混沌と黎明の横顔

第04章:風神の結晶 6

 蹴り上げた足先に確かな衝撃を感じた。慣れた動作であったが、やはりこちらも痛いものは痛い。こういうことで煩わされたくはないものだ。
 彼は視線を蹴り飛ばした者に注ぎ、荒っぽい行為とは正反対の静かな口調で語りかけた。口許には微笑みすら浮かべている。がしかし、三日月のように細められたまなこは鼠をいたぶる猫のそれであった。
「しくじったとはどういうことか説明してもらえるのだろうなぁ? たかが子ども一人連れてくるだけの簡単な仕事のはず。それを大の男が数人がかりで出向いていって、まったく果たせなかったとはどういうことか」
「子どもだけでいるところを狙ったつもりだったのですが、間の悪いことにその場に腕の立つ者が居合わせまして……」
 彼は傍らの書記机に置かれたインク壺を掴むと、言い訳を繰る相手に向かって無造作に投げつける。陶器の割れるけたたましい音は耳障りであったが、仮面のように貼り付いた微笑みにはヒビ一つ入れることはできなかった。
「説明しろと言ったのだよ。誰が言い訳をしていいと許した?」
「申し訳ありません。すぐに子どもは連れて参ります。どうか……」
 肩先にインクの青黒いシミをつけ、男は卑屈に頭を床に擦りつけて平服する。何に対して許しを請うているのか第三者が見ても判らぬが、当事者には充分に理解の範囲内なのだろう。
「大切な者を守りたいのであれば、それ相応の働きを見せねばならぬことくらい判っているだろうに。使えぬ奴らよな。そんなことでは大事なお嬢様に代わりに働いてもらわねばならぬ。出来の悪い者を身内に持つと不幸よなぁ」
「ジョ……いえ、頭目! どうか、どうか我らに今一度の機会を!」
 彼は残忍な笑みを口角に浮かべ、細めた瞳をいよいよ三日月型に歪めた。
「そう思うなら、もっと誠意ある働きぶりを見せることだ。お前たち一族は我らに仕える身。逆賊の誹りを免れたくば、他の部族よりもなお一層の精進が必要なことくらい、お前たちの足りぬ頭でも判ろうが」
 申し訳ありません、と這いつくばる男に歩み寄り、彼は再びその肩を蹴りつける。が、今度は先ほどより力を抜いていたため、相手は身体を小さく傾がせただけで吹っ飛ぶことはなかった。
「もう一度だけ機会を与えよう。次はないと思え」
 大袈裟に頭を下げ、部屋を飛び出していく背を見送る彼の視線は冷たい。
 この世には二つの人種が存在する。支配する者とされる者だ。それらは時に入れ替わることもあるが、扱い方を間違えぬ限り、支配者がその座から転落することはあり得ない。そう、真の支配者であったならば、だが。
 彼は戸口から視線を転じ、衝立の陰で震えている人物に声をかけた。
「この国は今、新たな仮初めの支配者を決めるべく揺れ動いている。その隙につけ込まなくてどうするのか。……なぁ、そう思わぬか?」
 しかし、打てば響くような明朗な受け答えは返らず、怯えた顔の中でどう返事をしたら気に入られるかと思案する気配が伺えるばかり。
「何を考える必要がある? 己の地位をより高め、なおかつ安定させるために躍起になるのはどこの国の貴族も同じこと。お前はそれに取り入って金儲けをしようという商売人ではないか。支配者のおこぼれに預かれるのだ。もっと蜜の甘さを享受したらいい。それこそ財を築く手っ取り早い方策だろうに」
「た、確かに金を儲けてこそ、腕利きの商人……。でも、暴力は、その……」
 首をすくめ、己の言葉が相手の気に障ったらどうしようかとびくつく様子はあまりにも卑屈で、見ているほうがイライラさせられる。
「ハッ! 何を言うかと思えば。今のを暴力と非難するのか。あれはなぁ、我が一族では躾というのだよ、躾と。飼い犬に施す躾。主人を教え込むのに必要なことではないか。お前も番犬を飼い慣らすときにやるだろう?」
 彼は椅子に腰を下ろし、だらりと両足を投げ出した。褒められた姿勢ではないが、それが下品に映ることはない。むしろ悪徳の限りを尽くしてなお満足することのない聖職者のように、表面上は清々しいほど怜悧であった。
「砂漠の娘を捕まえてこないことには工作に入ることもできんなぁ。さてもさても、役立たずの多いことよ。どうしてくれようか」
 ペン差しに立つ羽根ペンを取り上げ、彼は指先だけでそれをクルクルと弄ぶ。無邪気な動きを見せる羽根をジッと見おろす瞳は刃を秘め、触れる者をことごとく斬り捨てる冷酷さを滲ませていた。
地の棘アージ・ルタが壊滅状態にされてなぁ、少々困っておるのだよ。あの組織は実験体を調達するのに都合が良かった。あやつらが使えぬ今、砂漠のルート掌握のためにはイコン族の屋台骨を弱めたい」
「そう仰られても……。これ以上はお役に立てませんで。ともかく、必要な物資の調達は終わったし、早く故郷へ帰して欲しいのです」
 彼はのんびりと羽根ペンをペン差しに立て、猫を連想させる滑らかな動きで伸びをする。退屈を紛らわしているかのようだった。
「お前、この国の言葉よりは我が国の言葉のほうが操りやすいようだな。隣国同士で発音が似ていることもあるだろうが。確か娶った女の姉だか妹だかが我が国に嫁いでいたか。やはり身内に異国人がおると便利よなぁ」
 震える男の懇願などサラリと無視し、彼は椅子の上で姿勢を整えると首だけねじ曲げて相手を見おろす。世間話でもしているような気安い態度に見えるが、話しかける口調の裏にはねっとりと絡みつく何かがあった。
「どうして、妻の身内のことまでっ。どこまで我が家のことを……」
「どこまで? それは必要なだけだ。判りきったことではないか。なぁ?」
 書記机と椅子の背もたれに両掌をかけ、気怠げに立ち上がると、彼はクスクスとひそめた笑い声も漏らしながら小さく肩を揺すった。
「故郷に帰りたくば帰ればいい。だが荷を売った代金が未回収だぞ。金品を持たずに帰郷して妻子を失望させたいか? そうではないならキッチリと働いて金を稼ぐことだ。差し当たり、今はカイリュウのハヤヒトの情報を集めよ」
「もう充分に集めたではありませんか。というより、彼には謎が多すぎて、こちらで判ることなどほとんどありませんよっ」
 床にうずくまり、衝立に取りすがっている男の顔は半泣きである。帰りたくとも帰れない故郷と残してきた家族のことを思い出しているのだろう。
「黒竜街道での噂は玉石双方混じっていて確かなことは判らない。だが、この国なら今現在の奴のことが判るではないか。謎など人にはありはせんよ」
「語らぬことを知ろうとするのは難しいのです。それを人は謎と呼ぶんですよ。廻流人かいりゅうじんのことなら、あなたご自身のほうがこちらより遙かにご存じでしょうに」
 彼は肩をすくめ、片眉をつり上げた。相手を小馬鹿にした態度である。
「知りたいのは謎言葉が好きな廻流人のことではなく、あのハヤヒトのことだ。彷徨える白き狼の素性は判っているのだから、彼の人となりを探れ」
「あなた自身が近づけばいい。できない立場ではないでしょう!」
 彼は小さく下唇を突き出し、半眼になって相手を見つめた。
「なるほど。となると、お前は用済みということだなぁ。では……」
 口角を引き上げ、彼はニタリと嗤った。その表情に男が震え上がる。
「調べます! 彼のことを調べてくれがいいのでしょう!?」
 男は手足をばたつかせて床に座り込んだ姿勢のまま後ずさった。
「そうか。お前に情報が集められるというのなら、我々の利害はまだ一致しているなぁ。そういうことなら、お前に売掛金の代金を支払わぬでもない」
 未だに薄笑いは顔から消えていない。そんな彼の表情を伺う男の眼には、何かを天秤にかけているような計算高い色が浮かんでいた。
「そうそう。ハヤヒトのことを調べている途中、奴の周辺にいる人物のこともそれとなく探っておけ。奴が王国の中心部近くにいるなら、この国の内情を探る良い機会になる。今後の策も練りやすいからなぁ」
 カクカクと首を振る男の姿は壊れた人形を連想させる。それを横目に見遣りながら、彼は書記机の傍らに置かれた物入れの中を探った。
「売掛金の一部を支払っておいてやろう。故郷で女子どもが首を長くして金を待っているだろう? 良い父親でいてやらねばなるまいて?」
 新しいインク壺を手に取り、一緒に取り出した紙の上に羽根ペンを走らせる。一通りの文章を書き上げ、インクが乾くようヒラヒラと紙片を指先で揺らしながら、彼は男のほうを改めて振り返った。
「これから金を送ってやれば、ちょうど夏の精霊供養に間に合うなぁ。今年は豪勢な酒宴を開けるのではないか? 親戚一同にも鼻が高かろう」
 舞うような手つきで男に紙片を差し出す。それを恐る恐る受け取った相手は文面を食い入るように読み、内容を確認していた。
「大変けっこうです。これで我が家の今年の収入の何割かが賄えますよ」
 未だに床に座り込んだままだが、安堵して肩の力を抜いた男の声が和らぐ。男が丁寧に紙を折り畳む間、彼は両腕を袖の中に押し込み、静かに佇んでいた。
「では、早速お前の仕事に取りかかってもらおうか。やるべきことを済ませて、家族の許に戻れるようにするがいいよ」
 立ち上がって会釈をすると男は部屋を出ていく。その姿が消えるまで彼は袖口に入れた手を出すことはなかったが、引き抜いた掌には小さな弓が乗っていた。それを指先で器用に操り、彼は太い針ほどの矢を扉に向かって放つ。
「命拾いしたなぁ、あいつ。これの餌食にならずに済んだとは」
 使い込んだ小弓を翳し、彼はクツクツと忍び笑いを漏らした。自動的に装填される仕組みなのだろう。彼の視線の先には鋭いやじりが光っていた。




「我らに勝ち目があるのだろうか? どう考えても水姫家の姫が圧倒的に有利ではないか。今から貴婦人修業を始めて間に合うかどうか……」
 五、六人といった数の男たちが王宮の一画に広がる小庭園を眺めながら、お抱えの料理人が作る豪奢な料理で午餐を楽しんでいた。いや、楽しんでいるように映るのは周囲から見た限りで、彼ら自身は至って真剣なようである。
「何を仰いますか。水姫家の姫はどこの馬の骨とも知れぬ小娘ですよ。貴族の出ですらないかもしれません。そのような娘に一から教え込んでいる大公の気苦労や推して知るべし、ですよ」
「そう、その通り。我らの選ぶ姫たちは誰もが貴族の振る舞いを心得ている者ばかりではありませんか。せっかく我ら元老院にも運が向いてきたというのに、ここで足踏みをしているわけにはいきませんな」
 不安に顔を翳らす男の周囲で数名の男が力強く肯首した。彼らの口の端に上る話題は己と一族の将来に関わることである。手をこまねいている場合ではないし、与り知らぬと無視していい内容の類ではないのだ。
「然り。ようやく眼の上の瘤だったラジ・ドライラム陛下が崩御され、王太子サルシャ・ヤウン殿下につけ込めるかと思っていた矢先の花嫁選びです。天から与えられた機会をみすみす逃すわけにはいきませんぞ」
 鼻息荒く、手にしたナイフを小さく上下させながら、口髭も豊かな中年男が眉をつり上げる。好物らしき兎の炙り肉の脂がベッタリとまとわりついたナイフが薄曇りの中でいやらしく光っていた。
「王子には我ら元老院貴族から選んだ姫を選ばせねばなりません。そして、王太子妃として立てた後、サッサとご生母殿には僧院に入っていただくのです」
 彼らが眺める小庭園は大窓の向こうに広がっている。その窓には薄い綾幕が掛けられ、冷たい外気が室内に入ってくるのを防いでいた。
 この時代、まだガラスは大窓に備え付けられるほど技術が発達してはいないのである。代わりに、機織り職人の高等技術で織り上げられた薄布に刺し子職人の刺した刺繍の見事さは後世にも永く伝えられているほどだ。
「僧院と言えば、アルティーエ姫のほうはどうなっておるのか。かの姫は未だに静養を理由に公の場に姿を見せぬままだが」
 小さく鼻を鳴らし、一人の男がワインを喉の奥に流し込む。手にする酒杯も銀に希少な貝の粉末を塗し、幾何学紋様を彫った手の込んだ一級品であった。
「王家所有の僧院奥に引っ込み、出てくる気配すらなし。他国に嫁いで国交の役に立つでもなし。あれは殿下の庇護の下で隠遁生活がせいぜいでしょう」
 顔を見合わせ、彼らは肩をすくめる。
「そんな有様では我らの役に立ってくれることもなさそうだ。いっそのこと、我らのうちの誰かの妾妃にでもなってくれたらよいものを」
「ご安心を。あちらの姫にも役に立ってもらうために、私がなんとかしておきましょう。我ら元老院の持つ駒は多いほうがよいのですから」
 口髭男の嫌みに如才なく返答がある。一同が発言者を振り返った。
「あの王子が姉姫に逢わせないと仰るのなら、こちらはこちらで是が非でも逢えるようにするだけのことではありませんか。なんとでもなります」
「小エシュート伯、無理なごり押しは後々で面倒を引き起こすぞ」
 不安を訴える声を小エシュート伯は鼻で笑って一蹴する。
「あなたは消極的すぎです、ラナーシェ侯。ハスハー地藩に領地があろうと我らは辺境貴族とは違うし、始祖王の御代から続く家柄。大公家とは対等ですよ」
 小エシュート伯より幾分か年上らしきラナーシェ候は眼ばかりが目立つ顔を赤く染め、口の中でモグモグと言い訳を繰り返した。それを小エシュート伯は僅かな侮蔑がこもった視線で見遣る。焦ってワインを煽る相手の様子に、彼はいっそう意地の悪い笑みを口の端に刻んだ。
「まぁ、そちらは小エシュート伯に任せよう。それよりも今は王子の花嫁選びだ。複数の貴族階級者の推挙があれば誰でも参加させるなどと、ふざけるにも程がある。王太子殿下は王宮に下級民を入れるおつもりか?」
「なぁに。貴族階級者の推挙は貴族階級の姫にだけ、と相場は決まっている。誰でもとは建前で、貴族限定と見てよろしかろう」
 のんびりと肉を切り分け、添え物の香草で巻いて口に放り込みながら、彼らはしきりと王議会での話し合いに不満をこぼす。
「ともかく、我らの選んだ姫に王子の妻へ収まってもらわねば意味がない」
「何名かに絞り込んで、王子の好みそうな娘を選出しておこう」
 そこまで話を続けておいて、彼らは端と手を止め、顔を見合わせた。
「ところで、貴殿ら。あの王子の女の好みをご存じなのか……?」
 一同は互いの瞳の奥を探り、皆が話題の人物の嗜好を知らぬことを悟った。いきなり持ち上がった障害に、彼らは彼らなりに頭を抱えて嘆息したのである。




 双弦琴フィレリラから放たれた不協和音に、エッラは顔をしかめた。
「姫、また同じ箇所で間違えております。もう少し集中してください」
 ウルウルと瞳を潤ませ、上目遣いでこちらを睨む美少女に思わずほだされそうになる。がしかし、表面上では内心の葛藤など微塵も伺わせず、彼は厳しい口調で最初から弾くように促した。
「だって、もう疲れてしまいましたわ。今日は半日もフィーラを触っていますのよ。そろそろ終わりにしてちょうだいな」
 ほら、指がこんなに荒れてしまって、と弦を押さえていた指先を広げて見せられては、エッラとしても再考しないわけにはいかない。何せこの姫の肌は柔らかく、傷つきやすいのだ。稽古で怪我をさせるわけにはいかない。
「では本日はこれまで。侍女たちを呼びましょうね。その指の手入れをしなければなりません。……あなたは完璧な姫でなくては」
 微笑みかけようとするのだが、どうしても顔が強張り気味になってしまう。主人ラシュ・ナムルの傍らにいるときはこんなことはなかったのに。
「香茶を飲みたいわ、エッラ。あなたが淹れてくださる?」
「後で姫が香茶の淹れ方を勉強されるのであれば淹れて差し上げましょう」
「またお勉強するの? ひどいわ。エッラはなんて意地悪なの」
 恨みがましげに口を尖らせているが、少女が表情ほども拗ねていないことをエッラはすでに学んでいた。こうやって突っかかってくるときは、無条件に甘えたいからやっているのである。叱りつければ逆効果だ。
「それならば、すべての勉学を止めてしまいますか? 大公閣下のご期待に背くことになりますが、後悔されませんか?」
「お勉強を全部やめるなんて言ってないわ。今日は疲れたから、もうこれ以上のお勉強は厭なの。少しくらい休ませてちょうだい」
「茶の作法を学ぶことはもてなしの作法を学ぶことに繋がります。姫はこれから色々な人物と逢う機会も増えますからね。物知らずと誹られたくなければ、完璧な作法を身につけておかねばなりませんよ」
 少女はなおも不満げな顔である。仕方がない。奥の手を使うしかなさそうだ。相手の瞳を覗き込み、エッラはとどめの一言を発した。
「王宮に上がりたいのであれば、完璧な貴婦人にならねばなりませんよ。そうでなければ、あの御方様に逢うことも叶いますまい」
 少女は今度こそ本当に涙を浮かべ、小作りな顔を左右に振る。
「厭よ。逢いたいの。だから、そんなこと言わないでちょうだい」
「では作法の勉強をしましょう。少しでも早くあの御方様に逢えるように」
 判ったわ、と返事をし、トコトコと茶道具を引っぱり出してくる姿を眺めながら、エッラは内心の焦燥を必死に押し殺した。
 この少女は魔性の化身だ。心奪われずにはいられない美貌の主なら、これまでにも主人のつてで何人か名うての美女に逢った。そういった場合、何日か眺めていれば見慣れて動揺などしなくなる。
 しかし、この少女はそれだけではなかった。主人から紹介された時からずっと、疑うということを知らない無邪気さでまとわりついてくる。子どもっぽいだけかと思えば、ふとした瞬間にどこか達観したような大人びた顔をした。儚げに俯くかと思えば、ときに棘を隠した薔薇のように宛然と微笑みもする。
 一目見たときから危険だと頭の片隅で警鐘が鳴っていた。今も、この瞬間も、激しく打ち鳴らされる銅鑼ダムドのように。
「エッラ。お手本を見せてちょうだい。わたくしが淹れるのはそれからでいいでしょう? まずはあなたの淹れた美味しい香茶が飲みたいわ」
「承知しました。淹れる香茶の味をよく覚えてくださいよ」
 にこやかに微笑みかけ、エッラは侍女に沸かし立ての湯と手入れ用の香油を用意させる。ほのほのと心地よい熱を放つ暖炉の傍ら、雪鹿の上等な毛皮が敷かれた一画に導くと、彼は慣れた手つきで茶を淹れ始めた。
「王宮では大抵の場合、湯は侍女に言いつければすぐに用意できます。各階にある厨房で常に湯を沸かしていますからね。貴族階級の屋敷でも同様です。ですから、あなたが水を沸かすところから始めることはないはずですよ」
「えぇ、前にも教えてもらったわ。お茶請けのお菓子や軽食を手配したり、もてなす客人への配膳をするのが女主人の務めなのでしょう?」
「他にもありますよ。女性同士であれば話題を提供するのももてなす側の役目です。夫とその客人に香茶を供する場合はその限りではありませんが」
 少女によく見えるよう、ひとつひとつの動作を明確にしながら動いていると、自分が始めて茶の淹れ方を習った頃を思い出す。その想い出と目の前の少女が重なってなんとも不思議な気分になった。
「姫、お手許に用意した香油を指先に擦り込んでください。それも練習ですよ」
 素直に従う姿は子どもそのもの。実際に彼女は十代前半であるから、充分に子どもと言ってよかった。がしかし、香油を擦り込む手つきは艶めかしい。
 無知な童女の顔をして、どこか異性を誘うかのような雰囲気を醸し出すこの少女を王宮に放り込んだらどうなるか。それを想像すると、エッラは先ほど感じた焦燥がさらにひどくなるのを自覚した。
 首を傾げるようにこちらを見上げ、己の指同士を絡め合う姿をずっと眺めていると、どうにも落ち着かなくなってくる。
「さぁ、香茶が入りましたよ。これを飲んだ後、姫も同じようにやってくださいよ。上手く淹れることが出来れば、あの御方様も喜ばれるでしょう」
 茶器を並べた卓の近くに少女が歩み寄った。無邪気そうでいて己が美しく見える位置を確信して動く女の顔をしている。だからこそ彼女は魔性なのだ。
「エッラの淹れる香茶は最高ね。こんなに美味しい香茶は王宮でも飲めるのかしら。もし飲めないなら、一緒に王宮に上がって欲しいわ」
「そういうわけにはいきませんよ。それに王宮で一番の香茶を淹れるのは、これからはあなたご自身になるのです。そう自覚してくださいね」
 少女は不満げに口を尖らせたが、すぐに思い直して笑顔に戻った。
「ねぇ、大公様は約束の品をいつ持ってきてくださるのかしら?」
「姫。あなたは今、水姫家の姫君なのですから、水姫公閣下のことは父上と呼ぶようになさってください。王宮でもお間違えのないように。それから、閣下とのお約束も他人には口外なさらぬようお願いしますよ」
「どうして? わたくしが王宮で一番の貴婦人になれたら、ご褒美に青水晶をくださる約束よ。一番かどうか他人に訊ねるとき、どう説明したらいいの?」
 エッラは軽い眩暈を感じたが、すぐに気を取り直して少女に言い含めた。
「王宮で一番というのは、国王が決めることです。王の寵姫におなりなさいませ。そうすれば、誰もがあなたを一番の貴婦人と認めます」
 小鳥のように首を傾げ、熱心に聞いていた少女が鮮やかな微笑みを浮かべる。
「王様に気に入られたらいいのね。頑張るわ」
 この少女なら出来るだろう。本物の貴婦人である以上に、危うい均衡の上にいる姿は他人の眼を惹かずにはいられないのだから。
 エッラはこの少女の相手が自分ではないことに安堵しつつ、それを残念に思っている己の矛盾に、内心の焦燥をいっそう自覚したのだった。