「それなら明日にでも一緒に行ってもらえるか? 寄付金は用意しておくから」
隣を歩く従妹に腕を貸しながら、ジノンは彼女の視線の先を追いかけた。白い影が横切り、それが次期国王と目される王子の傍らに佇む姿が確認できる。忌々しさに舌打ちしそうになり、彼は慌てて奥歯を噛み締めた。
「墓参はあくまでもついで、という形を取れば問題ないか?」
覗き込むように耳元で囁きかけると、ハッと我に返った従妹が首を傾げながら頷く。月姫のごとし、と謳われる美貌には物憂げな気配と一緒に気張った緊張が伺えた。
「ササン・イッシュ伯父の墓へ行くとは言わぬほうが良かろう。炎姫家縁の廟へ詣でると伝えたほうが角が立たぬ。そのように手配してよろしいか?」
「あぁ、それはフォレイアに任せる。オレでは王国の細かな習わしは判らん」
承知、と頷く彼女の視線がまた白い人影へと向けられる。先ほどからずっとこんな有様だ。奴が姿を見せてから従妹は腑抜けたようになっている。
会議が終わると同時に男は姿を現した。そして、主人である王太子の傍らへと戻りしな、一瞬だけ視線を炎姫公女に向けたのである。
ジノンはそれを戦々恐々と見守り、ほぞを噛んだ。公女がそれだけのことに心奪われ、自分との会話にも気もそぞろなのが手に取るように判る。
この数ヶ月、こんなことの繰り返しだ。従妹の意識をこちらに向けられたと思っても、あの白いチビが彼女の視界に入った途端に苦労は水の泡。いっそ冷たく振ってくれたら良いものを、あの男は斜交いに彼女を見、意識を捕らえてしまうのだ。
無理を言って王議会の場へ随行員の一人として潜り込み、少しでもあの男からフォレイアを引き離しておこうと目論んでみても、一瞬の視線の交わりだけで彼女の意識はごっそりと持っていかれてしまう。なんと腹立たしいことか。
痛めつけたらどれほど気が晴れるだろう。しかし、王太子の護衛だけあって相手に隙はなく、また下手な手出しは王太子に敵意を持っていると疑われかねない。そんな愚を犯して今までの苦労を無にするわけにもいかなかった。
「行こう、フォレイア。ジャムシードは王太子への報告が終わるまで戻ってこないのだし、ここで待ちぼうけしていても仕方がないぞ」
だがジノンの呼びかけにもなびかず、フォレイアは王太子に近づいていく。彼は歯がみしたい思いで彼女の後ろに従った。
王太子に近づく二人に最初に気づいたのは、やはり白い異邦人である。
視界の端で公女と連れを確認すると、僅かに足先をずらし主人を守る立ち位置へ移動した。たとえ親しい王族であっても、牽制することを躊躇わない。しかもそれは、さりげない動きながら確実にこちらに圧力をかけてくるのだ。
王太子の前だけに不快感を示すわけにはいかない。貴族の護衛程度であれば、こちらも睨むか挑発するかしてやれるものを。
さらに腹立たしいのは、フォレイアが相手の仕草を好意的に見ていることだ。自分が排除されるかもしれないという気配を相手がにじませているのに。
ジノンからしてみれば、それはアバタもエクボの典型でしかなかった。髪を掻きむしって怒鳴り散らしたくなってくる。
「殿下、大公への見舞いの品をありがとうございました。全快の折には本人が真っ先に伺いますが、本日は妾が御礼を申し上げます」
上着こそ山羊毛の男物だが、炎姫公女の衣装は絹のドレスである。その裾を優雅にさばき、年下の王子に礼をとる姿は舞踏を眺めている錯覚を起こさせた。
「わざわざ礼などよかったのに。炎姫公からも直筆の礼状が届いているし。足首や肋骨のひび、もうほとんど良くなっているんだってね。王議会に彼のしかめっ面が並ばないのは寂しいから、早く顔を見せるよう伝えておいて」
談笑の傍ら、フォレイアが小柄な異邦人を視界に収めていることにジノンはすぐに気づいた。先ほどの憂い顔が偽りのように、今の表情は花咲いている。
王太子と彼女との会話を遮りたくて、以前に一度紹介されているが、改めて炎姫公の甥であることを匂わせる挨拶をすると、年若い王子は美少女めいた容貌に艶やかな微笑みを浮かべて昼食への同席を誘ってきた。
王宮を後にしたら彼女を食事に誘う予定だったものを。ジノンは舌打ちしたくなったが、今後のことを考えると無下に断るわけにもいかなかった。
仕事の打ち合わせがあると辞退したジャムシードが去っていく後ろ姿を、つまらなさげに見送った王子に気を使ったのか、はたまたこういうことはよくあるのか、フォレイアは当たり前のように食事に同席しようとする。
ジノンの内心を掻き回したのはそれだけはなかった。あの男も同席すると聞いて地団駄を踏みたくなる。どうしてこう間が悪いのだろうか、と。
理由をつけて彼女を連れ出そうか。一緒に食事など胸くそ悪い。しかし彼の無言の抵抗も、王太子の真っ直ぐな視線を受けては弱いものでしかなかった。
フォレイアは当たり前のように王子の差し出した腕に掴まる。公女より高位である以上、彼女が王太子を拒まぬことはジノンにも理解できた。が、自分が恋敵と肩を並べて歩くとなるとそれはまた別の問題である。
殊更に無視して歩いていると、隣から押し殺した笑い声が聞こえた。ジノンは眉をつり上げ、小柄な男を睨む。忍び笑いをされる覚えはなかった。
しかし、睨んだ視線の先にいる男の横顔に嘲りはない。東方人特有の内心が判りづらい平坦な顔立ちでも、それはハッキリと悟ることができた。
『あまりカリカリしていると禿げるぞ。まだ三十そこそこで老け込みたくはなかろう。女の気まぐれに一喜一憂するほどガキでもあるまい?』
年甲斐もなく苛立っている原因はお前だろうが。と胸中で息巻いたが、ジノンは相手が故郷パラキストの言葉を使ったことに驚いた。
『貴様、パラキストに行ったのか? 噂では黒竜街道筋を辿ったと聞いたが』
『街道筋には旅人が行き来する。当然パラキスト縁の者も大勢いる。彼らの言葉を聞きかじれば単語は憶えられるし、会話ができれば言語の上達は早い』
そんな容易いことだろうか。母国語と似た言語ならともかく、この男の故郷で使われている言葉とパラキストの言語は発音の差が激しいはずだ。
そう考え込んですぐ、ジノンは彼がそんな次元を飛び越えている存在だということに思い至る。うっかり失念していたが生ける伝説になりつつあるのだ。
黒竜街道を抱える国々に関わる主立った商人や武芸者なら知らぬ者はいない。各地の領主たちにも良きにつけ悪しきにつけ注目されている男ではないか。
『さすが、はぐれ狼殿だな。オレも何カ国語かは話せるが、そう易々と操ることは難しい。ところで、どうしてこの国に来た? 東方は退屈だったか?』
『北方の果てまで行き尽くしたんでな。今度は西に向かおうと思ったまでだ』
ギョッとしてジノンは相手の横顔を見つめた。商人ならばともかく、黒竜街道の北端を見たというのか。あの果てなき道と呼ばれる街道を踏破したと。
『貴様が見遣らずの街に入り、出てきたというのは本当なのか……?』
彷徨える都市の伝説は東方ではお伽噺だ。その都に入ったという噂が本当であるならば、自分は今、伝説を目の当たりにしていることになる。
『辻守の街のことか? あぁ、入ったぞ。届けものがあったからな』
サラリと返答され、ジノンはあんぐりと口を開いた。見たいと思う者にはその姿を見せない伝説の街に、この男は入り、あまつさえ出てきたのか。
目の前にいる男は人だろうか。それとも得体の知れない魔物なのか。
色素のない真っ白な顔の中で光る黒い瞳に射抜かれ、ジノンは言いようのない不安に駆られた。伝説の都市は人ではない者が棲むと言う。その街に足を踏み入れ、無事に出てきた者の噂などほとんど聞いたことがなかった。
『辻守は来る者を選ぶだけだ。懐に入れても問題ないと判断されたら誰でも街に入ることはできる。信用がおけると判断されたら出ることも可能だ。それだけのことに人は気づかない。街は人を喰いはしないのに妙な噂ばかりが立つ』
『貴様がその生き証人というわけか。だが容易いようでいて、それが難しいのだ。商人なら誰もが見遣らずの街と取り引きしたいと願うが、それが叶った者は皆無だということからも辻守に気に入られることの困難さを示している』
前を歩く王太子は来賓用の部屋ではなく、個人で使っている食堂に案内する気なのだとジノンは気づく。周囲に貴族たちの姿はなく、行き交う宮廷侍従たちの衣装が表宮殿のそれとは異なっていた。
『おい、こんな奥まった場所に初対面に等しいオレを案内していいのか?』
王太子の安全を第一に考えているはずの隣の男が、安易に部外者を主人に近づけることも奇異なことだが、己の安全に頓着していないように見える王子の行動にも首を傾げざるを得ない。無防備すぎはしないだろうか。
『ヤウンに危害を加えるのか? そのときは容赦なく斬り捨てるぞ。あいつも止めん。だが今は殺気もない。となれば、おれは傍観するだけだ』
炎姫公の甥だとか娘、あるいは貴族の誰それ、そういう身分などこの男には一切関係ないのだ。主人を守る上で邪魔になる者は頓着することなく排除する気でいる。傲慢なほどの言動からは自らへの揺るぎない自信が見て取れた。
ジノンが妙な気を起こそうものなら瞬時にそれに対応できる。そう言っているのだ。そして、王太子もこの護衛に全幅の信頼を置いているのであろう。
勝てるのか、この男に? ポラスニア王国で自分の場所を確保するなら叔父の近くにいることがもっとも確実だ。それには従妹の信頼と情を勝ち取ることだ。だが公女は男の視線一つで意識を奪われてしまうではないか。
『貴様、いつまでこの国に留まるつもりだ? もしや腰を落ち着ける気か?』
『捜し物の手がかりが見つかればいつでも旅立つ。だから期限は判らん』
街道の果てを踏破してなお歩みを止めぬのはそのためか。手を伸ばせば容易く王国で名を馳せることができるだろうに。変わった男だ。
『その捜し物とかいうヤツはなんだ? 見聞きしてすぐに判るものなのか?』
失せ物捜しをしているというなら、その手がかりを見つけてサッサと旅だってもらおう。そうでなければ、この男はいつまでも王国に留まるに違いない。
『三百年前に故郷から持ち出された宝だ。“狼牙”と呼ばれる太刀だがな』
男の横顔が俄に厳しくなった。そこには何か手がかりらしきものは掴んでいる苛立ちが伺える。何も手がかりがないのなら、こんなにピリピリしたりはしないはずだ。この国に留まっているのは、その手がかりがあるからか?
もし捜している太刀がこの国にあるという確信があるなら、男はその手がかりを掴むまでポラスニアを出ないだろう。となると、炎姫公女の意識の端には常にこの異邦人がいることを念頭に置いて行動しなければならなくなる。
なんと厄介なことか。手がかりをちらつかせて、この地から追い出すにも難しそうだ。確証が掴めぬ限り、この男の眼を誤魔化すことはできそうもない。
『その捜し物が見つかったらどうするんだ? 何か目的があるのか?』
男の厳しい表情が一瞬だけ揺らいだ。それまで内心を吐露することなどなかろうと思っていただけに、その揺れはジノンの眼には奇妙に映る。
『宝を取り戻して故郷へ帰還した上で、やり遂げねばならんことがある』
黒々とした瞳に昏い光が点った。常に平静な男には珍しい荒れが表情の片隅に去来する。その様子をジノンは息をひそめて見守った。
『故郷に帰り、やり遂げることとは何だ?』
一族から追放され、長い年月を彷徨う男が帰還を許される唯一の道が失われた宝の奪還であるならば、それを取り戻した後に待っている、やり遂げるべきこととはなんだろう。そこにはよほどのことがあるに違いなかった。
『それを聞いてどうする? おれがやるべきことは他人には関係ない。おれ自身が知っていればいいことだ。……誰にも邪魔はさせないぞ』
怨念とも呼べる想いをその声の底に感じる。気軽に触れれば手ひどい火傷を負いそうな、あるいは鋭い刃で斬りつけられそうな、鬼気迫る感情が男の全身から溢れてきた。強い執念は弱みに繋がることに気づいていないのか。
ジノンは肩をすくめてやり過ごすふりをしながら、この狂気は利用できるかもしれないと思案に耽っていた。
男に「何か聞いたら教えよう」と請け負い、彼は今後のことに思い巡らす。己に有利に動くには、果たしてこの男の感情をどう利用しようか、と。
王宮の水姫家に宛われた区画へと戻ったラシュ・ナムルを迎えたのは一人の男だった。長身で童顔ながら貴婦人たちの眼を惹く美男子として知られるナムルに引けを取らぬ、眼許涼しげな美貌の持ち主である。
がしかし、一見すると中性的にも見える外見ながら、貼り付いたような微笑みは不気味なほど人の温みを感じさせない冷酷さを伺わせた。
「おや、ハミト。戻っていたのか。お前がここにいるということは、ルネレーでの首尾は上々だと思っていいのかな?」
「はい、閣下。かの国の宮廷は水面下で真っ二つに割れております。大公閣下の目論見通り、新国王と宰相との溝は深うございますよ。どちらも少し叩けば埃が舞う身、互いの痛い腹を探るのに必死な様子です」
「であろうな。宰相の造反が成功したとはいえ、傀儡で立てられた新国王は倒された前国王の息子だ。父親を殺した男に操られるのは腹立たしかろうさ」
流れるような動きで寝椅子に腰を落ち着けた大公の傍らに、同じく滑るような早さでワインを差し出したハミトが楽しげに笑う。
「フェイダを残してきましたが、あの子も随分と楽しんでいるようです。この調子ですと、女を苛めるのが癖になるのではないでしょうかね」
微苦笑を浮かべ、ナムルはワインを舐めながらハミトを見上げた。
「あまり悪さばかりを教えるなよ。いざというときに使い物にならないのは困るからな。お前が仕込んでいるのなら間違いなかろうが」
「御意。……ところで、王議会での首尾は? エッラ卿にお聞きしましたが、姫をお披露目する準備を整えるそうですが?」
「あぁ、もちろん。事は上手く運んだとも。サルシャ・ヤウンの苦虫を噛み潰したような顔、お前にも見せてやりたかったよ」
銀の深杯を覗き込み、赤紫色の水面を揺らしながら、ナムルは可笑しくてたまらないといった風情で肩を揺らす。
「それは残念です。ですが、あの王子のことです。こちらの思惑を知った上で閣下の提案を呑んだのでしょう? 勝算はおありですか?」
「当たり前だ。なければ、こんなことをふっかけるものか。ハミト、私を誰だと思っているのだ。中央貴族どもなど蹴散らしてくれるわ」
勢いよく酒杯を干し、水姫公は天上に咲くと言われる玉花の花びら色をした瞳を閃かせた。亡くなった母親似の童顔が、このときばかりは狡猾に歪む。
再び酒杯を満たしながら、ハミトが水姫公の顔を覗き込んだ。切れそうに鋭い眼光が外見の柔和さを裏切る。それは殺戮者が持つ瞳だった。
「邪魔な者は始末しましょうか? 姫のお披露目をするなら余計な者はいないにこしたことはありません。血を流さずとも片を付けることは可能ですが?」
「目障りな者が出てきたなら考えよう。だが今のところ、中央貴族どもの縁者に用心しなければならぬ娘はいない。サルシャ・ヤウンは阿呆ではないさ。埒もない考えを吹き込まれた愚鈍な姫君など選ばぬよ」
受け取った深杯をゆらゆらと揺らし、ラシュ・ナムルはいよいよ口許をつりあげる。意地の悪い表情をしているというのに、その顔は悪戯を楽しんでいる子どものような無邪気さだった。それを見守るハミトの表情も崩れる。
「主立った名家の娘を期限付きで宮廷に出仕させ、未来の王の花嫁を選ばせようとはね。水姫公もお人が悪い。王太子殿下は押しつけられた気に入らぬ女ではなく、自ら選んだ娘を伴侶として扱わねばならぬというわけですから」
背筋を伸ばしたハミトが設えられた暖炉の傍らへ歩み寄った。火掻き棒で炎の具合を確かめ、数本の薪を足すと弱まっていた火勢を奮い立たせる。やはり流れるようなその姿を、ナムルはワインを舐めながら眺めていた。
「ハミト、巡検使の局はどうなっている? 炎姫家も黒耀樹家も巡検使に新しい動きは見られたか? 特に炎姫家のほう、砂漠とのやり取りに何か新しい動きがあれば、すぐに報告をするよう言ってあったはずだが」
振り向いた男が小さく首を傾げ、僅かに頷く。その仕草に水姫公の眼が光り、思わずといった動きで寝椅子から身を起こした。
「具体的な動きはまだ見えませんが、イコン族の者が炎姫公に通行許可証の発行を求めたそうです。彼らは大河を遡上し、この王都に入ったと。今朝、遅めの船便で到着しているでしょう。少し出遅れましたか?」
出遅れたか、と訊ねているのはハミト自身の動きのことだろう。ナムルは首を振って否定すると、顎を指で撫でさすりながら考え込んだ。
「イコン族の目的を探ってみるか。黒耀樹家のほうはご当主殿と女狐との血生臭い争いが始まるから、しばらくは様子見だしな。アジル・ハイラーに直接繋がらなくとも、イコン族の動きが何かのきっかけになるやもしれん」
その大公の言葉を受け、ハミトが仰々しいほど大袈裟に腰を折る。それは芝居がかった立ち振る舞いであった。
「早急にイコン族の動向を探ります。砂漠では手出しが難しくとも、この都に出てきているのならやりようはいくらでもありますからね。炎姫家との確執が見られましたらすぐにでもお知らせしましょう」
ところで、と声を潜め、ハミトが寝椅子の傍らに片膝をつく。ナムルは部下の口許に耳を寄せ、その囁き声に聞き入った。
「エッラ卿に姫の世話係をさせておいでのようですが、そろそろ引き離したほうがよろしいのでは? これからは貴族の揚げ足取りも懸念せねばならぬ時期に入ります。余計な詮索をされて面倒なことになっては……」
「判っている。あの娘は無邪気な毒だ。エッラのように情に厚い性質の者はその臭気に犯されて禁を破りかねん。姫の素性を隠すために隠密に事を運んではきたが、これ以後、姿を明らかにするとなれば他の者に世話をさせる」
出来ることならお前に頼みたかったのだがな、と水姫公がぼやく。そして杯を額に当て、ハミトを流し見ながら苦笑いを浮かべた。
「人選をどうしようかと今から頭が痛いよ。エッラがもう少し保ってくれたら言うことはなかったのだが、そろそろあれも限界のようだしな」
「業深い姫と面識を得たエッラ卿もお可哀相な方です。今後の世話係は姫君の能力のことを考えて僧院出身者になさったほうが、かの王家の方々の受けもよろしいのでは? 今回の戦で不名誉を被ったこともありますから、水姫家縁の僧院なら諸手を挙げて引き受けると思いますが」
酒杯を半分ほど飲み干し、ナムルは再び口の端を持ち上げる。ハミトの意見が気に入ったらしく、苦笑の代わりに浮かんだ笑みはふてぶてしかった。
「魔人族の修士か修女を当たろう。しかし、我が家が僧院の者を王宮に引き入れれば他家も神殿関係者を招き入れような」
「聖界が政治に口出しする機会を与えることにご懸念がおありですか?」
「足許をすくわれぬよう監視しておかねば。神官どもを政界から排除して数十年、奴らも奴らと結託している中央貴族どもも、せっかく巡ってきたこの機会に中央の権力を掌握したいと望むだろうからな」
忍び笑いを漏らし、水姫公は杯の底に残ったワインを揺らす。さざ波立ち、滑らかな波紋を広げる水面を、ナムルは緩やかに瞬きして見入った。
「神殿の上層部は腐敗しています。膿を出しきる良い機会になりましょう」
頷き、大公は酒杯を干す。それは勝利の祝杯に酔うているように見えた。
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