混沌と黎明の横顔

第04章:風神の結晶 5

 間もなく雨期が空けようというのに、海原の上に広がる東の空はどんよりと沈んだ色をしていた。銀の糸を引く空気は冬の最後の威信を賭けるかのように冷え、容赦なく手足の熱を奪っていく。
 馬車に揺られながらアジル・ハイラーはその雨模様をぼんやりと眺めた。
 戦の間に無理をしたのがまずかったのか、肋骨の治りは悪く、こんな冷たい雨の日は痛みがぶり返す。戦が終わった当初は気が抜けたのか発熱を繰り返し、政務をこなすのがやっとという有様だった。
 気力だけで凌いだ時期が過ぎ、なんとか普段通りに椅子に座っていられるようになったが、油断すると落ちた体力につけ込まれてすぐに風邪をひいてしまう。歳だと言われると腹立たしいが、若い頃のような無茶はできなくなった。
「公、痛みますか? 今日は僧院へ行くのは取りやめたほうがいいのでは?」
 張りのある声に呼ばれ、炎姫公は向かいの席を振り返る。一見すると無表情に見えるが、黒い瞳の奥に気遣いを見つけ、彼は曖昧な微苦笑を浮かべた。
「今日行かねばいつ行くのだ。毎回このために時間のやりくりをして出てきているのだぞ。少々のことで引き返していられるか」
「御身の安息が第一ではありませんか。無理を押して出掛けていったところで、先方は喜びません。もう少しご自身に目を向けてください」
 苦笑を深くし、アジル・ハイラーは馬車の天蓋から顔を出す。御者に急ぐよう命じた後、彼は腰を落ち着けて目の前の人物を手招きした。
「お前に説教されるようになるとはな。ヌロギゥオはその手のことに頓着せん男だったが、娘のお前はまったく逆だな。母親にでも似たものか?」
「亡くなった母親のことは知りませんが、父に似ていないのならば、その母に似ているのかもしれませんね。姿は似ても似つかぬのに」
 視線を背ける相手の横顔を睨み、炎姫公は唸るような声を発した。
「アイレン、なぜ命令に従わぬ。ここへ来いと言っているだろうが」
 お赦しを、とアイレンが頭を下げる。がしかし、大公は身を乗り出して彼女の腕を掴むと、力任せに引き寄せた。肋骨が軋み、ジンジンと痛みを訴える。歪めた表情からそれを察した相手が身を引こうとした。
「動くな。お前が暴れなければ痛みはせん。どうして私に逆らう? お前は我が騎士、お前流に言うなら我が奴隷だぞ」
「騎士や奴隷はこんな真似をしません。手を放して下さい。お身体に障ります」
 口調こそ素っ気ないが、アイレンの身体が緊張で小さく震えていることにハイラーは気づいていた。笑いたいような、怒りだしたいような、奇妙な高揚感を自覚していたが、それを悟られぬよう彼は相手の耳に唇を寄せて囁く。
「では、世間が噂するように愛人にでもなったらどうだ。お前には男爵位を与えている。貴族なれば、大公の妾妃となっても問題はなかろう」
「どれもこれも望まぬものばかりです。いらぬものを押しつけて、相手が困惑するのを見るのは楽しいですか? 悪趣味が過ぎます」
 腕を突っ張り、身体を離すこともできように、アイレンは硬直したまま動かなかった。動くな、と主人に言われれば動かない。それが奴隷として生まれ落ちたときから彼女が否応なく教え込まれた習性だった。
 いや、もしかしたら身が竦んで動けないのかもしれない。そうなるだけの躾を、己はこの女に与えてきた。敵に対するほうが気楽だと思えるほどに、彼女の中での主人の位置は重いのである。それは逃げ出せぬほどの枷だ。
「必要と思ったものを与え、奪うのが大公の権利だ。それを行使して何が悪い。お前も生き残るために賭闘場ドーラで命を奪ったろう? それと同じよ」
 アジル・ハイラーは抱き寄せたほうの腕でアイレンの背を押さえる。拘束しているわけでもないのに、彼女はそれでも動かなかった。思わず忍び笑いが漏れる。彼は残りの手で女の後ろ首をソロリと撫で上げた。
 息を呑み、さらに身体を強張らせたアイレンに大公は再び囁く。
「愛人になって、大公の息子を産んでみたらどうだ? 楽しかろうよ」
「なんのためにそのようなことをしろと……。無意味ではありませんか」
 こみ上げてくる笑いが抑えられなかった。自分がなぜ笑っているのかすら判らぬのに、喉をせり上がってくる笑い声は泡のように弾け出る。
「大公位を簒奪するために、だ。アイレン、そうでなければ我が手からお前が逃げ出すことは叶わぬぞ。息子に我が地位を奪い取らせたらいい」
 驚きにアイレンが身じろぎした。ハイラーが再び首の後ろを指先で撫でると、漏れそうになる悲鳴を噛み殺している気配が伝わってくる。
「どうだ、アイレン? 父親の処刑を命じた男に復讐したくはないか?」
「父はササン・イッシュ殿を殺した咎を受けねばなりませんでした。その処罰を命じたというだけで、あなたを殺す理由にはならないでしょう」
 女にしては骨太な身体を抱きすくめ、大公は目線だけを動かして外を伺った。
「理屈などどうとでも取り繕えるものだ。父親を殺したのは処刑人で、その役人に命じたのは炎姫公だという事実を、お前は心底納得しているのか?」
 馬車の車輪が大きく軋む。間もなく目的地に着く頃合いだ。見覚えのある景色もこうしている時間が少ないことを知らせている。
「公、お願いです。放して下さい」
「我が問いに答えぬか、アイレン。目の前で父親が殺されたこと恨んではいないのか? 答えよ。戦奴ドール仲間から引き離した男を憎んではないのか? 恋しい者との仲を引き裂かれて悔しくはないのか? 正直に言え」
 この段になって初めて、アイレンの腕が大公の背に回された。アジル・ハイラーの腕の力に比べればか弱いものである。がしかし、彼女は赤子をあやすように主人の背を撫でさすりながら、そっと男の名を呼んだ。
「フィオナ様が賭闘場の宿舎においでになったとき、もったいなくも戦奴の娘をユニティア様と同列に扱っていただきました。髪を梳き流し、華やかな衣装を着て、街で甘い蜜菓子を食べたあの日から、私の中ではフィオナ様は母に等しい御方です。あなたはあの人の夫。恨み言など言えましょうか?」
 耳元で囁くように紡がれる言葉をアジル・ハイラーは苦い想いで聞いた。その言葉は自分が望んだ答えではない。だが、そう告げることはできなかった。
 馬車が速度を落とし、車輪が新たな律動を刻み始める。
「時間切れだな。この茶番劇もひとまずは終わりか」
 炎姫公は腕に抱いていた己の奴隷を引き剥がすと、向かいの席へ乱暴に突き飛ばす。冷えた彼の瞳には感情らしい感情は何も浮かんでいなかった。
「お前ならもっとましな答えを返すと思っていたのだがな。残念なことだ」
 車輪が止まり、馬をなだめる御者の声が響く。アジル・ハイラーは自ら扉を開けて馬車を降りた。背を打ちつけてうめくアイレンには一瞥すら与えない。
 固い大地を踏みしめて立てば、彼の視線の先には堅牢な佇まいの僧院が彼を待ちかまえていた。少し前まで感じていたはずの高揚感はどこにも見つからない。大公を歓迎するかのように、鉄の門が軋みながら開いていった。
「お久しゅうございます、炎姫公閣下。お逢いできて嬉しく思いますぞ」
 比較的高い位の僧侶がまとう法衣を着た男が、微笑みながら門扉の隙間から歩み出る。五十を過ぎたと思われる老齢ながら眼光は炯々としていた。
「ビューネウス、先月は来られなくてすまなかった。そちも息災であったか?」
 お陰様で、と返事をしながら、ビューネウスの視線が己の背後に向いたことにアジル・ハイラーは気づいた。振り返って確認するまでもなく、そこにはアイレンが控えているはず。目の前の人物の瞳に好もしい光が浮かんだ。
「久しく見ないうちに一段と凛々しい顔つきになってきおったな、アイレン。閣下の恥にならぬよう、剣聖の称号を受け継げるほどに力はつけたか?」
「未だ精進の道半ばであります、ビューネウス卿。久方ぶりのお目もじですが、お健やかな様子に安堵いたしました」
「ハッ! 棺桶に片足を突っ込むほどの歳になっても耄碌はしておらんわ。人生は事を成すには短すぎる。歩みを緩めるでないぞ」
 承知、と応じるアイレンの声の調子には先の困惑や動揺などなかった。戦いの世界に生きてきただけあって、彼女の切り替えの早さは賞賛に値する。
「サッサと建物の中に入るぞ、二人とも。こんな日にこんなところで突っ立って世間話をしていたのでは、肺炎にでもなりそうだ」
「これは失礼を。薬草入りのワインでも用意しましょうか。それとも香茶のほうがよろしいか。まだ怪我は完治していないのありましょう?」
「王都には間もなく出仕すると伝えたがな。どこで怪我の治り具合を聞いた?」
 大公を先導する男の背は僧侶の知性と武人の剛直がにじみ出ていた。肩越しに振り返り、眼許だけで微笑む横顔はふて腐れる弟を見るかのように穏やかである。事実、この男は炎姫公に真剣に諫言できる数少ない人間だった。
「蛇の道は蛇と申しますぞ。聖界は今のところ政治から距離を置いていますが、まったく縁が切れているわけではないとご存じのはず。まして意識して情報を集める気のある者には真偽織り交ぜた噂話の大海ですな」
「世辞も言わなんだ騎士が、今では魔物の巣窟のような世界で口八丁だけでやり合っているわけか。人は変われば変わるものだな」
 ここに来た目的が頭の隅をかすめ、アジル・ハイラーの口調に苦いものが混じる。初見の者には判らずとも長いつき合いのビューネウスには筒抜けだった。
 こちらへ、と案内された部屋は暖炉の炎が暖かく手招きする居心地の良い場所である。幾重にも重ねられた毛皮の上に積み上げられたクッションが滑らかな光沢を放っていた。触れずともそれが絹であることが判る。
「年寄りにも雨期末の寒暖差は厳しゅうございますよ。そちらにお掛け下さい。すぐに温かい飲み物を用意させましょう」
 頭や肩に降りかかった雨水を拭くよう柔らかな手巾を渡しながらビューネウスがクッションの一画を指し示した。暖炉からほどよく離れたその場所は、今の室内でもっとも居心地がいい空間と言っていいだろう。
「アイレン、お前も戸口に貼り付いていないでこちらへ来なさい。身体を冷やして風邪でもひこうものならひどくこじらてしまうぞ」
 老人がきびきびとした調子でアイレンを呼び寄せたが、アジル・ハイラーはそれを止めた。視界の端に映る女騎士へ視線を向けないまま顎をしゃくる。
「ビューネウス。以前にお前の連れていた僧兵が剣の稽古をつけてもらいたいと言っていたろう。稽古の相手にちょうどいいのがいる。あれを遣わせ」
「以前に無礼を働いた者にですか? 確かに今日も連れおりますが閣下の剣術を学ばせるにはいささか素質に欠けるかと……」
「かまわん。使い物になるかどうか今から試してやったらいい」
 戸惑いを表情に乗せた老僧だったが、すぐにそれを消し去るとアイレンを伴って部屋を出ていった。ひとり残されたハイラーは鋭く舌打ちし、乱暴に暖炉へ歩み寄る。そして、ぞんざいに薪を炎のただ中へ放り込んだ。
 大人げない八つ当たりだ、とビューネウスが戻ってきたら説教をするだろう。あるいは諦め顔で肩をすくめるか。
 熊の如く歩き回り、炎姫公は不機嫌を隠そうともしない。政務を行うときの彼しか知らない部下が見たなら、あまりの変わり様に唖然としたはずだ。
 どれほどの時間が経っただろうか。炎はまだ赤々とした舌を伸ばしていた。扉を叩く音の後、茶器を携えたビューネウスが姿を見せた。
「酒を呑みたい気分でしょうが、今はこちらで我慢していただきましょうか。老いぼれには閣下のやけ酒につき合えるほどの胃袋はございませんのでな」
 説教の代わりに嫌みをぶつけられ、アジル・ハイラーはあからさまに眉間の皺を深くした。それも想定内なのだろう。老僧は仰々しい仕草で湯気を上げる茶器を差し出してきた。受け取らねば頭から熱い茶をかけられそうである。
「言いたいことは口にしたほうが長生きするぞ、ビューネウス」
「この老いぼれがとやかく口出しせねばならぬことをなさったので?」
 大公は舌打ちしようと顔を歪めたが、相手の表情を見てそれを飲み込んだ。こちらの出方を待っている男の顔は仮面のように見える。この状態になったときのビューネウスは恐ろしく頑固になることを、過去の経験が警告していた。
 知らぬ顔をして切り抜けようか。そう思いもしたが、それで誤魔化せるほど彼は甘くない。洗いざらい白状させられるまで追及の手は緩めないはずだ。
「出来れば何も訊かないで欲しいのだがな」
「ご自分のなさったことを後悔してそう仰っているのでしたらね」
「お前相手に懺悔すると懺悔にならぬ気がする」
「懺悔する気など微塵もないのに殊勝な言葉で誤魔化さぬように。おしめをしている頃から存じ上げているのですよ。下手な言い訳などなさらぬことです」
 アジル・ハイラーは口許を覆い隠し、あからさまに視線を背ける。厳しい追及の言葉こそ出てこないが、こちらを責める視線には耐えかねた。
「何もかも思い通りにならぬ。自分でも浮き沈みの激しさを持て余すのだ」
 ビューネウスは「なるほど」と合いの手を入れこそしたが、目新しい提案をするでもなく、更にこちらが口を開くまで待ち続けている。
「アイレンはヌロギゥオではない。性格も似てはおらぬ。だが、あの娘を見ておると、そこにヌロギゥオがいるような気がしてならぬ。ユニティアのときもそうだった。フィオナはもういないのに、そこに彼女がいる気がして……」
 口の渇きを癒すため、大公は茶器から一口香茶をすすった。
「亡霊たちが私を責める。物言わぬ眼で。……あれもそうだ。ササン・イッシュと同じ顔をして、こちらをじっと伺っている。耐えるのも限界だ」
 熱を伝える陶器を両手で握り、アジル・ハイラーは暖炉の炎を睨む。そこに憎い仇がいるかのような横顔を見守る老僧の眼差しは深い憂いに満ちていた。
「苛立ちと憎悪で周囲にあるものを叩き壊してやりたくなるのだ、ビューネウス。すべて破壊する前に決着をつけることができると思うか?」
 ビューネウスは大公が掴んでいる茶器を取り上げると、乾いた両掌で貴族らしい美しい手指を包み込んで、朱茶けた瞳の奥を覗いた。
「ハイラー様、あれから二十年になります。あの日、何があったのか、今もまだ話していただくことはできませんか?」
 胃の辺りが冷えていく。暖炉の炎も温かい香茶も、なんの足しにもならない。
「それならすでに話しただろうが。ササン・イッシュは大公家の転覆を謀り、フィオナは私を裏切った。それ以上の何を話せというのだ」
「あなたが語ったのは真実でしょう。しかし、すべてではないと思えるのです。あなた自身でも気づかぬ、あるいは気づこうとしない何かがあるのでは?」
「物事を知らぬ童子のように扱うのは止せ! お前までササン・イッシュが大公家を継ぐべきだったとでも言い出すつもりか!?」
 腹の底は冷えているのに、胸の奥深くに沸き上がった熱が身体の芯を突き抜けていく。思い出したくもない感覚だった。忌々しい。二十年も前に斬り伏せたと思った感情が、今さら顔を覗かせるとは。
「炎姫家を支えているのはあなたです。私は今でもササン・イッシュ殿が継がなくて良かったと考えていますよ。あの御方は確かに明朗で快活、強固な自信もあり頭も良かったですが、大公たる資質には欠けていました」
 憶えておいででしょう、となだめるようなビューネウスの口調に苛立ちが沸き上がる。しかし冷えた指先を握りしめる掌の温かさに彼は口を閉ざした。
「あの御方は慕ってくる部下には限りなく情けをかけます。しかし己に無益な者や有害と判断した者には冷酷でした。大公ともなれば冷徹な行為も必要なときがありましょう。ですが、普段の行いからしてそうでした」
 指を握る掌に僅かな力がこもる。それが相手の内心にくすぶる思いを代弁している気がして、アジル・ハイラーはかつての部下の拳を見おろした。
「私はお父上があなたを跡継ぎに据えられたのは正しかったと信じています。何年あなたを見てきたと思っているのですか。よちよち歩きし始めたあなたの護衛騎士に任じられて以来、四十年にもなるのですよ」
 大公は噛み締めていた口許を解くように何度か唾を飲み込む。それでも思うように声を出すことは難しかった。
「ビューネウス。まだササン・イッシュの残した文書を見ることはできぬのか。あいつが記しているはずの証拠があれば……」
「今しばらくのご辛抱を。ようやく文書室や書物蔵を管理する地位に就いたところです。あの御方が残した書類を分類できれば証言の裏がとれるはず」
 ぎこちない動きで顔を上げ、アジル・ハイラーは老僧を睨む。握られていた指先を振り解き、彼は上着の裾をひるがえして立ち上がった。
「裏をとるだと? 私の話が間違っていると言うのか。妻と通じて大公家の内情を探り、私の暗殺を企てたのだと、私はこの耳で聞かされたのだぞ! 奴がフィオナから贈られた短刀を喉元に突きつけられながらな!」
「だからこそ、です。奥方様と通じていたなら、なぜあの日、奥方様は殺されねばならなかったのですか。まして一緒にいたお子様方まで命を狙われて」
 自分の頬が凍りついたように強張ったのを感じる。腹の底に澱んだように溜まる不愉快な氷の塊がチクチクと身体に痛みを与えた。
「私から何もかも奪ってやりたかったのだそうだ……」
 ぽつりと呟き、炎姫公は置き去りにされた幼子のように肩を落とす。
「元々、フィオナは当時の太公子であったササン・イッシュの許に嫁ぐ予定だったろう? 自分の持ち物を返してもらったのだとな。しかし、そうは言っても私の手がついた穢女けがれめなど手許に置く気はなく、売女に相応しい最期を与えてやったのだと、そう言っていた」
「なんという言い種を……。あなたのお母上を暗殺しようと計画し、それが露呈して廃嫡されたのは自業自得ではありませんか」
 苦笑いでも浮かべられたら少しは痛みが引くだろうか。だが彼の口許は引きつっただけで、笑みとは到底呼べぬ代物であった。
「その暗殺計画にササン・イッシュが一枚噛んでいたかどうか判らぬままだ。あいつの筆跡に似た密書が証拠とされはしたがな。最後まであの男は己の無実を主張していた。陥れられたのが真実なのやもしれん」
「だから太公子になった異母弟の家族を手にかけたと? 復讐するにしても相手が間違っておりますな。女子どもに手を出すなど大公家に名を連ねる者のすることではありません。結局は己の器の未熟さをさらしただけです」
 ビューネウスの手厳しい批判もアジル・ハイラーの耳には上滑りして聞こえる。正論を吐くのは誰しも容易いのだ。権力の蜜に惑わされる者は多い。
「しかし解せませんな。フィオナ様ほどの御方があのササン・イッシュに組みするとは思えません。僧院をお訪ねになったことは何度もあるようですが、関係を持つには場所が悪すぎましょう。もしや、奥方様は情の厚さを利用されて知らぬ間に手引きの手伝いをさせられていただけなのでは?」
 喉元にせり上がってくる冷たい塊を飲み込みたかった。しかし手足の先まで凍え、麻痺してしまったようで思うようにならない。
「知っていたのだ……」
 いったい何を、と怪訝そうにこちらを伺うビューネウスの顔を視線だけ動かして見遣った後、大公は強張った下顎から無理に舌を引き剥がした。
「妻を娶らなんだお前にも判るよう説明しようか? あいつは、夫しか知らぬはずの妻の身体のことを知っていた。まだあるぞ。それも聞きたいか?」
 ビューネウスが息を呑み、眼を大きく見開く。その表情の変化を意地の悪い気分で眺め、アジル・ハイラーは暖炉へと歩み寄った。生憎と傍らに設えられた窪み棚アルコープに酒壺は収められていない。
 背後では呻くように炎姫公の名を呼ぶ男の声がした。そこに激しい動揺が見て取れる。こんな話を聞かせるべきなのか。今の自分には判断できない。
 棚から離れ、大公は暖炉の前に屈み込んだ。背中に元部下の視線を痛いほど感じる。身体の前面を照らす炎の熱で頬や首筋がチリチリと熱さを訴えていた。しかし、それでも身体の芯は冷え切っている。
 のろのろと身体を動かし、彼は薪を取り上げて暖炉に放り込んだ。
「ササン・イッシュ曰わく。私はカッコウに騙されたモズなのだそうだ」
 無意識のうちにアジル・ハイラーは己の左肩を撫でさすった。そこは二十年前、異母兄に刺された箇所である。妻が贈ったという、華美な装飾を施された短刀でだ。忘れようとも忘れられるはずがない。
「あとはお前も知っての通り。腕の鈍った奴の剣技で私を仕留めることはできなかった。逆に奪い取った短刀でこちらが奴の心臓を一刺し。で、立派な兄殺しの完成だ。……そして、庇ったヌロギゥオを処刑した人でなしでもあるな」
 ゆっくりときびすを返し、大公はクッションが山積みされた場所に戻った。朱茶けた瞳は冷え切り、左肩を掴んだままの右掌は小刻みに震えていた。
「閣下っ! ヌロギゥオはすべてを承知して処刑されていきました。あれを気に病まれるのでしたら、その場に居合わせた私も同罪でございますぞ」
 アジル・ハイラーは片頬を歪めて嗤う。ようやく浮かんだ笑い顔であるはずだが、それは彼からいっそう表情を奪っているように見えた。
「話をしろと言ったのはお前だろうに。今さら罪の軽重について説教するな。私は私の両手が血に染まっていることを充分に理解しているし、肩代わりしてもらおうとは思わぬわ。お前でも出過ぎるでない、ビューネウス」
 蒼白な老僧の顔がクシャリと歪む。彼はそれを醒めた眼で眺めた。
「証拠を掴め、ビューネウス。ササン・イッシュが陰謀に加担していた物証を、だ。そのためにお前は僧院に入ったのだろう? 私を失望させるな」
 確証を得たならその後は、とかすれた声で問いかける男に向けて冷笑する。
「知れたこと。あるべきところにあるべきように還すだけだ。今の私には、奴の亡霊を消し去ることになんの躊躇いもないからな」