この街の商神講の賑わいを初めて眼にした者は、足の踏み場もないほどの大広場の露天商店に立ち尽くすだろう。
「ハウラ=ジロー・タケトー。待ってください。人いきれで眩暈がして……」
タケトーは手を握る相手の顔を覗き込んだ。この国独特のシャーフと呼ばれる男物の被り物が相手の顔を覆ってはいたが、隙間から覗く目元に深い疲れの色が浮かんでいるのが見え隠れしている。
「すみません。こんな日にあなたを連れ出したのはまずかった。……あぁ、ひどく顔色が悪い。あちらで休憩を。路地に入れば空いている店もあるはずです」
この国にやってきて以来、毎日の日課にしている早朝の散策ついでに広場の市を眺めるのが、タケトーの気に入りとなっていた。が、今日ばかりはその習慣が徒になっている。ここ最近、彼と一緒に街を歩くようになった若者にはこの大市の人出は苦痛以外のなにものでもないようだった。
「こちらへ。足下に気を付けてください。スリもいますから、手を離さないで」
若者を背負えたなら楽になるだろう。しかし、東方人の彼は王国人よりも背が低く小柄だ。背負えても無事に人混みから連れ出すことは不可能である。
人の流れに逆らわぬよう移動しながら、タケトーは巧みに路地の一本へと滑り込んだ。若者の息は荒く、顔色はいよいよ土気色に変色している。
「あそこに茶屋があるようです。もう少しだけ頑張ってください」
声もなく頷く若者もやっと一息つけて安堵したようだった。強張っていた肩から力が抜け、今にも崩れそうな膝を励ましてゆっくりと歩き出した。
人通りが減った横道を並んで歩きながら、タケトーは周囲を素早く観察する。大広場に近い路地であるから、それほど治安は悪くないはずだ。が、買い物客狙いの物盗りに遭遇することもあって油断できない。
店の扉を身体で押すようにして転がり込むと、タケトーは亭主に心付けを多めに払って上席を用意させた。金回りの良い客だと判断されたか、それとも気分の悪い連れに同情したか、ストーブにほど近い居心地のよい席が空けられた。
「温かい飲み物を。それから冷たい水を入れた器と手巾を数枚」
貿易商で旅も多く、タケトーは多少の医術の心得がある。彼の物腰から何かを感じ取った亭主は給仕女に指示を出し、注文品を手ずから持って戻ってきた。
「旦那。差し支えなければ上階の部屋を使っては? 手をお貸ししますよ」
亭主の好意に甘え、タケトーは若者を促して二階へと上がった。
「生憎と部屋は大部屋しか空いてないんで。先客がいるのは我慢してください」
亭主が率先して宿泊用と思われる部屋の扉を開ける。人の良い丸顔が室内をキョロキョロと見回し、先客の様子を確認して安堵している気配がした。
「すまないけど具合の悪い人を休ませたいんでね。こちら側のベッドを使わせてもらうよ。坊ちゃんやお嬢ちゃんたちの荷物はこちらにはないね?」
奥のほうから返事をする微かな声が聞こえる。それを合図に、亭主は扉の奥へ進んでいくのを、一緒にタケトーも若者を支えてついていった。
意識こそあるが気分の悪さにグッタリしている若者をベッドに寝かせ、邪魔なシャーフを取り除くと、タケトーは手巾を冷水で絞り、若者の顔を拭う。次いで着込んでいた衣装を緩めて足下と腹にかけて毛布で覆った。
何度も冷たい手巾でこめかみや額を拭っているうちに眩暈が落ち着いたのか、若者が小声で「すみません」と呟いた。
「謝罪するには及びませんよ。色々と考え込んでいたでしょう? 根を詰めて思い悩んでは駄目だと申し上げたのに。喧噪と憂鬱で気が参ってしまったんですよ。……ほら、温かいものを飲めば落ち着きますから」
亭主から受け取った器にはほんのりと柑橘類の匂いが立ちのぼる白湯が揺れていた。気を利かせた給仕女が湯にレモンか何かの絞り汁を入れてくれたのだろう。ささやかな芳香は若者の身体を解してくれたようだった。
「すみません。ご迷惑ばかりおかけして。何もお礼など返せないのに……」
「誤らなくていいと言ってるでしょうに。そういうときはありがとうと言うのですよ。あなたは何も悪いことはしていないのですから」
忙しい階下が気になるのだろう。亭主は若者が落ち着いたと見ると、相部屋になった先客に声をかけて出ていってしまった。
「あの……もう、大丈夫なの? まだ気分悪い?」
背後からかかった幼い声にタケトーが振り返ると、稀にみる美麗な容貌の少女が心配げに立っていた。両手に革袋を握りしめ、小首を傾げる様子は愛らしい。故郷にいる子どものことを思いだし、タケトーは思わず微笑んでいた。
「大丈夫ですよ。少し眩暈がしただけですから。心配してくれてありがとう」
「あの、これをお湯で煮込んで蜂蜜を入れて飲んで。よく効くから」
少女が差し出した品は乾燥させた生姜だった。幼い少女が常に持ち歩いていることにも、簡単な療法を心得ていることにも驚かされる。
「ありがとう。でもそれは大事な品でしょう? お代を払わねばなりませんね」
「いいの。眩暈がして気分が悪いんでしょ? だったらこれがいいと思うの。本当は生の絞り汁がいいんだけど、乾燥しているものでもないよりマシだし」
生姜は寒さに強くない。故郷では年に一回、霜が降りる前に収穫していた。
王国でもこの時期に出回るのは乾燥させたものがほとんどで、生のものは貴族などの上流階級者が持つ室で保管されている類しかないはず。
「あなたは医術の心得があるのですか? まだ若いのに大したものだ」
「いじゅつ……? ナナイのお手伝いをして憶えただけよ?」
「なるほど。門前の小僧ですか。では、ありがたく頂戴しましょう」
瞬きする少女の瞳を覗き込み、タケトーはそこに泣いた跡を見つけた。部屋に入るときに亭主が室内の様子を伺っていたのは、彼女が泣きやんでいるかどうかを気にしていたのだろう。珍しい朱茶けた瞳はまだ少し潤んでいた。
「もんぜんのこぞうってなぁに?」
「東方の諺ですよ。正確には“門前の小僧、習わぬ経を読む”と。意味はね、いつも聞いたり見たりしていれば自然に覚えてしまうことを言うんです」
少女の後ろで少年が二人、このやり取りをハラハラしながら見守っている。王国人の年齢はよく判らないが、十代半ばと前半らしき少年の表情には使命感のような決意が滲んでいた。もしかしたら名のある家の娘かもしれない。
少女の手から乾燥生姜を受け取り、下で生姜湯を作ろうと立ち上がった。
「さて、では早速用意しましょう。あぁ、ついでに熱い湯で身体を拭けるようにしましょう。厭な汗を掻いたはずですから、さっぱりしたいでしょう?」
「首と背中を揉んであげるわ。もっと身体が楽になるはずよ」
タケトーが止める間もなく少女がベッドによじ登り、若者の背に手を伸ばす。頭と肩だけ起こして白湯を飲み、反対の手で目元に手巾を当てていた若者がぎこちなく首を巡らせた。布の端から若者の瞳が少女を捉える。
「ジュペ! そんな気安く知らない男に近づいていっちゃ駄目だって!」
年かさの少年が叫ぶのと若者の顔を覗き込んだ少女が息を呑んだのは、ほぼ同時だった。少女の異変に少年二人も若者へと視線を転じ、唖然と立ち尽くす。
「おと……う、さ……ん?」「嘘……。ジャムシード……?」
少女の動揺に今度はタケトーのほうが驚いた。彼女は若者を父と呼んだのである。だが二十歳そこそこの若者と少女では親子として釣り合わなかった。
一瞬、場の空気が凍りつく。何を言われたのか判らず怪訝そうに眉をひそめた若者すら、少女や少年たちの困惑に巻き込まれて言葉を飲み込んだ。
「ううん、違う。……違うよ。似てるけど、違う。お父さんじゃない。お父さんよりうんと若いし。ねぇ、お兄さんは、誰?」
誰と問われても答えようがない若者が唇を震わせる。名乗る名すらない心許なさに揺れる彼の瞳の弱さに、少女の困惑はいっそう深まったようだった。
「お嬢さん。彼は記憶を失っているんです。自分が誰なのか、彼自身が聞きたいくらいでしょう。……あなたの父親は、そんなに彼に似ていますか?」
タケトーの言葉が意外すぎたのか、少女は口を半開きにしたままポカンとした表情でこちらを見上げる。そんな彼女を心配して、年かさの少年が駆け寄った。少女の父に似ていても知らぬ男の側に彼女を置くことに警戒している。
「そりゃあ別人だろうなぁ。ジャムシードならついさっきまでここにいたんだし。それにその人はジャムシードより年下だぜ? おいらが貧民窟で初めてあいつに逢ったときの年格好よりも若く見える。だけどさ、すげぇ似てるよ」
少々生意気な口調の少年が連れの二人の側へ歩み寄りながら顔をしかめた。同意するように少女が何度も頷く。年かさの少年だけが警戒心を剥き出しにして、タケトーとベッドの上に身を起こした若者とを睨んでいた。
「痛いよ、ガイアシュ。引っ張らないで。オーレンも見てないで助けてよ」
少女は無知なほど素直な性格らしい。彼女はガイアシュと呼んだ少年にベッドから引きずり下ろされた。その間もタケトーと若者とを交互に見つめ、可哀相、などと暢気に囁く。無邪気な少女の態度にオーレン少年が肩をすくめた。
「とりあえず、生姜湯なりなんなり作ってこようか? 駄賃さえくれりゃ、おいらが下で作ってもらってくるぜ。使いっ走りは慣れてるんだ」
タケトーの腕を若者が掴んだ。首を振っている。生姜湯を作るには及ばないらしい。少年があからさまにガッカリしていた。小遣いが欲しかったのだろう。
「薬湯は必要ありませんから、あなたのお父上のことをお聞かせいただけませんか? 吾はその方にそんなに似ているのですか?」
貰った生姜を高価な薬と勘違いして遠慮しているのかもしれない。いや、それ以上に自分の正体へと繋がる手がかりに若者自身が焦っているように見えた。
「彼は半月ほど前に館の前で倒れていたんです。衣装からも誰なのか判りませんでした。どうかその方に逢わせてくださいませんか?」
どうしたものだろう、と困惑している子どもたちにタケトーは言葉を重ねる。
「押し掛けていってご迷惑をかける気はないのです。その方がこちらにいらっしゃったとき、ご一緒させていただけないでしょうか?」
世話になる身で遠慮があるのか、若者は望みをあまり口にしなかった。そんな彼が望むことだ。彼の出自に関することでもあり、是非とも叶えてやりたい。
「うぅーん……。でもなぁ。ジャムシードにこんな年格好の身内がいるなんて、おいらは聞いたことないんだよなぁ。他人の空似ってこともありえるし」
「他人の空似だと言うのなら、それはそれでかまいません。今はどんな手がかりでもいいのです。彼が在るべき場所、在った場所を知りたいだけで。お願いします。ほんの少し、お話をさせてもらうだけでかまいませんから」
渋い表情をする少年たちを交互に見上げ、少女がコクリと首を傾げる。
「どうして? お父さんに逢いたいんでしょ? だったら一緒にいたらいいじゃない。別に悪いことをするわけでもないし、お話をするだけなんだから」
「あのなぁ、ジュペ。この人たちが善人か悪人かなんてオレたちには判らないだろ。それなのに勝手に約束なんかしたら……」
「判らないのに、どうしてお父さんに逢ったら駄目なんて言えるの? 話をするかどうかはお父さんに決めてもらおうよ」
さらに渋い顔をする年かさの少年に少女がしがみついた。
「だって可哀相じゃない。自分が誰か判らないんだよ? ねぇ、ガイアシュ。知ってるでしょ? お父さんも昔、伯父さんに拾われたときには記憶を失っていたんだって話。この人も一緒だよ。手伝ってあげよう?」
「別にジャムシードに逢うなとは言ってないって。オレが心配なのは……」
「じゃあ、決まり。お昼にお父さんが戻ってくるまで、この人たちと一緒ね」
少年は得体の知れない人物と一緒にいる今の状況そのものを心配しているのだと言いたいのだろう。しかし、少女には彼の真意が伝わっていなかった。
タケトーは苦笑いを浮かべ、ベッドの上で黙りこくっている若者を伺った。
「気分が落ち着いたのなら、一度館に戻って出直しますか? あの人混みの中を通っていくことになるので少々心配なのですが」
ハッとして顔を上げた若者が小さく首を振り、弱々しい微笑みを浮かべる。
「吾はここで休んでいます。あなたは戻られますか? それとも子どもたちと一緒に露天を楽しんできては? 彼らもここにいるだけでは退屈でしょうし」
タケトー自身は特別に見たいものがあったわけではない。むしろ子どもたちのほうこそ遊びに行きたいだろうと大広場へ言ってはどうかと水を向けれた。
しかし、彼の提案に少女が表情を翳らせて首を振る。父親と一緒に行くからと断ってきた。何か事情があるらしい。そう察し、タケトーは追及を避けた。
「そういえば、お兄さんのお名前はなんていうの?」
「そうそう、私としたことがうっかりして名を名乗っておりませんでした」
わざと今まで名乗らずにいたのだが、そんなことはおくびにも出さず、タケトーは猫を思わせる滑らかな動きで会釈する。
「我が名はハウラ=ジロー・タケトー。ギド商国の貴船主をしております」
順繰りに子どもたちを見比べた。その際、視線を合わせる都度に彼らの名を確認する。そして、最後に彼は再び少女へと視線を戻した。
「私はあなたより年上の子どももいるので、どちらかといえばおじさんと呼ばれる年齢です。無理にお兄さんなどと呼ぶ必要はないですよ」
あからさまに驚いている少年とは違い、ジュペは無邪気に微笑み返してくる。
「お名前を聞いたもの。おじさんなんて呼ばないわ。でも、はうら・じろーたけとーって長い名前ね。短くして呼んでもいい?」
「ではタケトーと呼んでください。ハウラは一族の名ですし、ジローは親族しか呼ばない習慣なのです。それなら短くて呼びやすいでしょう?」
素直に頷いた少女がガイアシュの制止も聞かず、再びベッドに近づいてきた。父親に似ているというだけで若者への警戒心をすっかり解いているらしい。
だが、少女がしきりと若者に話しかけている最中。明かり取りの窓が不意に陰ったかと思った次の瞬間、格子窓が派手な音と共に突き破られた。
顔を上げたタケトーの視界に映ったのは窓から次々と降り立つ人影。「何者か」と誰何しても、シャーフを目深に被った三名の小柄な侵入者は無言である。
ガイアシュが少女に駆け寄ろうと一歩を踏み出したのを合図に、タケトーは素早く子どもたちの前に飛び出した。だが、それを嘲笑うように狼藉者らが襲いかかる。襲撃者は腕が立つ者ばかりだった。
物盗りではなく最初から狙いは子どもらしい。身代金目的の人さらいか、子どもたちの事情によるものか。人目があるにも関わらず襲ってくるとは厄介だ。
背後から少女の悲鳴と少年の怒声が聞こえる。襲撃者の一人と揉み合っているタケトーには彼らの窮地をどうしてやることもできなかった。
子どもたちが逃げ回っている物音した。若者は無事だろうか。オーレン少年が助けを求めて廊下へ転がり出た。それを追う襲撃者の足音も。
それまでの和やかな空気は消え、混乱と恐怖が室内を支配していた。こんな修羅場は久しぶりで、タケトーは己の鈍った身体に舌打ちした。
背後の床に誰かが倒れた鈍い音が響いた。少年か連れの若者が倒されたのだろうか。振り返る余力さえない自分の腕前が嘆かれた。
ジュペを放せ、と絶叫するガイアシュの声と刃を切り結ぶ物音は聞こえるが、少女の声は聞こえない。たぶん気を失ったのだ。
タケトーは目の前のシャーフから覗く黒い瞳を睨んだ。背格好は自分とそう変わらない。腕力は向こうのほうが上だ。多少なりとも柔術を身につけてはいるが、組み合っている今の状態で互角でいられるのはそう長くない。
そして、組み合っているからこそ判る、相手の素性に思い至り、苦々しさを吐き捨てるように、相手の耳元に向かって囁いた。
「鴫鳴の九源体術。瀞蛾殿の雇われ者か」
相手の身体が一瞬だけ動きを止め、剣呑な視線を叩きつけてくる。
侵入者の黒眼は東方人のものだ。独特の視線の動かし方、体格、物腰。己の出自を見抜かれ、狩る者と狩られる者との立場が揺らいだ。
これ以上の動揺を突かれたくはなかったのだろう。組んでいた腕を振り解き、襲撃者は窓辺へと退いていった。逃げる気なのだと察し、タケトーは深追いは避けた。それよりも少年を援護してやらねばならない。
振り返ろうとした彼の脇を人影が駆け抜けていった。腕を伸ばしたが間に合わない。脇に少女を抱えた侵入者二人が窓に駆け寄ったところだった。
「待ちなさい! その娘をどうする気ですか!」
叫んだタケトーの頬の端を鋭い殺気が襲う。窓の薄日に反射した光が一直線に少女へと飛んだ。息を呑んだ彼の目の前で、ジュペを抱きかかえる腕に短刀が突き立つ。侵入者が苦鳴を漏らした。なんという投刃の腕前だろうか。
だが唖然している暇はなかった。少女の身体が床に転がる。今しかない。
タケトーはジュペに飛びつき、短刀を抜き取った侵入者から遠ざけた。
大勢の人間が駆けつける足音で廊下が満たされる。階下にいた亭主や客の男たちだろう。目的を果たすことが不可能だと判断した襲撃者たちは、次々に窓から身を躍らせ、侵入してきたときと同じく瞬く間に消え失せた。
廊下から駆け込んできた男たちが口々に無事を問う声が聞こえる。がしかし、今の騒動で疲れ果てたタケトーは少女を抱えたまま曖昧な返事しか返せなかった。捻挫でもしたのか、ガイアシュが足を引きずって近づいてくる。
「ありがと……。あなたたちがいなかったら、ジュペをさらわれていた」
意識を失っている少女の顔を覗き込み、少年は大袈裟なほど大きく肩の力を抜いた。大人たちの後ろから駆け込んできたオーレンが連れ二人の周囲を落ち着かない様子で歩き回っているのが、なんだかおかしい。
ガイアシュはジュペを抱き上げてよろけながらベッドに運んでいった。周囲の大人が代わろうと腕を伸ばしても、彼は断固とした態度で退けている。
大騒ぎしながら警邏の役人が呼ばれ、それぞれが事情を聞かれて、ようやく解放されたときには昼間近の時刻になっていた。
「タケトー? 大丈夫ですか? どこか怪我でも……」
連れに顔を覗き込まれ、タケトーはベッドに座り直して微笑んだ。疲れ切った今の状態でも笑みだけは絶やさぬのは、長年携わってきた商売人としての意地だろうか。それとも身体は疲れていても心はそうでもないからか。
「あぁ、私なら大丈夫。ところで、短刀を投げつけたのは……」
「吾です。すみません。咄嗟にガイアシュが落とした短刀を拾って投げたので」
頬すれすれに投げられた刃に文句を言っているのだとでも思ったのだろう。ひどく恐縮した態度で若者が項垂れた。
「別に怒ってはいませんよ。あの一瞬の間合いでよく判断できましたね。どうやらあなたは武術を何か習っていたようですよ。……良かったですね。これでまた手がかりが一つ増えました。ここから何か判るかも」
タケトーが笑みを向けると、若者は狼狽えて視線を逸らす。
「どうして益にもならぬのに親身になって吾の世話をしてくれるんです?」
「さぁ、どうしてでしょうね。私は別に親身になっているとは思ってないんですが。強いて言うなら、あなたがあまりに孤独に見えるからでしょうか」
己が何者であるか判らない孤独以上に、自らの作り上げた世界の中ですら迷子のような気配を漂わせる若者をなんとかしたいと思わせられる。
「仕事の合間の暇つぶしを探す輩のお節介。気が済むようにさせてください」
隣に座り込み、何も返せないのに、と囁く若者の手の甲を軽く叩き、タケトーは「では商売の手伝いでもしてください」と大きく破顔した。
前へ 次へ もくじ