混沌と黎明の横顔

第04章:風神の結晶 3

 薄暗がりの中でゆらゆらと空気が踊っていた。岩肌に背を預け、両足を投げ出した格好でぽつねんと独り座る人影がある。まだ子どものようだ。すり切れたマントを身体に巻き付け、俯く白い顔は泥で汚れている。
 その子どもが不意に肩を揺すり、ゆっくりと顔を上げた。半眼に開いた瞳は緑柱石の深い光を放つが、引き結んだ唇には血の気がない。
「転移の術を覚えたのか。随分と力をつけたな。……俺を呼びに来たということは状況が動き始めたんだろ。思ったより早かったが」
 どこに向かって語りかけているのか。と、見つめる先に、子どもより更に小さな影が舞い降りた。しなやかな動きで四つ足を動かし、優雅に尾を蠢かす様には気品がある。しかし、その姿はあくまでも獣のものだった。
 にゃぁお、と一声鳴いて、子どもの前に端座したのは赤毛の成猫である。
「主人を迎えに来たにしては身軽じゃないか。もっとご大層に迎えに来い」
 立ち上る空気を弄ぶように揺れる尾がピタンと岩床を打った。なにを戯れ言をほざいているのか、と叱責するような鋭い動きである。
「あぁ、うるさい。ガミガミ言うな。一度手放した青水晶を召還したんだぞ。もう少しくらい休ませて欲しかったんだがなぁ。せめて輿を用意するくらいの手厚いもてなしがあってもいいじゃないか」
 尾が今度は二度、岩を打った。やはり咎め立てているように見える。苦く口の端をつり上げ、子どもはぎこちない動きで膝を引き寄せた。どこか痛むのか、焦げ茶の前髪から覗く眉が小さく痙攣する。それを猫が見守っていた。
「やれやれ。やはりもめ事が起こったか。オルトワの奴、こういうときだけ俺を使うか。……あぁ、判った。青水晶の具合も気になるからな。ちゃんとつき合ってやるさ。竜王人ドルク・リードをのさばらせておくわけにもいかん」
 マントを広げ、足下の猫を手招きした指の動きは身体のぎこちなさが嘘のように滑らかである。未だ顔色は悪いが、眼光の鋭さは燃え上がる篝火のように激しさを増してきた。猫が俊敏な動きで小さな肩に飛び乗る。
「さぁて、行くか。俺の仕掛けに誰が喰いついてくるか楽しみなことだ」
 猫のように子どもが喉を鳴らし、眼が細められた。ところが、そのふてぶてしい声が不意に飲み込まれ、刺すような鋭い気配がマントの裾を揺らす。
「俺の結界に忍び込むために俺の眷属の道を利用したか。こそ泥の真似事をするとは、よほど余裕がないと見えるな。……出て来いよ、なぁ?」
 口調の横柄さとは反対に表情は苦虫を噛み潰したようにしかめられていた。
 先ほど赤毛猫が出現した辺りの空気が歪み、緩やかな渦を巻いている。それまで揺れてはいても無風だった空間に微風が吹き始めた。肩に乗る猫の髭が揺れ、子どもの焦げ茶の巻き毛が蛇のごとくうねる。
彷徨い人ファーン。頼む、手を引いてはくれぬか。我らは獣人たちと事をかまえたくはないのだ』
「ハッ! 何を今さら。仕掛けたのはそちら側の者ではないか。俺たちを虐げ続けた側が今になって手を引けと? 手を引くならそちらが先だ。銀姫アジェンティアに言うがいい。お前が手を引くなら俺も手を引いてやるとな」
『かの姫は今度こそバチンの後始末をつける気でいる。再び同じ悲劇を繰り返す気はない。下天から手を引け、ファーン。邪魔をするならお前たち諸とも血脈を断たねばならん。お前にも竜王人の血が混じっていようが』
「ふざけるな。混血だというのなら、俺もお前も、下天で生きる人間も、すべてが混血児ではないか! 血の濃い薄いをあげつらって選民意識を振りかざすな。大地に粛正の嵐を落とすというのなら、俺は逆らい続けてやる!」
 吹きつける風に嵐の匂いが混じり始めた。雷電の青光りが歪みより舌を伸ばし、ファーンとその眷属を青白く浮き上がらせる。
『愚かな……。傲慢さを自信と勘違いしてはおらぬか? 己の不始末にけじめをつけようというのだ。それを黙認せよと言っているだけのことにめくじらを立てるな。我らが争っても無意味なことだと気づかぬのか』
「下天に干渉せぬとの約定を破ったのはどちらだ。バチンが人の前に姿を現した以上、俺たちは俺たちのやり方で始末をつける。竜王人の指図は受けん。それに、交渉するには遅すぎたぞ。もう青水晶の絆は結ばれた」
『なんと……! 早すぎる。結界が融合するには今しばらくの時間がかかるはず。お前はいったい何を施したというのだ!』
 ファーンの口許が陰惨な形に歪んだ。秘石色の緑の瞳は嵐の源を睨み、そこから迸る静かな怒りをも差し貫くかのように輝いている。いよいよ風は強くなり、羽織ったマントは船帆のごとく大きく孕んだ。
「さぁな。人の意識は変わる。お前の秘蔵っ子がどう働きかけるかで結界が紡ぐ模様も様々だ。もはや俺の手出しだけで事態は収拾せんわ」
『ファーン! 青水晶の結界を解け。完全に融合を果たしたら、あの子は……』
「あれの意志を尊重して手放したのだろうが。どの面下げてほざくか」
 小さな掌が頭上に掲げられる。真っ直ぐに伸ばされた指先がこの者の意志を示すかのようだ。子どもの体格だというのに、歪み渦巻く異界の口に対峙する姿は嵐を収めんと立ち上がる風神のごとき威厳があった。
「所詮、お前は時守の子飼い。隷属するしか能のない下僕にすぎん」
『境界線を侵犯する気か、ファーン! バチンが放った魔と歪みを回収せぬ限り、下天に平穏など訪れん。干渉するな。早く青水晶の結界を解け!』
 悲痛な呻き声が岩肌を滑り、彷徨う木霊こだまのごとく虚ろに響く。
「融合が完了したなら後は滅びへの転落が始まるだけよ。それがどうした。俺は青水晶の使い道を指示してはいない。どう使いこなすかはあいつら次第。お前にも銀姫にも、手出しはさせん。我が怒りを買う前に退け、無礼者めが!」
 渦の歪みは広がり、舌なめずりする雷電はさらに青白さを増した。マントは黒き翼のように羽ばたき、千切れそうになびく巻き毛はさしずめ風切り羽を思わせる鋭さである。肩で丸まって難を避けている猫が雛鳥を連想させた。
『返せ……。あの子を返せ! 我らが再び、あの子に生を与える。お前たちが勝手に魂の船を操るなど断じて許さん! 結界を解け、ファーン!』
「断る。悲嘆に暮れるふりをするのはよせ。最初にあれを見捨てたのは誰だ。不信を植え付けた手の慈悲など、偽善でしかないと思い知れ!」
 勢いよく振り下ろされた腕が真っ直ぐに渦へと向けられる。ぐにゃり、と腕の周囲を取り巻く空気がねじれ、一直線に渦の中心へと突進していった。
「サッサとお前の主人の許へ帰れ。俺にかまっている暇があったら、銀姫の勘気を解く算段でもすることだ。俺は人に最後の選択を委ねるぞ。それがどんな結果をもたらそうと、お前たちが差し出す見せかけの平和よりマシだからな」
 獣の悲鳴に似た軋みが渦の中心から響く。青白い雷電は力を失い、風の勢いは休息に萎えていった。クシャクシャにもつれた前髪の隙間から、ファーンは油断なくその様子を観察する。肩に乗る猫が優雅に毛繕いをしていた。
『ファーン……ッ! 私は諦──』
 歪みが掻き消える寸前、細く糸を引くような絶叫が空気を震わせる。それを聞き届けた者は、再び苦々しい表情を作り、鋭く舌打ちした。
「お前はバカな奴だよ、ハイン。銀姫に従属している以上、お前に勝ち目はないと判っていて俺の所に乗り込んでくるなんてな」
 熱心に毛繕いしている猫が一瞬だけ動きを止める。が、すぐに尾を揺らしながら己の毛並みを整えることに腐心し出した。
「相変わらず口出しだけは一人前だな、お前。あぁ、そうだ。俺が親切心だけで青水晶を預けるわけがないだろ。監視の眼を緩める気なぞサラサラない」
 猫が狭い肩の上で伸びをする。そして居心地よく座り直し、のんびりと一声鳴いた。ゆうらりゆうらりと動く尻尾が鎌首をもたげる。
「奴らはバチンのばら撒いた欠片を回収し、アインをも引き戻した後に次元を崩壊させる気でいる。時守の力ならすべてを無にかえせるからな。だが、そんな暴挙を許すわけにはいかん。いかにバチンに腹を立てていようとも」
 肩に乗っていた猫を一撫でし、ファーンは奇妙な笑みを口許に浮かべた。そしてマントの裏から一掴みの紙束らしきものを引っぱり出す。掌に握ったそれを一枚一枚繰り、その中から数枚の紙片を取り出した。
「俺の予見よみが当たるか外れるか、とっくと見届けさせてもらうさ」
 器用に肩に腰を落ち着けていた猫が前脚の一本を子どものふっくらした頬に押しつける。グリグリと押さえるたびに、ファーンはしかめっ面になった。
「お前な、主人の顔になんて真似をするんだ。こんな小綺麗な顔なぞ欲しくはなかったが、だからって手持ちの顔を崩して欲しいとは思わんぞ」
 紙束を握ったほうの手と反対の腕で猫の首根っこを捕まえ、宙づりにする。ぷらんぷらんと尾を揺らしながら、赤毛猫は脚をばたつかせた。
「あー、もう。うるさいな。お前の恩人には少し手を貸しただろ。兄弟石は引き寄せ合うが……って、それが青水晶の効能なんだ。あの石の片割れは──」
 みぎゃあ、と猫が不満を訴える。それを半眼で睨んだファーンだったが、猫のほうも負けてはいなかった。一人と一匹は顔を突き合わせて睨み合う。しかし、そのうちに子どもの口から小さなため息が漏れた。
「判ってるなら俺に説教なんぞ垂れるな。俺とて全能じゃない。そのときそのときの最善を選択しているだけだ。生死を分ける選択を予見し、それを伝えることはできても、防いでやることはできないんだぞ」
 今度は猫を頭の上に放り上げ、ファーンは数枚の紙片を目の前にかざす。よく見れば、それは羊皮紙を刻んで作られた絵札だった。
 裏打ちされた薄削りの木片を指先で撫でながら、羊皮紙面に描かれた絵図を見つめる瞳には、なんとも名状しがたい複雑な光が浮かんでいたのである。




 ピリピリと痺れたように緊張している空気が渦巻いていた。腕の中に収まるむつきを抱きかかえたまま、彼女はゆっくりと頭上を見上げる。静かな視線はどこか遠くを見つめ、その内心を覆い隠していた。
 突如、引き絞った弓弦の軋みに似た音と共に空間が裂ける。転がり出てきたものは、きりもみ状に捻れながらそれを見つめる彼女に向かって落下した。避けようという気がないのか、ひたと視線を向けたまま微動だにしない。
 暗緑色の瞳は澄み渡り、仰向けたおとがいの滑らかな白い線を露わにした横顔は冴え冴えと輝く水晶を連想させた。硬質な冷徹と朧気な孤高、それらを具現化したならこのような姿を取るのかも知れない。
「愚か。彷徨い人と事をかまえて無事でいられるはずがないでしょうに。彼らは猛き神々の寵を受けた一族。風と炎に身を浸す我らの縁者なれど、決して惑うことなき異端者だというのに。心臓を射抜かれなかっただけマシだったわね」
 むつきに添わせていた片腕を頭上に掲げ、彼女は花のごとき可憐な口唇を尖らせた。まるで天に向かって接吻を送るかのような姿勢である。
 がしかし、次の瞬間に白い喉が小さく震えると、細められた唇から矢のように鋭い突風が吹き、落ち来る存在に直撃した。落下速度を増していたそれは、噴き上がった空気の流れに押し戻され落下点を狂わせる。
「わたしに黙ってオイタをした罰よ。少し痛い目をみなさい」
 興味を無くしたのか、彼女は腕の中のむつきに意識を戻した。眠る赤子を愛おしむように緩やかな微笑みを浮かべる。そのすぐ脇、ゴツゴツとした岩肌が凄まじい衝突音を響かせて砕け散った。
 掌で飛散する破片を防ぎ、彼女はそっとむつきに頬ずりする。我が子を抱く母親のごとき優しい仕草であったが、横目で落下物を見おろす視線は冷たく、その態度はまるで異物を観察する学者のようだった。
「ハイン。わたしはあなたに繭を守り、下天に出向いている者たちを統御するようお願いしたはずだけど? どうしてわたしの結界を突き破って落ちてくるのかしら。……しかも、放浪者ファーンの匂いをぷんぷんさせて」
 瓦礫と化した岩の下で白い鱗が震えている。苦痛の呻き声と一緒にのたうつ金属的な鱗の輝きが眼に痛いほどだ。自らが破壊した岩の下敷きになったまま、ハインは主人の冷たい問いかけに身を縮めている。
銀の娘アジェンティア。結界が、ファーンの青水晶の結界が……』
聖なる息子ル・オルグを隔離する結界ね。それとは別にアインにも結界が張られているから今は躍起にならなくてもいいわ。先走りすぎよ、ハイン」
 呼吸するたびに鱗が鈍く光り、小さく砕けた岩の破片がボロボロと崩れ落ちていった。打ち所が悪かったのか、なかなか起きあがろうとしない。
「アインがどれほど拗ねても、わたしたちの掌中から抜け出すことは不可能よ。あの子には選択肢など用意されていない。そう思わない? 選択するのは常にあの子の主人。あの子はその選択を容易にするための助力だけ」
『そう仕向けた我々を、あの子は恨んでいるだろう。それなのに選択肢なきが故に我々を完全に拒否もできんときている。それに加えて尚もあの子を苦しめようというのか、アジェンティア。我々の行ないは本当に正しいのか?』
 苦しげな呼吸が繰り返され、その合間にため息のように細い声が返ってきた。
 むつきを揺すって腕の中の存在をあやしていた女は、その戸惑う声に動きを止める。そして、微苦笑を浮かべながら脇に埋もれる存在を見おろした。
「わたしたちから見れば正しい選択でも、アインやファーン、下天に棲む者からしたら違うでしょうね。でも、彼らが望むものが正しいとは限らないわ。誰もが己が望むものが正しく、そうではないものは間違いだと思うものだから」
『アンディーンに回収を命じたもの、あれは本当にバチン一人でばら撒いたと思うか? 完成させるまでの労力を考えるととても一人では……』
「彼女には時間が有り余っていたはずよ。本体こそ封印されていたけど、幻体そのものは意志力さえあれば動かせたのだし、魔術を操るのも彼女ならわけないでしょ。同軸に多在できた荒技もやってのけたくらいだもの。一人で充分よ」
 彼女から淡い苦笑は消えることはない。ぬめるように光る鱗が身震いするように揺れると、女の視線は反らされ、腕の中にいる存在へと引き戻された。
『人は今回の争乱を忘れるだろうか? それとも異形を狩るだろうか?』
「しばらくの間は憶えてるでしょうね。でも、いずれは忘れるわ。以前もそうだったようにね。異形狩りは、わたしたちのところまでは届かないわ。今回は宝馬ほうまはいないのだから」
 もぞもぞと岩の破片が蠢き、鱗がうねりながら蠕動する。それを横目に眺めながら、アジェンティアは小さく子守唄を口ずさんだ。
『ジャムシードはホーマになり得る。彼がホーマのように異形狩りに加わったら、我らはアインの主人と闘うことになるのだぞ』
「無理ね。宝馬には皐月野さつきのがいたわ。でも彼には“サツキノ”に匹敵するものがない。獣人並の身体能力もなく、わたしたちに刃向かう気概もない。敵足り得ないわよ」
『青水晶の存在を忘れている。ファーンはあれに過分な魔力を注いでいるぞ。あの石の兄弟石が共鳴し始めたら、彼は己を確立する力を得るに違いない』
 チラリとアジェンティアが隣に視線を向けると、瓦礫から姿を現した巨竜が身体の節々を伸ばしているところであった。寝起きの動物に似た仕草であったが、彼女の視線に微笑ましげな印象は欠片もない。
「なるほど。わたしが手を下すのが先か、ジャムシードが核を御するのが先か、これから競争することになるのね。バチンの幻体もまだ幾つか取りこぼしがあるし、彼が核を御せないようなら無理にでも回収したほうがいいかしら」
『そんな……! それではジャムシードの命運も尽きてしまう。いくらなんでも、そのように性急な真似をせずとも彼をここに呼び寄せればいいだろう!』
 大きな翼を小刻みに震わせ、白い竜は身悶えるように叫んだ。それは痛みにのたうち回る姿に似ていて、なんとも言えない不安を煽る。
「そう言葉巧みに彼を誘ったわけね。ファーンの青水晶、古王の剣柄、狩人ファレスとル・オルグの核、そして注がれた膨大な魔力。よく今まで生きてるわね。普通の人間ならとうの昔に参ってしまってるのに」
『それはっ! アインが手助けをしておるから、かろうじて保っていると……』
「いいえ、ハイン。ねぇ、あなた、わたしに黙って出掛けたのは今回が初めてではないわよね? ジャムシードに逢って、何をしてきたの?」
 ギクリ、と空気が硬直した。しかし、竜から返事はない。それを予測していたらしく、アジェンティアは冷笑にも似た皮肉げな笑みを口の端に刻んだ。
「いいわ。あえて訊かないことにしましょう。彼がノコノコとわたしの前に現れたなら、目の前に引き据えて核を奪えばいいのだし」
『アジェンティア。まさか本気で言っておるのか!?』
「あら、本気よ。アンディーンに命じた回収品を処分するのと同じことだもの。残っているバチンの幻体の残像だって見つけ次第始末するわ。そうしないと時空の比重が傾いてしまうかもしれないでしょ。迷ってる暇はないの」
 そんな無謀な、と呟く竜の口許を見上げ、アジェンティアはふんわりと眼許を緩める。日溜まりのような優しさであるが、まとっている空気は厳しかった。
「彼女と接触したときに記憶をこじ開けて覗いたのを忘れたの? 本来なら複数名が関わるべき核の育成に、バチンはたった独りで関わったのよ。どんな歪な存在が出来上がっていると思ってるの? 彼女が作り出した新たな核は確実に処分しなければ。そのためなら少々の危険は覚悟の上よ」
 竜は口ごもり、身体を神経質に揺らす。内心の苛立ちを如実に表す動作であったが、それを無視してアジェンティアは立ち上がった。
「さぁ、そろそろ移動しなければね。しばらく留まっていたから、バチンがここを嗅ぎつけてくる頃合いよ。いったい全体、幻体をいくつ作り上げたのかしらね。際限なく追いかけてくるわ。諦めが悪い人よねぇ」
『アジェンティア! どうでもよさげに言うが、バチンに捕まりでもしたらどんな目に遭わされることか。アインの本体だけでも隔離して……』
「厭よ。この子は渡さない。わたしだけではバチンの餌には不十分。わたしとこの子が一緒にいるからこそ、バチンは下天での悪さを置いてまで追いかけてくるのだから。わたしの時間稼ぎを無駄にしないでちょうだいね」
 ヒラリと軽い衣装の裾が舞い、女の白い足首が覗く。淡い色のつま先が不格好な岩を蹴ると、柔らかな体が虚空に浮き上がり、整えられた絹糸のように滑らかな銀髪が流れた。巨竜を見つめる暗緑色の瞳が悪戯げにひらめく。
「あなたのほうこそ、バチンに捕まって拷問を受けないよう気をつけなさい。あなたの口からわたしの真名ルーン・ガルドが漏れでもしたら、とんでもないことになるのだから」
 だったら一緒に繭の中に避難すればいい、と呼びかける白い竜に笑いかけ、女は再び虚空を蹴った。さらに浮き上がった身体が緩やかな弧を描いて虚無の空へと消えていく。それを岩山の上で、竜は為す術もなく見送っていた。
「あなたにも再び見せてあげたいわ、アイン。ここに広がるこの景色を。早くわたしの許にいらっしゃい。あなたの主人を連れて。そのとき、彼がどんな選択をするのか、どんな結末を望むのか、あなたは予測しているのかしらね?」
 さぁ、バチンを封じた場所に近づいてきたわ、と呟きながら、彼女は髪を掻き上げる。愉悦に浸る声音であったが、微笑んだ顔の中で瞳が鋭く光った。
「バチンは気づかない。……自分の本体がすぐ足許にある現実を」
 忍び笑いを漏らしながら、アジェンティアは腕のむつきを抱く。ゆっくりと眼下へと吸い込まれていく彼女の横顔はどこまでも鮮烈で澄み渡っていた。