 野次馬の囁き交わす声に耳を傾けると、断片的に「人さらい、強盗」と聞こえた。この大市のどさくさに紛れての犯行であろう。剛胆な輩がいたものだ。
 ざわつく人垣を掻き分け、彼は店の奥へと足を進めた。浮き足立つ気配が濃厚に漂う。飲み食いしている客たちも気もそぞろだ。
「いったい何が遭ったんだ?」
「あ、若旦那。戻られたんですかい」
 若旦那などという呼ばれる筋合いはない。がしかし、今は相手の追従などかまっている気分ではなかった。状況を確認しなければ落ち着かない。何が遭ったのかと問いかける彼の声は、常になく固いものであった。
「お待ちしてたんです。早く上に行ってくださいよ。警邏があなたの帰りを待っているんですわ。お嬢さんがさらわれそうになりましてね。あ、いやいや、大丈夫。無事ですから。お連れの少年が捻挫した程度で」
 イコン族が襲ったのか。彼らは話し合いや決闘ビーダーンではなく、強硬手段に訴えてきたのだ。
 険しい表情をしているジャムシードに下手なことを言って神経を逆撫でしたくないのだろう。亭主が神妙な顔でこちらを伺っていた。
 曰く付きの客なら早々に引き取って欲しい、ということか。ジャムシードは気配でそれを察し、調べが済んだらすぐに店を出ることを告げた。食事をする予定だったが、この騒ぎではそうもいくまい。
 だが、彼の言葉に曖昧に頷く亭主が妙なことを言い出した。
「ではお子さま三人の他に休憩に入られたお二人もご一緒に出立ですか?」
 どういうことだ、と問い返しそうになり、慌ててジャムシードはその問いを飲み込む。もしかしたらオーレンが兄弟子たちを呼び寄せたのかもしれない。ともあれ、子どもたちに話を聞いてみないことには。
 このとき彼が咄嗟に思ったことは、ジュペを奪い返そうとジューザが押し込んできたらしい、という予測でしかなかった。よもや、まったく与り知らぬところで別の魔手が忍び寄っていようとは考えも及ばない。
 新たな怒りを蓄えながら、ジャムシードは上階へと足を踏み入れた。




「妃陛下、今なんと仰いました?」
 イルーシェンは双弦琴フィレリラを抱えた姿勢のまま困惑顔で座り込んでいた。相手からの依頼は彼が納得できるものではなかったのである。
「僧院まで付き合って欲しいとお願いしたのだけど、何か不都合でも?」
「いえ、そうではなくて。なぜ僧院で芦笙ルーシェンを奏せと? あちらにも楽奏士タクタイドがいるはずですが」
 王宮に専属の楽奏士がいるように、神殿や僧院、果ては貴族の屋敷などの芸術を解する知識階級者がいる場所にはそこの専属楽奏士がいるものなのだ。
 互いに師弟関係があれば行き来もあるが、そうでなければ他の楽奏士の場を荒らすような真似はしないのが楽奏士仲間では暗黙の了解になっている。
 下手に奏場を侵犯すれば、その地位を乗っ取ろうとしていると勘違いされるだけなのだ。そうやって他人の地位を手に入れることも可能なのが、この楽奏士という立場の人間なのである。目の前の人物なら知っているはずだ。
 実際、イルーシェンも王宮の筆頭楽奏士の地位を前任者と争って得ている。鼻持ちならない若造……と言っても彼とそう年齢差もない相手を完膚無きまでにやりこめて得た地位だ。いずれ自分も同じ立場になるかもしれない。
「あなたが心配していることは判るわ。あなたも、あなたの前任者も、奏士としての地位を競って今の地位を手に入れたのですものね。そうそう、その前任者だけど、水姫家の下にいる貴族の家に雇われたそうよ。知っていた?」
「はぁ、それは存じております。あの者が追い落としたタルーム・アキュシ奏士の口利きだったそうで。因果は巡るというわけです。そのアキュシ老は引退して悠々自適の生活を送っていると噂に聞きましたが」
 あら、耳敏いわね、と笑う王妃は数ヶ月前に夫を亡くして以来、優れない顔に久しぶりに赤みが差して以前のように華やいで見えた。
「五年と保たずにあなたに筆頭楽奏士の地位を奪われた競争相手に同情したのかしらね。タルーム・アキュシにしてみれば、自分を追い落とした者がこうも簡単に負けてしまったのが悔しいのかもしれないわよ」
 曖昧に微笑み、イルーシェンは座ったまま優雅に頭を下げた。
 前任者自身の自堕落が招いた惨敗に同情する気など微塵もない。老楽奏士と競った当時であれば技量は拮抗していた。だが己の地位に慢心して稽古を怠っていたつけは大きく、イルーシェンと競ったときの腕前は散々であった。
「あの男に同情の余地などございませんよ。それより、僧院での用向きは芦笙を奏するだけでよろしいのでしょうか? 他にも何か?」
 三十代になってもなお少女のような可憐さを失わない王妃が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。何か悪戯を企んでいる気配がする。が、笑みを引っ込めた彼女は澄ました顔で香茶に口をつけると、彼にも喉を潤すよう促した。
「亡き国王陛下気に入りの楽奏士が王個人の寄付で作られた礼拝堂に出向くのは不自然だと思う? そこに祀られる神々に芦笙を奏するのは?」
「私に亡き陛下を慕って芦笙を奏せと仰るので?」
 なにゆえに、と問いかけたかったが、曖昧な微笑みを口の端に刻んだ王妃の横顔を見ているうちに、その問いは喉の奥に引っ込んでいった。
「王宮の者たちは今もなお、あなたが王の戯童フェデールだと思っているかしら? それとも、そんな噂は立ち消えてしまっている?」
「妃陛下が下世話な噂話をお好みとは思いませんが、お知りになりたいのでしたらお答えしましょう。王陛下の戯童めは、己の地位を危ぶんで、今は王妃陛下に取り入ろうと必死になっている、と。そう柱の陰で囁き声がしておりますよ。妃陛下の口添えで次期国王の寵を得ようとしているのだとか」
「あぁ、やっぱり。あなたには悪いけど格好の噂よ。王妃の歓心を買おうとしているあなたが一緒に僧院に行くなら、さらに下世話な囁き声が上がるわね」
「その割には楽しそうでございますね、シヴェラリアーナ様?」
 女性の名を、しかも高位にいる貴婦人の名を、筆頭楽奏士といえども庶民の出でしかないイルーシェンが気安く呼ぶものではない。
 だが、歓楽街エルマイナの人気娼館でも指折りの戯童であった彼にしてみれば、そんな風習は鼻で笑い飛ばす程度のものでしかなかった。
「えぇ、楽しいわよ。あなたと噂話の主人公にされる気分は。王宮中が夫を亡くした妻が始めた新しい火遊びに注目するでしょうね」
 もしそうなれば今までの王妃ならば考えられない醜聞である。
 夫以外の男で側近くにかしずくことが許されるのは息子である王太子くらいなものだったのだ。それが頻繁に楽奏士を召すようになり、あまつさえその者と一緒に夫の寄贈した礼拝堂がある僧院に詣でるなどと。
 貞淑さをかなぐり捨てたと思われるのがオチだ。何か企んでいなければやれないことである。いったい彼女は何を成そうとしているのだろうか。
「イルーシェン。あなたの後見人だったハムダッド子爵のご子息が元老院入りを目指して裏で画策しているのは知っていて?」
「ガースデン殿ですね。元老院のお歴々が集まるサロンに顔を出して名を売っていると聞いていますよ。最近では元黒耀樹公妃が開催した茶会に出向いたと」
 本当に耳敏いわね、と楽しげに笑うが、王妃の瞳の奥は笑っていなかった。多くの者は気づくまい。この数ヶ月、折に触れて側近くに召されて楽を奏していた自分だからこそ気づける些細な違和感であった。
「ハムダッド子爵の地位を継いだガースデンが元老院議員に選ばれたら、あなたの地位も危ういのではなくて? 父親亡き後、息子の彼を袖にした奏士に対して芳しからぬ思いを抱いているそうだし」
「確かに少々気になるところではあります。が、かの人物の器量では元老院入りなど土台は無理な話ですよ。阿呆もいいところなのですから。あちこちのサロンで物笑いの種にされているのにも気づかぬ鈍感です」
「あら、かの人物はあなたを楽奏士の地位から引きずり降ろして、自分の館で囲いたいと懸想しているそうではないの。身の危険……いえ、貞操の危機は感じないのかしら? それとも戯童に戻る気でいるの?」
 イルーシェンは小さく肩をすくめ、腕の中にある双弦琴の弦を指先で弾いた。ほろほろとこぼれた音が王妃の忍び笑いを掻き消す。こちらの意図することを探るように、シヴェラリアーナが微笑みの仮面をつけて見つめていた。
「楽奏士でも戯童でも我が身の卑賤は変わりませんが、選ぶ権利というものがありますよ。あの方では口説き落とされる気分になれると思いますか?」
 小さく噴き出した王妃があさっての方角を向いて笑いを収めようとしている。どういう次元で元後見人の息子の話をしたのか理解した上でのはぐらかしは、彼女のお気に召したとみえた。だからといって、気に入られたとは思わぬが。
「あなたの趣味の良さを歓迎するわ。確かにガースデンでは役不足ね。では、そんなあなたに釣り合う者はこの王宮にいるのかしら?」
「おいでになりますよ。シヴェラリアーナ様ならご存じだと思いますが」
 しれっとした顔で応じれば、王妃の肩の揺れがさらに大きくなった。
「あなたに釣り合いがとれる相手が後見人になってくれるといいわね」
 こちらの言いたいことが判っていて、それでもサラリと笑って流すか。どこまでも喰えない相手の態度に、イルーシェンは慇懃に頭を下げた。
「さぁ、それで初めに戻るけど。僧院には一緒に行ってもらえるのかしら?」
 王妃の寵や王妃の口添えで王太子の寵を受けたいのであれば、この申し出を唯々諾々と受けるべきなのだろう。権力者が変わる節目に王宮内の人事も刷新されるものだ。その流れに乗らずして永き栄華はない。
「残念ながら、妃陛下。あなたのご依頼でも承りかねます」
 悠然と頭を上げ、彼は口許に僅かな笑みを貼りつけ、素っ気なく返事をした。
「どうして、と尋ねてもいいかしら? わたくしのお願いを無下に断った理由如何では、ここでのあなたの居場所が無くなることになるのだけど」
 やはりそう来るか。先ほどの言外に含ませた脅しを読み取った上で断ったのである。宮廷人にかしずかれる身としては面白くなかろう。
「貴族には貴族の掟があり、我ら奏士仲間にもそれ相応の仁義というものがあります。僧院お抱えの奏士を退けて王宮の楽奏士がしゃしゃり出るのは好ましくありません。妃陛下の名に傷をつけるような真似はご遠慮申し上げます」
「さすがは筆頭楽奏士。上手く言い繕えるものね。……では、言い方を変えましょう。ハムダッド子爵の悪意を退けてあげるわ。鬱陶しい男の手に堕ちたくはないでしょう? だから、わたくしの情人として僧院に同行しなさい」
 ギョッとしてイルーシェンは目を見張った。こうもあからさまに命じられるとは予想していなかったのである。普段の貴族は迂遠な物言いを好み、直情的な言動を嫌う傾向にあった。会議中は激論を戦わせることもあると言うが、こういう一対一の会話で露骨な言葉を口にするのは稀である。
「シヴェラリアーナ様、お戯れが過ぎましょう。御身の名誉をよくお考え……」
 すくと立ち上がった王妃が片手で扇をヒラヒラと舞わせながら近づいてきた。途中から言葉を飲み、イルーシェンは何をする気かと相手の動向を見守る。
 座り込んだままの彼の斜交はすかいに佇む王妃が、滑らかな手つきで扇を閉じ、その先端を楽奏士の白い顎の線に這わせた。
「ちょっとしたお遊びをしましょう。あなたは筆頭楽奏士の地位を守り、わたくしは夫の御霊を慰めるために王宮と僧院を行き来する自由を手に入れる。人々の眼を眩ませる、楽しいお遊びよ。あなたなら出来るでしょう?」
 天鵞絨ビロードのような声が鼓膜をくすぐる。艶めかしさの中に悪戯げな響きを混ぜ、王妃は楽奏士の顎を持ち上げると、間際まで顔を近づけ、華やかな微笑みを向けて囁いた。
「王陛下の御霊を慰めるだけなら王の霊廟に詣でれば良いことです。国王縁の僧院で、ということは私に向こうの楽奏士と喧嘩して来いと言っているようなものですよ。それが判っていて命じるのですか?」
 微笑みの仮面をつけたまま王妃はイルーシェンを見おろす。顎を反らした体勢のまま、彼は灰色がかった蒼紺の瞳の奥を覗き込んだ。
「夫の眠る墓所ではなく、寄贈の礼拝堂に出向く意味は? 楽奏士を情人として伴って行くとなれば、亡き夫の財に物を言わせた逢い引きだと噂されます。それを承知で、私を共犯者にするなら隠し事などしないでいただきたい」
 少し前、一瞬あちらの楽奏士の腕を試してやるのも面白いかという思いが頭の片隅を過ぎったが、そんな悪戯心で手を出して良いことではなさそうである。
 腹を据えてかからねばならないのなら、それに見合った理由を示されねば受ける気にならなかった。何せこちらはしがない楽奏士なのである。
「狸狩りよ。狸穴まみあなから親玉を燻り出す煙がいるでしょ。くだんの僧院の院長は誰か知っているわね?」
 素早く目的である僧院の長の名を弾き出し、イルーシェンは顔を歪めた。
「ダリンバー僧司。あの、スケベ爺にどんな遺恨がおありで?」
 再び王妃が噴き出し、無邪気な少女の顔をする。妖艶さが薄れた彼女の顔はどこまでも汚れを知らぬ者の表情であった。
「彼をスケベ爺と呼び捨てるのはあなたくらいね。神都カルバではご贔屓にしてもらっていたのかしら?」
「お忍びで何度か通って来ましたよ。快楽に溺れる者たちを救う説法を垂れるとか言い訳して。底なしの強欲のくせにケチときては、娼館中に嫌われても致し方ないでしょう。あれで貴族の子弟だと言われてもねぇ」
 どうせ調べて知っているのだろう。過去の客人のことを話すのは娼館の掟に反することではあるが、イルーシェンは王妃の問いにしゃあしゃあと答えた。
「彼にあなたが王宮の楽奏士だということを思い出させてやったらどうなると思う? そして、それをガースデンが知ったとしたら?」
 ヒラヒラと扇を顔の前で振り、シヴェラリアーナが無邪気そのものの顔で訊いてくる。問いかけの内容を想像し、彼は寒気に背筋を震わせた。王妃はその状況を想像しているのか、可笑しそうに忍び笑いを隠そうともしない。
「人が悪ぅございます、シヴェラリアーナ様。あの二人が出逢ったら最悪です」
「えぇ、どちらも実家を巻き込んで喧嘩を始めるでしょうよ。あなたを囲おうとして。ガースデンはハムダッド家の専属奏士として、ダリンバーは僧院の専属楽奏士として、ね。……あなたはどちらを選ぶの?」
 どちらもお断りだ、と嫌悪も露わに顔を歪めると、イルーシェンの心情を充分に判った上で、王妃が再び耳元に口を寄せてきた。
「賢いあなたなら彼らの背後にある勢力図をよく知っているでしょう。だからこそ、わたくしと一緒に僧院に行きなさいと行っているの。あなただって向こうの楽奏士にちょっかいを出して遊んでみたいと思ったでしょう?」
 こちらの一瞬の気まぐれまで読んだのだろうか。内心ではヒヤリとしながら、イルーシェンは意地の悪い笑みを返した。
「私は王妃陛下ほどの悪戯心は持ち合わせておりませんよ。王陛下ご寄進の礼拝堂を持つ立派な僧院の楽奏士と喧嘩しようなどと、畏れ多いことです」
 ハムダッド子爵家は黒耀樹大公家の下にいる貴族で、ダリンバー僧司の生家は水姫大公家を支持する貴族である。子爵家を継いだガースデンは当然のこと、国王縁の僧院長に収まったダリンバーも甥が継いだ生家に発言力を持つ。
 彼らがそれぞれの権力を駆使して争えば、上位にいる二大公家にも影響が出るはずだ。そして、縁戚関係にある他の貴族にも。たとえば、元老院にいる小エシュート地方の伯爵であるとか、北方ユーバーダ地方バラド地区の侯爵だとか。あるいはハスハー地藩トトゥック地方を治める――
 延々と続きそうな分析を途中で諦め、イルーシェンはため息をついた。これは金銭や地位の絡む争いではない。たかが楽奏士を取り合う事態に陥れば、平時の勢力図など容易く粉砕する愚かな諍いが生まれるのは目に見えていた。
「貴族のバカさ加減を思い知らされたような気がしますよ、陛下。狸どころか狐や禿鷲、蛇やイタチまで出てきそうなのですが」
 同じ貴族である王妃にも通じる痛烈な嫌みを含んだ返答だったはずだが、それすら容易くかわしてシヴェラリアーナは微笑んでいる。
「そう。だから面白いのよ。一緒にお遊びに付き合いなさいね、イルーシェン」
 断っても否応なく巻き込む気なのだ。始めに断りを入れたことを感謝しろと言われかねない雰囲気に、美貌の楽奏士は諦め顔で項垂れるしかない。
「ご存分になさいませ、王妃陛下。やるからには徹底的にお願いしますよ」
 勝つほうにつかねば王宮での地位を失うのだ。彼には笑えない事態だった。