混沌と黎明の横顔

第03章:彷徨える羅針盤 4

 予想外のことにジューザが尻餅をついた。だが、すぐさま立ち上がろうと膝を立てる。ジャムシードが何をする気か知らないが、青の部族長である彼自身にしてみれば侮辱以外のなにものでもなかった。
 立ち上がるべく力を入れた足下が、また再び払われる。まるで子どものようにあしらわれ、ジューザは怒りを込めてジャムシードを睨んだ。
 と、顔を上げたその瞬間。目の前に何かが落ちてきた。避ける間などなく、ジューザは片手でそれを受け止めた。
 棒状のひんやりとした感触。適度にずっしりとした重み。
 馴染み深いその感覚に、彼は手の中の品物をまじまじと見つめた。
「短刀を受け取ったな、ジューザ。イコン族ならそれの意味するところは判ってるよな。“汝、その腕に運命を託せビーダーン・マク・ウラン。”俺がジュペの代理人だ」
 砂漠では当たり前に聞かれた言葉。それを王国の中心地で聞くことになろうとは。周囲にいる者たちが茫然と二人を見比べた。喧嘩両成敗の法がある王国で決闘などしようものなら、どんな事態に陥ることか。
 イコン族の風習に詳しくないジノンですら不穏な気配を察したほどである。騒ぎに気づいた行商人たちには、この場の雰囲気は異様なものでしかない。とうとう番所の警邏が呼ばれ、立ち尽くす男たちが取り囲まれた。
 つい今し方までの怒声はぷっつりと消えていたが、緊迫した空気から騒動を予測した警邏が短刀を握ったまま座り込んでいるジューザの腕に手をかけた。
「お前、その武器をどうする気だ。まさかそれで暴れていたのか?」
「兄さん、それは違うよ。彼はなくした自分の短刀を見つけただけさ」
 ジャムシードが詰問する警邏の肩を叩き、重かった空気を払拭する砕けた口調で話し始める。胡乱げにイコン族を取り囲んでいた他の警邏も、手招きされると用心深い足取りでジャムシードの周りに近づいてきた。
「殴り合いの喧嘩が起こったと知らせを受けたが、失せ物を取り戻しただけだというのか? どういうことか説明してもらおうか」
「大したことじゃないさ。この人混みで物をなくしたら誰だって戻ってこないんじゃないかと心配するだろう? 失せ物を見つけたなら、あんたはどう思うよ。そりゃあ嬉しいんじゃないか? 少々羽目を外したって仕方がない」
 ジャムシードがジノンに目配せする。それで察したか、炎姫公の甥は一瞬だけ渋面を作り、すぐに愛想の良い表情で警邏に歩み寄った。
「祭りのような騒ぎで浮かれてしまったようだ。手間をとらせて申し訳ない。失せ物も見つかったことだし、我々は宿屋へ向かう。後の野次馬は散らせてもらえるかな。……と言っても、見物するものがなくなれば消えるか」
 ジノンが羽織っていたマントをサラリと開く。下にまとっている衣装は華美すぎないが、庶民が着られる代物ではない。
 腰に帯びた貴人剣も警邏の眼に入ったはずだ。それだけで彼らは自分たちが手を出していい相手ではないと悟ったらしい。
 警邏のまとめ役がわずかに眼をすがめたが、それ以上は追求してこなかった。
「月に一度の大市ではスリも横行するし、失せ物も多い。気をつけて行かれよ」
「ご忠告、感謝する。何事もなく今日という日が終わることを祈るよ」
 無駄足を踏んだ警邏の中には不満げに睨み捨てていく者もいる。しかし、まとめ役の男に小突かれ、渋々といった態度で歩み去っていった。
 彼らを見送る間、ジノンは微笑みを絶やさなかったが、警邏の後ろ姿が街角に消えた途端、剣呑な視線をジャムシードに向けた。
「権力の使いどころを良く心得ているではないか。わざとイコン族に喧嘩を売ったな? 炎姫公の甥がこの場にいれば、多少のもめ事なら取りなしてもらえる、としっかり読んでいたのだろう」
 さぁ、どうでしょうね、と返事をしながら、ジャムシードは改めてジューザの目の前に立った。口の端には笑みが浮かんでいたが、その黒い瞳は少しも笑ってはいない。冷え冷えとした視線は睨みつけてくる青の部族長の怒りすら凍りつかせそうなほどだった。
「オレが決闘ビーダーンを受けるとでも思っているのか」
「あんたは受けるさ。部下の目の前で足蹴にされて黙ってられるか? 部族長の誇りはそこまで安くないはずだぞ。ここで俺に背を向けたらあんたは腰抜け呼ばわりだ。ジュペを取り戻す機会も永遠に失せるしな」
「こんな真似をしてただで住むと思っているのか。イコン族を敵に回して……」
「約束も守れない腰抜けに何を言われても、俺は痛くも痒くもないさ。逃げるなよ、ジューザ。逃げたら俺は死ぬまであんたを許さない。いいか、俺との約束を軽んじたあがないはしてもらうぞ」
 ジャムシードが地の底を這うような低い声で囁く。それはまるで獄界を支配する冥府神の裁きの声のようであった。
「何度も言わせるな、ジャムシード。オレはお前との約束を破ってはいない!」
 腹立たしさの勢いに任せ、ジューザは短刀を握りしめたまま立ち上がる。だが話し合おうとしても目の前の男は取り合わなかった。冷えた視線は少しも温もりを取り戻さず、かつて義弟と呼んだときの親しさは欠片もない。
「本当にあんたは何も判っちゃいないんだな。あんまりにもおめでたすぎて涙が出るよ。そんな単純バカで部族長が務まるのか? ナナイも苦労するはずだ。こんな男の妻なんかやってると」
 ここまで痛烈に非難される謂われが判らず、ジューザは息を飲んだ。そのわずかな間にクィービが割り込んでくる。先石畳に叩きつけられた痛みからは立ち直ったようだ。それでもまだ背中を庇っている節が見えたが。
「ジャムシード。お前ッ! 我らの長をそれ以上侮辱するなら……」
「侮辱? よく言うよ。クィービ、あんたもジューザと同じ穴の狢か? 自分の沽券のために何を壊そうとしているのか判っていない」
 ふと広場の端に視線を彷徨わせれば、先ほどと同じ姿勢でジュペとガイアシュが身を寄せ合い、大人たちの成り行きを見守っている姿が目に映る。
 いったい我々は何をやっているのだろう。こんな往来で言い争いをしている暇などないのに。早く子どもたちを砂漠に連れ戻さねば。
 ジューザの内心は焦りばかりがにじみ出て、ジャムシードに有効な対処法を思いつかないまま無為に時間ばかりが過ぎていった。
 ごり押しすれば後々が面倒になる。そう判ってはいたが、力尽くで事を成すしかないのかもしれない。そう覚悟を決めかかったときだった。
「ジャムシード! こんなところで何を睨み合っておるのじゃ」
 女の声が耳に飛び込み、ジューザは咄嗟に声の主を振り返った。以前、大族長の集落で聞いたことがある。この声の主は、確か炎姫家の──
「フォレイア姫? あなた様がここにおいでになろうとは……」
「青のジューザか。何を揉めておるのじゃ。このような人だかりの中で争ったところで益は何もないぞ。……ジノン卿。なぜ止めぬのじゃ。イコン族の者を連れてきたのはあなたであろう。無益な争いを傍観して如何する気か!」
 ジノンが大袈裟に肩をすくめ、傍らに立つジャムシードに流し目を送った。それだけの仕草で自分の手に余る事態なのだと説明したつもりらしい。しかし怪訝な顔こそした公女だったが、すぐに状況をおおよそ把握したようだ。
「ジャムシード。ひどい顔をしておるぞ。子どもたちが怯えておるではないか。ここは退いておけ。お前が退かねば収まるものも収まらぬ」
 ジャムシードの顔に不機嫌な相が現れる。それをジューザは目の前で捉えた。
「厭だといったら?」
「……退いてくれぬか。それとも、こうしてわらわが頭を下げても無理なことなのか?」
 緩やかな動きであったが、炎姫家の娘がそっと頭を下げる。大公家の者にここまでさせるとは。いったいジャムシードという男は何者だというのだろう。ジューザはかつての義弟が判らなくなり、まじまじとその顔を見つめた。
「そんなに容易く頭を下げないでくれ。公女様にそこまでの仲裁をされたんじゃあ、俺が退かないわけにはいかないじゃないか」
 忌々しげな口調だったが、ジャムシードがジューザとの距離を置く。それだけの動きだったが、辺りを取り巻いていた空気が和らいだ。
「お見事だ、従妹殿。この傍若無人な輩を手懐けているようだな」
 多分に嫌みが混じった口調でジノンが顎をしゃくる。それを視界の端で捉えたのだろう。炎姫公女は嘆息を漏らしながら従兄に向き直った。
「ジャムシードが激怒することなど滅多にないのじゃ。そちらが頭ごなしに押さえつけねば、この者は少々のことは黙認するはずじゃぞ。……ジノン卿、それに青のジューザ。居丈高な要求を突きつけた憶えがあろう?」
 叱責とまではいかないが、厳しい公女の口調にこれまでのやり取りを思い返し、ジューザは苦々しい思いを抱いた。確かに言われた通りである。出会い頭で驚いたこともあるが、挨拶もそこそこに要求を突きつけたのは事実だ。
「まぁ、急なことだったのでな。しかし、その程度で噛みつかれたのではたまらぬなぁ。オレやイコン族は公衆の面前で恥をかかされた」
「恥だと思うておるのはそちらだけじゃ。この騒ぎなど普段の市での喧嘩騒ぎとなんら変わらぬ。……待て、ジャムシード。どこへ行く気じゃ! お前の起こした騒ぎで揉めているというのに、知らんぷりをするつもりか」
 公女とその従兄のやり取りを無視し、ジャムシードはとうに子どもたちの傍らにいる。その彼が、新たに加わった少年と残りの二人を連れ、この場を離れようとしていた。あんまりな態度だと抗議したくなっても当然である。
「俺の話はもう終わっている。あとはジューザが決闘を受けるかどうかさ」
 炎姫公女の仲裁を受け入れてなお横柄なジャムシードに、ジノンが今までにないほど鋭い視線を向けた。ところが、殺気立つその形相ですら平然と無視する。そんな男の様子は、もはやジューザには理解不能だった。
「ジャムシード、頭が冷えたわけではないのか? この地で決闘などしたらどうなるか判っているであろう。妾とて庇い立てできぬぞ」
「最初にイコン族の掟を持ち出したのはジューザのほうだ。だったらイコン族のやり方で決着をつけさせてやるよ。それなら後腐れ無いだろう?」
 太々しい言い種で切り返したジャムシードが子どもたちを促して歩き始める。
 このまま行かせては二度と逢えないのではないかと大半のイコン族は色めき立った。が、ジューザは部下たちを制し、呆れ顔の公女に向き直る。
「フォレイア姫。ご迷惑を承知でお願いしたい。ジャムシードとの決闘の場を設けていただきたい。青の部族長として決闘を受けないわけにはいきません」
「喜んで手伝えることではない。いったいジャムシードに何を言ったのじゃ。あれほど意固地になっている姿は初めて眼にしたぞ。このままでは意地の張り合いではないか。妾がジャムシードを説得するからしばらく待つのじゃ」
「いいえ。説得など無理だと思います。ここで折れるくらいなら初めから決闘など持ち出す奴ではない。……王国の法を犯した裁きは甘んじて受けましょう。ですが、オレ以外の者への咎めはなきようお願いしたい」
 フォレイアは複雑な表情をしたが、もう決闘の中止は忠告してこなかった。
「王国の警務関係者にバレなければ大丈夫だろう。なぁ、従妹殿。どこか適当な場所を見繕ってやったらどうだ。どうせジューザの勝ちで決まりだぞ。あいつも余計な恥をかかずに済んでいいだろうしな」
「楽観視するのは勝手じゃが容易くは勝てぬぞ。先の砂漠でのジャムシードのことは知らぬが、今の奴は以前とは比べものにならぬほど強い。見くびったが最後、血反吐を吐いて地面に倒れるのはそちらじゃ」
「なんだ、フォレイア。あいつの肩を持つのか? ジューザはイコンで一二を争う戦士だと聞くぞ。実戦経験から言っても勝敗は明らかだろうが」
 従妹の反論が気に入らないのだろう。ジノンが忌々しげに顔を歪めた。その従兄をチラリと見遣り、公女は小さく首を振りながら呟いた。
「男は時にどうしようもなく愚かな真似をするのじゃな。意地を張ってばかりでは何も解決せぬと思うがのぅ。まったくもって、妾には理解できぬ」
 ジューザは苦笑いを浮かべたが、すぐに表情を改めると炎姫の娘に目礼する。
「無理難題を申し上げて心苦しく思います。ですが、挑戦の短刀を受け取り、決闘の作法を取られたからには、オレも後には退けぬのですよ」
「ジューザが謝ることではないだろうが。悪いのはあの男のほうだ。素直に子供を渡せばいいものを。なぁ、フォレイア。このことは伯父上に報告しておいたほうが良い。あのような男を登用したのでは炎姫家の名折れだ」
「報告するのはジノン卿の勝手にされるが良い。しかし、ジャムシードをどう扱うかは父上がお決めになること。妾がとやかく言うことではない」
 明らかに苛立つ炎姫公女に、ジノンもそれ以上文句をつけることはなかった。不満は多く抱えているが、ここでぶちまけることではないと判断したらしい。
「青の部族長、出来る限り穏便に事を運ぼう。妾はこれからジャムシードと共に王議会に出席せねばならぬ。その後に改めて話し合うが、それで良いか?」
「フォレイア姫のお気の済むように」
 これから公女は決闘などせぬようジャムシードを説得しにかかる気だろう。だが、ジューザには相手が翻意することなどあり得ないことを悟っていた。
 決闘を申し込んだときのジャムシードの瞳は本気だったのである。あの射すくめるような視線を見て、決闘しないなどと言えただろうか。いいや、受ける以外に道はなった。それだけジャムシードの怒りを買ったのだ。
 どこで間違ったのだろう。ジャムシードと一緒にいるジュペを見たとき、得体の知れぬ不安に駆られて居丈高に要求を突きつけてしまったのが、そもそもの失敗だった。しかし、それだけではない。
 もやもやと蠢く内心の動揺を押し隠し、ジューザは王都での居場所を公女に伝え、部下を引きつれて混雑する大広場を離れた。
 ここまで一緒にいたジノンはフォレイアに話があるとかで、一時的に別れることになった。おおっぴらに言えなかった不満を従妹に訴える気かもしれない。
 炎姫公の計らいであてがわれた官舎への道筋を聞き、市場の喧噪から逃げるように歩みながら、ジューザはこみ上げてくる苦い想いを何度も飲み込んだ。
 砂漠でのジャムシードとの約束を破ってはいない。それだけは誓える。だが、そうであったとしても内包する不安は消えなかった。
 王都に辿り着くまで予想もしていなかったが、姪や義弟と呼んだ男の非難の言葉が棘の如く胸の奥に刺さり、いつまでも抜けずに痛み続けた。




 あからさまに苛立ちを示し、ジノンが腕を掴んできた。先ほどはかろうじて押しとどめた感情を剥き出しにする男の顔はひどく険しい。
「どうしてあの男の肩を持つんだ、フォレイア。炎姫公の娘ならイコン族の言い分こそ正しいものだと理解できるだろうが」
「あの場では、言い分が正しいかどうか以前にやるべきことがあったはずじゃ」
 広場の喧噪を抜け、王宮へと向かう道筋で二人は互いの顔を睨み合った。
「何をすると言うんだ。イコン族の娘を部族長に返すことこそ、真っ先にやらなければならないことだろう! あの男のバカな言い分ばかりに耳を傾け、オレやジューザの話は無視する気か!?」
「なぜジャムシードの言動ばかりに注目するのじゃ。ジノン卿、少しは娘のことを考えよ。あの幼さで遠い異境を旅することがどれほど過酷か判らぬのか!」
「護衛を連れて王国の街道を歩いてきたというんだろ? そんなことは少し智恵のある者なら誰だって出来ることではないか。子どもだけで旅してきたからと言って、甘えが通じることではないのだ」
「違う! 見るべきところはそこではない。……なぜ気づかぬのじゃ。あなたも国を捨てた身ではないか。部族では絶大な権力を持つ養父の庇護下を抜けだし、受け入れてもらえるかどうか判らぬ父親のところに来ることが、あの娘にとってどれほどの勇気が必要であったか、ほんの一瞬でも考えなかったのか?」
 ジノンが目を見開き、声を詰まらせたのを、フォレイアは祈るように見上げる。あの騒ぎの場へ後からやってきた彼女ですら、少女の怯えに気づいたのだ。初めから事の成り行きを見ている従兄が判らぬはずがない。
 彼は頭の悪い男ではないはずだ。むしろ故国では虐げられていたとはいえ、放蕩を尽くせたはずの貴族の身でありながら商船に乗り込んで商いをしているくらいである。頭の切れはかなり鋭いだろうと、公女は読んでいた。
「互いの間で行き違いがあったと……。そう言いたいのか?」
「行き違いとは少し違うであろう。思い違いと言ったほうが正しいと思うが。お互いにひどい誤解をしているのでは? ジューザとジャムシードは砂漠では良好な関係を結んでいたのであろう? いくらなんでもお互いの態度は険悪すぎる。このままでは犯さずに済む法まで犯してしまう」
「まぁ……その。なんだな。確かに故郷を出ていく時のつらさは判るが。しかしジャムシードのあの態度は喧嘩腰だったんだぞ。こちらも腹が立つさ」
 あらぬ方角に視線を彷徨わせるジノンにフォレイアは諦めのため息をつく。
 いい大人になってから国を出た男と物の道理も正確に判らぬ幼い娘とでは、感じる事柄が違うのだ。ひとつの事象からすべてを悟れというのは無理か。それでもまだ、状況の一端を理解しただけジノンはましかもしれない。
「娘の前で、さぁ、どうぞ連れていってください、などと言えるはずがなかろう。そんなことをしたら娘は見捨てられたと思うはずじゃ。まして彼女を護衛していた少年も罪に問われてしまう。……あれ以外、ジャムシードにどうせよと言うのじゃ。彼のほうから話し合いを提案できる状況にあったのか?」
「あー……いや、たぶんあの状況では無理だったかもしれないな。いきなり大勢で取り囲んで、旧知の間柄だと言うのに要求を突きつけたから。あの男、一瞬、唖然とした顔でジューザを見ていたくらいだ」
 やはり予想した通りだ。フォレイアは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。公女の渋い表情からジノンは自分たちの取った態度のまずさにようやく気づいたらしい。今さらながら深いため息を漏らし、小さく首を振った。
「すまん。ジューザが娘を早く取り戻そうと焦っていたから、オレもついムキになって先を急ぎすぎた。ジャムシードはオレが炎姫公の権威をちらつかせているように見えたんだな? 道理で食ってかかられたわけだ」
 当たらずといえども遠からず。いや、たぶん大当たりだろう。ただでさえ今日は人が多い。慣れぬ環境で戸惑う子どもが見知っているとはいえ厳しい形相の男たちに取り囲まれれば恐ろしさを感じるはずだ。
 ジャムシードは機敏にそれを察したに違いない。何か他にも思惑があるのかもしれないが、朝食の席で彼が見せた態度から予想できるところは、真っ先に娘の安全を確保することに他なるまい。
 フォレイアは面倒な今の状況に頭痛を憶えた。どうしてこう問題が次から次へと出てくるのだろう。やっとジャムシードの提案した案件がまとまりそうだというのに。が、ぼやいていても何も始まらないのだ。
 公女は気落ちしそうな内心の憂いを振り払うと、改めてジノンに向き直った。
「これ以上の諍いは好ましくない。ジノン卿はジューザのほうの説得にあたってもらえまいか? ジャムシードにも話し合いの席に着くよう頼んでみる」
「そのほうがいいだろうな。子どもたちは黒耀樹公の滞在許可証を持っているという話だから、こじれると炎姫家と黒耀樹家も睨み合うことになるぞ」
 ジャムシードは王太子に助力を頼んだのではないのか。フォレイアは訝しんだが、すぐにおおよそのことを察して口の端に笑みを浮かべた。外見を裏切る切れ者の王太子が入れ知恵したに違いない。
「なぁ、フォレイア。イコン族の話はこれで終わるとして……」
 不意にジノンの大きな両手が彼女の右手を包み込む。考え事をしていたフォレイアは対応が遅れ、ふりほどくことは不可能であった。
「ここ最近、避けられているように思うのはオレの気のせいか?」
 公女は言葉に詰まって立ち尽くす。どう答えれば良いのか迷い、公女は俯いた。辺りには重苦しい沈黙が広がり、それが否応なく肯定の返事となる。
「あそこまで露骨に避けられると傷つくぞ。オレとの結婚が厭なら厭と言えばいい。多少なりとも好意があるなら、せめて視線くらい合わせてくれ」
 恐る恐るフォレイアは顔を上げ、困惑を隠すことなく口を開いた。
「炎姫公を父に持つ以上、結婚相手をわらわ自身が決めることはできぬのじゃ。ジノン卿の申し出はありがたいと思うが……」
「では伯父上に本気で直談判するとしよう。今までもそれらしいことは匂わせてきたが、適当にはぐらかされていたからな。だから、オレのことを真剣に考えておいて欲しい。オレは冗談ではなく真面目に申し込んでいるんだ」
「妾は……。その、従兄妹としてしか考えられぬ。それ以上は……」
 フォレイアは王宮へと視線を巡らせ、そこにいるひとりの人物を思い描く。素っ気ない態度を取られても思い切れぬ、白い横顔が目の前に浮かんできた。
「今はそれでもいいと言っただろう? オレは諦めないぞ」
 途方に暮れるフォレイアの腕を引き、ジノンが歩き始めた。
「前に話をしたと思うが、そろそろ伯父の墓所を訪ねたいのだ。そちらの仕事が一段落したのなら、近いうちに同行してもらえるだろうか?」
「あぁ、そうであった。ジャムシードの飲み込みが早いお陰で仕事にも区切りがつきそうじゃ。妾のほうでササン・イッシュ伯父の墓所に参れるよう手配しよう。とは言っても、表向きは僧院への寄進とするのが無難であろうな」
「判った。そのように頼む。ようやく母のことを墓前に報告できるかと思うと嬉しいよ。顔も知らぬ伯父だが、母とは仲が良かったと聞いていたのでな」
 互いに見えない膜のような隔たりを感じても、それを無視して会話を続けた。
 振り払う機会を失った公女の右手はジノンの腕に預けられたまま。どことなくぎこちなさを残したまま、二人は王宮への道を進んでいった。