混沌と黎明の横顔

第03章:彷徨える羅針盤 5

 議事従官との会議前の打ち合わせが終わり、サルシャ・ヤウンは書記室の外で待ちかまえていたソージンと合流した。
 ジャムシードたちが王宮の敷地から無事に抜け出したことは事前に聞いていたが、すぐにでもイコン族の少女とその連れの滞在許可証を発行すると思われた黒耀樹公の知らせはまだ手許に届いていない。
 いったい何をやっているのだろう。いつものナスラ・ギュワメならば、とうの昔に一仕事終え、余計なことでこき使われたとぼやいている頃合いだ。
「ソージン。本当にナスラ・ギュワメやその遣いの者に逢わなかった?」
「部屋に入る前にも言っただろうが。ウラッツェやその部下には逢っていない。おおかた許可証を手渡すのに手間取っているのだろう。今日は商神講ザンザ・ウーリで、人混みの激しさはお前も知っての通りだろうに」
 確かにその通りである。幼い頃から忍んで城下町に出向いては、庶民の暮らしを多少は垣間見てきた。月に一度の大市の人出は凄まじく、人捜しなどするには不向きな日であることくらい承知している。
 だが胸中がもやもやし、先ほどから警鐘を鳴らしていた。幼い頃からの経験で、ヤウンはこの直感が外れないことを知っている。
 朝早くに母の部屋で聞いた中傷を思い出した。今現在の黒耀樹家は現当主とその継母との間に確執が生じている。しかも前公妃は腹黒く何事かを企んでいる様子。もしや、あの女狐。早速、継子に何か仕掛けてきたのか。
 前公妃にナスラ・ギュワメが巡検使だったことを知られた以上、貴族連中に知れ渡るのも時間の問題。となれば、彼の個人的な諜報力は警戒心から半減する。出来れば、過去を知られることなく大公の任に就いて欲しかった。
 さらに問題なのが、当主本人が継母の排除には消極的で、未だに前公妃は水面下で黒耀樹家に影響を持ち続けていることだ。
「ギュワメもエルスも甘いんだよ。なんで二人がいがみ合わなきゃならないんだろ。判ってるくせに、あの女を野放しにしてるんだから腹が立つ」
「おれの耳にまで届いてるぞ、ヤウン。柱の陰に間者がいたらどうする気だ」
「君がそう言うってことは周辺に人影はないってことでしょ?」
 ヤウンは振り返り、後ろに従う護衛にペロリと舌を出して見せる。子どもっぽい仕草にソージンはいよいよ呆れ顔になった。
 そんなときである。ヤウンの耳に廊下の奥に響く足音が聞こえてきた。
「やっぱり厭な予感が当たっちゃったよ。やだなぁ。ここであんな偉そうな足音で歩くのは元老院の誰かなんだよね。今度はどんな嫌みを言いに来たのかな」
「嫌みを言いに来たとなぜ判る? たまたま行き会っただけかもしれんぞ」
 どこか面白がっている風のソージンが問う。それを肩越しに振り返って見遣り、王太子は苦笑を漏らした。どことなく、世俗を渡り歩くすれた壮年男の横顔を思わせる皮肉を漂わせた笑い方である。
「王議会の直前ってのが曲者さ。元老院の連中はね、この時間は派閥ごとに議会での打ち合わせか、香茶でもすすってるものなんだよ」
 いよいよ足音が近づいてきた。磨き抜かれた大理石の回廊奥は人の気配でさざ波立つ。高級官吏や上級貴族がまとう、高地山羊の毛織りで仕立てられた公務用の長衣の裾がさばかれる衣擦れも足音とともに近寄ってきていた。
「議事従官と僕が打ち合わせをする場所にわざわざ出向いてきたってことは、僕自身に接触するためなんだよ。僕に対処する時間を与えないように、議会が始まる直前のこの時間に来ることの意味、君にも判るでしょ?」
「なるほど。質の悪い嫌がらせってわけか。どんな知らせを持ってくるかな」
「どんな知らせだっていいよ。問題は彼ら自身の意志で動いているのか、それとも裏で糸を引いている誰かがいるのか。僕にはそちらのほうが重要だ。この国には見えない部分で色々と対立があるからね」
 とうとう足音の主が廊下奥に姿を見せる。数名の官吏を従えた元老院の議員が歩み寄ってきた。中央でかなり羽振りを利かせている上級貴族だ。日和見主義の中央貴族の中では比較的野心家と言っていい人物である。
「殿下。本日もご機嫌麗しゅう。ご母堂様はご健勝にあらせられますか?」
「母上も僕も、少し前までは機嫌良く過ごしていたよ。ところで、間もなく会議が始まるというのに、ここで何をしているのかな、小エシュート伯」
「殿下のご機嫌を伺いに。……と申し上げたいところですが、少々気になることを耳に挟みまして。中央の後ろ盾がない殿下をご心配申し上げ、こうしてわたくしめが参上した次第であります」
 互いに表情だけはにこやかだが、言葉の端々に含んだところがあった。
 ドロッギス地藩エシュート地方の一画を王命で直轄する小エシュート伯といえば、中央貴族の席を温めながら地方貴族の如く黒耀樹家の腰巾着になり果てていることで有名である。前公妃の情人だとさえ言われていた。
「君が案じるようなことは何もないと思うけど。そういえば、今日はバラド侯と一緒ではないようだね。彼と君が別行動とは実に珍しい」
 黒耀樹家べったりな貴族は彼だけではない。直接的な血脈の繋がりがない他人ながら良く似た容姿を持つ中央貴族、北方ユーバーダ地方バラド区を王命で直轄するバラド侯爵もそのひとりだった。前公妃の両脇に侍る姿は貴婦人たちの催す茶会で当たり前のように見かけられるものとなっている。
「あぁ、彼ですか。たぶん今頃は会議室にいると思いますよ。我々は常に一緒にいるわけではありませんので。……それより殿下。少し人払いを」
 小エシュート伯が官吏に目配せして彼らを退けた。応じないわけにはいくまい。ヤウンはソージンに向かって頷いた。互いに話し声が聞こえないところまで退くが、何かあればすぐに駆け寄れる距離は保たれている。
「実は黒耀樹公のことにございます。かの方が巡検使であったと噂が出ておりまして。それだけでなく、他にもタシュタンでの任務で大変な失敗をしたと囁かれております。今日の会議でも追求される可能性が出てきております」
「根も葉もない噂だけで何を議題にしようというんだい? 元老院の席を温める者が小雀のさえずりにさえ右往左往するとは滑稽極まりないことだね」
「我が家は始祖王の御代にまで遡れる家系にございます。たとえ殿下といえども愚弄される謂われはございませんぞ。黒耀樹家の噂を放置すれば、炎姫家との軋轢は避けられぬやもしれぬと危惧しての進言でありますのに」
 王家や大公家と違い、貴族──特に上級である中央貴族──たちは血の濃さを誇る家系だ。複雑に入り乱れた家系図はもはや容易く読み解ける段階ではない。血脈を描く家系図を記すための専属史学者がいるほどだった。
 逆の言い方をすれば、王族は血の濃さを恐れ、また中央貴族たちも同様に王族の血筋が濃くなることに怯えている。血の濃さは一族の結束を強めるが、同時に狂気を増幅することを王家に連なる者たちは警戒していた。
 その原因は王国の歴史に刻まれる。諡号しごうを乱王と呼ばれる八代国王は百年に及ぶ近親婚の末に生まれ、狂気の果てに妻子や血族貴族を大量に惨殺した。新興宗教が勃興し、宗教摩擦が過熱したのである。
 それ以来、百四十年ほどは積極的に国外及び上級貴族から妃を求め、大公家間や王族間での婚姻には難色を示す傾向にあった。血の濃さだけではない。上級貴族は婚姻により王族の結束がさらに強化されることも恐れていた。
 ヤウンは相手に判らぬよう嘆息し、自分が置かれている今の状況を頭の中で整理する。噂は戯れ言と退けられる範疇を超えている予感がしていた。
「黒耀樹家と炎姫家の軋轢が君に関係しているとは思えないけどね。くだらない噂に振り回されるより、他にやることがあるんじゃないの?」
「これはまた薄情なことを。噂を放置してよろしいのですか? 黒耀樹公の失敗のせいで炎姫家とイコン族の関係が悪化していると噂に聞いていますが。砂漠の情報が入ってこないのは炎姫公としても不安なのでは?」
「そんなことを僕たちが心配して何になるのかな? イコン族と炎姫家との関係は悪くないと報告を受けている。噂は噂にすぎないよ」
「困るのは黒耀樹公でしょう。信用問題になります。それに、彼の正体を明かした人物は縁の者とか。それが真実であれば、彼は懐に裏切り者を抱えている由々しき事態です。ドロッギス地藩内にそんな人物がいるのは不愉快です」
 精度を増している噂の内容にヤウンは内心では驚く。しかし表情はあくまでも飄々としたまま、相手の腹の内を探り続けた。
「随分と噂に尾鰭がつくものだね。君はどこでそんな噂話を仕入れてくるんだい? 暇に事欠いて火のないところに煙を上げているんじゃないだろうね」
「心外な。今回の議会内でこの話が議題に上れば、ドロッギス地藩縁の者は面白くないもので。殿下もご同様ではないかと思いましてね」
 王都はドロッギス地藩内にある。それ故に王家は三大公家の中でも、黒耀樹家ともっとも近しい関係にあった。黒耀樹公の立場が弱まることは国王に就く予定のヤウンにとっても面白いことではないのである。
「それで。君はどうしたいわけ? 議題に上がるのは止めようがないんでしょう。今から覚悟しておけと忠告しにきてくれたわけかな?」
「いいえ、我が家は王家の忠実な下僕。今なら殿下の御心に添わない議題を抑えて差し上げられます。芳しい噂ではありませんし、黒耀樹家の威信に傷をつけるのもどうかと思いますのでね」
 つまり煩わしい議題をひとつ取り下げるよう計らってやるから自分を懐に入れろと、ということか。それが前黒耀樹公妃の思惑なのか、小エシュート伯自身の野心なのか、それとも他の人物の差し金なのか、俄には判断がつきかねた。
 ここで彼を頼れば後から何か要求をしてくるのだろう。退ければ議会内で黒耀樹公の過去が暴かれ、最悪の場合は大公不信任という結論を弾き出される。
 さて、どうしたものだろうか。あまり考え込んでもいられなかった。長い沈黙は相手にとって有利になり、こちらの立場を弱くするだけである。
「殿下。噂に囚われ、振り回されるのが不快なのは判ります。ですが、いらぬ騒動を回避するのも国を動かす者の勤めかと。以前から願っておりますが、我が一族も殿下に深くお仕えしたいと思います。王家縁の僧院にも兵をえきし、存分な寄進などいたしたいと存じますがお許しいただけますか」
 ヤウンは視界の端に男の小狡い表情を捉え、沸き上がってきた怒りをかろうじて飲み込んだ。なんと厚かましい男だろう。このような者の言動に心動かされてなるものか。ひとつ要求を受け入れたが最後、骨までしゃぶられる。
「小エシュート伯。君の忠誠は嬉しく思うけど、わざわざ役や寄進には及ばないよ。王家の僧院は僕が守る。君の異母弟はメヌーク神殿の司祭長をしているじゃないか。寄進ならそちらのほうに充分に施したらいい」
 明らかに王太子の返答が気に入らないらしく、男は細めた瞳の奥に不快感を表した。すぐに浮かんでいた苛立ちを消し去ったが、自分の目論見を達することができなかった失望は内心で渦巻いているに違いない。
「あぁ、やんぬるかな。やはり亡国のお血筋は我が王国の機微を解さぬようで。今日は荒れ模様となりましょう。……ご母堂様と姉君をお大事に。では」
 目的を達することができなかったなら、ここにはもう用がないということだ。捨て台詞を吐き捨て、小エシュート伯は取り巻きの官吏を引きつれて歩み去った。議会内での黒耀樹公の追求は彼が先陣を切ってくるだろう。
 平穏を乱した者の姿が見えなくなるまで、ヤウンは表情を変えることなく佇んでいた。がしかし、足音が遠ざかり、聞こえなくなると、きつく拳を固めて怒りを噛み砕くように歯軋りした。
「あのヒヒオヤジが……ッ! 自分を何様だと思ってるんだ」
「また随分とお前の怒りを買ったものだな。情人にでもしろと言われたか?」
 足音もなく背後に立ったソージンが主人の罵り声を聞き、苦笑いを浮かべる。
「それより悪いっ。あのクソッタレ、言うに事欠いてアルティーエを寄越せと言ってきたんだよ。何が深くお仕えします、だ。寄進を施す名目でアルティのいる僧院に夜這いをかける気満々だなんてほのめかしてっ!」
「なるほど。どうやらあの男はお前の逆鱗に触れたらしいな」
「触れたなんてものじゃないよ。……赦さない。絶対に赦さないからねっ!」
 王家縁の僧院警備が許されるのは、院所属の僧兵か王家の私兵、あるいは王家の番人と称される黒耀樹公直属の兵士だけである。そこに兵を出し、あまつさえ財を寄進するのは、王家の縁者でなければできぬことだ。
 小エシュート伯は王家縁の僧院としか発言しなかったが、彼が目指す僧院がどこであるのかを察せられぬほどヤウンは鈍くない。いや、言葉の裏にある含みを相手が匂わせていたのだから鈍い者であっても気づくだろう。
「怒り狂うのは勝手だがな。向こうはお前の激怒を予測の上でやってきたという可能性を忘れていないか? 怒りのままに動けば相手の思うつぼだぞ」
 頭に血が上り、拳をわなわなと震わせていた王太子だったが、ソージンのたしなめに眼をきつく閉じて心を落ち着けた。判っている。直情的な怒りは破滅を招く。だが双子の片割れを売り渡すような真似ができようはずがない。
「今回断ったことで諦めるといいんだけど。あの男、けっこうしつこいからね。また機会があったら狙ってきそうだよ。腹立たしいったら!」
「今日の会議は荒れるってことか。牽制できそうなのか?」
 会議場へと再び歩を進めながらヤウンは後ろに従うソージンと会話を続けた。
「ウラッツェが巡検使だった過去を暴露する気らしい。それだけなら適当にはぐらかすか過去の話だと一蹴できるけど……」
 ふと口をつぐみ、王太子は肩越しに後ろを見遣る。星空を連想させる黒い瞳がじっとこちらを見つめていた。全身が真っ白なソージンの顔の中で、その黒々とした艶が人を吸い込みそうな輝きを放つ。
「彼の素性をイコン族にばらした人物ってのがウラッツェが使っていた者らしいし、何か問題が持ち上がりそうなんだよね。裏切ったのが誰か判らないし、問題の内容も不明。今のところは手の打ちようがない」
「ウラッツェ自身も気づかぬうちにヘマをしたってことか。どうする? 噂の出所を調べて、あの貴族男の腹の内を探ってみるか?」
「小エシュート伯は野心家ではあるけど単純なほうさ。たぶん……。彼は自分の欲を満たすために僕に近づいてきたんだ。この状況を利用すれば、王家の外戚になれると踏んだんだろうね。生憎と目論見は外れたけど。物事の上っ面を利用しようとしているに過ぎないよ。彼を退けても次が来るだけさ」
「では、このまま手をこまねいて見ているだけか?」
「まさか! もう朝食前に噂の出所を調べるよう手配してる。続きは会議後さ」
 予想外に貴族連中の動きは早かったが、こうなることは前黒耀樹公妃が母を訪ねてきたときに予測しておくべきだった。それを怠ったのは己の失策である。今日の会議は相手に先制を許したが、次はそうはいくものか。
「で、おれはどう動けばいい? お前の姉の身の安全を計るために身辺を見張るか? それとも噂の出所が判り次第、そいつの目的を吐かせに出向くか?」
「そんな荒事をする必要はないよ。アルティのいる僧院は王家の許しなく入り込めないないから。噂の背後関係を洗ってから本格始動かな」
 では傍観か、と口の端をつり上げて笑う白い男に王太子は悪戯げに微笑む。
「君には炎姫家の様子を探ってもらう。会議中にナスラ・ギュワメの進退に言及する発言が出れば、炎姫公代理で出席するフォレイアの耳にも噂が入る。彼女とその周辺から炎姫公の出方を探るんだ」
 フォレイアに接触することを命じられ、もしかしたらソージンが鬱陶しがるかと思ったが、ヤウンの予想ははずれ、相手は素直に頷いた。
 炎姫公女の恋情を利用することになり、いささかの引け目は感じるが、大公家同士が反目するような事態は避けたい。また、それを狙っての噂である可能性もあり、むしろそのほうがしっくりする。
「どっちにしろ、ギュワメには継母のことをどうにかするよう迫らなきゃならないね。いい加減に引退してもらわないとやりにくくて仕方がないよ。あんなおばさんに大公家を与える気はサラサラないんだからさ」
「容易く排除できないから今まで権力の座にしがみついていたんだろうが。ウラッツェひとりに対応させる気か?」
「これからが彼の正念場じゃない? 当主として下の者を抑えられないと後が続かないよ。僕だって王宮内の足場固めをしてるんだ。彼にもやってもらう」
 これからも元老院と王族は対立するだろう。特にヤウンは旧バゼルダルン公国の姫を母に持つだけに、中央貴族の後ろ盾を持たない。政策だけでなく私生活でも不自由を強いられることは今までの経験で判っていた。
 亡き父の喪期は半年。あと残り数ヶ月だ。その間に貴族連中を切り崩し、国王派を増やしていかねばならない。失敗すれば、王家の主流からほど遠いうすらぼんやりした血脈者が傀儡の王になるだろう。
 消息を掴めない異形の行方も気になるし、水姫家から輿入れさせる妃の素性も把握し切れていない。どれもこれも手を抜けば足下をすくわれる原因になる。
 双子の姉の顔が見たくなってきた。彼女に約束したように、王女お気に入りの侍女を伴って、あの静かな僧院の庭でも散策したらどれほど気が休まるだろう。他愛のない娘同士のお喋りにつき合わされればうるさいだけなのに、その日常が今はなんと懐かしく、また遠く感じることか。
「ヤウン。向こうの柱の陰……。ウラッツェからの遣いが来てるぞ」
 一瞬の物思いから覚め、ヤウンは視線だけを動かして目的の人物を捉えた。
 見覚えのある顔が視界に映る。あの男、確か黒耀樹家の巡検使だ。当主の叔父に当たる人物でもある。私生児ということで大公家の臣下に下り巡検使となったと聞いた。表向きは役人として大公家を支える巡検使の熟達者である。
 何喰わぬ顔で近づいてきた男がヤウンを通り越し、後ろにいるソージンの傍らで立ち止まった。男の視線が一瞬だけ王太子に向けられたが、それは従者と話をする許可を得るための目つきで、王子に直接話しかけることはない。
「ご希望のものはご用意しました。他に何かご入り用のものはありますか?」
「そうだな。あと、できればドロッギスの奥地に住む狐が欲しいな。聞くところによれば珍しい栗毛の雌狐が人の地を荒らしているとか。それを捕獲してもらえるか? こちらで飼い慣らしてみたいのだが」
「王都から幻都ダーレムの周辺地帯にかけて出没する獣ですか? あれは狡賢いですからね。時間がかかるかと思いますが」
「ならば尚更だ。人への被害が浅いうちに捕らえたほうがいいだろう?」
 男の顔が奇妙な具合に歪む。ヤウンは二人の会話を聞きながら、横目で巡検使の様子を探り続けた。黒耀樹家自体が真っ二つに割れるようなことを要求しているのである。相手方がどう出てくるか気になった。
「人手が足りんか? それならば、おれ自身が狩りに出てもいいのだがな」
「今のところ、あなたの助力がいるとは思えませんが、なにぶんにも厄介な狐です。手に余るようでしたらお願いしたい。早速取りかかりましょう」
「頼む。そうだ。おれの経験からして、雌を捕らえるのなら、子狐に与える餌を狩りに出てきたところを捕らえるのが早いぞ。抵抗も激しいがな」
 心得ておきましょう。と頷き、男は王太子たちとは反対方向に向かって歩み去った。ヤウンはそれを見送ることもなく、ソージンを伴って先を急いだ。
 女狐を捕らえるが先か、それとも餌を掠め捕られるか。時折、回廊ですれ違う官吏たちに見守られながら、王太子は議場へと入場したのだった。